第8話 死人秋月は福岡で待っていた
◆ 歳月は人の心を逆なでして走り去った。
子供たちが遊び疲れておとなしくなる夕方、膨らみ落ち行く夕陽を追いながら涙ぐんでいる雪子を、秀明斎は知っていた。雪子さんは秋月先生とお話されているのか……
世の中は思い通りに行きませんが、雪子さんはお幸せですよ。おふたりからこんなに愛されて、お子たちにも恵まれて。
だが、今でも雪子さんは秋月先生を愛されている、お子を授かっても、このお子が秋月先生の子であったらとその思いを隠してお子たちを育てていらっしゃる。
人生の恐さを知らなかった秋月と雪子の愛を見守り続けた秀明斎には、雪子の気持ちが痛いほどわかった。この頃、俺は輪廻転生の渦に飲み込まれ、姿や声はおろか気配までも失せていた。
人の心を逆なでして歳月は慌ただしく走り去った。
雪子は裏千家茶道師範になり、門下生を指導する傍ら、高齢になった高嶋千鶴子の世話をし、福岡に出稽古に通う秀明斎の留守を守り、慎ましく家計をやりくりして三人の息子を育て上げた。次男は九州大学医学部に進学し、子に恵まれなかった京子・マサオ夫妻を継承する医者を目指していた。
雪子は高嶋の最期を看取り、星野は定年まで勤め上げ、寡婦になった母の懇願に負けて福岡へ戻った。
雪子は、卒業するまで密かに援助を続けたトオルと37年ぶりに再会した。秋月の弟のトオルは循環器内科の医者で、秋月病院の院長に就いていた。古谷は榊原記念病院から戻り、かつて秋月が心血注いで育成した心臓外科チームを引き継ぎ、統率していた。懐かしい再会のあと、雪子は秋月の思い出が残る病院内を歩いた。
「雪子、お帰り、ずっと待っていたよ」
涼やかな秋月の声が聞こえ、中庭から病棟を見上げると白衣姿の秋月が微笑んでいた。蒼一さんは私を忘れないで待っていてくれた。あの大人のキスが鮮やかに蘇った。覚悟しろ! 息が出来ないほど抱きしめられた日々、どの街角を曲がっても人混みに紛れても秋月が思い出され、雪子には福岡の街は辛すぎて哀しかった。
この年の夏はとても暑かった。なぜか食が細くなり元気がない雪子を心配してトオルが精密検査を行ったが、異常は何も発見されなかった。
舞鶴公園が紅葉狩りの人々で賑わう季節になると、雪子に少し元気が戻った。
あれは夏バテだったのかと安堵したある日、背筋を伸ばして蒼い茶碗に茶を点てる雪子の周りに、秋月のコロンの匂いが漂っていることに星野は気づいた。
愛し合った思い出の地に戻って来たユッコを、秋月さんが迎えに来ているのではないか、星野は不安になり、福岡に戻ったことを後悔した。もし日毎に衰弱するようであれば、間違いなく秋月さんが誘っていると思ったが、特に変わりはなく、毎日旨い食事を用意しては姉夫妻と食卓を囲み、姑の話し相手になっていた。
◆ ああ、俺はやっと雪子を迎えに行った。
福岡には珍しく大雪が降り積もった寒暁、俺は雪子を迎えに行った。
雪子の眉間に右手の人差し指と中指を当て、しばらく眼を閉じて雪子の心臓に掌を当て、目覚めを待った。
「ふぁい? 蒼一さん?」
「お帰り、雪子。僕だ、蒼一だ。わかるか。キミはちっとも変わってないな。迎えに来たよ。離れの雪景色を覚えているか? 今朝はあの日と同じように雪が砕け散っている。あのときキスしようとしたら寒さに凍えて唇が泣いていた。懐かしいなあ。おいで、キスしよう」
「変わってない? ウソ、何言ってるんですか、私はオバアチャンです。見られるだけでも恥ずかしいです」
「そんなことはない、僕がこの世で最後に見た雪子のままだ、21歳の雪子だ。だから僕は33歳だ」
「えっ、ホントですか? 昔と同じですか?」
「そうだよ。迎えに来たんだよ、怖くないよ、僕とあっちの世界へ行こう」
「でも、私には夫と息子たちがいます。そんな勝手は出来ません。気がかりです」
「心配するな、この瞬間にキミが死ぬことは決まっていた、僕のせいではない。それは寿命で天命だ。医者だった僕は命に関してウソは言わない、本当だ。僕は迎えに来ただけだ。今日までキミは懸命に生きてくれた。合格のハンコをあげるよ」
「蒼一さんは医者だからウソは言わないって、たくさんウソついたでしょ。昔とちっとも変わってませんね」
雪子は笑って、俺の胸に飛び込んだ。
抱きしめて、懐かしいお決まりの大人のキスをして離さなかった。昔と同じように、息が出来ないと雪子は喘いだ。
「ずっと待ってたよ、幸せだったかい? 行こう。僕がついているから怖がらなくていい」
