第9話 冒険の終わり
目を開けると、テントの天井に張られた布が見えた。
布地の合間から、僅かに太陽光が差し込んでいる。朝かな、とエイダンは考えた。
しかし思い出してみると、エイダンが眠りに就いたのも、確か朝だったはずだ。
……テレンスを解呪し、オーク達の怪我も治療し終えた頃には、すっかり夜が明けていた。
辺りが明るくなり、山道を下りやすくはなったが、エイダンは魔力を使い果たし、疲労で一歩も動けない状態だった。それで彼は、再びオークの村に運ばれ、寝床を用意して貰ったのだ。
どれくらい眠っていたのか、と寝惚けた頭をゆっくり働かせつつ、藁と織物で作られた布団の中で寝返りを打つと、枕元に、何か大きな物が置かれている事に気づく。
軋む身体を起こして枕元を見た。――巨大な獣の死骸が横たえられている。
「アアアアアア!?」
眠気も吹っ飛び、悲鳴を上げて跳ね起きた直後、テントの入り口がめくられた。
「どうした、エイダン!?」
入ってきたのは、テレンスとグェンラーナだ。
「もっ、
「ああ、なぁんだ」
グェンラーナがけろりと相槌を打つ。
「それはシリンガレーン・エルク。昨日、わたしが狩っておいたのよ。貴方一日中寝てるんだもの、起きたらすぐにお腹が空くと思って」
「一日……そがぁに寝とりましたか」
入口から入ってくる陽光に目を瞬かせてから、エイダンは改めて、枕元を振り返った。
ちょっとした椅子くらいはありそうな、大きく扁平な角を生やした、鹿とも牛とも呼び難い、重たげな
それは分かったが、エイダンがいくら空腹でも、この死骸にいきなり
「……人間の朝飯にしては、ちょっと重いな」
テレンスが助け船を出してくれる。
「そうなの? テレンスが特別小食で、朝に弱い体質なのかと思ってたわ。癒やし手の貴方は、魔術士だし、力を蓄えるためによく食べるかと」
「魔力回復には……睡眠とか食事が有効ですけど、ここまで豪勢なんは……」
「人間って粗食ね。数が増えるはずだわ。みんながテレンスみたいに、ちょっと麦をこねたようなのを食べただけで働けるっていうなら」
『麦をこねたようなの』とは、つまりパンの事だろうか。そういえば、テレンスとグェンラーナは、しばらく一緒に旅をしていたと言っていた。
「すんません、せっかく用意してくんさった物を」
「俺が解体して、皮と燻製肉にでも分けといてやるよ。これでも北方で、大分サバイバル生活を送ってたからな」
テレンスが、胸元を親指で叩いて請け合う。
続いて彼は、テントの隅に置かれていた、エイダンの手荷物を取ってきた。
「グェンラーナからの謝礼は、そのエルクって事で――こっちは、俺から。仕事分の礼金だ」
鞄を差し出されて中を覗くと、見覚えのない革袋が入っている。袋の中身は、今回の依頼の際に提示された、報酬金の銀貨だった。
「おお……」
「なんだ、驚いた顔して。そいつはお前を眠らせた時に、もう突っ込んどいたんだよ。ただ働きさせられるとでも思ってたのか?」
「はぁ、正直そうです」
「この野郎」
後ろ髪を掻くエイダンの、率直すぎる物言いに、テレンスは苦笑する。
「けど、もう報酬を渡すちゅう事は……テレンスさん、アンバーセットには戻らんのですか?」
顔を上げて、エイダンは訊ねた。
「ああ。グェンラーナと一緒に、山向こうの、別のオークの村に行かなきゃならねえからな」
「そっちの村には、かなりの高齢だけど『癒やし手』がいるのよ。そのオークは、助産の経験があるみたいなの」
「そがぁで……っていうことは、グェンラーナさんのお子さんの……その……お父さんは、テレンスさん?」
エイダンが
「そうか、お前は村のオーク達と違って、グェンラーナを
「そら、まあ。……オークと人の間に、子供が出来るっちゅうのは知らんかったですけど」
しかし思い出してみれば、昔読んだ英雄の冒険譚などに出てきたオークは、しばしば、どこぞの乙女をさらって、花嫁にしようと企んだりしていた。
伝説や物語の中の事だから、と読み流していたが、あれはかなりの部分が、ノンフィクションだったのかもしれない。ただ、オークの生態と社会を鑑みるに、実際には『花嫁』よりも『花婿』を連れてきていたと解釈する方が、しっくり来るが。
ともあれ、テレンスは別に、花婿として強引にさらわれた訳でもなさそうだ。グェンラーナとはどう見ても、仲睦まじいカップルである。寧ろ、オーク達から追い立てられないかが心配される。
「お前が寝てる間に、グェンラーナがオーク達に全部説明してくれたが。俺ァもう一度殺されかけたぜ」
