最終回「これまでと、ここまでと、これからと」

 さて、しょっぱなから困りました。


 ここに至るまで、自分がなぜ「ろう者嫌い」なのかを延々と語ったのはいいのですが、ありていに言えばネタが尽きた感じです。


 自分の両親(双方ともろう者)との確執について書くこともできるといえばできるのですが、さすがにえぐい話になるのと、両親の沽券こけんに関わるのとでそこには触れないことにしました。希望があるのならできるだけオブラートに包んで書きますが。




 現在、自分は「聞こえる世界」の中で普通に? 生きています。


 ごくたまに「聞こえない世界」に忍び込んで、彼らの考えを吸収することもしています。「ろう者か、難聴者か」と聞かれる前に逃げるというのを繰り返しているので、以前ほどはろう者に対する嫌悪感はちょっぴり薄れています。


 コロナ禍によりろう者のイベントも縮小しているので、親から積極的に誘われなくなったのも好都合だったりします。




 これまでは「過去」について書くことが多かったので、今回は「現在」とそれを踏まえた「未来」について自分の考えを記そうと思います。




 まず、情報保障……具体的にいえば手話通訳やテレビへの字幕機能などなど。

 

 これはもう間違いなく、今の時代の方がはるかに優れています。

 

 コロナ禍のニュースで目にする機会が多くなったかと思いますが、政治家・スピーカーの隣に手話通訳者が必ずといっていいほどいます。日本だけでなく、海外も。「手話は耳の聞こえない人にとって重要な言語である。聞こえる人と同じ情報量の提供を、ぜひとも望みたい」という声が高まり、現在のようになっているのです。


 そして字幕。


 個人的にはまだまだ……といった具合ですが、字幕のついている番組は確実に増えています。ただし、テレビでは字幕がついていたのに、DVDやBlu-rayにはついていないなんてザラですがね。


 なので、動画配信サービス・ネットフリックスには毎日のようにお世話になっています。デフォルトで字幕がついているような作品が国内外問わず多いので、ついていない作品を探すのが大変なほどです。


 おかげで今、ガンダムなどを楽しめています。ありがとうネットフリックス。




 以前、ろう者経営のお店があるということを書きました。


 店員は手話で話し、お客さんはメニュー表を指さしてオーダーするという形です。

 訪れる客のほとんどが手話を話せるので、気軽にかつ働くことに意義を感じられるというのです。


 数こそは多くはありませんが、聴覚障害者・または手話で話せる人が身近にいるという感覚を得るためにもこういった場所は欠かせないものとなっています。なんでもスターバックスには、聴覚障害を持つ方も働いているのだそうな。


 また、大学の講義に手話のカリキュラムが入ったりしていますし、単位を取得することもできるんです。コロナ禍によりマスク着用が半ば義務づけられ、「口元が見えない!」と困っている人もいます……が、透明マスクを着用したりと工夫・改善するところもあります。


 少しずつ、少しずつ、風向きが変わってきています。

 

 手話言語条例を制定するための動きも確かに重要ですが、それ以上に大切なのは人の意識の改革です(ちょっと大げさですね)。「手話は手真似」というような古い考えと価値観が淘汰とうたされ、「障害者も社会の一員」とする働きが今確かに起こっています。


 それは素直に喜ぶべきことではあります……が、油断してはいけないこともあります。




 たくさん挙げるときりがないので、就職に関して。


 障害者が就職すると、それだけで甘く見られるか、あるいは厳しく指導されたりします。簡単な仕事しか任せてもらえないなんてのはザラですし、「障害者なんだから人一倍頑張らないと」という人並みの基準を求められることもあります。


(余談ですが、自分は実際に「障害者なんだから~」ということを言われました。土曜も出勤、一か月みっちり働いても給料が五ケタだったため、一か月半で辞めてやりましたが)


 障害者というレッテルは時として有利にも不利にもなります。

 また、そのレッテルを利用して、ずる賢く立ち回っている人もいます。


 甘やかしてはいけないし、厳しくしすぎてもいけない。


 障害者だろうとなんだろうと社会人としての義務と責任とマナーを身に着けるのは当然ですし、障害を持つことで不利益を被ることがあるならば自ら声を上げなくてはいけない。そのための伝え方も、自分で考えていかないといけない。


「障害者だと思って甘く見られたくない」と思うならばそれ以上の成果を生み出すべく上司などに働きかけるか、「障害者だからこの程度の仕事でもいいや」と現状に甘んじるか。


 人それぞれではありますが、「障害者も社会の一員」とするならば双方がきちんとそこをわきまえておかないと……と自分は思います。




 さて、ここまでは「現在」について話してきました。ここより下は「未来」について語りたいと思います。


 はっきり言ってしまえば、まだまだ「健常者」と「障害者」の区別はなくならないと思います。日本人が肌の色から言語などで「あ、外国人だ」と一瞬で判断するように、人は自分との違いについて過敏なものですから。


 万が一にも障害者が政治家として当選すれば、普通よりもたいそう注目を浴びることでしょう。障害者が本を出せばそれだけでニュースにもなる。何かしら大きなことに挑戦すれば、「障害者では世界初です!!」だなんて文句がまかり通る。


 まぁ、それは仕方ないのかもしれません。


 障害者は相変わらずマイノリティグループですが、その境界線は徐々に薄れつつある。「健聴者」「ろうあ者」とかっちり区別されていた時代は終わり、モザイクのように混ざりつつある。


 そこには新たな発見も、対立もあることでしょう。


 自分は、それは「当たり前だろう」と思っています。自分という個人が初めて会う人とコミュニケーションを取る時も、お互いを探り合い、慎重に言葉を紡ぎ、仲良くなれそうだと思ったら手を取る。そうでなかったら距離を取る。


 グループで考えるからおかしなことになるんです。


 突き詰めれば結局のところ、「人」と「人」との付き合いであるのに。




 自分は障害者やマイノリティグループに関しては悲観もしていなければ楽観もしていません。彼らが活動し、声を上げ、テレビでも書籍でも取り上げられるようになってきている。昔のように肩身の狭い思いをする人はまだいますでしょうが、グループ全体への風当たりは弱まってきていると感じています。


 国ぐるみで多様性を推し出すようにしていますが、人の意識はまだ追いつかないでしょう。権利や条約で保障されようが、それを行使し、理解できる人が増えていかなければ話になりません。


 そこはやはり、当事者である障害者自身が「人として」声を上げていく・歩み寄っていく必要があると思います。自分のことを理解してもらうことを押しつけるだけでなく、相手側の事情も察する。

 普通の人同士でも極めて難しいことですが……それができなかったら本当にお先真っ暗というものです。


 国や政府が保障しただけじゃない。最終的には人と人とのつながりに尽きます。


 当たり前の話なんですけどね。




 長々と書き綴りましたが、ここにて筆を置きます。


 読んでくれた人、応援してくれた人、コメントしてくれた人には厚いお礼を申し上げます。


「サークル・オブ・マイノリティ」、これにて終了と致します。


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