亡魂・カミソリ秋月のモノローグ

山口都代子

第1話 まさか、俺が死ぬなんて!

◆ 俺は死んだのか? まったく理解できない。


 3月16日、雪子が言ったとおり未明からひどい土砂降りだ。

 俺は雪子が横にいないとぐっすり眠れないらしい。悔しいが、そんな甘えったれの癖が付いてしまった。明け方、眼が冴えて日記を書いたが読み返えしたくはない。こんな時間に目覚めるのは不眠症か年寄りだろうと自嘲した。俺が綴る日記の常套句は、いつも雪子を愛していたい、大学なんてやめちまって戻って来いと、決まっている。カミソリ秋月と言われている俺がこんな女々しい泣き言を綴っているなんて、人には読まれたくない日記だ。


 あと1年か、アイツが卒業するのは。もう3年待ったから、あと1年待ってくれと簡単に言うが、待つ身にとっては永い時間だ。勝手なことを言うな! キミが戻って来ればいいだけの話じゃないか、簡単な話だ。


 俺は苦しいほどに雪子を愛している、今まで会ったどの女よりもだ。俺に無理やり女にされて育てられ、本当の女になった。抱かれているときは俺の女だが、俺の束縛を抜け出すと、俺が入り込めない世界を持ち、自由に呼吸している。こんなことってあるか、あっていいか?


 かつて病院の若先生という俺に女たちは群がってきた。いい気になって、やりたい放題の放蕩を重ねた。それが何だ? それを卑下する自分がいた。そのとき高校生の雪子と出会い、家庭教師をした。あれから3年以上経った。俺は雪子の心を無視して強引に駆け急いだ。アイツはどんなに抱かれても、翌朝には何もなかったように清純な煌めきを纏い、去ってしまう。なんてやつだ、実に不愉快だ!


 スタッフミーティングの後、簡単なオペをひとつ済ませて香椎の丘に建設中の分院へ車を走らせた。建設業者との打ち合わせが終わったら雪子を迎えに行こう。京子先生と内村先生にお会いしてお祝いを述べなくては。羨ましいなあ、結婚なさるとは。いいなあ。俺たちはあと1年か、永いなあ……


 ウィンカーで掻き切れないほど雨はますます激しくなり、10m先は見えない。だが通い慣れた道だ。どうってことはないだろうと思いつつ、雨脚は気になった。眼をつむってもカーブを曲がるアクセルの踏みごたえは確かだ。いくつかのカーブを登りきって、道が平坦になったらもう少しで分院だ。


 雷鳴が轟いたが気にせず2000GTを走らせた。最後のカーブに差し掛かりアクセルに力を入れた途端、眼の前に制御を失った大型トラックが大きく迫った。左にハンドルを切って逃げようとしたが、あーあ、ダメだ! その瞬間、トラックはカーブを曲がりきれず対向車線の俺の2000GTを直撃した。


 トラックがフロントウィンドウに飛び込んで来たとき、恐怖は感じたが衝撃や痛みはなかった。2000GTはガードレールを突き破り崖下に転げ落ちて行った。岩や大木にぶつかってバウンドしながら転落して行く2000GTの中で、俺は影灯篭のように連続する映像を見ていた。


 涙を堪えて額にかかる髪をかきあげ溜息を吐く雪子、懐に抱かれ穏やかに眠っている雪子、怯えて震えていた初めての雪子、別れ際に必ず甘えて泣く雪子…… 

「雪子! 救けてくれ!」

 俺は絶叫しながら車もろとも転がり落ちて行った。


 雪子が泣いている夢を見て俺は目覚めた。相変わらずアイツは泣き虫だなあと呆れたが、そうだ、迎えに行くのを待っている。早く会いたい、迎えに行こうと車を走らせた。

 星野病院前に車を停めて雪子を待った。雪子は走り出て来たが、なぜか俺に近づけなかった。なぜだ? 俺は雪子を抱きしめようと待っているのに、見えないバリアがあるように抱き寄せられない。なぜだ?

