第3話 亡魂はさすらい、漂う

◆ 死者と生者の会話は続く。


 どこか遠くで星野の声が聞こえた。

「秋月さん、ユッコはバカです。大バカです。世間並みの価値観や常識をまったく知りません。秋月さんが守って来たからです。こんなユッコを残して、なぜ無責任に死んだのですか。おかしいです、許せません。今のユッコはユーレイです。こんなにユッコを苦しめて何をやりたいのですか。僕はユッコを絶対に秋月さんに渡しません。誰がこんなユッコにしたんですか、秋月さんを恨みます。はっきり言います、僕はユッコが好きです。ユッコを守ります!」


「星野、俺は雪子を衰弱させて連れて行こうとしていた。だが、そんなことをしたら、あまりにもアイツが哀れだと考え直した。雪子への未練はそうそう簡単には断ち切れないが、本当に愛していれば、雪子の人生を奪ってはいけないと京子先生から叱られたことがある。その通りだ。

 信じたくないが俺は死んでしまった。雪子を幸せにすることは出来ない、何も出来ない。星野、感謝する。お前の心はわかっていた」

 星野は夢現(ゆめうつつ)で秋月の声を聞いていた。


「雪子、話したいことがたくさんある。よく聞いて欲しい。キミと会えて僕は幸せだった。

 ゆったりと天空から落ち流れゆく天の川に息を呑み、潮騒に抱かれて、いろんな話をしたことがあったね。自刃するほど愛してくれた雪子、ありがとう。僕は癇癪持ち以上に疑り深く嫉妬深い男だ。キミを信じられないときもあった。

 やっと心を決めた。雪子は生きてくれ、お願いだ、どんなに辛くても生きてくれ。そんな不安な顔をするな、心配するな、僕はいつも見守っている。


 キミを殺して連れて行こうとした僕が間違っていた、愚かだった。いつも僕の我儘に付き合ってくれて疲れただろう。悪かった。こんな僕を許して欲しい。淋しいときはいつでも呼んでくれ。雪子、永遠に愛している……」

「私を連れて行ってください、お願いです、いつまでも一緒にいたい!」


 その後も雪子はいつも秋月を待っていた。秋月の訪れはすぐわかる。さわさわと風がどこからか吹き込み、お気に入りのマリン系オーデコロンが漂い、心の耳を澄ますと語りかける言葉が聴こえた。

「キミをこんなにした僕が言うのはおかしいが、だめだよ、ちゃんと食べて早く元気になってくれ。赤い自転車で坂道を上って行くんだろ。僕がいなくても独りで生きて行けるようになるんだよ。お願いだ、わかってくれるか」


 雪子の細い肩を抱き、言い聞かせる俺は辛かった。雪子が肺炎を患って死にかけた2年前、いっそあのとき雪子と死んでいたら幸せだったのか? 手を取り合ってあの世に行けたのだろうか? 肉体を持たない魂が泣き崩れた。


 それから幾晩過ぎ去ったのか、雪子はあの懐かしい2000GTの爆音で眼が覚めた。

 あっ、蒼一さんだ、やっと迎えに来てくれた!

「僕だ、起きてくれ。迎えに来た。ドライブに出かけよう、外で待ってるよ」

 やっと秋月が迎えに来たと思い、何の疑いもなく頼りない足取りで階段を降りて行った。玄関ホールへ向う廊下を足音を忍ばせて通り過ぎようとしたら、涼と母の友恵の会話が聞こえた。


「母ちゃん、ユッコに何か食べさせたいんだ。秋月さんが死んじゃった今、自立して母親を養うだけの気力と体力を付けてあげなきゃ。オレさ、秋月さんの代わりは無理でも、アイツを放っとけないんだ。栄養やカロリーを考えるのは止めて、明日は『うろん』を作ってくれないか。それだったらユッコは食えると思う。アイツは薄味が好きだ。頼むよ、お願いだ」


 雪子はふたりの会話を聞いて部屋に戻って行った。それをホールの陰から京子が見ていた。もし雪子が外に出ようとしたら遮るつもりだったが、部屋に戻って大声で泣き出した。あの会話を聞かせたくて蒼一さんは私を起こしたんだ。

「蒼一さん、とっても哀しいけど、もう人前では泣きません。約束します。何の関係もない星野家の皆さんに大切にされて甘え過ぎていました、お星様になった蒼一さんに心配かけてごめんなさい」


