濡羽の髪を想う
ネクトルと初めて言葉を交わしたのは、私がまだこの街に流れ着いたばかりの頃だ。不慣れな土地には珍しい植物や薬草も多い。これは改めて勉強せねばと図書館を探していた。
「そんなものはここに無いが、ウチは本屋だ」
場所を知らないかと尋ねてみれば、両手で大きな荷物を抱えた少年がそう答えて顎をしゃくった。つられるようにそちらを見ると、なるほど雑踏の先に書店らしき看板がある。仕草に粗雑な印象を受けたが、声を掛けた相手は悪くなかったらしい。私は彼に着いていった。それがネクトルだった。
人混みから彼を選んだのは本当にたまたまで、あえて言うなら彼の黒髪が物珍しかった。それだけの理由だ。
「あの……こういう本はあるかしら」
店内は、それこそ図書館のように壁一面が本だった。迫力に圧倒されつつ少年を呼び止める。荷を降ろした彼は私の説明に数度頷くと、入り組んだ本棚の間をどこか嬉しそうに案内してくれた。
「これと、これと、あとは……この辺りか。こういった本は関心を持つ人が少ないから、ほとんど祖母の趣味で置いているんだ。俺も詳しくはないが、仕入れてきた甲斐があった。アンタのお陰だな」
「おばあ様は薬学に通じていらっしゃるの?」
「言ったろ、趣味さ。この手の本は装丁が綺麗だから並べたがるんだよ」
案外単純な理由に吹き出したのをよく覚えている。なんだか楽しくなって、学術書の他に小説まで数冊購入してしまった。また次に街を離れる日には邪魔になるとわかっていたが、その時はその時だ。
「俺の名前はネクトル。アンタ、見ない顔だな。鮮やかで綺麗な赤い目だ」
瞳を褒められたのは嬉しかった。この日を機に顔をあわせることが増え、その度にたくさん話をした。根なし草で故郷を知らないこと。今は薬師としてこの街に来たこと。大きなモクレンの向こうに住み始めたこと。
彼もまた話してくれた。脚を悪くした祖母と二人で店を切り盛りしていること。
一重の目は鋭くも感じたが、その中には黒曜石のような瞳がキラキラと輝いていた。
(あれから、もう何年も経つのね)
ネクトルは立派な青年になった。おばあ様のために薬師としての私を頼り、私もよく彼の店へ足を運んだ。今では旅に不向きなほど本棚が埋まってしまっている。
でも、先日みたいに花を贈られたのは初めてだった。どうして私にくれたのだろう。刻む用の小刀を手にしたまま、うっとりとため息をついてしまった。
《アネモス、ぼんやりしてると調合を間違うわ》
「ぼんやりなんてしてないわ。あら、今日は──」
一人なのね。そう言おうとして止めた。居ないのは、つまりそういうことだ。私が命の長さを自覚しているように、彼女たちも自身の脆さをよく知っている。音にならなかった言葉を察したように彼女は微笑んだ。
《アネモス、あの花に魔法はかけないの?》
視線を向けた先にはネクトルがくれた一輪の花。花瓶に挿してから日が経ち、花弁の赤はゆっくりと褪せ始めていた。少しでも鮮度を維持してはどうかと聞きたいのだろう。私はゆるく首を振った。
「短い一生だからこそ美しく咲いてるのよ。それを邪魔してはいけないわ」
そんなことより、今は薬の調合中だ。数種類の木の実と細かく刻んだ薬草、それらを
作業台の上は液体、粉末、加工前の材料と魔法の
(枯れる頃に、また花を贈ってくれないかしら)
作業に集中しないといけないのに、私は始終、馬鹿な願望に気を散らせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます