第7話「二つの世界」

 二つの世界。


 障害者と健常者。


 日本人と外国人。


 男と女。


 大人と子供。


 職場と家庭。


 人は意識的に、あるいは無意識的に色々な世界を行き来しています。


 世界が異なれば当然のごとく、考え方も価値観も異なります。その違いは一朝一夕に生まれたものではなく、長い積み重ねによって出来上がったもの。


 そのことを頭の隅っこに置いておかないと、必ず痛い目に遭います。自分もそうでしたし。




 さて、本題。


 手話が言語として認められるようになるまで、長い時間を要した……ということは、何度か触れています。


 自分の両親からは「車の免許を取るのはとても大変だったのよ」と子供の頃から耳にタコができるぐらい聞かされました。


 自分が通っている大学にノートテイク制度や手話通訳制度ができるまで、先代がどれほど苦労してきたかについても、うんざりするほど聞かされました。健聴学生に向けたチラシを作ったり、講師側に根回ししたり、同志を集めたり……など。




 ただ、芯からひねくれている自分はこうも思うのです。


「でも、ろう者の言い分を日本語にして伝える人がいないと、何も伝わらないでしょ?」と。


 当たり前のことですが、現代日本では日本語と発声がマジョリティ(多数派)。声を発さず、独自の文法を持つ手話はマイノリティ(少数派)。


 そのマイノリティ言語を日本語に翻訳して伝えないと、彼らの要望はまかり通りません。健聴者の前で一気に手話でまくし立てても、彼らは頭上に「?」を浮かべるだけです。


 だから手話を理解し、日本語と発声を行える健聴者に橋渡しをしてもらっているのです。手話通訳者がわかりやすい例ですね。ろうの両親を持つ子(コーダ)が、親のために手話通訳や電話を行うという例も多々あります。




 もちろん、聴覚障害者の中には相当の訓練を受けて、手話と日本語と発声と読唇を身に着けた方もいます。そのような人が健聴者とろう者との橋渡しをすることもあります。


「聞こえる世界」と「聞こえない世界」とを行き来し、両方の言い分が理解できる人というのは稀有な存在なのです。


 両方の言い分・考え方が理解できていればそれぞれの要望を受け止めることができる。




 ろう者は自分たちの権利を認めてもらうために手を振り上げる。


 健聴者は——今の時代、おおっぴらに差別できないから——彼らの要望をできる限り呑もうとする。ただ、「なぜこのような要望をするのか」という根底の部分にまでは理解が及ばないことが多い。


 そしてろう者でいえば、「なぜ自分たちの要望がまかり通らないのか」と憤慨する。そして「やっぱり健聴者はダメだ。理解が足りていない」と思考を止めることもある。


 実際にあるケースです。


 双方の言い分も立場も理解できる橋渡し役としては、うんざりすることでしょう。




 自分は幼少期から、「聞こえる世界」と「聞こえない世界」を行き来していました。


「聞こえる世界」が自分にとって居心地のいい世界なのかどうか、肌身で理解している。


 そして大学に行き、「聞こえない世界」での考え方や文化や風潮などを吸収していきました。


 双方に片足を突っ込んでいる状態です。


 どちらの言い分も理解できるけど、一方に傾いている人たちはもう一方の人たちを理解することは難しいだろう……とみています。




 障害者がむやみやたらに権利を求める時代は終わった。


 そして、健聴者が差別と弾圧を行う時代も終わった……はず。


 これからは双方ともに反省と思索と歩み寄りが何よりも大事になるし、双方の考え方を理解していく必要がある。


 この風向きは若い人たちに見られる傾向で、障害者だの健聴者だのといった区別をつけない人もぽつぽつと出てくるようになっています。



 つまり、目の前の人を「一人の人間」とみなすようになってきている。


 良い傾向だと思います。


 そして、自分もなるべくそうありたいと考えています。




 しかし、差別が完全に消えたわけではありません。


 未だに「聞こえる方がいい」とする考え方は根強く残っています。その考え方は「聴能ちょうのう主義」——またはオーディズム——と呼ばれています。


 次回はこの聴能主義について、お話したく存じます。




【予告】


 筋違いの善意。


 その善意は100年の時を経て、過ちであると実証された。


 しかし未だに、その善意は確かなものであると信じて疑わない者がいる。


 それは持つ者のおごりか。


 持たざる者の妬みであると、言い切れる根拠はどこに。


 次回、「聴能主義〈オーディズム〉」


 時代を変えても差別は生きる。

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