モンキースペル

icecrepe/氷桃甘雪

モンキースペル



 何かの影がテントをよぎった瞬間、俺はチーズを切る手を止め、顔を上げた。



 額を伝い落ちる汗が睫毛まつげで跳ねた。

 ファスナーを閉めきったドアパネルの向こうに、人の影は無い。

 

(誰か来た……? ……いや)

 

 そんなはずはない。

 ここは駐車場が併設された区画サイトからも、コテージからもかなり遠い。

 写真映えするポイントも少ないので、家族連れはもちろん、ソロキャンパーすら寄りつかない場所だ。


 それに、もう日が沈む。

 テントの中で雑魚寝ざこねしている道具からも、昼の色彩が失われつつあった。


 神経を尖らせ、耳を澄ます。

 換気口ベンチレーションから漏れ聞こえるのは、機械的なほど淀みない川のせせらぎだけ。


 数十秒静止していた俺は、シャツのえりで首筋の汗をぬぐい、再び手元に視線を落とした。


 こ、こ、こ、と。

 チーズを通り過ぎたナイフの刃が木製のまな板に触れる。


 確かに影らしきものはよぎったが、落ち葉を踏む音は聞こえなかった。

 おおかた、飛び去る鳥の影がテントに落ちたのだろう。


 切り終えたチーズをまな板の端に寄せ、ナイフをももに置く。

 透けるほど薄い生ハムを震える指で花弁のように丸め、添える。

 

(あとは……)


 緑。緑色が欲しい。

 適当な草を添えてまな板全体を光で照らせば、悪くない写真に――




「こん、こん、こん」




 幻聴だと思った。

 あるいは、まだ電源を落としていないスマートフォンが、耳慣れない通知音を発しているのかと。


「こん、こん、こん」


 同じ声が繰り返され、俺はようやく誰かが来ていることに気づいた。


 顔を上げると、ドアパネルの向こうに小さな影が見える。

 あどけない声から察するに中学生――もしかすると小学生か。


「はいっていーい?」


 どうやら今の「こんこんこん」は、ドアをノックする音のつもりらしい。

 

(子供……)


 さっきの影はこの子か。

 確かに子供なら、落ち葉を踏んでも大きな音はしないのかもしれない。


 あぐらを解きつつ、テントの中を見回す。


 LEDランタン。CDプレイヤー。暗視ゴーグル。予備のペグとハンマー。使わずじまいのタープとポール。

 軍手。インナーマット。寝袋シュラフ。携帯トイレ。ライター。ファーストエイド一式。

 菓子パン。飲み物。缶詰。スマートフォン。電池。業務用ポリ袋。PPひも。

 まだチーズのこびりついた、ファイアスターター付きのナイフ。


 見られて困るものは――――無い。


「……どうぞ。開いてるよ」


 声をほうっても、少女のシルエットは微動だにしなかった。


「あけてー?」


 ファスナーを半円形に走らせ、メッシュパネルとドアパネルを開く。

 台形の前室ぜんしつい出し、フライシートのファスナーを二つ引き上げ、暖簾のれんのようにめくり上げる。


 紫色に沈みつつある空は、蝗害こうがいにも似た無数の葉に覆われていた。

 黒い木々は卒塔婆そとばさながらのわびしさで直立し、落ち葉の海からい出した平べったい甲虫が、再び落ち葉の海に消える。


 ぶぶぶ、と。

 名も知れない虫がテーブルに乗るミニストーブを離れ、炭酸水のボトルをかすめて飛び立った。

 俺は前室に置いているスニーカーのかかとを踏み、つま先を滑り込ませる。


「……」


 そこに立っていたのは、ノースリーブワンピースを着た少女だった。

 声の印象通り小学生ぐらいの年頃で、肌は透き通るように白い。

 肩まで伸びた髪は金色で、なぜか両目を閉じている。


(……バカ親がいるんだな)


 キャンプ場にノースリーブとは。

 虫に刺されるか、植物にかぶれて、後で泣くことになるだろう。

 帽子をかぶっていないうえに、履いているサンダルが薄手なのも減点だ。


 俺は頭のスイッチを『接客中』に切り替える。


「どうしたの? お父さんかお母さんは――「あーあ」」


 目を閉じたまま、少女が俺に顔を向けた。 



「あけちゃった」



 その声は妙に冷たく俺の耳に入り込んだ。

 幼さを残した顔には、気味の悪い笑みが浮かんでいる。


「はいっていい?って聞かれて、どうぞ、って言っちゃった」


(……なんだ……?)


 急に、鼓動が速度を増した。

 ゆったりと道を歩いていた人間が唐突にジョギングを始めたかのように、心臓が強く打ち始めている。


 なのに、身体が熱くならない。

 血が巡っているはずの指先が冷え、背筋が冷え、尻の穴が冷えていく感覚があった。



逢魔おうまが時を知らないのかしら?」



 すぐ近くで別の声が聞こえ、俺は弾かれるように身をかがめる。


 いつの間にか、1メートルたらずの場所に学生と思しき女が立っていた。

 胸まで伸びる髪は栗色で、靴が隠れるほど長いフレアスカートを履いている。


「客人を招いてはいけないのに。誰何すいかの声にすら応じてはいけないのに」


 蜂蜜を想起させる、とろりと甘い声。

 たたずまいこそしとやかだが、アーモンド型の目を細める仕草には爬虫類のような酷薄さがあった。


(なんだこの子……。今、どこから来た……?)

 

 辺りに身を隠せる場所はない。

 なのに、足音がまるで聞こえなかった。

 砂利と落ち葉と小枝だらけのこの場所で、まったくの無音で近づけるわけが――


 首に生暖かいものが触れ、振り返る。

 睫毛まつげが触れるほどの距離に、別の女が立っていた。


「うっ、わっ?!」


 俺は今度こそ飛び退き、テントの前室に尻餅をついた。


 三人目の女は他の二人どころか俺よりも長身で、タンクトップにカーゴパンツを合わせていた。

 つやのある黒髪は腰まで伸び、首には太いベルトを巻いている。


 白い腕をだらりと垂らした黒髪の女は口を開かず、じっと俺を見下ろしていた。


「あなた」


 金髪の少女の声が、俺の意識を呼び戻す。


禁足地きんそくちに入ったよね?」


 心臓を鷲掴みにされるような恐怖が俺を襲った。


(どうしてそれを……!)


 速度を上げた鼓動は喉に響き、歯を震わすほどだった。

 それでも、返すべき言葉を間違えることはなかった。


「なん……のことかな。その、意味が……分からない」


「『分からない』?!」


 両目を閉じた金髪の少女は甲高い声を上げ、けらけらと笑った。


「きかざる、きかざる、聞いた? 分からないだって!」


 栗色の髪の女が、困ったように眉を垂らす。


「みざる、みざる? きかざるは聞こえないの。……いわざる? みざるは何と言っているの?」


 背の高い黒髪の女がどこからともなく筆を取り出した。

 そして『きかざる』と呼ばれた女の手を取り、その甲にするすると何かを書く。

 筆の穂先は墨に濡れてはいなかった。


「まあ、身に覚えがないですって?」


 栗色の髪の女――『きかざる』は、いささか大げさな仕草で口を覆う。


「そんなはずはないでしょう? だって、ほら」


 するりと近づいた『きかざる』が、へたり込んでいる俺のつま先を掴んだ。

 かかとを踏んでいるせいでスニーカーはあっけなく奪われ、『きかざる』の目の高さへ。


 長い舌が、靴裏のかかとからつま先までをべろりとなめた。


「……ほら、これは禁足地の黒土くろつちの味。きかざるは聞こえないけれど、そんな嘘ではだませません」


 唖然あぜんとする俺の手首を、誰かが掴んだ。

 それは『いわざる』と呼ばれた女で、俺の片手をぐっと引き寄せた彼女は、もう片方の手の人差し指で、びしりびしりと俺の中指を叩いた。

 よく見ると、俺の中指の爪に緑色のこけが残っている。


注連縄しめなわにも触っているようですね? なら、『立ち入るべからず』としゅで書かれたふだも見ているはず」


 脳裏に、数時間前見た光景がフラッシュバックする。


 苔むした注連縄。

 妙につるりとした、米粒型の大岩。

 おどろおどろしい警告の書かれた木の札。


 それらを越えた先に見える、ちょろちょろと流れる細い川と、木々の隙間に見える沼。

 テラリウムを思わせる緑の天国に満ちる、冷涼な空気。


 ぼうっとしていた俺は、『いわざる』の手が離れたことで我に返った。

 手首に赤いあとが残るほど強く握られていたのに、まるで気づけないほど忘我していたらしい。

 

