常世の彼方
ひろせこ
黒の章
第1話 少女
少女は村の中を駆けていた。
明かりを灯す薪代すら覚束ない貧しい村の夜は早い。もうとっくに日は落ちた。
村人は代わり映えしない明日に希望すら抱かず眠りにつき、しんと静まり返った村の中は漆黒の闇に包まれている時分だ。
おまけに今日は新月で、厚い雲に覆われた空は星一つ出ていない。本来ならば明かりなしでは走ることはおろか、歩くことすらできないだろう。
しかし、その中を少女は駆けていた。赤々と燃え上がる村の中を。
これは何の臭いだろう。
家か、畑か、それとも人が燃える臭いか。あちこちで悲鳴が聞こえる。
ああ、さっきから漂ってくる鉄臭い臭いは血の匂いだと少女はようやく気付いた。
どうしてこうなったのだろうと少女は思う。
皆に疎まれ蔑まれても、殴られても蹴られても他に行き場がなかった少女は必死に生きていた。
隣国が攻め込んでくるという噂は、辺境のこの村にも聞こえてきてはいた。
しかし、こんな辺境の何もない貧しい村にわざわざ攻め込んでは来ないだろう。自分たちの知らない場所で戦は起こり、知らないうちに戦は終わる。
仮に自国が負けて隣国が勝ったとしても、税を納める場所が隣国に変わるだけだ。現に招集命令すら来ていないではないか。
ここは国からも忘れ去られたような村なのだ。自分たちの生活はこれからも何ら変わらない。
そんな楽観的な、諦めにも似た境地で村人も、少女もそう思っていた。
それなのになぜ、村は燃え上がっているのだろう。
ろくに飯も与えず、家畜のように少女を扱っていた養親と、少女を気持ちの悪い目で見て、最近では体に触ってくるようになったその息子が切り殺されるのを見た後、少女は粗末な家を飛び出した。
逃げられたのは奇跡といっていいだろう。ただその奇跡も長くは持たない。
死神の鎌は少女のすぐ後ろまで迫っている。
これまでも死んだような人生だった。それでも少女は死にたくなかった。
だから少女は走る。もつれる足で、生に向かって走った。
と、突然背中が焼けるように熱くなり、少女はもんどりうって倒れた。
必死で起き上がろうとしたところに、今度はわき腹に焼けつくような痛みが走った。
背中を切られ、わき腹を刺されたと気づいた時には、ぬらぬらと血糊で光る剣を握った男が、倒れこんだ少女に覆いかぶさるところだった。
荒い息を吐き、血走った目で自分を地面に縫い付ける男を見上げながら、少女は唐突に生きることを諦めた。
先ほどまで感じていた狂おしいまでの生への渇望が、みるみるうちに消えていくのを少女は感じた。
粗末な夜着を引きちぎられ、足を弄られながら少女は目を瞑り、どくどくと心臓の音とともに血が流れ出ていくのを感じながら、次に生まれてくる時は、あと少し、あと少しでいいからまともな人生を送りたいと願った。独りぼっちじゃない人生を願った。
ふっと、自分に覆いかぶさっていた男の重みが消え、少女は優しく抱きかかえられた。
重い瞼を必死に開けると、そこには見知らぬ青年がいた。炎に照らし出された髪は黒。
今にも涙がこぼれそうな瞳は、アメジストのような紫。
きっと明るいところでみたら綺麗だったろうなと少女は思った。
青年が何か叫びながら少女を胸にかき抱いたが、少女にはもう何も聞こえなかった。
この青年の腕の中で死ねるのならば幸せだ、となぜか思った。
そしてまた、自分は幸せなのだとこの見知らぬ青年に伝えなければならないと少女は強く思い、もう力が入らない震える右腕を必死に上げ、青年の頬に己の手のひらを添えて微笑んだ。
自分はうまく微笑めただろうか。青年に自分の気持ちは伝わっただろうか。少女が最期に見たものは、頬に添えられた少女の手を握り滂沱の涙を流している青年の姿だった。
少女は最期に独りぼっちではなくなった。
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