第7話 冥界にもタイムリミットが…

◆ 冥界にも生や死、寿命があるのか?


 星野と古谷の話を聞いていた。雪子の気持ちは嬉しいが、この先どうしたらいいのだろうか、俺への気持ちを引きずったままだと雪子は一生飼い殺しか? まだアイツは25歳か…… 俺がいい気になって遊んでいた歳だ。ごめん、俺が死んだばっかりに苦労をかけている、すまない……


 今、出来ることは話を聞いてやることだけか、あまりにも情けなくて涙さえ出ない。もう俺の姿は見えないだろう。人間界と同じように冥界にも生や死、寿命があるのか? 自分が置かれている不安定な立場に苛立っていた。


 人間界がまったく見えない、聞こえないなら諦めもつくだろうに、なぜ死んでまでもネチネチと現世を見せつけられるのか、腹が立った。雪子の姿は見えるが、他の人間は輪郭がぼけてよく見えない。これは俺の興味が雪子限定だからか、そう勝手に判断した。


 このところ、雪子はある男性社員から誘われていた。フザケンナ! 俺の雪子に手を出すな! 男の誘いが煩わしくなったとき、雪子は「私には好きな人がいます」と断った。

 俺は笑った。東京の大学に翔び立つときに腹立ち紛れで教えたセリフだ、懐かしい決めゼリフだ。高校生の雪子にこのセリフを教えてから、もう8年も経ったのかと驚いた。


 生きている人間同様に死人の俺も悩みは尽きなかった。前にも増して下界の声が聞き取りづらくなっていた。雪子は何と言ったのか? 意識を集中し映像をリフレインし、やっと理解できることが度重なった。

 もう、ダメだ! これでは雪子を見守れない。霊界に身を置きながら失望し、落胆して悶え苦しみ、霊魂になった自分が許せなかった。


 何も残してやれず、苦しめただけの俺を今でも愛してくれる雪子、もうたくさんだ! 俺は何もしてあげれない、すまない、情けない。だが、全てを失っても雪子だけは離したくない、本当だ、信じてくれ。雪子を愛している。それは変わっていない。情けない俺を笑ってくれ……

 秋月にとって冥界は決して居心地が良い世界ではなかった。


 いつのことだか見当もつかないある日、雪子の父親が突然姿を現した。

「秋月さん、もういいでしょう。娘を解放してください。あの子は生きています、普通に幸せになるのを許してくれませんか。私は娘を心配しています。それは秋月さんと同じですが、私は娘を案じる親の愛です。だがあなたは男の愛です、愛欲です。あなたの愛欲から解き放してください。娘が痛ましいとは思いませんか、亡くなってもう5年も経ったのです。


 あなたは間もなく雪子の言葉も聞こえなくなり、頼りない小さな光の輪に形を変え、次の輪廻へ行かれるでしょう。もう時は僅かしか残されていません。雪子に何か告げることがあれば急いでください」

 父親は去って行った。


 俺が死んで5年が過ぎたらしい。

 時間の感覚は失われているが、年月は雪子を見違えるほどに成熟した艶やかな女に変えていた。健気にも孤閨を守っている。俺がイジリ過ぎたきらいはあるが、辛いだろう、これではまるで俺の生贄だ、もう十分だ。キミを幸せに出来ない俺のことは忘れろ! 忘れてくれ! 俺は実を結ぶことがない徒花だった。キミだけは幸せになってくれ! 幸薄い雪子が哀れで哀しかった。


 雪子を幸せに出来る男はいないのか、気は進まないが考えた。

 古谷か? いや、違うだろう。俺のことで悩むだろう、拘るだろう。しばらく考えたが、そうか、雪子はどの男にも興味を持っていないのか。鈍感なアイツは星野の心さえ気づいていない。星野のポーカーフェイスを思い浮かべると腹が立った。


 かつて秀明斎から「物事はなるようにしかなりません」と諭されたことを思い出した。なるようにか…… ヤメタ、ヤメタ! どう考えてもわからない。

 雪子を眺めた。ああ、あの成熟した体を抱きたい、何度も何度もねだりたい。懐かしい極快感に包まれたい! 哀しい! 無念だ! だが、俺がいつまでもグズグス雪子を想っているとアイツは歳を重ねるだけだ。


 眼を閉じた。未練だがしばらく別れるぞ、許してくれ。雪子、聞こえるか? いつまでも待っている。俺はキミを待ってまたヤセ我慢する。俺の我儘を許してくれと泣き続け、冥界の懐深く堕ちて行った。



◆ 死後の世界が真実だと見栄を張り、ヤセ我慢した。


 星野は仕事で福岡を訪れ、久しぶりに実家に立ち寄った。京子は弟を見るやいなや、

「涼、雪子がうちの嫁になるまでオマエの顔なんか見たくない。さっさと帰れ! まだ雪子を抱いてないのか? フヌケ野郎!」

「なにっ? 姉ちゃんはどうしたんだ? ユッコにも事情があるだろうが」


「バカな雪子のお兄ちゃんになって、ずっとバカなまんまだな。アイツの事情なんか気にしてたら20年は過ぎちまう。このままババアにするのか? 秋月を恐がっているのか? 勝手に死んじまった最低の男なんか忘れろ! 秋月に負けないくらい好きなんだろ? オマエの10年間は何だったんだ? だったら雪子を抱け! 手込めにしていいから連れて来い! それまで帰ってくるな!」

