物言わぬ共有者


 月が空高く昇っても雨は続いた。人目をはばかるにはちょうどいい夜だろう。私はローブを羽織り、小さな青いトランクだけを持って住み慣れた家を出た。買い集めた本は、少し迷ってからすべて置いていくことにした。

 どこを目指すにしても、必ず商店通りを抜けねば街を出られない。雨水に濡れた道をブーツで鳴らしながら足早に進んだ。

「あ……」

 後ろ髪でも引かれたように、深草色の看板下で立ち止まってしまう。ネクトルが祖母と営む本屋の前、何度も何度も通った店。この二階に彼が住んでいる。顔を上げると雨粒が目元で跳ね、涙のように頬を伝った。

(せめて。別れを告げられなくていい、眠る顔だけ見れたら)

 本当は良くないと思いながら戸口の前に立つ。周囲の風を集めて細く編み上げると、鍵穴へゆっくり差し込んだ。指先を混ぜるみたいに揺さぶれば、カチリ、と小気味のいい音がした。

 一度お茶に呼ばれたこともあって部屋の位置は覚えている。靴周りの空気に音を吸い込む魔法を施してから、私は明かりの消えた室内を歩いた。夜目は利く方だ。ネクトルは寝台に横たわり、規則正しく胸を上下させているようだった。

 逞しく育った彼に抱き締められたら、どれほど幸せだっただろう。

「──っくしゅん!」

 はたと自分の口を抑える。想定外に体が冷えていたらしい。何をやってるのだと慌てるうちに、寝息が聞こえなくなったことに気づいた。

「……アネ、モス?」

 眠たげな目を凝らし、まだ夢現といった様子で体を起こしたネクトルが月明かりに照らされた。瞬きを繰り返す目蓋はそのまま閉じてしまいそうだ。

「……こんばんは、ネクトル。あなたはまだ夢の中よ」

 苦し紛れの嘘は通じたらしく、彼は覚束ない口調で「そうか、夢か」と答えた。

「夢なら、伝えたいことが、ある。夢でもないと、俺には言えない。なあ、アネモス……アネモス」

 重たそうに持ち上げた腕がこちらに延びてくる。でも届かない。ここから立ち去れなくなる気がして、届く距離までは近づけなかった。

 代わりに、精一杯優しい声を出した。

「なあにネクトル。何を伝えたいの」

「俺は、アネモス……お前が、大切、なんだ。……いとしい」

「……ぁ」

 息が止まりそうだった。目が、胸が、身体すべてが熱を持つような高揚感が一息に私を包む。これまでも好意を寄せられたことはあった、でもそのどれとも違う。

 私の胸の中にも彼がいる。彼の瞳が、言葉が、私を常に射抜く。想いを通わせる幸せに満たされながら、自ら手離さねばならない現実に深い喪失感を覚えた。

(……愛してる。愛してる、愛してる、愛してる!)

 叫びたい気持ちを飲み込んで、私は数度瞬きをした。溢れそうだった涙は一瞬で蒸発しキラキラと空中を舞った。そして、柔らかな声音のままで淡々と告げる。

「ありがとう。でも、私は愛してなどいないわ。忘れたの? 初めて会った頃、あなたまだ少年だったのよ。あなたが思うほど私は若くないし、あなたのような子供を好いたりしないの。はっきり言って迷惑よ」

 私に心を囚われないで。誰か相応しい人と幸せに生きて。それだけを願って、ネクトルの気持ちを踏みにじる。遠い昔にされたみたいに、彼のことを傷つける。

 共に歩もうとすれば、彼が不幸になるだけだから。ああ、なんて酷い愛の形。

《アネモス、それは嘘だわ》

《アネモス、それは嘘よね》

 いつの間にか部屋に漂っていた妖精たちがヒソヒソと囁いた。でもネクトルには聞こえない。普通の人間には何も聞こえない。

「アネモス、俺は」

「あなたは夢を見てるの。夢だけど、あなたが愛したアネモスはこんな女だったのよ。忘れてしまいなさい」

「待ってくれ。夢じゃない、お前はここにいる。お前がなんと言おうと俺は──」

 言葉を続けようとしたネクトルの鼻先に、口を開けた匂袋を突き付けた。鹿そうを軸に魔法で練り上げた中身は不眠改善用に作っていたものだ。布を介さず直に嗅ぐには効果が強く、ネクトルはふわりと眠りに落ちた。

 もう、お別れだ。夜更けのうちに行かなくては。私は急いできびすを返した。階段を駆け降りて通りに飛び出す。雨は弱まっていた。

「皆の記憶を消せたらいいのにね……」

 そっと呟く。魔法とは、自然界の力を借りて増幅させるもの。それがことわり、だから出来ないのだ。人の心に、想いに干渉することは。

 駆けて駆けて、街を抜ける。雨が上がり、日が昇り、地面が豊かな芝生に覆われた場所まで来てからようやく足を止めた。見下ろせばローブもトランクもずぶ濡れだ。荷物は無事だろうか。

(そういえば、花を)

 枯れかけていたあの花を窓辺に置いてきてしまった。私の目に似ていると言ってくれた、あれはアネモネだ。名前まで近しい花は、風が吹き込む度に優しく揺れていた。

 もう色褪せてはいたけれど、連れてくればよかったと悲しくなる。ネクトルを愛した、彼に愛された思い出として、萎びても手元に置いておきたかったのに。沈む気持ちのまま視線を落とすと、足元に広がる水溜まりへ自分の顔が映った。

「アネモネ……?」

 言葉が零れ落ちる。同じ赤とは思っていた両の目、それだけではなかったのだ。鏡ならいつも、馬鹿みたいな長い日々の間、何度も見ていたのにわかっていなかった。

 林檎よりも鮮やかな赤の虹彩に浮かぶ、黒い瞳。その周りを白が細く縁取っている。アネモネの花そのものだった。花はここにあったのだ。

「ネクトルは、私の目にアネモネが咲いていると思ったのね……」

 もう、十分だ。どれだけ熱を込めて真摯に見つめてくれていたのかわかる。この喜びを胸に私はひとりで生きていく。ばけもの、そんな声を投げつけられたあの時とは違うのは、愛した人に愛された事実だ。正体を明かさない上でのことではあったが、これ以上は望まない。

 心が通じていたことは、永遠に私だけの秘密だ。

(ああでも、私だけとは言えないわ)

 ネクトルと話した時、私の魔法に反応して顕現した妖精には見抜かれていた。純度の高い存在である彼女たちに内緒なんて通じない。

 錠を解いた風も、音を消した空間も。体を濡らした雨だってそうだ。彼らは知っている。私が魔女だということ、私が胸を熱くしたこと。魔法の原点たるこの自然界せかいは、言葉こそ持たなくとも把握し得ないものはないのだ。


 だからこれは、私と世界の隠し事。

 愛した証を瞳に咲かせた魔女の、生きる支えとなる秘密。



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魔女と世界の隠し事 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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