 俺がキャンプ地を外れた山奥で禁足地に踏み込んだのは事実だ。

 だがその前後で人の姿は見ていないし、見られてもいないはず。

 なのになぜ、こいつらはそれを知っているのか。


 土の味だとか、爪の苔だとか、そんなもので俺が行った場所を特定できるわけがない。

 ――まともな人間なら。

 

 何か、異様な空気に飲み込まれつつあるのが分かった。


 さっきから、風の音が聞こえない。

 葉擦れも、どこか遠くの家族連れが騒ぐ声も。

 夕闇に沈んでいく世界から、俺一人が切り離されてしまったような不気味さを感じる。

 その元凶はおそらく、目の前にいる女たち。


 両目を閉じた少女が薄ら笑いを浮かべた。


「わたしはみざる。見えないから、ざる」


 みざるに手を握られ、栗色の髪の女がうなずく。


「私はきかざる。聞こえないから、かざる」


 きかざるに手を握られ、黒髪の女がうなずく。


「この子はいわざる。言えないから、わざる」


 みざる。きかざる。いわざる。 

 小中大の三人組の影が、三叉さんさの矛のごとく俺の行く手をふさいでいた。


「みざるたちはね、てんばつなの」


「……天、罰?」


禁足地きんそくちはみざるたちの『なわばり』なの。はいってきた人間は、ころしてしまってもいいの」


「縄張りって……。君らの親御さんの土地ってことかな……?」


 みざるが嘲りを含んだ笑みをこぼした。


「まだ――みざるたちが人間だっておもってる?」


「……!」


 その短いフレーズは、願望の混じった曖昧な現状認識を吹き飛ばした。


 やはりこいつら、人間じゃない。

 俺は今、化け物と対峙している。


「はいったよね? みざるたちの『なわばり』に」


 ぞわっと総毛立つ。


「ち、違う! 俺は別にその……君らの縄張りを荒らすとかじゃなくて、ただ、一人で過ごせる場所を探してただけで……でも、結局ここに――」


 尻もちをついたままつばを飛ばす俺に、みざる、きかざる、いわざるは冷ややかな表情を向けている。

 俺の語尾はもつれ、声となるはずだった音はかすみ、気まずい沈黙となって辺りを漂った。

 

 理由はどうあれ、禁足地に立ち入ったことに違いはない。

 三人の顔はそう告げていた。


 入ってきた人間は殺してしまってもいい。

 みざるの言葉が耳に蘇り、寒気を覚える。


 武器になるものはあるか。

 あったとして、人間ではない何かに通じるのか。

 それとも念仏でも唱えれば「ねえねえ」


 みざるの声に顔を上げる。


「ゆるしてあげようか?」


「え……?」


 みざるの口元に浮かぶ笑みが、妖しげなものに変わっていた。


「いわざる? きかざるにおはなししてあげて、って伝えて?」


 いわざるの筆がきかざるの手の甲を走った。

 小さくうなずいたきかざるが、ゆるりと俺を見る。


「あなたは禁足地に踏み入りました。もはや死は必定ひつじょうです」


 でも、と焦らすようにきかざるが目を細めた。


「私たちの真名まなを呼ぶことができたら、あなたを許し、見逃してあげましょう」


「ほ、本当か?!」


「『本当か』と言っていますね。きかざるはきこえませんけど、口の動きでわかりました。もちろん、本当ですよ」


「……『まな』、ってなんだ?」


「みざると、きかざると、いわざるは、何でしょう?ってこと」


「えっと、『何でしょう』っていうのは……?」


「当ててみて? そしたら許してあげてもいいよ」


(……? こいつらの名前、ってことか……?)


 あー、と。

 みざるが呆れとも失望ともつかない声を上げた。


「でも、ふつうはわからないかもね。だってみざるたちより、お父さんの方が有名だもん」


「お父さん……?」


「そう。みざるたちのお父さんも、みざるたちとおなじ名前なんだよ? だから、お父さんの名前を当てたら、それでいいことにしてあげる」


 きかざるの手の甲に筆を走らせたいわざるが指を三本立て、俺に突き出した。

 口を決して開かない彼女の代わりに、きかざるがうなずく。


「私たちは三体。ですから、を三度差し上げます。三度のうち一度でもお父様の名を呼ぶことができたら、何もせずに立ち去りましょう」


 そこで俺は違和感を覚えた。

 許してあげると言ったのに、なぜ答える回数に制限をつけられるのか。


「もし、その三回の中で言えなかったら、どうなる……?」


「たべるよ」


 言葉の意味が理解できず、俺はぽかんとした。

 みざるは幼い口調を引っ込め、冷ややかに告げる。


「三回まちがえたら、みざるたちはあなたを食べる」


「な、なんで……」


「だってあなたをころしても、みざるたちは何もたのしくないもん。……でも食べたら、おいしいでしょ?」


 言っている意味がわからない。

 殺すのも食べるのも、俺が辿たどる末路は同じだ。


 殺されたくなければ父の名を呼べ。ただし三度間違えたらお前を食う。

 それは『許し』とは呼ばない。


 そもそも、禁足地に踏み込んだ俺を殺していいのなら、食うのも自由のはずだ。

 

(いや、もしかしてこいつら……)


 すっと前に出たのはいわざるだった。

 俺の手を取り、甲に筆を走らせる。


『我らの好物は人の肉。だが、みだりにそれを食うことはできない。食っていいのは、自らそれを許可した人間だけだ』


 するすると走るいわざるの筆は、キーボードをタイプするより早く文字をつづった。


「許可……」


『そう。許可だ。我らは禁足地に入ったお前を殺すことができる。だが、食うことは許されていない。お前がその許可を出していないからだ』


 筆を止めたいわざるは、じっと俺の目を見つめた。

 きかざるの視線も俺の首筋をちくちくと刺激している。


『我らの提案に乗るか否かはお前次第だ。乗らぬのなら、今ここで喉を裂く』


「……!」


『乗るのなら、きかざるが言った通り三度機をやる。三度のうち一度でも父上の真名まなを呼べたなら、我らは立ち去ろう。これは青面金剛明王様しょうめんこんごうみょうおうさまに誓う』


 筆が無音で走る中、いわざるの鼻息が俺の手の甲を濡らす。


『だがお前の解放を賭す以上、我らにも見返りが必要だ。お前が三度間違えれば、「食われてもいい」という許可を出したものとみなす』


 そういうことか、と俺は不快な納得感を覚えた。


 思い返せば、みざるは俺が『許可』しなければ、姿を見せることができないようだった。

 確か吸血鬼も、招かれない限り獲物の家に入れないのではなかったか。


 同じように、こいつらは人間を食うために『本人の許可』を必要とするらしい。

 俺が自発的に許可など出すわけがないから、禁足地に入ったという致命的な事実をネタに、取引を持ちかけているのだ。

 