 マサオが我慢できずに吹き出した。


 そう言われたものの、星野はまだ自信がなかった。オレはユッコが好きだ。最初に会ったときから気になって、幼馴染の林に嫉妬したことがあった。秋月さんの大人の愛に負けると思ったときもあったが、今は負けない。心配で見守っていた妹のユッコから、オレと家庭を持つ大人の愛をユッコに求めている自分を知っていた。秋月さんが亡くなった今、他の男にユッコを渡したくないと思ったとき、星野は心を決めた。


 東京出張だと偽って星野は離れを訪れた。

「お兄ちゃん、お仕事ですか、お疲れ様です」と、旨い料理でもてなす雪子にこう言った。


「秋月さんからユッコを預かった。死んだら秋月さんのとこへ行け、それまでは預かったオレに責任がある。オレは秋月さんとの約束を絶対に果たす、必ず幸せにする。そして、兄貴のふりするのはもう飽きた、正直うんざりだ。ユッコのダンナさんになりたい、結婚してくれるか?

 ユッコの二番目の男でいい。そんなことは承知だ、気にしない。結婚しよう、オレの嫁さんになってくれ! 心配するな、秋月さんの許しは貰った。そんなに驚くな、俺に抱かれろ、抱かれてみろ!」


 突然の告白に驚いて大きく眼を見開いた雪子を捉え、押し倒した。騒がれないように唇を塞ぎ、抱き包んで離さなかった。迷いを断ち切り、強引に雪子を押さえ込んだ。雪子は秋月に助けを求めたが、秋月は輪廻転生の渦に堕ち、現世へのワープを封じられていた。

「あーっ、蒼一さん!」

 雪子の声は聞こえたが秋月は唇を噛んで、哀しく眼を閉じた…


 星野の指に秋月との wedding ring を見てハッとした瞬間、強引にこじ開けられ本懐を許してしまい、星野はお兄ちゃんからダンナさんに昇格した。


 雪子は、最後の瞬間に抵抗できなかった自分を恥じ、背を向けていつまでも泣いていた。星野は甘えても許してくれるお兄ちゃんだと思っていた。まさか、こんなことになろうとは、甘えと隙があったからだと自分を責めた。惨めで情けなくて死んでしまいたい、蒼一さん、ごめんなさい。死ぬつもりで、守刀で切りつけた左手首の傷跡をじっと見つめたとき、どこからか秋月の声がした。


「雪子、幸せになってくれ、そんなに自分を責めるな。星野にキミを託した。僕はあっちの世界で待っている。よく聞いてくれ、真実は現世にはない。あっちの世界が本当の世界だ。そこで雪子を待っている。

 早まるな、雪子に星野の子が宿った。僕には見えた。命を絶ってはいけない。わかってくれるか。僕は待っている。雪子、愛している……」


 真実はあっちの世界にあると見栄を張り、雪子を宥めようとした秋月に泣いて謝るしかなかった。泣き崩れる背中を星野はいつまでも抱いていた。


 俺は雪子が妊娠すれば大学を中退して戻って来ると考え、避妊していると騙して数え切れないほど抱いたが、俺の子は一度流れたきりだった。なぜだ? たった一度の交歓で星野は雪子との家族を手に入れた。

 目眩に襲われながら激昂した。なぜだ! 返せ、俺の雪子を…… 猛烈に腹が立ったがどうにも出来なかった。


 若先生とおだてられ、いい気になっていた俺だが、何一つ自由になるものはなかった。またもや、そうなのか、俺が欲しいもの、欲しかったものは何一つ持っては行けず冥界に来た。なぜだ!


「ユッコ、ごめんな、強引で悪かった、怖かったか? 大丈夫か? こうしないと挫けそうだったんだ。オレさ、自信がなかったんだ。秋月さんの許しはもらったが、何か悪い気がした。今の話は聞いた。ユッコにオレの子だって? 親父が飛び上がって泣き出しそうだ。ユッコ、ありがとう!」


 孫まで授かったと知った星野院長夫妻は大喜びした。

「どうせ手込めで仕留めたんだろ、1発で決めたのか、でかした!」と京子は初めて弟を褒めた。


 寿退社した雪子は白無垢で腹を隠し、名古屋で簡素な式を挙げた。星野は転勤願いを出して東京支社に異動を許され、離れで暮らし始めた。兄と妹だと信じていた人々は仰天したが、星野はいっこうに気にしなかった。


 星野は毎日が嬉しくて楽しくて仕方がなかった。雪子は年子で三人の男児を産み、京子とマサオ夫妻を驚かせて呆れさせた。涼はやっとフヌケ男から立派になったと京子は喜んだ。

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