第5話 冥界で見えるものは?

◆ 秀明斎は秋月を偲んで鎮魂の茶会を開催した。


 何だと、俺の魂を慰める茶会だと? 気持ちはありがたいが余計なお世話だ。魂なんてそう簡単に慰められるわけがないだろ、ここから俺を追い払おうってか? 仕方なく渋々臨席した。


 雪子は肩先と裾から桜が舞い乱れる淡い青磁色の訪問着で半東を務めた。若奥様と間違えられた思い出の着物だ。あの時、コイツはまだ高校生だったが、落ち着いた着物がすっかり似合う女になっていた。俺はつい見とれてしまった。


 京子は弟を苦しめた秋月が許せずに出席しなかったが、夫の内村マサオは福岡から飛んで来た。京子と結婚して星野病院を継ぎ、若先生に就任していた。内村は医者の秋月を尊敬し、病院経営に大きく貢献した秋月に感謝していた。


 茶会はしめやかに開かれた。

 秀明斎は合掌のあと、まろやかに大きく円を描いて両袖をさばき、濃茶を献じた。俺が座っている紫の座布団を凝視して生真面目に諭した。

「秋月先生、雪子さんを幸せに出来なかったと後悔されていますが、私が思うに、雪子さんは十分にお幸せだったと思います。先生に愛され育まれて、素晴らしい女性になられました。10年、20年を経たご夫婦でもお二人ほど強い絆で結ばれた方々はそうはいません。


 雪子さんはこの離れでずっと先生と暮らして行かれるお気持ですが、それはいけません。雪子さんが幸せになれるかどうかは、先生の胸三寸です。

 誰ひとり幸せに出来なかった私は面映ゆいばかりですが、雪子さんはまだお若い。先生、お辛いでしょうが、おわかりください」


 雪子が幸せだったと言われても、それは過去に過ぎない。俺はその幸せがずっと続くものだと思っていた。ここから離れるなんてイヤだ。アイツの傍にいたい。雪子だってそうだ。秀明斎は女に疎いなあ、わかってないなあ、フンとそっぽを向いた。

 内村は、雪子に何度もねだって甘えた少年のような秋月の寝顔を思い出し、秀明斎の言葉に滂沱して頷いた。


 雪子は不機嫌な顔の俺に薄茶を点てた。

「ここで蒼一さんとずっと暮らせると思ってました。お別れしたくないです、いやです! お願いです、会いたいです、約束してください。蒼一さんがいないともう頑張れません!」


 そのとき、秋月の声がどこからともなく聞こえ、高嶋と内村は天井を見上げた。

「頑張れる、キミの強さを僕は知っている。呼んでくれたらいつでも会える、本当だ。泣くな、涙を堪えて笑ってごらん。そう、その顔だ。僕がいちばん好きな顔だ。雪子、愛している、心配するな」

  

 星野は秋月の言葉を静かに聴いていた。しばらく静寂が時を包み、高嶋千鶴子が茶を献じた。そのとき、秋月が星野の心に入って来た。


「お前は雪子を好きなだけか? 俺のように苦しいほど愛してはいないのだな?」

「秋月さんの愛しているではありません。放っとけないんです。あんなに頼りなくて、いつも隠れて泣いているユッコが心配なんです」

「ふん、言葉通りなんだな。それでは雪子を頼めない、渡すことは出来ない。星野、もっと大人になれ、バカ野郎!」

 鎮魂の茶会が終わっても、秋月はまだ雪子の傍にいたかった。

 


◆ 冥界の秋月が見たものは……


 俺はいつまでも雪子の傍にはいられないのか、邪魔なのか、普通はそうだな…… 気落ちした俺の脳裏に懐かしい情景が映し出された。


 あの赤ん坊は俺だろう、母の乳房に食らいついて眠っている。母さんはあんな優しい顔をしていたのかと初めて知った。三輪車を押している父さんの表情は、幼いトオルを見る目と同じだった。俺にもあんなときがあったんだ。あれはアルバムに収められた古い写真の1葉か? いや、そうではない、あんな写真はなかった。