 俺が選ぶことのできる道は二つ。

 一つは、今この場で殺されること。

 もう一つは、こいつらの『謎かけ』に応じること。

 謎とは、こいつらの父親の名。

 それを言い当てることができれば無罪放免だが、三度間違えた場合に待っているのはただの死ではなく、『捕食』。


『理解したか? 今のままでは互いにとって具合が悪いのだ。我らはお前を殺せるが、殺したところで腹の足しにならない。お前は殺されたくないが、それをとどめるすべを知らない』


 いわざるは鼻が触れるほどの距離まで顔を近づける。


『条件は対等だ。すべてを精算したいお前と、お前を食いたい我らとで、ひと勝負するのだ。その軍配を、父上の真名に預けるのだ』


 俺は唾を呑んだ。

 現実味のない状況だが、それを現実だと信じさせるだけの異様さがこの三人にはあった。

 大がかりな悪戯いたずらなどではない。

 こいつらは本物の化け物で、俺の心臓はこいつらに手の中にある。


「――俺が正解を言っても」


 肺腑はいふが震えるのを感じながら、声をしぼり出す。


「お前らは嘘をつくかもしれない」


『そんな嘘をつけるのなら、とっくにお前を食っている』


 いわざるが筆を持たない方の手を開閉させた。

 先ほど掴まれた手首が、じわりと熱を帯びる。


 確かにそうだ。

 こいつらが自由に嘘をつけるのなら、名乗る必要も、真名の話もする必要がない。

 一般人を装って俺を騙せば、三度の機会を空費くうひさせることは簡単だ。

 それに他の二人はともかく、いわざるの腕力なら俺を行動不能にすることも難しくない。


 そうした強引な方法を採らない以上、俺を食うために特定の手続きを踏む必要があることは、ほぼ間違いないだろう。

 意趣返しの懸念はあるが、こればかりは誓いを信じるしかない。


『不正に得た許可は許可たりえない。我らの言葉に嘘は無い』


 バスドラムのように打っていた心臓が、少しずつ速度を落としていく。


 少なくとも今、こいつらが俺を力ずくで食い殺すことはない。

 一応は話も通じる。ヤクザや熊よりはマシだ。


 なら――


(やるしかない……!)


 『裁き』には抗えないが、『勝負』なら活路がある。

 しかも内容は、こいつらの父の名を言い当てるだけ。


 むざむざ殺されるつもりはない。

 俺は受けて立つ。


 いつの間にか俺から離れたいわざるが、きかざるの手の甲に筆を走らせていた。

 状況を共有しているらしい。


「やる気になったみたいよ、みざる」


「じゃあ、もういいね。……三回だからね? じかんかせぎをしたら、ころすからね?」


 いわざるがテーブルに乗っている炭酸水のボトルをつかみ、両目を閉じたみざるに渡した。

 みざるは撫で回すようにボトルを探り、キャップを軽くひねる。


 ぽん、と。

 ゴングが鳴った。











(名前、名前……)

 

 見ざる、聞かざる、言わざる。

 いわゆる『三猿さんえん』。

 俺が答えなければならないのは、その父親の名だ。


 猿の化け物。もしくは妖怪。

 そんなもの、いただろうか。


 河童――は猿ではない。

 天狗――も違う気がする。

 一番近いのはぬえだが、あれは複数の生き物の特徴が混じった妖怪だったはず。

 仮にだが、ぬえのつがいが子を産んだとして、そのすべてが猿になることなど遺伝学的にありえるだろうか。


 あぐらを組んで考え込む俺をよそに、みざるが聞こえよがしにささやく。


「きかざる、きかざる? みざるは見えないけど、すごく悩んでるみたいだね」


「みざる、みざる? きかざるは聞こえないの。いわざる、みざるはなんて言ってるの?」


 いわざるが筆を走らせた。


「ああ、そういうこと。……きっと難しいのでしょうね。何か手がかりを出してあげてもいいのかもしれません」


「そうだね。じゃあそうしてあげようか」


 わずらわしさに耳をふさごうとしていた俺は、思わず手を止めた。

 いわざるに手を引かれたみざるが、前室からテントをのぞき込む。


「あのね? かわいそうだから、三回だけ手がかりをあげる」


「……手がかりって……まさか、ヒントか?」


「そう。それをあげる」


 俺は思わずあぐらを解き、前室へ身を乗りだした。


「まず、みざるがひとつ教えてあげる。……お父さんには『毛が生えてる』よ」


(毛……)


 思わず、ため息が漏れた。

 こいつらもその父親も猿なのだから、毛が生えているのは当たり前だろう。


 何の役にも立たないヒントを寄こしたみざるは前室から外に出て、炭酸水のボトルに口をつけていた。


 さっきキャップを外された時、俺の物に触るなと言っておけば良かった。

 こっちが何も言わないのをいいことに、好き勝手なことを――


(……待て。その手があった……!)


 俺はスマートフォンのスリープを解除した。

 幸い、ネットワークは問題なく繋がっている。


 検索ボックスに「三猿」と入力すると、即座にフリー百科事典がヒットした。

 

「あら? それは何かしら?」


「それ? きかざる、きかざる、それってなあに? みざるは見えないんだよ? ……あ、きこえないんだった」


 三猿が前室に身を押し込み、いわざるがみざるの腕に筆を、きかざるの頬に指を滑らせた。


 俺はいわざるの動きが止まるのを待ち、スマートフォンの画面を三人に向けた。

 これが『裁き』ではなく『勝負』なら、ある程度の公平さは必要だろう。


「世界中の人間が編集してる百科辞典だ」


 みざる以外の二人が画面をのぞき込んだ。

 きかざるは目を細め、いわざるはみざるの手の甲に筆を走らせる。


「『道具を使うな』とは言われてない。使っていい……だろ?」


 いわざるの筆と指で状況を把握したみざるときかざるは、意味深な表情を浮かべた。


「そうだね。どうぐをつかっちゃだめ、なんて言ってないもんね」

「ええ。構いませんよ。そういったものを使っても」


 タイミングが重なったのは、きかざるがみざるの口の動きを見ずに返事をしたからだろう。

 ともあれ、同意は得た。この行為は『正当』だ。


 俺は手元のスマートフォンに視線を落とす。


 誰でも編集できるということは、何の価値もないということだ、と大学の教授が苦々しそうにつぶやいていたことを思い出す。

 学問の領域ではそうなのかもしれない。

 だがここは大学じゃない。俺が必要としているのは『理解』ではなく『情報』、突き詰めれば『単語』だ。

 掘り起こした時に深く張った髭根ひげねが現れるような、学問的な知識である必要はない。


 三猿。

 その起源。歴史。

 絵文字。

 ひと通りの記事を読み、脚注や参考文献にオカルト本やトンデモ本、不審な出版社の名前がないことを確認する。


 こいつらの父親と思しき存在の名は、そこにはっきりと書かれていた。


(勝った……!)

 

