図書館のレッドブック

深水えいな

第1話

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。


 正次まさつぐが納豆ご飯を食べながらぼんやりとニュースを見ていると、インターホンが鳴った。


「はい、はい」


 立ち上がるとボキボキと膝が鳴る。正次は今年で七十五になる。

 特に持病があるだとか寝たきりだとか、そういう訳ではないけれど、やはり歳には勝てない。


「おはよ、じいちゃん。用意できてる?」


 ガチャリと玄関のドアを開けて入ってきたのは今年で二十五になる孫の青球あーすだ。


「用意?」


 正次が聞き返すと、青球は見る見る不機嫌な顔になる。


「今日は6Gへの更新の手続きをするって話したじゃん」

「ああ、そうか」

「全く、ボケてんのかね」


 ぶつぶつ言いながら青球はカバンから何やら箱やコードを取り出した。


 今、正次たちが住んでいる世界は第五世代――通称5Gと呼ばれる世界である。

 そしてこの世界はあと七日で滅び、世界は6Gと呼ばれる新たな世界に変わってしまうのだという。


「この世界には記憶容量があります。そしてその容量は、今まさにいっぱいになろうとしているのです」


 テレビのアナウンサーが繰り返す。

 フリップには赤い本のイラストと「レッドブック」という最近やけに耳にする単語が描かれていた。


「ほら、テレビでもやってるだろ? レッドブックっていう所に、この世界の記憶はすべて記憶されているんだけど、そのレッドブックの容量がいっぱいで、次の世界に行かなくちゃいけないって」


 テレビと孫の解説により正次が理解したところによると、この世界の情報は全てレッドブックという本のようなところに記憶されており、その本のページがいっぱいになると世界は滅んでしまうらしい。


 第五世代というだけあって、過去にも四つの世界があったのだが、その四つの世界も、正次たちが住んでいる世界と同じように、世界の容量不足により滅んでしまっている。

 そして今まさに、世界は五回目の滅びを迎えようとしていた。


 とはいえ、このことは正次には、にわかには信じられない話だった。

 それもそのはず、正次が若い頃にはまだこの世界の仕組みは詳しく解明されておらず、レッドブックや5Gや6Gという名称が知れ渡ったのもつい最近の事なのだ。


「うーん、頭では理解できても、やっぱり俺には信じられないなあ」


「かーっ、これだから頭の固い老人は!」


 青球は頭を抱える。


「テレビでも言ってるだろ? この世界が過去にも四回滅んだ形跡があるって。ちゃんと証拠もあるんだよ。世界が次の本へ移行する準備を進めてる形跡も、きちんとした研究機関が観測してる。これは現実なんだよ」


「でもなあ」


「まあいいや。とにかく、爺さんは俺の言った通りに黙って次の世界への手続きをしてくれればいいから、もう口出ししないで」


 青球は、正次を天動説を頑なに信じる古代人でも見るような目で一瞥すると、さも面倒くさそうに作業の続きを始めた。


「ほら、これで後は大丈夫。世界が終わるまでこのプラグは抜いちゃダメだからな」


「ああ、ありがとう」


 ピシャリとドアを閉めて青球が帰っていく。


 正次は、ぼんやりとテレビモニターに視線を移した。

 テレビの中では、なおも赤い本が映し出され、容量がどうのと話している。


 他のチャンネルを回しても同じなので、正次はとうとうテレビを消してしまった。


(「レッドブック――赤い本」か)


 正次はタンスの上に飾ってある女性の写真に目をやった。


(そういえば、美津子と出会ったのも、赤い本がきっかけだったな)


 写真立ての中では、四十年前に亡くなった妻が、あの頃のままに微笑んでいた。


 ***


 正次と美津子が出会ったのは高校三年生の夏。

 正次が図書館で受験勉強をしていたところに、声をかけてきたのが美津子だった。


「ここ、空いてますか?」


「はい。どうぞ」


 隣の席に置いていた荷物を片付けながら、正次は美津子の顔をチラリと見た。


 色白の頬、すっと通った鼻筋の整った横顔。細く長い首筋に、ポニーテールの後れ毛が垂れている。


 正次は、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じた。


 違う高校の制服。自分と同じ受験生だろうか?

 彼女が手にしている赤い表紙の参考書には、自分と同じ志望大学の名前が書かれていた――。


 正次は死に物狂いで勉強をし、見事志望大学に合格した。

 そしてそこで美津子と再開し、二人は交際を始めたのであった。


「実を言うとね、私、あなたのことをずっと前から知っていたの」


 大学に入り、美津子と付き合い始めてしばらくたった頃、美津子は恥ずかしそうに正次に教えてくれた。


「えっ?」


 ずっと前? いつからだろうか。

 正次がびっくりしていると、美津子は白い頬を真っ赤にして打ち明けてくれた。


「正次くんって高校生の時に、市立図書館でよく本を読んでいたでしょう? 初めは狙っていた本をよく先に借りられるから、それで知ったんだけど何度も図書館で姿を見かけているうちに、ああ、カッコイイなあって気になって――」


「じゃあ、僕のために、この大学を?」


「もちろんそれだけじゃないよ。将来のこともちゃんと考えて受験したし」


 照れたように美津子は笑う。


「この大学、図書館司書の資格が取れるじゃない? だから、将来は司書になるのもいいかなってこの大学を選んだの」


 この言葉通り、美津子は図書館の司書として、病気で亡くなるまで働いた。


 彼女は幸せだったのだろうか?