手を繋いだふたりは暗く長いトンネルに吸い込まれて、冥界を目指した。3つのトンネルをくぐり抜けると新緑が眩い草原がどこまでも見渡す限りに広がっていた。
一方、現世に残された星野は、夜と朝の境にある魔のしじまに目を覚ました。何だか妙に寒いなあ、雪かぁ? 部屋を包む冷気に首をすくめた。
「おい、かあさん、起きてるか? 珍しく雪が積もりそうだよ」
返事はなかった。隣で眠っている雪子に触ったら冷たかった。おかしいなあ、風邪でも引いたか? どうした、寒いのか? 抱き寄せると頭が枕から滑り落ちた。驚いた星野はすぐ姉を呼び、京子とマサオが懸命な初期救命措置を行ない、秋月病院に救急搬送した。
トオルと古谷は、意識はないが心臓だけは微かに動いている雪子に、考えられる限りの蘇生治療を行った。だが穏やかな表情で口元に笑みを浮かべたまま雪子は旅立ってしまった。
古谷は気づいた。救急処置室に漂う匂い、これは秋月さんのコロンの匂いだ。迎えに来たのかも知れない……
古谷は目を閉じた。若き日の儚い恋が消え去った瞬間だった。
この人と暮らしたいと心に決めたとき、既に星野に奪われた後だった。あれから時は慌ただしく過ぎ去り、古谷の想いは胸に隠された。
星野の気持ちを知らなければもっと早く踏み出せただろう。この人を愛して一緒に暮らしたかった。
西崎さん、やっと秋月さんと会えるんだね、微笑む人に涙した。享年60歳、星野雪子となって32年経っていた。
雪子に先立たれた星野は三人の息子が見守る前で、
「かあさん、ずっと仲良く暮らしたね。秋月さんからオマエを預かったが約束は果たしただろう、どうだ? 幸せだっただろう? そうだよな、オレは幸せだった。毎日が楽しかった。そして立派な息子たちを残してくれてありがとう。これからは秋月さんと幸せになってくれ。オレもそのうち追いかけて二人のジャマするからさ」
雪子の亡骸を抱きしめていつまでも慟哭していた。
雪子に眼を閉じさせ唇を塞いだまま、この光景を俺は見つめていた。
「星野、感謝する。だがオマエには雪子の忘れ形見がいる。俺には何もない。拐って行くが悪く思うな」
◆ 「魂の故郷」で現世の衣を捨てた。
「こっちの世界では僕の方が先輩で詳しい。ついておいで、案内しよう。両親や星野院長とも会ったが、今は輪廻の旅に出て、ここには僕の父さんしかいない」
「雪子さん、やっと会えました。トオルを支えてくれて本当にありがとう!」
秋月の父は転がるように走って来て、雪子を抱きしめた。
「蒼一の代わりに助けてくれたあなたのお陰で、トオルは医者になれました。ふたりの息子を救ってくれた雪子さんに、何とお礼を言えばいいのか、この通りです」
涙がこぼれ落ちてもずっと雪子を抱いていた。
「父さん、もういいだろう、雪子は僕の妻だ。離してくれよ。行かなきゃならない所がある、行こう」
雪子に会った秋月は昔と同じように我儘で性急な男に戻ったようだ。
俺は「魂の故郷」と呼ばれる所へ連れて行った。
そこは天と地の区別がない場所で、若草色から金色に向かってグラデーションを描きながら変化している空間だ。上下左右の距離が想像できないミステリアスな位相空間で、進もうとする方向に空間は広がり、後ろは閉じられて行く。さやさやと風が歌い、伽羅の五味に似た匂いが立ち込める、心地よい空間だ。
「魂が肉体を離れたら真っ先に行く場所がここだ。ここで現世の衣を捨て、魂だけになるんだ。魂は永遠で、消滅することはないんだよ。現世では魂は肉体という衣を着ているが、それは借りているだけで本来は必要がないものだ。わかるか?」
「でも、私に見える蒼一さんは体があって、服を着ています。白いセーターに革ジャンとGパンです。とっても寒い冬の日、海に連れて行ってくれたカッコイイ姿です」
「それはキミのイメージに生きている僕の姿だ。僕が見る雪子は腕の中で甘えている裸の雪子だよ」
「えっ、エッチ!」
「冗談だよ。どんな雪子でもイメージすると見えるってことだ。あー、キミをずいぶん待った。僕はこの日をどんなに待っていたか、会えなくてとても苦しい時間は終わったんだよ。さあ、おいで」
覚悟しろと言って雪子を抱え、雪子の肌が薄桃色に輝くまで優しくキスを続けた。やがて幾度も甘美な収縮に包まれて、あの懐かしい極快感に浸った。キミは最高だ、もう絶対に離さない!
ここには時間は存在しない。永遠のようであり、刹那のカケラかも知れないが、33歳の俺と21歳の雪子の新しい生活が始まった。
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