「あ、やっぱり」
「当然だ。我が妹に免じて、命を助けられた事に感謝せよ、テレンス」
低めた声と共に、テントに入ってきたのは、ディクスドゥだった。
不機嫌な兄の顔を見て、グェンラーナが、不満げに口を尖らせる。
「兄さん! これからはテレンスと、仲良くしてくれるんでしょ?」
「……無論だ、グェンラーナ。未来の族長に誓った以上、二言はない。それにこの先、不本意ながら、人間の知識を借りねばならぬ事もあるだろう。俺には、古木から生まれたオークの赤子を育てた経験しかないからな」
「んな事言ったら、俺はそもそも、子供を育てた経験がねえんだが……」
明後日の方を向いて、ぼそぼそと呟くテレンスを、ディクスドゥがじろりと睨んだ。
「オークの子育てと、誇りある生き様は、今後みっちり叩き込んでやる。その小悪党じみた性根も鍛え直すとしよう。感謝せよ」
ひぇ、と首を竦めるテレンスである。
前途は多難そうだが、しかし、オーク達と共に暮らすというのは、彼にとってそう悪い選択ではないかもしれない、とエイダンは密かに考えた。
少なくともこの村のオークは、家族思いで、話せば分かり合える人々だ(人ではないが)。
何より、今までのテレンスの言葉の端々から察するに、実は彼は、はぐれ者めかした人生を送りながらも、心から信頼出来る家族と、帰るべき家を得たいと、切望していたように思う。
グェンラーナは勿論、ディクスドゥとも、そのうちそういう関係を築けるのではないか――
と、エイダンは楽観視しておく事にしたのだった。
「ほんなら、俺は山を下りて……」
そこまで言いかけた時、エイダンの腹の虫が、ぐう、と抗議めいた音を鳴らす。
「やっぱりお腹空いてるんじゃ?」
「すぐにエルクを
グェンラーナとテレンスに代わる代わる言われ、エイダンは照れ臭さからもう一度、後ろ髪を掻き混ぜた。
◇
「――で、その後は?」
「シリンガレーン・エルクのスペアリブ、ちゅうのを食べさして
アンバーセットの街、『跳ねる仔狐亭』の一角で、エイダンは今までの経緯を、シェーナに語って聞かせていた。
冒険者ギルドと、
お互いの平穏を願うなら、あまりオークの村の所在地情報などを、人間の街で広めるべきではないだろうと、エイダンは今回の旅を内密にしておくつもりだった。
が、かの“小悪党”テレンスに、エイダンが山奥の方面へ連れ出され、それきり数日間行方不明と聞いて、シェーナは大分、彼の安否を心配していたらしい。それで、彼女には簡単にでも、打ち明けておく事にしたのだ。
「それから、テレンスさんとグェンラーナさんが、癒やし手のいるオークの村に旅立つんを見送って……俺は、ディクスドゥさんとノッバさんに、山の
「……なんていうか、結構な目に遭わされてる気がするんだけど。もう少し怒って良かったんじゃない?」
「まあ――でも、無事に帰って来られたけん。お礼もたくさん貰うたし」
テレンスからは、きちんと報酬が支払われたし、グェンラーナからの謝礼であるシリンガレーン・エルクは、毛皮と燻製にして帰り道に持たされた。
これが、アンバーセットの市場で、思った以上の高値で売れたのである。
「ほんで、これ
エイダンは、羽織っていた小豆色のローブの裾を持ち上げた。
短めで動きやすく、魔除け紋様の刺繍が施された、魔術士向けのローブである。お世辞にも洗練されたデザインとは言い難いが、丈夫で機能的で、色合いも気に入った。
――シャムロックの首飾りに、編み込まれていた布と同じ、小豆色。青麦峠のオークの村で、『癒やし手』を意味する色だ。
満足げな、ローブ姿のエイダンをしばらく見つめ、シェーナは軽く肩を揺すって笑う。
「エイダンがそれだけ、大団円って顔してるなら、あたしが怒ったり文句言ったりする事でもないわね」
何にせよ、無事で良かった、とシェーナは手元のマグを、掲げてから傾けた。
――エイダンとしても、色々と酷い目に遭わされたような気がしなくもない。
ただ、どうあれ人間にも一人くらい、テレンスとグェンラーナの今後を、心から祝福する者がいても良いのではないかと思う。
そんな訳で、彼は一人、青麦峠のオークと、新婚夫婦の前途に対し、ミルクの入ったマグを掲げ、胸のうちで声援を送るのだった。
【恋とオークと小悪党と、さらわれた風呂屋 完】
恋とオークと小悪党と、さらわれた風呂屋 白蛇五十五 @shirohebi55
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