第3話 見限られた司祭

 ◆◆◆


 美しいパンドラを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。

 そして、ある日パンドラは好奇心に負けて「箱」を開いてしまう。


 すると、そこから様々な「災い」、「疫病」、「悲嘆」、「欠乏」、「犯罪」などが飛び出した。


 ◆◆◆



「海老名さん。落ち着いて。司祭に何かあったの?」


「あ、お初にかかります。自分は助祭である海老名えびな 帝雄ていおすといいます。いや、それはいいんですけど、シスター忘れてしまったんですか? 今この日、死の呪いが降りかかると怪文書かいぶんしょが届いていたじゃありませんか!!」


「怪文書?」


 そいつは尋問せずにはいられないな。こちらの専門分野だ。

「海老名くん、それはただのいたずらだと言ったでしょ」

「海老名君、怪文書とは何のことなのか、教えてくれるか」


 はい……、と青年は物置の奥の『災厄の箱』を視界に入れると、怯えながら言った。


「本日はその箱、『パンドラの箱』を燃やす日だったんです。司祭はこの箱を燃やして捨てると決定しました。でも、怪文書には、『この箱を燃やした者には死の呪いが降りかかる』とありました。もしかしたら司祭はその呪いに……」


「待った待った」

 もしその呪いとやらが真実ならば、その箱を燃やしていなければならない。箱はまだここにピンピンとしているじゃないか。


「司祭はどこにもいなかったんですか? ちゃんと探しましたか?」


「はい、このチャペルは礼拝室、集会ミーティングルーム、書斎に物置、後は自分たちの住んでいるスペースしかありません。そのどこにも司祭は見当たりませんでした」

「逃げ隠れしているのでは? 一度探したところなら見つからないと踏んで」


「何故そんなことを?」

 そんなこと俺が知るか。


「司祭は隠れ鬼ごっこをしているだけってことッスね」

「司祭をお前と一緒にするな」


 ギャップがありすぎて引くわ。

 刑事を使って隠れ鬼ごっこなどしないでほしい。

 これがまさに『ドロケイ』か! ってやかましいわ。


 しかし、この大して広くない建物の中で見つからないのもおかしな話だ。


 ……と考える俺の眼前がんぜんには、明らかに異質な存在が鎮座していた。


 それは、箱。

 どこから見ても箱。

 それは、宝箱の如く、それでいて、棺桶の如し。

 人一人が横たわって入れる箱が鎮座していたのだから。


「おい、ちゃんと探したのか。この箱の中に司祭は隠れているんじゃないのか」

「な、なりません!!」


 俺がその箱を開けようとすると、シスターにはばまれた。

「シスター和沢井、司祭はこの中に隠れているのではないですか?」


「それはあり得ません。この箱は『パンドラの箱』。災厄が詰まった箱です。それを司祭が開ける訳がありません」


 首を振るシスター。

 この箱、絶対に開けるべからず、と書かれていたとしても、それを神に開けるなと言われていたとしても。


 否定されればされるほど、やりたくなるのが人間だろが。

 たとえそれが司祭だとしても。


「本日はこの箱を燃やす日でした。確かにこの箱はいわくのある箱です。開けてはならない、その触れ込みは、得てして人の欲を倍に増やします。それは清廉せいれんな人ですら魔が差す、悪魔の箱です。その欲に負けず、囚われず、神に祈りを捧げ続ける。それが神の私たちへの試練。しかし……」


 シスターは視線を下に落とした。

「しかし、司祭はその神の試練そのものを燃やすのだと言いました。私はそれを阻止したかった。箱の存在は神と私たち人間との繋がりを意味します。箱を開けることはいけないことですが、だからといって箱を燃やすのも、神の意志に背くことになります。神の御心みこころかたわらに立つ私たちにとって、それはあってはならないことです」