 俺は勢いよく顔を上げる。


「言うぞ」


 前室で四つん這いになったみざるといわざるが、互いの頬に頬を押しつけながら俺に顔を近づける。

 やや遅れて事態を把握したきかざるもそれにならうと、三人は餌を待つ犬のような格好となった。


「お前らの父親は――――」


 開いた口の中に視線が突き刺さる。




「――『ハヌマーン』だ」




 音の無い時間が流れていく。




 にいいいい、と。

 みざるが口を、いわざるが目を、三日月形に歪めて笑った。




「ちがう」




 みざるは別人のように冷酷な声でそう告げた。

 俺は身がすくむほどの寒気に襲われ、思わずテントの奥へ後ずさる。


「まちがえたね? じゃあしかたないね?」


 後ずさる俺の手首をいわざるが掴み、みざるがこちらへ手を伸ばす。


「っ?! おい、まだ一回目――」


 べりりりり、と。

 面ファスナーを引き剥がすような音に続き、俺の視界が真っ暗になった。


「あ?!」


 見えない。

 何も。

 目を開けても、閉じても、俺の世界は黒一色に塗りつぶされている。


「おい! なんだこれ! 見えない!」


 盲人となった俺はいわざるに解放されてからも、三猿を近づけないよう腕を振り、後ずさる。

 がしゃがしゃと雑多な道具が音を立て、LEDランタンが倒れた。


「ふざけるな!! 話が違う!!」


 かろうじて二人が横になれる程度のテントに、三猿が無理矢理入り込む気配があった。


「三度間違えたら食べると言いましたけど、それまで何もしないなんて言ってないでしょう?」


 いわざるに状況を知らされたのか、きかざるがくすくすと笑う。


「そちらもさかしいことをやったのですから、自業自得です」


 反論しようとする俺の口を、小さな子供の指が塞いだ。

 コアラのように身を寄せ、抱きついてきたのは――みざる。


「みざるといっしょだね」


 耳元に口を寄せ、あやかしが囁く。

 力ずくで振りほどきたかったが、それこそ何をされるか分かったものじゃない。


 みざるの指が俺の胸や腹を這い回り、時折、爪を立てた。


「ここがきも。ここが小腸ほそわた。ここがよこしで、ふくふくし


 耳元に寄せられたみざるの口の中で、唾液が音を立てる。


「あとにかい。にかいで、これはみざるのもの」


 とっくに冷え切っていた血が、凍り付くようだった。

 手足が硬くこわばり、声も出せなくなる。

 

「ほらはやく。はやくこたえて。みざるたちのお父さんの名前」


「っ……!」


 硬直した身体の中で、脳だけがかろうじて柔らかさを取り戻した。


 まずい。

 先に言葉尻をとらえたのはこっちだが、その仕返しに視覚を潰されるとは思わなかった。

 これでは検索した情報を読むことができない。


 ――だが、最悪の状況ではない。

 目は見えなくても、耳が聞こえる。

 口も、頭も、問題なく動く。

 俺はまだ負けたわけじゃない。


「エバ!」


 腹の底から声を出すと、俺にしがみついたみざるがびくりと反応した。


『はい。ご用でしょうか、森人もりと


 スマートフォンの音声ガイドが立ち上がると、みざるの髪が羽箒はねぼうきのように俺の顔を撫でた。

 きょろきょろと辺りを見回しているらしい。


「あれ? だれかいるの?」


「誰もいないよ。その端末の機能だ。俺が直接操作しなくても、代わりに何かをやってくれる」


 俺はあぐらの姿勢に戻った。

 みざるは腿に乗ったままだが、構っている場合ではない。


「エバ。現在ページを読み上げてくれ」


 一拍。


『承知しました、森人もりと。現在のページを読み上げます』


 音声ガイドが不安定なイントネーションで「三猿」のページを読み上げる。

 俺は更に「猿」のページを開かせ、そのすべてを読み上げさせた。

 

(違う。ただの猿じゃない。見つけなきゃいけないのは、『架空の』猿だ……)


 俺は音声だけで何度か検索を繰り返し、神話や伝説の猿をまとめたページにたどり着く。

 エバに読み上げを命じると、聞いたこともない名前がぞろぞろと連なった。


 猿猴えんこう

 川猿かわざる

 無支祁むしき

 猩猩しょうじょう

 雍和ようわ

 朱厭しゅえん

 ヴァナラ。


 どれもこれも、猿。

 猿の妖怪、あるいは神だ。


「では、きかざるからも手がかりを差し上げましょう」


 俺が黙考に入ろうとすると、きかざるがそう告げた。


「お父様は、『道具を使うことで有名なあやかし』です」


 道具。

 それに『あやかし』という断言。

 期せずして、ヒントが二つ手に入った。


 これでインド神話系の猿神さるがみは軒並み候補から消える。

 いくつかの例外はあるものの、彼らは普通、あやかしとは呼ばれないからだ。

 更に「道具を使う」のなら、読み上げられた妖怪のほぼすべてが候補から消える。


 残った名前は一つ。

 ――俺もよく知る猿の妖怪だ。


「……みざる。お前の父親は有名だって言ったよな」


「いったよ。お父さんはとっても有名だよ」


「俺はそいつを知ってるのか」


「しってるよ。きっとしって――」


 はぷっとみざるの声が途切れた。

 たぶん、いわざるあたりが手を伸ばして口を塞いだのだろう。

 必要な情報は手に入ったので、塞ごうと塞ぐまいと同じだ。


「みざる。そっちが出してるヒント、嘘じゃないよな?」


「うん。青面金剛明王様しょうめんこんごうみょうおうさまにちかって、うそじゃないよ」


 俺でも知っているほど有名で、道具を使う猿の妖怪。

 毛が生えていて、神ではない。

 ならもう答えは一つだ。


 俺は念のためもう一度「そいつ」のページを読み上げさせ、すべての条件を満たすことを確認した。

 みざるといわざるがどんな顔をしているのか、見ることはできない。


「言うぞ」


 俺が低い声でうなると、みざるの体重が腿を離れた。

 息づかいで、きかざるといわざるがこちらに顔を寄せるのが分かる。 


「お前らの父親は――――」


 息を吸う。




「――『孫悟空そんごくう』だ」




「……。そん、ごくう?」


 虚を突かれたように、みざるが呆けた声を漏らした。


 痛いほどの沈黙。

 そして――――




「なあに、それえ?」




 けきゃきゃきゃきゃ、とみざるが奇怪な笑い声を発した。


「お父さんのほんとうの名前は、そんなのじゃないよ!」


「っ!」

 

 そんな馬鹿な。

 違うのか。

 だが他にアテは――


「それじゃ、私ともお揃いになりましょうか」


「待っ」


 俺は両手を前に突き出したが、べりべりべり、という音が弾けるのを止めることはできなかった。

 それは音ではなく、鼓膜を直に歯ブラシでこすられるような衝撃だった。

 

 そして、死にも似た暗黒が訪れた。


 何も見えず、何も聞こえない。

 かろうじて生きている嗅覚が落ち葉と三猿の匂いを拾い、触覚が再び腿に乗るみざるを感知した。


 背中に何か柔らかいものが押しつけられた。

 回された腕の細さで、きかざるだとわかる。 


 みざるときかざるは温かかったが、俺の心胆は冷え切っていた。

 親しげですらある二猿の仕草は、獲物を逃がすまいと絡みつく化生のそれでしかない。

 その証拠に、みざるときかざるの呼吸は興奮を隠し切れておらず、俺の胸とうなじに生暖かい吐息が触れ続けている。


『これが最後だ』


 手の甲を筆が走った。


『父上の名を言え。あやまてば、この場が我らのぜんとなる』


 いわざるは俺に身を寄せず、正面にいるようだ。


『最後の手がかりをやる。父上の名には、「た」と「い」が入る。そして「た」と「い」だけで、名のほぼ半分が埋まる』


(……)


『答えを待つ。繰り返すが、我らの言葉に嘘はない』


 いわざるが俺の手に筆を押しつけた。

 それは思ったより細く、俺は救いの糸を握らされた罪人の心地で、どろりと深い暗黒に沈む。


 諦念と無力感の底なし沼に沈み、俺の手足からは力が失われた。


 ただ、頭の中は澄明ちょうめいそのものだった。

 たぶんこれが人生で二度目の絶望だからだろう。


(名前に「た」と「い」が入る猿の妖怪……)


 夜を迎える大気と同化するような感覚の中、俺の声が闇に響く。


(「た」と「い」でほぼ半分……)


 孫悟空ではない。

 それ以外に候補はいるか。


(いない……さっきヒットした検索結果の中には……)


 さりとて、もうスマートフォンを使うことはできない。

 何も見えず、何も聞こえない俺が頼ることを許されるのは、今、ここにある知識だけだ。


 今しがた調べたすべての情報が、ぎこちない電子音声となって脳内で再生される。


 三猿。

 猿。

 孫悟空。


 脳内に響く音は文字となって俺の闇を漂い、俺は目ならぬ目でそれを見つめていた。

 やがて、みざるときかざるの声、いわざるの筆の感触も闇に蘇り始める。


 毛。

 道具。

 「た」と「い」。

 それから――


 古びた蝋燭に火が灯るように、小さな光が瞬いた。


(まさか……そういうことか……?)