 俺はトラックと正面衝突して崖から転げ落ち、死んでしまったのか? そんなはずはない。どこにも骨折や負傷はない。


「早く僕のとこへおいで、迎えに来たんだよ」

 雷鳴は天地を揺るがし、辺りを瞬時に氷の世界にした。雪子は這いながら俺に近づいた。そのとき「ユッコ、行くな!」と星野が叫び、雪子の足を掴んで遮った。

 あーあ、俺はどうしたのか、近づこうとする雪子の手に触れようとしたが、届かない。雪子を抱きしめたいのに体の自由がきかない。俺はどうしたのだろう? わからなかった。


 もう一度、声を限りに「雪子ぉー!」と叫んだら、雪子の手に触れた。だが、行かせまいとする星野が雪子から離れない。

「星野、邪魔するな! くそーっ、消えろ、どけーっ!」、俺が癇癪を起こして叫ぶと、雪子も星野も見えなくなっていた。春雷には稀な荒れ狂う雷と豪雨が続く午後だった。


 雪子はなぜ泣いてるんだ? 迎えに来たというのに、泣くなよ。ほら、涙を拭いてあげるよと手を伸ばしたが届かなかった。


 ここはどこだろう、そう、ここは星野病院だ。雪子はなぜ泣きそぼってぼんやりしている? キミは俺が見えないのか? そんなことはないだろう。傍にいるじゃないか。なぜ泣いている? 俺の怒った顔を怖がっているのかい? これは嘘だよ、いつもの冗談だよ、驚かせて、かまって欲しいだけだよ。早く俺の胸に飛び込め、いつものように大人のキスをしよう。愛を確かめようと手を伸ばしたが雪子を抱けなかった。


 何かおかしい? 何か変だ、何があったんだ? 俺の記憶は少しずつ蘇って来た。


 そうだ、俺は事故に遭った。車ごと転落して名もない川の河原に落ちた。やっとの思いでドアを開けて川の水を飲んだ。失われて行く意識と闘って、ふーっと空を見上げた。そこには雲ひとつない青空が広がっていた。こんな空を蒼天と言うのか、俺の名前と同じだなと笑った。


 俺はどうしたんだろう? おかしくなったみたいだ。生ぬるい血が眼にしみる、右眼が見えない。それでも雪子の傍にいたい! 雪子を抱いていたい! そう思った。ああ、薄れていく何もかも…… だめだ! 死にたくない! 雪子を残して死ぬものか、死んでたまるか、そう思ったが視力は失せ、指1本自由に動かせず、僅かに痙攣して秋月は息絶えた。


 意識が戻ったとき、ベッドに寝かされた俺の横には雪子がいて、俺の顔をなで、キスして抱き包んで大泣きしていた。それから、覆いかぶさって俺の胸を叩き、肩を震わせて泣き続けた。

「なぜ泣いている? 僕はここにいるよ。悲しいことなんかないだろう。また海に行こう、気が済むまで波の音を聴こう」

 雪子を抱きしめようとしたがまったく動けなかった。宮本が雪子に注射した。なぜ、そんなものを注射する? それは鎮静剤だ。おい、宮本、何のつもりだ。そう思ったとき、雪子はふーっと大きく息を吐き俺にしがみついた。


 雪子に抱かれて温もりが伝わって来る、俺は幸せだった。

 外が明るくなった。どうやら朝になったようだ。

 覚えているかい? 病院のお披露目パーティーの夜を。雪子の時間が欲しいと我儘を言い、何度も重なったあの夜のことを俺は決して忘れはしない。ああ、雪子、君は最高だ。

 聞いてくれ。俺たちの子供が欲しい。早く産んでくれ。一緒に暮したい。雪子、抱きたい! なぜだ? ああ、俺の体は動かない、どうしたんだ?