「だから、殺した、と」

「なんと恐れ多い!! 殺人をするなと神は仰っております」

「そりゃ当たり前だ。法律ルールだってするなと言っている。それを取り締まる俺たち警察がいるんだからな」


 スマンで済んだら警察はいらない。

 神に祈って世界が救われるのならば、警察はいらないってことだ。

 いやほんと、いらないのかもな。


 しかし現に司祭は姿を消した。

 神を裏切り、神の怒りに触れてしまったのか。


 くだらない。

 司祭が姿を消し、どこにもいないのならば答えは明らか。

 この箱の中に司祭が隠れているのだ。

 茶番は終わりだ。


「あんたが制止しても俺は開けるぞ」

「ま、ま、待ってくださいぃぃぃ!!」


 視界の端に映ったのは、怯える一人の青年だった。

 怪文書の存在を教えてくれた、海老名だった。


「司祭が箱の中にいるのはまず間違いないと思います。このチャペルのどこにもいなかったし、外にも出ていないはずなので」


「あぁ、だからなんだって?」


「司祭はすでに亡くなられていると思います」


「は?」

 何故そんなことになるのだ。


「怪文書にあった『死の呪い』とは、『毒ガス』のことなんじゃないかって思って……。司祭が箱の中に隠れる意味は思いつきませんが、司祭が箱に仕掛けられていた毒ガスで死んでしまったとすればいかがですか? おそらくあの箱を開けると毒ガスが出てくる仕掛けがあったんです。司祭は箱を開け、毒ガスにやられて箱の中に倒れてしまい、そのまま死んでしまった。だとしたらあの箱を開けるのは危ない。毒ガスが出てきてまた誰かが命を落としてしまいます。あの箱は開けずに、そのまま燃やして捨てる方がいいんです」


 実に推理が達者な青年だ。だが、推理はこちらに分がある。

 毒ガスだなんてぶっ飛んでいる。

 怪文書が本物かも分からないのに、毒ガスだなんて。


 それに、遺体が見つかっていない以上、殺人事件だとして調べるのも早とちりかもしれない。


「その箱を開けるのはよしていただけませんか。その箱は『パンドラの箱』。開けると災厄が飛び出すと言われております。たとえその箱に雷々亭司祭が隠れていたとしても、やはり開けてはなりません」


 シスターはかたくなに箱を開けられたくないみたいだ。

 神の言葉を信じているのか。

 はたまた、開けられたくない特別な理由わけでもあるのか。


「いや、雷々亭司祭がもし隠れているのなら、彼は既にその箱を開けているんですよ。なら既に災厄も飛び出しているのだから、その頑ななあなたの言い分は意味がない」


「でも、もし毒ガスがこの箱の外に出てしまえば、このチャペルの中にいる自分たちもただではすまないはずです」


 海老名青年は毒ガスを何よりも恐れていた。

 災厄が飛び出たところで痛くも何ともないが、毒ガスが飛び出てしまえば我々は一巻の終わりである。


「そもそも毒ガスなんてあり得るのか? 我々は遺体すら発見していないんだぞ」


 まるでシレディンガーの猫である。

 その箱の中の猫が死んでいるのか、はたまた健やかに過ごしているのかは、箱を開けてみないとわからない。


 この箱を開けてみたが最後、もし毒ガスが入っていれば、開けた人は御陀仏である。


 ふむ。

 この物語のタイトルは『シレディンガーの密室』みたいだな。

 いい推理だろ?


 シスター和沢井は銀縁グラスをくいっと直して、俺のことを見た。


「司祭がこの箱に入っているわけが無いのです。やはりこの箱は司祭の仰っていたとおり、燃やして灰にしてしまいます。災厄ごと、毒ガスごと燃やすのが一番だと思います」



「司祭は箱の中にいる。隠れているだけならば、刑事をおちょくった罪で逮捕だ。死んでいれば毒ガスをプレゼントされるが。どちらにしろ俺たちが仕事をするなら、この箱を開けざるを得ないみたいだな」


 シスターは先ほどと言っていることが違っていた。

 箱を開けるのも、燃やすのも神を否定することだと言っていたのに、今は箱を開けるくらいならばそのまま燃やすと言っている。

 どこで考えが変わったのか。


「ま、待ってください! それでも開けるなら、これでまずガス抜きをしませんか? 窓を開けて、穴を開ければ毒ガスも薄まり、自分たちが死ぬことは避けられるかと!」


 海老名青年はどこからかバッテリーで回るドリルを取り出した。割と良い案である。開けるのならば、安全に開けるに限る。


 天窓を、近くの紐を引っ張り全て開けた。

 肌寒い風が、古びた物置部屋のエアーをまるごと入れ替えた。


 仮にも『災厄の箱』に穴を開けても良いのか?

 だなんて、そんな信心深い考えは俺には微塵も無かった。


 まぁ、いずれ燃やす予定なのだから、同じことだしな。


「よし、さっさとやってくれ、海老名さんよ」

 俺は離れたところで見ていることにする。


 こょるこょるるるるるるる。


 かわいらしい音が鳴り、『災厄の箱』にいくつかの穴が空いた。

 穴からエアーの通る音がした。これは本当に毒ガスでも入っていたのかもしれないな。俺は内心ほっとした。


「満足か、海老名さん」

「はい、これだけ穴を空ければ毒ガスも出て行ってくれたはずです」

「小早川! さっさと開けろ!」

「先輩もこのふたを開けるの手伝ってください!!」


 よほど重みのある蓋だった。

 カギが閉まっているわけでもないのに、開けるのに手こずった。

 まるで宝箱みたいだったと、開ける前までは思っていた。




 しかし、その箱はやはり『災厄の箱』だった。


 箱の中には、身体が反り返り、苦しみの顔を張り付かせた雷々亭らいらいてい司祭が口を開いて命を停止させていたのだから。

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