 さっきみざるはこう言った。

 「お父さんのほんとうの名前は、そんなのじゃない」と。

 本当の名前でないということは、俺が提示したのは『偽りの名』であるということではないか。


 猿の妖怪、孫悟空。

 その名前には、『悟』と『空』の文字が入っている。


 仏教的な名前だ。

 こんな名前、妖怪が自分で名乗るわけがない。

 孫悟空が仕えた三蔵法師は確か、天竺てんじくへ向かって旅をする僧ではなかったか。

 だとしたら『悟空』の名は三蔵法師か、彼より上から天地を睥睨へいげいする釈迦如来しゃかにょらいが授けたのではないか。


 なら、孫悟空の本来の名前は何か。

 俺はそれを、ついさっき検索した情報の中で知っている。


(確か……『斉天大聖せいてんたいせい』)


 天にもひとしい大聖者。

 傲慢ごうまんな孫悟空が名乗った、おのれを差す呼び名。

 誰から与えられたわけでもない、おのれが定めたおのれの名。


 せいてんたいせい。

 その8文字には「い」が3つ、「た」が1つ入る。

 計4文字。半分だ。


 これだ。

 これならすべての辻褄つじつまが合う。


 視覚と聴覚が死んでいることを思い出した俺は、闇の中で息継ぎをするようにあえぎ、声を上げた。


 が、発した言葉は喉を離れるやほつれて失われ、長く話そうとすれば舌がもつれた。

 どういう理屈か知らないが、今の俺は骨伝導した自分の声すら聞くことを許されないようだ。


 仕方なく、いわざるの筆で辺りを探ると、すぐに穂先が弾力のあるものに触れた。

 いわざるの手のひらだろう。

 俺は思い浮かぶ名を書こうとしたが、思いがけないところでつまずいた。


(最初の字……どの「せい」だった……?)


 斉。

 齊。

 斎。

 済。


 まずい。

 どの字だったか思い出せない。


 慌てた俺はまずいわざるの手のひらにバツ印を書き、これが回答でないことの意思表示をしてから続ける。


『かんじがわからない』


 筆を奪われ、手の甲をくすぐるように字を綴られる。


『ひらがなでいい』


 思わず、安堵の息を吐く。

 危うく自分の記憶力の無さを呪いながら死ぬところだった。


 いわざるは、先ほどより強い力で筆を押しつけた。

 俺は息を吸い、覚悟を決める。


(死ねるか……こんなところで……!)


 俺は確かに禁足地に入った。

 それはこいつらにとって死に値する罪なのだろう。


 だがあの場所は濡れた苔と草木に満ちた、ただの地面だ。

 虫もいれば蛙もいる。蛇や狸が通り過ぎ、鳥が翼を休めることもあるはず。

 人間『だけ』が立ち入ることを許されないなんて、そんな道理はない。


 大地は誰のものでもない。

 46億年存在し続けてきた地球は俺たち人間のものではないが、あやかしのものでもないはず。


 こいつらの道理にねじ伏せられるつもりはない。

 たかが意地の悪い猿の化け物ごときに――――



 その瞬間、俺の闇に刺すような光が走った。



『心が決まったのなら、書け』


 俺の手の甲を滑ったいわざるの指が手首を掴み、己の手のひらに導いた。


(……)


 俺は今まで見聞きした、みざる、きかざる、いわざるの言動を思い出した。

 三猿の声と仕草が、倍速の映像となって脳裏を流れていく。


 筆を握る指に力を込め、ゆっくりと文字を書いた。






 黒いもやが散るように、世界が色と音を取り戻した。



 辺りは薄暗かったが、俺は思わず目を細め、川のせせらぎの騒々しさに耳を塞ぐ。






「な、なんで……?!」


 俺の腿から転げ落ちたみざるが、怯えた顔でこちらを見上げている。


「きかざる?! いわざる?! こ、このひと、当てたよ……?!」


 みざるは俺を『見上げている』。

 つまり、その目はぱっちりと開いていた。


「そ、のようね。……私たちは完璧だったはずなのに……」


 平静を取り繕おうとしているきかざるは、明らかにみざるの言葉に反応していた。


「ど、どうして……。どうして……」


 ぼそぼそと暗い声だが、いわざるも声を発している。


「……俺の勝ちみたいだな」


 俺は指に挟んだ筆を回した。

 ずいぶん久しぶりにやるが、手は覚えているものらしい。


「こ、こたえて……! なんでわかったの……?!」


「違和感があったからだ」


 そこにどんなことわりがあるのか知らないが、こいつらは禁足地に入った俺を問答無用で殺すことができた。

 が、殺すだけでは益体やくたいもないと考え、俺に勝負を持ちかけた。

 俺が勝てば見逃す。俺が負ければその肉を食う。

 そうやって、本来なら絶対に得られないであろう、『俺が俺自身を食うことの許可』を手に入れようとしていた。


 なのに、こいつらは何かにつけて俺を助けようとしていた。

 機会が三度与えられるのは三体居るがゆえの必然かもしれないが、『自分たちより有名だ』という理由で父親を引き合いに出したり、ヒントを三度出したのは明らかに不自然だ。


 確かにこいつらの言葉に嘘はない。

 俺を力ずくで食い殺すことはなかったし、回答の機会もきっちり三度与えられた。


 だが、『嘘ではない』ことが必ずしも俺を助けるとは限らない。

 信頼に値する真実が俺を破滅へ導くこともある。

 ――つまり、ミスリード。


「ミスリードの可能性を考えたら、気づいたんだよ。お前らの問いかけの不自然さに」


 みざるは最初、『みざると、きかざると、いわざるは、何でしょう?』と問うた。

 その聞き方がまずおかしい。

 舌足らずな話し方を差し引いても、本来みざるはもっとシンプルに、こう問うことができたはずだ。

 つまり、『わたしたちは何の妖怪でしょう』あるいは、『わたしたちの名前はなんでしょう』と。


 そう言わなかった理由は一つ。

 

「バレるからだろ。その聞き方だと」


 ぎくりとみざるが身を震わせた。


「だからさっさとすり替えたんだ。自分たちじゃなくて父親の名前を言え、って質問にな」


 頼んでもいないのにヒントを出したのは、ミスリードを誘いつつ、暗にこちらからの質問を封じるためだ。

 嘘をつけないこいつらにとって、下手に質問されることは命取りになる。 

 いわゆるおためごかしだ。


 こいつらの出したヒントはすべて真実だ。

 ただし、父親の存在は煙幕であり、無視すべきノイズだった。


 こいつらが避けた問いかけである、『私たちは何の妖怪でしょう』に真正面から挑めば、答えは自ずと浮かぶ。

 毛が生えていて、道具を使い、名前に「た」と「い」が入る妖怪。



 何より重要なのは。

 ――「三体一組」であること。



「なあ、そうだろ?」


 筆を投げ返す。





「――『かまいたち』」





 真名まなを呼ばれた三匹が後ずさり、狭いテントの入り口で肩を抱き合った。

 その顔には一様に怯えが浮かんでいる。


「先頭の一匹が転ばせて、二匹目が鎌で切って、三匹目が血止め薬を塗る、だったか? お前らと出くわしたら、血も出ないし、痛みもないのに、刃物で斬られた傷ができるんだよな」