 時折、正次は思い返す。


 美津子には苦労をかけた。自分の給料が低いせいで、美津子が子供を産んでからも、フルタイムで働かせてしまった。

 そのせいで体を壊し、病気になったのではないかと思うと、正次は悔やんでも悔やみきれなかった。


 ***


「おはようございます。今日でこの世界で過ごす日々も最後となりました。専門家の話によると、世界の崩壊は正午ごろ始まる予定です。皆さま、次の世界へ移行する準備はくれぐれもお忘れなきよう――」


 ニュースキャスターが繰り返し告げる。


 正次は昨日焼いたサンマの残りを咀嚼しながらぼうっとそのニュースを見ていた。


 さすがに当日になったら、世界が終わる実感も湧くだろうと思っていたけれど、七日前と同じく、正次にはその実感はまるで湧かなかった。


 ふとスマホを見ると、息子からメッセージが届いてる。


 『親父、元気か? 今日で世界が終わるな。俺は何があるか分からないから、家族と家にこもってゆっくり過ごす予定だよ。親父も気をつけて。また次の世界で会おう。くれぐれもプラグを抜かないように』


 「また次の世界で会おう」か。


 ニュースによると、レッドブックに記憶されたそれまでの記憶はバラバラになり、宇宙の塵となって消えてしまうのだという。


 孫の正次が設置してくれた装置で、正次の記憶は次の世界に送られ、そこから魂と肉体が再生されるとは言うが――。


 正次は美津子の写真を手に取った。


 美津子は次の世界には行けない。もう亡くなってしまったから。


 正次は七十五歳だ。人生百年時代とはいえ、よく生きた方だと思う。美津子のいない、次の世界に行ってまで生きたいのか?


 【ブーブーブーブー】


 正午になり、アラーム音が鳴り響く。

 いよいよ世界の崩壊が始まった。


 正次は大きく深呼吸をすると、孫の設置してくれた装置のプラグを勢いよく引き抜いた。


 ***


 (――ここは、どこだ?)


 気がつくと、正次は何も無い真っ暗な空間にいて、辺りには、星のようなものがチカチカと煌めいていた。


 じっと目をこらすと、星の一つ一つには恋人たちの楽しげな笑顔や、子供と過ごす親たちの満ち足りた表情が映っている。


 (これは、バラバラになった記憶たち?)

 (ということは、レッドブックがいっぱいになって記憶たちが塵になってしまって……じゃあ、ここは――)


「正次くん、来てくれたんだ」


 聞き覚えのある声。

 それと同時に、電気がついたように辺り一面が明るくなり、自分が本のびっしりと並ぶ図書館のような場所に立っていることに気づいた。


 そして図書館のカウンターの向こうには見覚えのある女性――美津子が立っていた。


「美津子!」


 正次は美津子に駆け寄る。


「どういう事だ。美津子は死んだんじゃ」

「うん、私は死んだよ。でも、ここは時間も空間も距離も関係のない場所だから」


 ニコリと笑う美津子。


「ここは、レッドブックの中なのか?」


 正次が恐る恐る尋ねると、美津子は首を横に振る。


「ううん、レッドブックはこれ」


 美津子は本棚にささった赤い本を指さした。


「見て」


 美津子は正次をカウンターに案内してくれる。

 古めかしい木目のカウンターには、青い表紙の真新しい本が置かれていた。


「真っ白だ」


 正次は青い表紙の本をペラペラとめくった。そこには何も記されていない。


「うん、それは産まれたばかりの世界だから」


 美津子の言葉に、正次は自分が「世界」を記憶している図書館に来たのだと知った。


 そうか、美津子はこの場所でも司書を続けていたんだ。

 美津子は、本当に司書の仕事が好きだったんだ。


 正次は、胸のつかえがすうっと取れたような気分になった。


「――何か、お探しの本はありますか?」


 美津子が柔らかく微笑む。


「そうだな」


 正次は辺りを見回した。


 何せ、ここには、一生かかっても読み切れないほどの本がある。一体何の本を読んだらいいのか。


「それじゃあ」


 正次は、美津子の胸の辺りを指さした。


「美津子、君の物語を読ませて」


 全ての物語がここに記憶されているのならば、きっと美津子の本もあるはずだ。正次はそう考えた。


「かしこまりました」


 美津子は恥ずかしそうにピンク色の小さな本を持ってくる。


「恥ずかしいから、私のいない所で読んでね」


 言われた通り、正次は物陰でこっそりと美津子の本を読んだ。


 正次の想像とは違い、それは短くとも、愛に満ち溢れた優しく幸せな物語だった。

 正次の胸に暖かいものがぐっとこみ上げてくる。


「次は何の本にする?」


 美津子がにっこり笑う。

 正次は答えた。


「ゆっくり決めるよ。焦らなくても、ここには本がたくさんあるし」


 正次は壁から天井まで埋め尽くす無数の本を見上げて思う。


 ――そうだ。

 ここは君と僕の秘密の図書館。

 次の世界には行けなくても、ここでずっと君と過ごすのも悪くないだろう。


 いつの間にか、二人の姿は出会ったあの頃、高三の時の姿に戻っていた。


「行こう」

「うん」


 二人はそっとうなずき合い手を繋ぐと、ゆっくりと書架の奥へと消えていった。



[完]

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