第8話「聴能主義〈オーディズム〉」
「できることなら、聞こえる方がよかった」
これは、多くの聴覚障害者が口にしていることです。そして自分もそう思っていた時期が長年続いていました。
聞こえないから、授業や講義を満足に受けられない。
聞こえないから、人が何を言っているかわからない。
聞こえないから、通じないから、一方的に話を打ち切られることもある。
「聞こえる方が有利ではないか」と問われれば、はっきり「違う」と言える人は相当限られてくるでしょう。
さて、
一言で言ってしまえば、「聞こえることが一番」とする価値観です。1880年の「ミラノ会議」のように手話を禁じ、発話と読唇の訓練を強いるわけではないのですが、手を変え品を変え、今日この日まで生きている考え方です。
その代表……象徴となっているのが、「
補聴器とは違い、人工内耳は装具の埋め込みのための手術の必要があります。補聴器と比較して聴力の改善が著しく、電話も普通の会話もできるようになるという人もいるぐらい——だそうです。
「だそうです」と言ったのは、自分は人工内耳についてあまり知らないというのが正直なところなのです。
この装具をつけてどれほど聴力の改善がみられるようになったのか、
幼少期に装着した者と成人してから装着した者とで違いはあるのか、
手術を受けることでメリットデメリットはあるのか、
100%耳が聞こえるようになる魔法の装具だとでもいうのか。
そのため、人工内耳の是非などについて語ることはできません。
しかし、その背景で見え隠れする聴能主義〈オーディズム〉について自分なりの意見を書き記すことはできます。
人工内耳でも補聴器でも、「低下した聴力を改善する」という本来の目的は変わらない装具です。
ただし、100%耳が聞こえるようになるのかという点に対しては懐疑的です。もともとの聴力の度合い、装具が適合するか否か、年齢的な問題……簡単な知識しかない自分でも、人工内耳の万能性には異を挟む余地があるとみています。
話はそれるのですが、大学時代にあるVTRを観たことがあります。
生まれたばかりの耳の聞こえない子供に、人工内耳を着けるかどうかの是非について家族同士で意見をぶつけ合うというものです。
ろうの両親は我が子に人工内耳を着けることに強く反発しました。
しかし、健聴の祖父母は「聞こえる方がこの子の幸せだ」といって人工内耳を強く勧めました。人工内耳を着けていても手話を学んだりはできるのだから、別にそれでいいではないかという論調です。
「耳の聞こえない子供」を、「聞こえる子供」に変えようとする——それは、大昔の差別の根底にある思想と変わりありません。発声と読唇を仕込み、少しでも「聞こえる人」に近づけようとする動きと変わらないものです。
祖父母はろうの子供を持ったことで、長年苦労してきたというエピソードがありました。「聞こえていればこの子もきっと、もっと幸せに生きることができただろうに」という考えが拭えなかったのです。
ろうの両親は我が子が「聞こえる子」に上書きされることで、自分たちのアイデンティティーが脅かされることを強く危惧しました。祖父母の言いなりに人工内耳の手術を受けさせればどうなるか。考えるだけでも恐ろしいことだったのです。
また、ろうの両親は自分たちと同じく「ろうの子供」が欲しかったのです。なぜならば自分たちと同じ言語——手話で気兼ねなく話ができるから。自分たちの苦労を共感し合えるから。もしも……普通に「聞こえる子供」が生まれていたとしたら、彼らの考えはどのように変わっていたでしょうか。
その子に人工内耳の手術を受けさせるかどうか。VTRはそこで終わりました。
このように、聴能主義〈オーディズム〉は今も根強く残っています。
聞こえる方がいい、聞こえる方が便利だ、有利だとする風潮はまだあるのです。
誰だって、障害や病気などを負わずに生きていきたい。
自分だってそう思います。
普通に聞こえていれば人と会話するのに苦労しないし、電話もできるし、音楽だって楽しめるし、国内映画やアニメや特撮作品だって堪能できる。語学を勉強して海外に行って、現地の人と交流することもたやすいかもしれない。
しかし、自分は聴覚障害者として生まれついた。
その事実は変えられません。そして、聴覚障害者だからこそ経験できたもの、人とつながったこと、学んだことがあるのも事実です。
聴能主義〈オーディズム〉に対しては多少嫌な気持ちになりつつも、そういった主義考え方があることは理解できます。
ただしこの聴能主義〈オーディズム〉に関してひとつだけ、許しがたいことがあります。
生まれながらにして耳の聞こえない——自由意志のない未熟な——子供に対して、「聞こえるようになって欲しいから」と装具を埋め込む手術を施すことです。
先ほど言ったように、自分は人工内耳の万能性に懐疑的です。仮に、10人中7~8人が聞こえるようになるというのなら残りの2~3人はどうなるのか。
リハビリの必要もある。
脳に衝撃を受けないようにする必要もある。
脳近くで手術をするのだから、当然リスクはある。
その上で手術を施すというのなら、「もう勝手にしろ」と思います。
これは知識のない健聴の親にというよりは、「人工内耳はどうですか」と安易に勧める医師にも非があるといえます。
自分の意思で手術を受ける人はまだいいです。それは個人の自由ですから。
それにしてもなぜ、この聴能主義〈オーディズム〉がまかり通るのか。
「ろう者」うんぬんから離れてしまうかもしれませんが、次回はこの点について自分なりに書き記したいと思います。
【予告】
人のあるべき形とは。
人の進むべき道とは。
ひとつの思想がひとたび伝播し、
国をも超えて世界を支配する。
自らを優良種とするおごり。
次回「聴能主義と優性思想〈番外編〉」
だから滅びた国がある。
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