 秋月は自分が死んだことをわかっていなかった。



◆ なに? 俺の通夜だとふざけるな!


 山川が

「雪子さん、いつまでメソメソしているのですか。今日は若先生の本通夜です。早く支度してください。しっかりしないと、その結婚指輪が泣きますよ。院長夫人として最後まで務めてください」

 涙で眼が開かない雪子の頰を容赦なく叩いた。床で仮眠していた星野が山川の無慈悲な言葉に、「ユッコが可哀想じゃないか、あんまりだ!」と床を叩いて号泣した。


 山川くん、何をするんだ。雪子は疲れている、泣いている、寝かしておけ、そう思ったが、なに? 通夜? 誰の? 若先生? 俺は死んだのか? そんなことはないだろう。ここにいるじゃないか。まったく信じられなかった。


 やがて俺は雪子から引き剥がされ、ロビーに安置された棺に閉じ込められた。

 こんな狭くて陰気な箱に入れるな! 暗いうえに通風が悪くて息苦しいじゃないか! ここから出せ! 

 癇癪を起こして叫びながら、ふと、俺は死んだのかもしれないと思った。なぜだ? なぜ俺が死ぬ? 雪子はどうなる? 雪子を残して俺は死んだのか? 

「雪子! 雪子!」と呼んだが、棺を守っている「心臓外科 秋月蒼一チーム」の誰ひとり気づく者はなかった。

 棺の中に横たわった自分の不機嫌な顔を天井から見つめていた。俺はあんな不遜な顔をした男なのかと、初めて気がついた。


 棺にすがって父と母が泣いている。雪子はどこだ? 親族席に涙の跡がこびり付いた雪子を見つけた。

 キミの喪服姿は綺麗だ、振袖よりもずっと素敵だ、惚れ直したよ。透き通った白い肌に涙で潤んだ瞳、黒の喪服はぴったりだ。撫子の紋がよく似合ってるよ。喪服に隠された肢体を探りあて、秋月は雪子をずっと見つめていた。

 

「雪子、早くおいで。僕と一緒に行こう、連れていくよ。これが僕の最後の我儘だ、許してくれるか、お願いだ!」

 秋月の軀(むくろ)から一筋の涙が溢れ落ちた。


 その涙が届いたのか、雪子はロビーを離れて俺の部屋へ入った。喪服を脱ぎ捨て白装束になった雪子は、ネクタイで膝を縛り、棺を守っていた短刀で左手首の血管を切りつけた。


「痛いだろう。そこを切ってもすぐには死ねない。胸を刺すか、首の横を切りなさい、頸動脈だ、わかるか?」

 俺の声が聞こえたのか、雪子は胸元を開いて胸に刃を突きつけた。陶器のような白い肌が見えたとき、俺は小さく悲鳴をあげた。

「おい、よせ、無理だ、そこは骨だ。喉を突け、または頸動脈だ」

 雪子は震える手で短刀を持ち、喉元に突きつけた。


 やめろ、やめてくれ! 俺と出会ったばかりにこの若さで自刃するなんて。なんと俺は罪深いやつだ。幸せに出来ずに死んでいくだけで飽き足らず、命まで奪おうとしている。ダメだ、それは許されない。しかも俺は医者なのに最愛の人を俺の我執で殺そうとしている。


 雪子、聞いてくれ。雪子の気持ちはよくわかった。ありがとう。一緒に死んでくれるほど愛されて僕は幸せだ。今までの我儘を許してくれ。あの世があればそこで待っている。キミを3年待ったが、もっと待てるぞ。死人の秋月は号泣した。


「星野、聞こえるか? 雪子を見てやれ、救けてくれ。頼んだぞ」

 すぐ星野は部屋へ飛び込み、雪子は短刀を叩き落されたが、既に左手首はパックリ割れ。胸元と喉元に無数の傷があった。俺は星野の口を借りて雪子に話したが、わかってくれたかどうかはわからない。

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