 人前では泣かないと誓った雪子は「蒼一さん、蒼一さん」と、声を限りに大泣きした。驚いた星野が走り込んで来た。

「お兄ちゃん、心配かけてごめんなさい。お願い、今日までは泣かして。明日からはもう泣かない。お兄ちゃん、ありがとう」

「泣きたいだけ泣け! 秋月さんの代わりは出来ないがオレはオマエの兄ちゃんだ。どんなことがあっても守ってやる」

 雪子を抱いて星野も泣いた。雪子が可哀想でどうしようもなかった。院長はいつまでも雪子を抱きしめて頭を撫でた。京子とマサオ、友恵も泣いていた。



◆ 死者のエアーSexに星野は呆れはてた。


 少しずつ雪子は回復して行った。

 ベッドは雪子が使っているので、星野は部屋の隅で毛布に包まって眠っていたが、ある日の真夜中、誰かに足を踏まれて目が覚めた。

 うん? 誰だ? 記憶に残っているコロンの匂いと同時にシルエットが見えた。秋月さんか?


 秋月は雪子の隣に滑り込み、ディープキスを始めた。眠ったまま雪子は「ふぁい?」と呟いた。姿はまったく見えないが、月明かりにシルエットが影絵のように浮かんでいる。星野は眠ったふりをして眺めていた。


 亡霊には足がないという説は間違いだと知った。足がある秋月は雪子を抱いていた。勃起したペニスが見え隠れして、命ある男と同じように腰を振ってフィニッシユした。

 だが、現実ではユッコの隣に存在する物体は何も見えない、存在しない。実体がないSexを凝視しながら、これは秋月さんがわざとオレに見せつけている、星野はそう感じた。ユッコはオレのものだと牽制している。ユッコはとんでもない男に捕まって愛され過ぎたようだ。星野は本当に呆れ果てて眼を閉じた。


 このことを京子とマサオに話したら、マサオは「夢を見たのだろう」と信じなかったが、京子は、

「秋月のやりそうなことだ。アイツは雪子の傍にいる涼に嫉妬している。恐ろしい男だ。オマエ、ぼけーっとしてると取り憑かれるぞ!」

 京子は真顔で心配した。


 雪子は、秋月家から蒼一の遺髪と蒼い小さな壺に収められた遺骨を分けてもらった。遺髪にはコロンとお揃いの爽やかなマリン系のヘアトニックの匂いが残っていた。


     

◆ 死者と生者が暮らす摩訶不思議な空間。


 星野は包帯姿の雪子をガードして4月中旬に東京へ戻って行った。星野院長夫妻は涙で目を潰しながら、雲間に吸い込まれていく飛行機にいつまでも手を振って見送った。


 驚いたことに、落合に戻った雪子を待っていたのは秀明斎だった。

「雪子さん、お帰りなさい。私は情けない男です、母の懐に戻って参りました。秋月先生がお待ちかねですよ。ほら、あそこです。見えるでしょう」

「あっ、蒼一さんだ! ただ今戻りました。一服差し上げます。待ってくださいね」

 秋月は得も言われぬ優しい眼をして雪子の帰りを待っていた。

 その夜、俺は雪子を離さなかった。すべては春の朧な宵のことだった。


 しばらく大学を休んで雪子は静養した。

「妹は交通事故に遭って死にかけたんだ、大変だったんだ。まだ安静が必要だから家で寝かしている」と、星野は大学内で言いふらし、雪子が欠席した授業の教授には、「妹は交通事故に遭いました。まだ安静が必要です。そして、ショックで事故の記憶がありません。妹を決して追求しないでください。武士の情けです。お願いします」と頭を下げた。

 俺はニヤニヤしながら、星野はウソが上手いなあと空から感心して眺めていた。


 ゴールデンウィークが過ぎ去り、やっと雪子は大学に復帰した。首から胸にかけて巻かれた包帯と包帯で固められた左手首を目にしては、さすがに詳しく事情を訊こうとする教授はいなかった。交通事故以上のもっと忌まわしい出来事に遭遇したのかと、目を伏せた。

 雪子を見た大谷助教授は驚いて目を背けたが、やがて大谷の真正面にひっそり座って懸命にノートを取る雪子が復活し、大谷はやっと安堵した。


 星野は毎朝7時に訪れて雨戸を開け放ち、雪子に代わって廊下を雑巾掛けして大学に連れて行き、戻っては勉強し、夕飯を食べて帰って行った。

 星野は進路に関して雪子と夜更けまでよく話し込んだが、決して泊まることはなかった。なぜなら秋月の姿がはっきりと見えていた。


 俺はふたりの話に耳を傾け、時々反対して首を左右に振った。亡霊が意思表示するのか? 星野は不思議に思ったが、秋月は雪子に何かアドバイスしているらしく、雪子は頷いて聴いていた。


 雪子が住んでいる離れは、死人と生きている人間が寄り添い、語りかけ、普通に暮らしていける変わった空間を創っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る