第8話 見限られた司祭
◆◆◆
美しいパンドラを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。
そして、ある日パンドラは好奇心に負けて「箱」を開いてしまう。
すると、そこから様々な「災い」、「疫病」、「悲嘆」、「欠乏」、「犯罪」などが飛び出した。
◆◆◆
「どうしたの? 海老名さん。落ち着いて。司祭に何かあったというの?」
「あ、はじめまして。僕は助祭である
「怪文書?」
そいつは聞き捨てならないな。こちらの専門分野だ。
「それはただのいたずらだと言ったでしょう」
「君、怪文書とはどういうことか、聞かせてくれるか」
はい……、と青年はその箱を視界に入れると、怯えたように
「今日はその箱、『パンドラの箱』を燃やす日だったんです。司祭はこの箱を燃やすように言いました。でも、脅迫状には、『この箱を燃やした者には死の呪いが降りかかる』とありました。もしかしたら司祭はその呪いに……」
「待った待った」
もしその呪いとやらが本当ならば、その箱を燃やさなければならない。箱はまだここにピンピンとしているじゃないか。
「司祭は本当にどこにもいなかったんですか?」
「はい、この大聖堂は礼拝室、集会室、書斎に物置、後は僕たちの居住スペースしかありません。そのどこにも司祭は見当たりませんでした」
「あなたに見つからないように移動しているのでは? 一度探したところなら見つからないと踏んで」
「どうしてそんなことを?」
そんなこと俺が知るか。
「司祭はかくれんぼをしているだけってことッスね」
「司祭をお前と一緒にするな」
ギャップがありすぎて引くわ。
刑事を巻き込んでかくれんぼなどしないでほしい。
しかし、この大して広くない建物の中で見つからないというのもおかしな話だ。
……そう考える俺の目の前には、明らかに異質な存在が鎮座していた。
それは、箱。
どこからどう見ても箱。
それは、宝箱のような、それでいて、棺桶のような。
人一人が入るに十分な大きさの箱が鎮座していた。
「おい、ちゃんと探したのか。この中に司祭は隠れているんじゃないのか」
「や、やめてください!!」
俺がその箱を開けようとすると、シスターに阻まれた。
「シスター和沢井、司祭はこの中に隠れているのではないですか?」
「それはあり得ません。この箱は『パンドラの箱』。災厄が詰まった箱です。それを司祭が開ける訳がありません」
首を振るシスター。
この箱、絶対に開けるべからず、と書かれていたとしても、それを神に開けるなと言われていたとしても。
ダメと言われればやりたくなってしまうのが人間だろう。
たとえそれが司祭だとしても。
「本日はこの箱を燃やす日でした。確かにこの箱はいわくつきの箱です。開けてはならない、という触れ込みは、得てして人の欲望を増幅します。それは純粋な人ですら魔が差してしまう悪魔の箱です。その欲望に負けず、囚われず、神に祈り続ける。それが神の私たちへの試練。しかし……」
シスターは視線を下に落とした。
「しかし、司祭はその神の試練そのものを燃やしてしまうと言いました。私はそれを阻止したかった。箱の存在は神と私たち人間との繋がりを意味します。箱を開けることはいけないことですが、だからといって箱を燃やしてしまうのも、神の意志に背くことになります。神の御心に寄り添う私たちにとって、それはあってはならないことです」
「だから、殺した、と」
「なんと恐れ多い!! 殺人など神はお許しになっておりません」
「そりゃそうだ。法律だって許さない。だから俺たちがいるんだ」
ごめんで済めば警察はいらない。
神に祈って世界が救われるのならば、やはり警察はいらないだろう。
現に司祭は姿を消した。
神を裏切り、神の怒りに触れてしまったのだろうか。
くだらない。
司祭が姿を消し、どこにもいないのならば答えは明らか。
この箱の中に司祭が隠れているのだろう。
茶番は終わりだ。
「あんたが止めても俺は開けるぞ」
「ま、ま、待ってくださいぃぃぃ!!」
視界の端に映ったのは、怯える一人の青年だった。
「司祭が箱の中にいるのはまず間違いないと思うんです。この大聖堂のどこにもいなかったし、外にも出ていないはずなので」
「あぁ、だからどうした」
「司祭はすでに亡くなられていると思うのです」
「は?」
どうしてそうなるのだ。
「怪文書にあった死の呪いとは、毒ガスのことなんじゃないかって思うんです。司祭が箱の中に隠れる理由は思いつきませんが、司祭が箱に仕掛けられていた毒ガスで死んでしまったとすればどうでしょう? きっとあの箱を開けると毒ガスが出てくる仕掛けがあったんです。司祭は箱を開け、毒ガスにやられて箱の中に倒れてしまい、そのまま死んでしまった。だとしたらあの箱を開けるのは危ない。毒ガスが出てきてまた誰かが命を失ってしまいます。あの箱は開けずに、そのまま燃やしてしまう方がいいんです」
実に想像力が豊かな青年だ。
怪文書が本物かも分からないのに、毒ガスだなんて。
しかし、遺体が見つかっていない以上、殺人事件を疑うのも早とちりかもしれない。
「その箱を開けるのはやめていただけませんか。その箱は『パンドラの箱』。開けると災厄が飛び出すと言われております。たとえその箱に雷々亭司祭が閉じ込められていたとしても、やはり開けてはいけません」
シスターはかたくなに箱を開けられたくないようだ。
神の言葉を信じているのか。
はたまた、開けられたくない事情でもあるのか。
「いや、雷々亭司祭がもし閉じ込められているのなら、彼がその箱を開けたということです。そのときに災厄も飛び出しているのだから、もう意味がないでしょう」
「もし毒ガスがこの箱の外に出てしまえば、この大聖堂の中にいる僕たちもただではすまないはずです」
海老名青年は毒ガスを何よりも恐れていた。
災厄が飛び出たところで痛くもかゆくもないが、毒ガスが飛び出てしまえば我々は一巻の終わりである。
「そもそも毒ガスなんてあり得るのか? 我々は遺体すら発見していないんだぞ」
まるでシュレディンガーの猫である。
その箱の中の猫が死んでいるのか生きているのかは、箱を開けてみないとわからない。
その箱を開けてみたが最後、もし毒ガスが入っていれば、開けた人は御陀仏である。
ふむ。
この物語のタイトルは『シュレディンガーの密室』だろう。
いい推理だ。
シスター和沢井は銀縁めがねをくいっと直して、俺に向き直る。
「司祭がこの箱に入っているわけがありません。この箱は予定通り、燃やして灰にしてしまいましょう。災厄ごと、毒ガスごと燃やしてしまうのが一番だと思います」
「司祭は箱の中にいる。生きていればただのかくれんぼ。公務執行妨害で逮捕だ。死んでいれば毒ガスのおまけ付き。どちらにしろ職務を全うするためには、この箱を開けざるを得ないようだな」
シスターは先ほどと違うことを言っていた。
箱を開けるのも、燃やすのも神を否定することだと言っていたのに、今は箱を開けるくらいならばそのまま燃やそうと言っている。
どこで考えが変わったのだろうか。
「ま、待ってください! それでも開けるというのなら、これでガス抜きをしましょう。換気を十分にすれば毒ガスも薄まり、致死量ではなくなるかと!」
海老鳴という青年はどこからか電動ドリルを取り出してきた。妙案である。どうせ開けるのならば、安全に開けるに限る。
天井近くの小窓を、ひもをひっぱり開けて換気をした。
肌寒い空気が、古めかしい物置の空気を入れ替える。
仮にも『災厄の箱』に穴で傷つけても良いのだろうか?
だなんて、そんな信仰深い考えは俺には毛頭無かった。
まぁ、どうせ燃やすのだから、同じことだしな。
「よし、さっさとやってくれ、海老名さん」
俺は離れたところで見ていよう。
きゅるきゅるるるるるるる。
かわいい音が鳴り、『災厄の箱』に数個の穴が開いた。
穴から空気の通る音がした。これは本当に毒ガスでも入っていたのかもしれないな。俺は内心ほっとした。
「満足か、海老名さん」
「はい、これだけ開ければ毒ガスも出て行ってくれたはずです」
「小早川! さっさと開けろ!」
「先輩も近くに来て開けるの手伝ってください!!」
よほど重みのある蓋だった。
鍵が閉まっているわけでもないのに、開けるのに相当苦労した。
まるで宝箱のようだったと、開ける前までは思っていた。
しかし、その箱はやはり『災厄の箱』だった。
箱の中には、身体が反り返り、苦しみの表情を浮かべた老人が事切れていたのだから。
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