 確かに有名な妖怪だ。

 怪談に詳しいわけではない俺も、そのぐらいのことは知っている。

 勝負自体はフェアだったと言わざるを得ないだろう。


 だが――――


「何が『みざる』『きかざる』『いわざる』だ……!」


 あぐらを解いた俺が四つん這いで前進すると、三匹は我先にテントの外へ飛び出した。


 とっくに夜だと思い込んでいたが、地平線にはの色が薄い層を作り、目に映るすべてがかろうじて輪郭線りんかくせんを保っていた。

 テントから中途半端に距離を取った三匹は、追い払われた野生動物のような目で俺を見つめている。


「なんとか明王に誓ったくせに嘘をついたな……!」


「う、嘘なんてついてないもん!」


 みざるが口を尖らせた。


「みざるは目を閉じてたし、きかざるといわざるは耳栓と首輪をしてたから、ぜんぶほんとうだもん!」


 ちらりと見ると、きかざるが地面に何かを捨てていた。

 いわざるの首輪は、確かにわずかに緩んでいる。


「それに、みざるたちは自分が見えないとか聞こえないことまで誓ってないもん。ねえ、きかざる?」


「そうですよ。それに私たち、自分たちが猿の妖怪だなんて一言も申しませんでしたし。こちらに悪意があったわけではなく、そちらが勘違いしただけです。ねえ、いわざる?」


「あの……ごめんね……。ごめんね……」


 低い声でぼそぼそとつぶやき、申し訳なさそうにしているいわざるの腿を、みざるときかざるがぺしんぺしんと叩いた。

 それで気が大きくなったのか、みざるが強がるように冷笑を浮かべる。


「だ、だいたい、勝手に禁足地に入ったのはそっちなん「見苦しいぞ!」」


 俺が一喝すると、小中大の三匹が飛び上がった。

 

「負けたんだから消えろ! 約束を守れ!!」


 ひっと短い悲鳴を漏らしたみざるが、素早く指を動かした。


 びょううう、と。

 落ち葉と泥を巻き上げるほど強い風が吹く。

 俺は反射的に顔をかばい、目を閉じた。


 数秒後に再び目を開けると、三匹は姿を消していた。

 落ちる泥がぱらぱらと地を打ち、ワンテンポ遅れて落ちた葉が、かさかさと音を立てる。


 悪い夢だと思いたかったが、地面には空のペットボトルが転がっていた。

 平常心を取り戻した俺はそれを拾い上げ、テントの中に引き返す。


 盛り付けたばかりのハムとチーズが消えていることに気づいた俺は、寝袋シュラフも広げずに横臥おうがした。

 










 サイドテーブルにレジ袋を置くと、闇に浮かぶ蛍光色の数字が「22:47」に切り替わった。

 あごまで流れる汗をぬぐい、共用廊下に半分出たままの古い寝袋シュラフ渾身こんしんの力で玄関から廊下、リビングへ引きずる。


 汗で重みを増したシャツを脱衣かごに放り込み、冷蔵庫の缶ビールを手に、上半身裸のままソファに沈む。

 たたん、たたんたたん、と。

 すぐ近くを通り過ぎる電車が、闇に沈んだリビングにフラッシュをいた。


 電気を点けっぱなしの玄関だけがまぶしい。

 いっそ消してしまおうかと思ったが、疲労のあまり意思が萎えた。

 缶ビールをサイドテーブルに置き、レジ袋を漁る。


 刺身のパックを取り出し、指でラップを破った。

 はしをもらい損ねたことに気づき、右手の指先をこすりあわせた時だった。




「こん、こん、こん」




 俺は一瞬だけ手を止め、醤油の小袋の口を切る。


「どうぞ。開いてるよ」


 墨を注がれたような闇から、まぶしい光に満ちた玄関を見る。


「……それの開け方はわかるだろ」


 バスルームのドアが開き、みざるが姿を見せた。

 クローゼットからきかざるが、ベッドの下からいわざるがい出す。


 三匹は右肩上がりの棒グラフのように並び、感情のこもらない目で俺を見つめた。


「どうして?」


 みざるの声は淡泊だった。

 そのたたずまいに、昨日の無様さは感じられない。


「どうして、また禁足地に入ったの?」


 俺は刺身に醤油を垂らした。

 名も知らない赤身魚が、てらてらとわざとらしい光沢を返す。


「言わなくてもわかるだろ」


 つまんだ刺身を吸い込むように頬張り、咀嚼そしゃくする。

 その間も、三匹の視線は俺に注がれたまま動かない。


 嚥下えんげした俺は立ち上がり、古い寝袋シュラフのファスナーを開いた。


「食っていいぞ」


「!」


 待ってましたとばかりに三匹が飛びつき、寝袋シュラフの中身――死体を食い始めた。

 とっくに死後硬直を終えているはずだが、三匹は大皿を前にした犬のように顔を突っ込み、ぼりぼりじゃぶじゃぶと夢中で肉を喰らっている。


 ソファに戻った俺は刺身をつまんで口を開け、思い直してトレイに戻す。

 

「……ちょっと聞いてくれるか、俺の話」


 口元を赤く染めたみざるだけが顔を上げ、ふんふんとうなずいた。

 

「そいつ、クレーマーなんだよ」


 俺が靴屋でアルバイトを始める前から、常連という名の迷惑客だった男だ。

 買いもしないのに商品をいて歩き周り、スタッフを捕まえてはうんちくを垂れ、質問に答えられない新人をこき下ろしていたらしい。

 数ヶ月に一度、仲間を引き連れてまとまった買い物をするので、やむなく店長が愛想良く接していた。


 が、まずいことに人事異動で店長が入れ替わった。

 新しい店長は持病のせいで顔色が悪く、絡む相手としてよほど手応えがなかったのだろう。

 そいつはバイトリーダーの俺に絡むようになった。


 俺は靴に詳しくない。

 接客する上で必要な最低限の知識は持っているが、デザインだの歴史だの哲学だのには、毛ほどの興味もない。

 売り物は売れればいいし、商品は機能を果たせばそれでいい。

 靴屋を選んだのは、単に待遇を比較検討した結果だ。


 冷たい考えかもしれないが、悪いことだとは思わない。

 銀行員は札束を愛しているわけではないし、電気という現象が好きで電気工事士になる人間は多くないだろう。


 だが俺のスタンスは、そいつと決定的に相性が悪かった。

 そいつはマニア特有の嗅覚で俺の無関心さを見破り、裏切り者を見つけたかのように怒り狂った。


 縫製が甘い。紐の仕上がりが粗い。

 光沢が鈍い。包装が雑。


 オールデンローファーの代表的な木型ラストが、ヴァンラストとアバディーンラストの2種類であることを理解できていない。

 ウエスコのシューメイカーコレクションに収録された『ヘンドリック』の名が、J・H・シューメイカーの親族の誰に由来するかを知らない。

 レミー・リシャール・ポンヴェールが工房を開いた年が1908年だと把握していない。


 あれやこれやと難癖をつけては店内で俺を罵倒し、クレームの電話を入れ、交換品を届けろとわめき散らした。

 顔色の悪い店長も出張ろうとしたが、そいつは男と男の問題だからと断り、繰り返し俺を自宅に呼びつけ、謝罪を求めた。


 黒髪混じりの白髪をオールバックに撫でつけたそいつは、昨日の朝も、ガレージでクラウンを洗車しながら待っていた。

 

