雨音に溺れる


 ドタリドタリと石畳を踏み鳴らす音で、戸を叩かれる前に来訪がわかった。薬を引き渡したばかりのアレスさんだ。棍棒こんぼうのような脚が思い出された。

「アンタの薬はよく効くと思っちゃいたが、今度のは何だい、え? 塗った途端に膿んだ傷口がみるみるキレイになっちまったじゃないか! いったい全体どういうこった、なあ、まるで魔法だ!」

 どんな秘密があるのか教えてくれ。

 金なら払うからもっと譲ってくれ。

 ぜひ街の皆にも触れ回らせてくれ。

 息を継ぐ間もないほどの勢いで詰め寄られ、私はなぜか懐かしいような感覚に襲われた。何を言われているのかあまり耳へ入ってこない。この気持ちはいったい何かしらと遠い記憶をフワフワ泳いでいた。


 ──ばけもの。


 そこに辿り着いた瞬間、ぞろり、と内腑ないふを素手で撫でられた気がした。言い様のない気持ち悪さに肌が粟立つ。急に、自分がしくじったのだと自覚した。体温が下がり、指先が震える。何も目の前にいる巨漢を恐れたわけではない。私は古い失態に吐き気を催したのだ。


 ──ばけもの。


 随分と昔の話だ。長く滞在した土地だった。人も気候も何もかもが良く、一生ここで暮らしたいと願った場所。どんな時も助け合ってきた親しい彼らと別れるのが惜しくなり、私は秘密を打ち明ける決心をした。話せば解ってもらえる、受け入れてもらえる。そう、彼らならきっと。

 当時、今よりも派手な魔法を嗜んでいた私は、水を、炎を、植物を意のままにして証拠を示した。力を隠したままでは実現し得なかった彼らの願いを叶えてみせた。


 ──ばけもの。


 そうして私が得られたのは、投げられた石と、奇異の目と、罵詈雑言。最後はあの言葉だ。一番親しいと思っていた愛らしい女性。恋にすら似た憧憬を抱いていた美しい人。彼女は、ただ一言を口にして見たこともないほど顔を歪めた。

 どれだけ心を許しても、魔女だと明かしてはいけなかった。それでいて、この世界では人や文明との交わりなくして生活することも難しい。万能、無限、永遠。魔法はそのどれでもないのだから。魔法しか使えない私は、魔法だけでは生きていけないのだ。

 ゆえに私は秘密を持つ。なのに、なのに、なのに。

(平和に、浸り過ぎた。どうして忘れられたのだろう)

 間違えたのだ。一番気をつけねばならない、治癒力促進の魔法配分を。活性化による再生速度の匙加減を。浮かれて集中力を欠いていたとしか思えなかった。

 命までは救えない、重症までは癒せない。それでも人間には十分異質な力だ。ありきたりな薬程度に抑える必要があるのに、完全に手元を狂わせていた。

「……いいえ、いいえ、アレスさん。落ち着いてちょうだい。偶然もう治りかかっていたのよ、それだけのことよ」

 乾ききった喉から音を絞り出す。どう考えても苦しかった。

「馬鹿を言え、オレはこの目で見たんだ。アネモス、アンタは何か特別な力を持ってんだろ? そうに違いない」

 どれくらい押し問答をしていただろうか。濃紺が迫り始めた空から雨粒が落ちてきたのを言い訳に、なんとか戸を閉めることが出来た。非常に不満げな顔が細くなり、消えていく様が恐かった。

 アレスさんは驚くままに走って来たようだが、街中に話が広がるのは時間の問題だ。たったひとつの奇跡、誤魔化せる可能性もあるのかもしれない。でも一度噂になれば訝しむ者が必ず現れる。今は単純に騒いでいるだけのアレスさんも、冷静になると事の異常さに気が付くだろう。

(確かに潮時だった。でも、でもこんなの)

 発つなら今夜のうちだ。少しでも早い方がいい。東から来たから、今度は南へ? それとも遥か遠い西の大地を目指そうか? 混乱と焦りでおかしなことばかり考えた。

 もうあんな思いはしたくない。そうやって街から街へ、国から国へ転々としてきたのに、長過ぎる歳月で知らず意識が緩んでいたのか。

「私、私──もう、ネクトルに会えない」

 思わず零れた本音に胸を押さえる。傷もないはずの場所がズキズキと痛みを訴える。部屋の中には雨音が響くばかりで、返事をしてくれる妖精はいなかった。


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