 小学生の俺は可愛げのないガキだった。ずっとそうだ。高校の遠泳のとき、もうたくさんだ、この世から消えてやる! 海底に沈んで行った俺を引き上げた体育教師は、「勝手に死ぬな! オレが困る、迷惑だ。違う所で死んでくれ」と言ったことを思い出した。


 大学に進むとひどく驕慢な男になっていた。教授や学友を見下す俺がいた。幾人もの女を抱く俺、あんなシラけた顔で抱いていたのか。せめて欲望の雄叫びに翻弄された俺を見たかったが、くそ面白くない! 親が用意した道を何ひとつ反抗できずに進み、鬱積した気持ちを隠して女を抱き、そのうち飽きて簡単に捨てた。何とつまらない男だ! どこがカミソリ秋月なんだ? 今さらこんな俺は見たくない! 


 雪子はいないのか? 早く見せてくれ! そのとき白ウサギのような赤ん坊が見えた。ヒューヒューとか細い声で泣いている。なんだあれは? 今と同じだと笑った。

 セーラー服の雪子が林と戯れている。ふーん、面白くない光景だと眺めていたら、突然、雪子の恐怖に見開かれた眼が広がった。あの時のことに違いない。止めろと叫んだら、剥かれた白い下半身が見えた。逃げろ、逃げるんだ、逃げてくれ!


 場面は変わった。雪子が怯えて震えていた。あれは初めて雪子を抱いたときだ、最高に嬉しかった日だ。あのとき世界中のどの男よりも俺は幸せだと感じた。この瞬間に世界が終わってもいいと思った。


 固唾を呑んで見とれていたら情景が暗転した。膝を抱き全身を震わせて泣いていた。流れ落ちる涙をそのままに、ずっと泣き続けていた。これは妊娠の恐怖と闘い、不安と後悔に押し潰されている雪子だ。こんなにアイツを苦しめ、傷つけていたのか、たった独りで泣き続ける雪子を俺はまったくわかっていなかった、逃げてしまった。


 俺は雪子を泣かせて苦しめるだけの男だったのか、徒花(あだばな)にしか過ぎなかったのか、自分が情けなかった。

 もう、こんなもの見たくない! 勝手にしろと思ったとき、雪子のまん丸な笑顔を見た。「どうしたのです? そんな怖い顔して」と笑った。そうだ、俺はいつも不機嫌で無愛想な男だった。キミを苦しめていたばかりで悪かった、許してくれ。秋月は泣いた。

 涙で霞んだ眼に浮かんだものは、抱かれて頰を桜色に染め、俺を包み込んで幸せになる瞬間の雪子だった。ああっ、時間を戻せ——っと叫んだとき、すべての映像が砕け散った。


 今のは何だ? 人は冥界に行くとき、それまでの人生を猛スピードで見せられるという話は聞いたことがある。あれがそうなのか? あんなものを見せつけてどうしろと言うのか、懺悔しろと言うのか。エンマ大王の前に引き出して、現世の罪を認めて贖えと言うのか? そんなことはまったく恐くない、それより俺は雪子が心配だ。こんなものを見せつけてどうする気だ!


 いつまで現世を徘徊するのか、早くあの世へ行け! 急がされていることは知っているが、俺はここにいたい、雪子もそう思っている。雪子がいないあの世なんかに行きたくない!

「蒼一さん、まだ成仏しないでください、辛いです。ずっとここに居てください、お願いです」

 毎朝そう言って、星野が漕ぐ赤い自転車の後ろに乗って、雪子は大学へ向かった。


 去っていく二人を見送る俺の胸の中は、あんな学生生活を過ごしたかったと嫉妬の炎はまだ消えてはいなかった。しかし、ずっと雪子を見守っていた俺だが、そのうち隣に潜り込んでも抱けなくなっていた。

「蒼一さん、もう来てくれないのですか」と雪子は潤んだ眼を閉じた。

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