 何度通っても驚かされる、大きな庭つきの邸宅。

 子供が三人いて、妻がいて、地域に顔が利き、多くの友人に恵まれている。

 高い車があり、稼ぎの良い仕事があり、熱中できる趣味がある。

 満ち足りた人生を送っていることは間違いなかった。


 なのに俺を呼びつけたそいつは、「どうして俺がこんなに厳しいことを言うのか、理解してるか?」と切り出し、説教とも教育ともつかない話を始めた。

 ガレージの壁には、かつて飼っていたというブルドッグのリードロープが垂れていた。

 説教のついでのようにじゃぶじゃぶと乱暴に水を浴びせられる車が、どこか不憫に思われた。


 有給の朝を潰された俺は、適当に相づちを打っていた。

 これが終わればキャンプだ。自分にそう言い聞かせ、最悪の朝を耐えていた。


 どういう風の吹き回しか、そいつは俺の学歴を聞いた。

 俺は深く考えず、正直に出身大学を答えた。

 その瞬間、そいつは今までの不機嫌さが嘘のように残酷な笑みを浮かべた。


 そうかそうか。お前は大卒だったのか。

 俺は高卒だ。高卒でここまでのし上がった。

 貯金も不動産もある。人生はとっくアガリだ。

 お前は大卒のくせに靴屋でバイトをしているのか。

 自分の給料では買えない靴を扱って、無様だとは思わないのか。

 やっぱり大卒はダメだな。

 勉強ばかりして、社会を知らない。

 数式は解けても、地頭が悪い。

 人間っていうものを、世間っていうものをまるで知らない。

 生きる力の無い、男としての格が低いヤツらだ。

 それから――――


 よほど嬉しかったのか、そいつはそれまで以上に痛烈に俺をののしった。

 最後に出てきたのは、「負け組」という言葉だった。

 

「……『負け組』」


 俺の口から笑いがこぼれた。

 虚勢を張ったつもりはない。

 その証拠に、俺の心も体も、硬くこわばってはいない。


「人生に勝ちも負けもあるかよ」


 みざるは肉に戻り、入れ替わるようにきかざるが、赤黒く汚れた顔を上げている。


「自分をでかく見せたいとか、人にちやほやされたいとか。何かを盲信したいとか、輝かしいものの一部になりたいとか」


 道路から差した光が部屋を通り抜けた。


「バカを啓蒙したいとか。愚民を煽動したいとか。気持ちよくキレ散らかしたいとか。……そういうクソみたいな誘惑じゃないのか。人間が勝たなきゃいけないものって」


 勝てないまでも、どれだけあらがえたかじゃないのか。

 そういうものが、人間の戦いじゃないのか。


 誰かより上とか、下とか。

 誰かより日向ひなたとか、日陰とか。

 誰かより持ってるとか、持ってないとか。


「……猿かよ。俺らは」


 俺はそのことを、ただ思っただけだ。

 決して口にはしなかった。

 だがそいつは、俺の抱いた軽侮けいぶの情を感じ取ってしまったらしい。

 車に水を浴びせることも忘れ、口角泡を飛ばして俺の人生を否定し、己の人生を誇示した。


 俺は半ば意地になり、適当に相づちを打ち続けた。

 顔は、もう侮蔑を隠せなくなっていた。


 やがて、どちらかの堪忍袋の緒が切れた。

 どちらかが手を出し、揉み合いになり――――


「気づいたら殺してたよ。壁に吊ってあったリード紐、首に巻いてな」


 我に返った俺は、しばらく呆然とした。

 まさか自分が人を殺すとは思わなかったし、相手がこんなにあっさり死ぬとも思っていなかった。


 蘇生を試みたが、脈もなく、呼吸もしておらず、瞳孔も開いている。

 絶望に沈んだ俺の耳には、青緑色のホースから水が噴く、じゃばじゃばという音だけが聞こえていた。


「……捨てるしかない、って思ったんだ」


 きかざるは肉に戻り、口元を汚したいわざるが顔を上げている。


「見つかったら、捕まるだけじゃ済まない気がしたからな」


 俺は自首を考えた。

 が、そいつが時々連れてくる友人の中には、刺青いれずみを隠さない輩が混じっていた。

 互いをあだ名で呼び合う様にはある種の微笑ましさを感じたが、暴排条例を知ったうえでの振る舞いだ。危険な絆で結ばれていることは容易に察せられた。


 俺が実刑になろうと執行猶予がつこうと、そいつらは司法の手ぬるさに憤るだろう。

 その後に起きることを考えると、自首は正気の選択ではなかった。


 俺は平常心を保つため、そいつの代わりに洗車を続け、蛇口の栓を閉め、ブラシを戻し、リード紐を戻して、ガレージのシャッターを下ろした。

 近所に聞こえるよう大声で礼を言い、言い直しを要求されたかのようにもう何度か礼を言い、車に戻った。

 そして古い寝袋シュラフにそいつを隠し、地獄のような重労働でトランクに押し込み、予定通りキャンプへ向かった。


 俺が最近ソロキャンプを始めたことは周囲の人間も知っている。

 大事な有給の朝をクレーム処理に使うことも、前の日のうちに周知していた。

 クレームを処理した俺が一人でキャンプに向かうのは、何もおかしなことじゃない。

 

「そいつを隠せる場所を探してたら、あそこを見つけたんだ」


 苔むした注連縄。

 妙につるりとした、米粒型の大岩。

 おどろおどろしい警告の書かれた木の札。


 それらを越えた先に見える、ちょろちょろと流れる細い川と、木々の隙間に見える沼。

 テラリウムを思わせる緑の天国に満ちる、冷涼な空気。


「でかい沼が見えたから、禁足地に入ったんだよ。人が入らない土地なら都合がいいからな」


 禁足地はキャンプ地からそう離れてはいなかった。

 暗視ゴーグルやいくつかの道具をうまく使えば、夜中のうちに痕跡を残さず死体を運び、沼に沈めることも可能だろう。

 蝿や虫が集らないよう、死体は寝袋シュラフに入れたまま、トランクにしまっておいた。


「夜中にあそこまで運ぶ算段を考えてたら、お前らが来たんだ。……」


 禁足地に踏み込んだから、罰を受けろとのたまって。

 だが本当は、俺がトランクに隠している死体が目的だったのだろう。


 死体は己を食う許可を出すことができない。

 出す人間がいるとすれば遺族だろうが、そいつの死を知る親族はまだいない。

 知っているのは俺だけだ。

 言い換えれば、俺がこの死体を『所有』していて、食っていいかどうかの『許可』を出す権利を有していた。


 もしかするとこいつらは、俺が命惜しさに死体を差し出すと踏んでいたのかもしれない。

 だが気が動転していた俺は、身代わりに死体を差し出すという選択に気づかず、真正面からこいつらに立ち向かった。


 それならそれで、こいつらには好都合だったのだろう。

 途中で俺が真意に気づけば死体一つ、真意に気づかなくとも、三度失敗すれば新鮮な人間一つと死体一つ。

 どう転んでもエサが手に入る結末は変わらない。


 だが俺はこいつらの予想の網をすり抜けた。

 俺はこいつらの真意に気づけるほど賢くなかったが、こいつらの謎かけに惑わされるほど愚かでもなかった。

 予想外に真名を言い当てられたこいつらは、約束通り姿を消すしかなかった。


 トランクの死体を差し出すからどうか命は助けてくれ。

 俺が一言そう言えば、すべては丸く収まるはずだった。

 だが、そうはならなかった。


 俺は後になって、自分が重要な選択を誤っていたことに気づいた。

 ――今までの人生と同じように。


 ただ、今回は手遅れではなかった。

 俺は死体をトランクに残したまま朝を迎え、キャンプ場を去った後、再び禁足地に踏み込んだ。


 こいつらがもう一度来てくれることを願って。


「ごちそうさま!」


 顔を汚したみざる、きかざる、いわざるが顔を上げていた。


 俺は三匹の傍に近づき、寝袋シュラフをのぞき込んだ。

 中は血と脂で汚れていたが、排泄に使われる部位と大腸を残して、きれいに死体が無くなっている。

 歯も、骨も、髪や爪すらも残っていない。


 人差し指と中指を順番に口に含み、きかざるが俺を見た。


「どこかに袋ごと捨ててきてあげましょうか?」


「ああ、助かる。……いや、待て。中身を焼いてからにしよう」


 俺は廊下の電気を点け、コンロに中華鍋をセットした。


「焼くって残りの肉を? どうして? 捨ててしまえば一緒でしょう」


「万が一見つかった時、火が通ってたら人の肉だと思われないだろ」


「山の奥に捨てれば同じことですよ」


「それでもだ。……頭を使って働けって、そいつにしつこく言われたからな。最後ぐらい実践してやらないと」


 鍋に油を入れると、羽蟻はありのような生き物が食器の隙間をすり抜けるのが見えた。

 コンロの傍まで着いてきたみざるが手を伸ばし、指で潰そうとする。


「殺すな」


 みざるが手を止め、不思議そうに俺を見た。


「……そいつだって生きてる」


 俺はティッシュで虫をくるみ、ベランダから外に放った。

 生き意地汚い虫は、夜の闇に消えた。


(……)


