後編

 暑気払いが解散になり、参加者達は店の外でそれぞれの方向へと散っていった。


 ぼくは、店の裏手の人気のない暗がりに滝島先生と立っていた。

 こうして自分から引き止めながら何も言えずに俯く彼の顔を、ぼくは少し覗き込むように微笑む。


「……誰かから、噂や何かを聞いたわけじゃないんです。

 ただ——気づいてしまった、というのかな。

 あなたのことを、見ていたから。ずっと。

 あなたが、いつも誰を見ているか……そして、誰があなたを見ているか。

 時々さりげなく寄り添うようにいる様子や、そんな気配を」



「————」


 ぼくの視線を、彼はただ怯えるように受け止める。



「彼とは——佐山先生とは、恋人同士?」


 反応を必死に堪えようとする彼の青白い頬が、隠しきれずに一気に紅潮する。

 羞恥に波立つその美しい表情を、ぼくはじっくりと堪能する。

 そして、ゆっくりと言葉を繋いだ。


「ぼく、彼とは同期なんですよ。

 佐山先生って、ちょっと不思議なところがありますよね。飄々として時々何を考えてるのかわからなかったり、無表情なのにたまらなく情熱的なものを秘めてたり。ああ、やっぱり美術の先生だな、なんて思ったりして。


 けど……佐山さんとあなたとの関係に感づいた途端、ぼくの脳内で二人があまりにも心地好さげに絡み合うから——

 ぼくがどんな思いであなた達を見ていたか、知らないでしょう?


 けど、驚きましたよ。半年後に結婚予定なんですね、彼。そういえば、最近少し変わった気がする。丸くなった、というか。幸せに満ち足りている証拠ですね。

 彼は随分残酷な人だ——あっさりと別れ話をされましたか?」



「————

 誰にも、言わないでください」


 一瞬苦しげに唇を噛んで、やっと声が出たかのように彼は小さく呟いた。



「ええ。もちろん、誰にも言わない。

 けど——ごめん。

 約束を守る条件を、つけてもいいかな?」



 彼は、ぎょっとしたように顔を上げる。



「————」


「ぼくと、付き合ってくれる?」



「…………」


「そんなに怖がらないで。

 恋人らしいことをあれこれ無理強いする気はないよ。あなたが嫌だということは、しない。絶対に。

 ただ、ぼくの希望とあなたの気持ちが一致することを、一緒に楽しみたいだけ」



「——意味が、わからない……」


「簡単だ。

 あなたは目を閉じて……彼としてる、って、想像してほしい。好きなだけ。

 ぼくは、あなたの望むことを何でもしてあげる。


 ぼくはこんなにも、あなたのことを想ってる。

 あなたは、ぼくを使って彼が側にいない寂しさを埋めればいい。ぼくも、それで幸せだ。

 ——どう?」



「……断るっていう選択肢がないのは、あなたが一番よく知ってるでしょう」


「……そうだね。

 最低の人間、と思うだろう?


 でも……

 あなたとぼく、同じだよ。

 恋い慕う相手の心が、決して自分のものにはならない。——同じ苦しさを抱えてる。お互いの苦しさを、嫌という程理解できる。

 それならいっそ、同じ苦しさの中に二人で一緒にぐちゃぐちゃに浸るっていうのも、素敵じゃないか」



 少しの間を置いて——ぼくの言葉の意味を理解したように、彼はぼくを見つめる。


 半ば諦めを含んだ、それでいて、行き場のない悔しさを瞳の奥にくゆらせた"Yes"が、そこにあった。



 不意に頭をもたげたぼくの本性は、ざらりとした舌舐めずりをしながら満足げに頷いた。



 そこに成立したのは、泥沼のように何一つ実ることのない関係。


 それでも——ぼくの奥底の何かが、低く呻き続ける。



 仕方ないじゃないか。


 決して叶わない思い。

 そんな満たされない思いが溢れて、人の世は動いていく。

 

 手の届かない何かに向けて、誰もが手を伸ばす。

 何かを掴んでもなお、まだ自分の手の中にない何かに向かって更に手を伸ばす。

 延々とそれを繰り返し——一体いつ、満たされる?



 欲しいものが得られないならば、その悔しさを互いに慰め合えばいい。

 堪らない寂しさが少しでも紛れるならば、それでいいじゃないか。


 その後に虚しさしか残らないとしても——独りで膝を抱えて泣くよりは、きっといい。

 そうだろう?



「——ねえ、キスしようよ。

 ぼくも、そうレベルは低くないはずだよ?」


 正論とも倒錯とも知れぬ胸の呻きを聞きながら、ぼくは彼の耳元にそう囁いた。



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蛇の道 aoiaoi @aoiaoi

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