第9話「聴能主義と優生思想〈番外編〉」

 耳が聞こえないより、聞こえる方がいい。


 目が見えないより、見える方がいい。


 体が動かないより、動ける方がいい。


 耳が聞こえることの価値観と優位性を高くおいた聴能主義〈オーディズム〉には、そのまま他の障害や病気や特性にも共通している部分があります。


 


 極端に言ってしまえば、下記のようにも言えます。


 金が稼げないより、稼げる方がいい。


 働けないより、働ける方がいい。


 障害者であるより、健常者である方がいい。




 こう考えると、いかに自分たちの生きている世の中が常に優劣の差をつけたがっているのかがよくわかると思います。

 経済的に、社会的に、身体的に、精神的に……様々な要素要因で人は人に区別をつけ、格付けします。




「社会的弱者」という言葉は世の中にすっかり浸透しています。


 例えば障害者、病人、老人、女子供、ニート、生活保護受給者、ホームレスなどです。彼らは様々な事情を持って何かしらの不利益を被っています。就職、失業、普段の生活、結婚、育児、経済困窮など、「生きていく」上で様々な制約がかかっているのです。


 それをサポートするのが社会、国なのですが……令和の時代に入っても「社会的弱者」への風当たりは強い。


 そういう状況に陥ったのは自己責任、

 頑張れるなら頑張るべき、

 甘えるな働け、

 人や環境のせいにするな……


 これは極論でもなんでもなく、巷にあふれている風潮です。


 社会的弱者にほぼ共通しているのは、「社会に貢献できていない」ということ。「社会のスネをかじって(税金によって)生きている」こと。そして一部の政治家が発言したように、「生産性がない」こと。


 どのように生産性がないのか、という点には疑問を差し挟む余地がありますが……


 貢献できず、税金で生きて、何も生み出せない……そういった人間に存在価値はあるのかという問いは今この瞬間にも議論が交わされています。




 さて、この議論は「優生思想」が前提となっているという意見があります。


 この優生思想でまず真っ先に思いつくのはヒトラーでしょう。ユダヤ人をはじめ、数多くの障害者や病人、生産性がないと見なされた人々は虐殺された。歴史的な悪行でありながら、その優生思想は今もなお生き続けています。


 といって、現代ではまさか殺すわけにはいきません。できるだけ多くの人間を「生産性のある」人間に引き上げようとする動きが見え隠れしているということです。




 聴覚障害者に限定すれば、人工内耳がわかりやすいです。

(例に引き出して申し訳ありません)


「聞こえない人間」を「聞こえる人間」に仕立てることで、より多くの恩恵(教育など)を得、そして社会のために活動しやすいようにする。


「聞こえない」ことはマイナスであり、障害を持っていたら人にとっても、社会にとっても不都合。今は検査で胎内の子が障害を持っているかどうかも判別できるとのことなので、その時点で中絶するかどうかも決められます。


 これに反発する声はあり、命の選別だとする辛辣な意見も出ています。


 そもそも不利益を被っているのは社会のせいなのだから、まず社会こそが誰でも生きやすいように改善することが優先なのではないか、とも。環境さえ整っていれば障害者だろうと老人だろうと誰だろうと活動しやすくなります。それはすでに他の方々が証明しているのです。


 パラリンピックのように華々しい舞台でなくても、です。




「生産性のない」とする論調は時代の流れに反した言い方です。


 自分自身働けない時期があったので、家にこもっている間は「何もできない、何も生み出せない、こんな自分に生きている価値があるのだろうか」と思っていたのです。自分は家族にとって、社会にとって重荷なのではないか、要らない存在なのではないかと一時期本当にそう信じ込んでいたことがありました。 


 その気持ちを払拭ふっしょくするために、体と心を壊すまでに働きました……が、それでも自分に「生産性があるかどうか」という疑念は拭えませんでした。




 さて、ここから下は自分の推測になります。


 上が——例えば政府や国が——一定の国民を「能力基準に満たないから」という理由で切り捨ててしまえば、その先はどうなるでしょう。


 まず真っ先に切り捨てられるのは障害者と病人でしょう。


 そして働けなくなった老人やニートも対象になるでしょう。子供を産めない人も、白眼視されるかもしれません。


 働ける人だけ、何かを生み出す能力のある人だけを重用ちょうようし続ければ、世の中には確かに政府や国やエリート意識の高い人々が定めた「要らない人」はいなくなるかもしれません。


 ただ、それは多様性の欠如につながり、ひいては弱者あるいは自分とは異なる人・文化に対する思いやりと受容性を失い、そして残った人たち同士で苛烈な生存競争を始めることにつながります。


「自分は要らない人間などではない!」とエリート意識を持つ人は、それが自分の首を絞めていくことになるのです。将来、事故などで自分自身も障害者になったり年老いて介護を受ける立場になるのかもしれないのに。




 優生思想は想像力を欠いた、持つ者のおごりを反映した思想です。


 能力が低い、生産性のないとされている個々人に責任を転嫁し、環境を整えようとする努力の欠いた社会・政府・国が持つ責任を追及しないことへの言い訳です。誰だって——例えば会社のような——規模と権力の大きなところに盾突きたくはありませんからね。




 聴覚障害者限定で考えてみてもそうです。


 彼らの持つ言語(手話)を理解せず、100年近く発声と読唇による教育を強制してきた。これはマジョリティのやり方に合わせようとした結果です。

 どうしても発声と読唇ができない人たちは「落ちこぼれ」と見なされ、「努力が足りないからだ」と知らんぷりしてきた。


 彼らの持つ世界を「世界」と認識せず、マイノリティ集団であることを認識せず、自分たちの価値観で測ろうとしている。これも優生思想につながりかねない、マジョリティからの圧力です。




 ただ、悲しいことにその優生思想に対してはっきりと「ノー」と突きつけられる人はそう多くはいません。なぜならば、「そうかもしれない」と内心で思っている人が少なからずいるからです。


 自分より障害の度合いが重い人を見て、「あれよりはマシだ」と心の中でひそかにほくそ笑む。自分より能力が劣っている人を見て、「あいつはあんなこともできない」と馬鹿にすることもあるのです。


 優生思想とまではいかなくとも、「自分より劣った人」を見つけて優越感に浸る意識は誰にでもあります。自分もそうです。


 某事件で十数人の障害者が殺害された時、犯人の思想に対してはっきりと「それは違う!!」といえるだけのムードが、この日本にありましたでしょうか。みんな薄々感じていることを、その犯人が代弁し、代行した……とするような風潮さえあったのではないかと、否定しきれるでしょうか。


 一部、名のある人々が声を上げていますが、「生産性がない」というような発言をした政治家を叩き落すまでには至っていません。悲しいですね。




 長らく語ってしまいましたが、ここで締めくくりたいと思います。


 自分の思っていること、考えていること、書けることはほぼ書き尽くしたつもりですが、ひとつ足りていないところがあるなと感じています。

 

 それは人との対話です。


「私はこう考えている。あなたはどうだろう」という問いかけを行い、議論を交わしたいと考えているのです。


 自分は今までに書いたことが、絶対的に正しいとは信じていませんので。




 そこで次回は、これまでの総決算とします。おそらく最終回。


 どうまとめられるか、自分でも未知数だったりします。




【最終回予告】


 星の数ほど人はいる。


 人の数ほど思想がある。


 思想の果てに対立があり、その果てに和解がある。


 理想、楽観と呼ぶ者もいるだろう。


 人と人とは分かり合えないのだと。


 それでも歩むことを止めないというのなら。


 次回、「これまでと、ここまでと、これからと」


 理想なくして未来はない。

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