 コンロに戻った俺の口は、ふっと笑いの形に歪んだ。


「なんでわらってるの?」


 背伸びをしたみざるがシンクに顎を乗せ、頭を左右に軽く振る。


「ころせてうれしかったから?」


「違う。……最悪の気分だよ。経緯がどうであれ、人を殺すのは」


 そいつを殺した時、気分は晴れたりしなかった。

 罪悪感と後悔で涙と鼻水があふれ、嫌悪感に吐き気がこみ上げ、後ろめたさで尿意を催した。

 残される家族のことを考えると、悲しみと申し訳なさで胸が張り裂ける思いだった。


「……なんで俺がこんな目に、って思ったんだよ。俺は今までずっと、普通に生きてきたから」


 親に孝行していたし、仕事も真面目にやってきた。

 女を泣かせたことも、弱いヤツを踏みつけたことも、家賃や税金を滞納したこともない。

 俺はずっと、まっとうな道を歩んできたつもりだった。


 なのになぜ、こんなやつに目を付けられたのか。


 なぜ、人を殺さなければならなかったのか。

 なぜ、破滅しなければならなかったのか。

 なぜ、化け物にまで襲われたのか。


「おかしいだろ。何もかも理不尽だ」


 みざるは勝手に冷蔵庫を開けて炭酸水を飲み、きかざるは床の雑誌を開き、いわざるは処分品のブーツを眺めている。


「でもお前らに会って気づいたんだ。……天罰なんだよ、これは」


 ちゅぽん、とみざるがボトルから口を離した。


「わるいことしてないのに、てんばつ?」


「そう。神様が、天罰を間違えて落としたんだ。俺は何も悪いことをしていないのに、神様が手違いで落とした罰なんだ、これは」


 なら、と続ける。


「俺はこれから、『天罰を落とされるぐらいの悪事をやってもいい』ってことなんだ」


 みざる、きかざる、いわざるが動きを止め、こちらを見た。

 俺は三匹を見返す。


「だってそうだろ? 何も悪いことをしてない俺が、こんなひどい目に遭っていいはずがない。因果も狂ってるし、帳尻も取れない。……なら、俺の手でバランスを取ってやらないといけない」


 コンロのツマミを回す。

 青く小さな炎の花が、ぼっと咲く。


「『天罪てんざい』だ」


 鍋に敷いた油は、俺の顔を映さない。


「手違いで落とされた罰の分だけ、罪を犯さないといけない。……俺が神様の尻拭いをしてやる」


 と、道路の方で、低くうなるようなエンジン音が連なった。

 三匹がプレーリードッグのような仕草でベランダを見る。


 見るまでもなかった。

 何度か聞いたことのある音だ。


「……なんで俺のところに来るんだよ。まだ捜索願も出されてないんじゃないのか」


 もしかすると、俺がそいつに『教育』されていることは、お友達の間で共有されていたのか。

 そいつと突然連絡がつかなくなったから、心当たりのありそうな俺のところに来た、ということなのか。


 住所は靴屋で問いただしたのだろうか。

 だったら電話番号も知られているはず。なのに日中に連絡して来なかったということは――――


「……。お前ら、まだ腹は減ってるか」


 こくこく、と三つの首が縦に動いた。


「なら、俺の友達になるか?」


「ともだち?」


「ああ。友達は友達の身を守るのが当たり前だ。そしてその過程で、やむを得ず誰かを死なせることがあるかもしれない」


「……それ、あの……悪いこと、なんじゃ……」


「悪いことなんかじゃない。正当な行いだ。人が死ぬのはただの結果だ」


「あなたの友達になったら死体が増える、ということ?」


「そういうことだ。そして俺は死体を『所有』できるし、『許可』も出せる」


 三匹が顔を見合わせる。

 なぜか俺の目に涙が浮かび、その後の光景は直視せずに済んだ。


 ばきばきばき、と。

 涙の膜の向こうで三匹の顎があり得ないほど開き、サバイバルナイフほどの長さの牙が、がちがちと打ち鳴らされる。

 ぐぎっ、げぎっ、びぎっ、と。

 濁った笑い声が響いた。


 どんどんどん、と乱暴にドアがノックされる。

 涙の膜ががれると、三匹は今まで通りの姿として俺の目に映った。


「なるか? 友達」


 三匹がうなずいた。


 みざるは腕を回し、きかざるは鎌を抜き、いわざるが小さな壺を取り出す。

 ばちっと不自然に電灯が明滅し、その一瞬の間に、三匹の姿は消えていた。


 ノックはまだ続いている。

 俺はコンロの火を消し、暗いリビングのソファに戻り、刺身を口に放り込んだ。



 そいつらは、許可も取らずに踏み込んできた。


 

 目をぎらつかせた男たちは俺を認めるや足を止め、仲間思いで善良な友人の失踪を告げた。

 俺がその重要参考人であるとも。


 無能な警察は当てにならない。

 ついては私的尋問のようがあり、同行してもらう、と宣告された。

 ――何人かは、寝袋シュラフの放つ異臭に気づいたようだった。


 丁重に断ると、結束バンドやナイロン紐、口枷くちかせが取り出された。

 土足でリビングを横切った男たちが俺の腕を掴み、肩を掴む。

 



 

 俺は指を鳴らした。


 かまいたちが吹き荒れた。





 デジタル絵に消しゴムツールが走るように、男たちの喉が裂け、腿が裂け、腹が裂ける。

 リビングの暗闇に三日月型の光が閃き、走り、散る。

 

 十数秒後、生きている人間は俺だけになった。


「おわり」


 いつの間にか、俺の座るソファの左右と背後に、みざる、きかざる、いわざるが立っていた。

 室内には、返り血の一滴すら散っていない。


 俺はもう一切れ、刺身を口に運ぶ。


「食っていいぞ」


 三匹は不揃いな肉塊のうち、自分好みのものを抱え、皿代わりの寝袋シュラフへと運んだ。

 男たちの声が耳に残っているせいか、しゃぷしゃぷと肺をかじる音や、みちみちと筋繊維を噛み切る音は、ずいぶん慎ましやかに感じられた。


 俺はサイドテーブルの缶ビールに手を置き、ステイオンタブに指をかける。


「ねえねえ。いまどんなきぶん?」


 顔を上げたみざるに問われ、俺は宙をぼんやり見やった。


 たたんたたん、と。

 人の重みを飲み込んだ電車が、軽快に走り抜けていく。


「気分は……最悪だ」


「じゃあ、これもまちがっておちたてんばつだね」


「……。そうだな」


「じゃあ、これからもっとたくさん、わるいことができるね!!」


 満面の笑みでそう告げたみざるが、再び肉にかぶりつく。

 指に力を込めると、ぷし、と缶が弱々しい音を立てた。


 ビールを口に含んだ俺は、あるじを失った車と通信機器をどう処分すべきか、考え始めている自分に気づいた。


「そうだな。もっと悪いことをしないとな」


 サイドテーブルに缶を置き、口を拭う。


「……『天罪てんざい』、だからな」




 銀色の缶の表面を、しずくが一筋伝っていた。

 出所でどころの分からない笑いが、麦の匂いをまとってこぼれた。







 <了>

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モンキースペル icecrepe/氷桃甘雪 @icecrepe

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