20th Chart:抜錨

1941年12月3日 早朝 金武湾


 東の空から広がった紫紺が頭上を覆う夜の帳を音もなく西へと押し流していく。外海とは切り離された巨大な湾内に、喨々とした喇叭の音が響き渡った。金管楽器の澄んだ音色が朝焼けの大気を震わせ、穏やかな海面で微睡んでいた鋼鉄の猛獣たちの眠りを覚ましていく。

不意のホイッスルが冷涼な空気を切り裂くと、艦首から垂らされた重厚な鎖が不協和音を遺しながら巻き取られ、背部に屹立した太い煙突から立ち上る排煙は、見る間にその量を増やしていった。


「両舷前進、最微速」

「両舷前進、最微速。宜候」


 まず最初に、泊地の出口側に陣取っていた軽巡洋艦の艦尾が俄かに泡立ち、鋭角に立ち上がる艦首が滑らかな海面を切り裂いて白波を立てる。

 阿賀野型軽巡洋艦、四番艦『酒匂』。多くが海上護衛総隊、もしくは或る特殊艦に改造された5500t級巡洋艦の代替として、水雷戦隊の旗艦となるべく建造された艦だ。

基準排水量約6600tの細身の艦体には、主砲の五〇口径一五.ニセンチ連装砲が三基六門備えられ、艦の中央部には四連装六十一センチ魚雷発射管2基が航空艤装の中に潜むように配置されている。また、甲板の各所には、急遽増設されたらしい大小の対空砲座が立ち並び、細い筒先を青へと塗り替えられようとしている空に向けていた。

 その後ろに続くのは8隻の吹雪型駆逐艦からなる第十一、第十二駆逐隊の面々だ。阿賀野型が大型化した駆逐艦のようにも見えるせいか、これらの8隻は親鴨に続く小鴨の様にも見えてしまう。

 しかし、それは全くの見当違いと断じてよい。

 排水量こそ阿賀野型の半分程度という小兵ではあるが、水雷兵装に限って言えば『酒匂』を上回る9射線を確保している。また主砲には五十口径十二.七センチ連装砲を前方に1基、後方に背負い式で2基配置していた。

 基準排水量1680tとは思えぬ重武装は当時の列強海軍を震撼させ、旧式駆逐艦を大量に抱えていた米海軍のある将校は、本型50隻と旧式駆逐艦300隻の交換を希望したとすら言われている。

 後の悲劇を予言した某造船技師は「単なるトレードオフの結果」とバッサリ切り捨ててはいたものの、その性能は旧式化しかけているとはいえまだまだ現役に十分耐えうる。 

 そして、諸外国から『無謀』とも称されるほどの研鑽を積んだ帝国海軍士官の手に掛かれば、戦場において8隻の吹雪型駆逐艦はまさしく目標を”駆逐”する矢となって、敵に襲い掛かるだろう。この性質の悪い猟犬に狙われる側にしてみれば、大柄な『酒匂』よりも危険な相手かもしれない。

 『酒匂』以下8隻によって編成された部隊――第四水雷戦隊が金武湾を出ると、それに続く様に二隻の巡洋艦、『神通』『加茂』によって編成された第十戦隊が白波を蹴立てて、重い艦体を外海へと乗り入れる。

 かつては5500t級と一括りにされていた傑作巡洋艦達ではあったが、或る者は海に飲まれ、或る者は後方へ去り、こうして第一線に残るのはこの2隻だけとなってしまった。

 とはいえ、彼女らの姿を目にした人々は、誰もが甲板に居並んだ仰々しい魚雷発射管の群れに視線を奪われるに違いない。モノ自体は『酒匂』や陽炎型にも搭載されている四連装の六十一センチ魚雷発射管と同一の装備だが、この二隻は強力な本兵装を片舷五基、両舷合わせて十基四○門備えていた。

 たった一隻で一個駆逐隊を凌駕する魚雷を投射可能な、帝国海軍水雷戦隊の切り札。重雷装艦と呼称される艦だった。

 もっとも、如何にも戦局を回天せしめる秘密兵器と言う風体ではあるが、その実状は余り褒められたものではなかったりするが、第五艦隊にとっては貴重な対水上艦艇への切り札に外ならない。

 周囲を威圧するかのように航進していく曲者の2隻の重雷装艦が遺した航跡波は、金湾の波間に消える前に、後ろから迫った巨大な鉄塊によって押しつぶされた。

 『酒匂』も、『神通』も、決して小さな艦ではない。全長は170mに達しており、一昔前の装甲巡洋艦をしのぐ大きさを持っている。

 しかし、湾奥から現れた城塞のスケールはまさしく桁が違った。

 堂々とした体躯は三万トンの海水を押し割り、甲板上では鉄塊から削り出したかのような重厚な三十六センチの巨砲が連装六基、居並ぶ十二本の黒鉄の大樹へ、僅かに仰角をかけて鎮座している。舷側からはケースメイト式の副砲群が隊伍を組んだ槍衾の様に突き出して海を睨み、ひときわ目を引く丈高い艦橋周辺を取り囲むように各種の対空火器が空を仰いでいた。

 違法建築とすら表現できるほど、歪なシルエットをもつ艦橋のヤードには、ピンと張られたワイヤーに色とりどりの信号旗が朝の風に踊っている。その中でも旭日を意匠としつつ、上辺が紅色で塗られた巨大な中将旗が、自らの存在を主張するかのようにはためいていた。


「両舷前進微速、針路まま」

「両舷前進微速、針路そのまま、宜候」


 航海艦橋に『扶桑』艦長、渋木護海軍大佐の何処かのんびりとした命令と、栗栖航海長の復唱が響き、ほぼ同時に足に伝わる機関の振動と、はるか下に見える艦首を彩る白波が大きくなる。


「『山城』及び第ニ十一戦隊『瑞穂』『君川丸』、さらに第十九駆逐隊続きます!」

「了解。さて――とりあえず、何事もなく出航は出来そうですな、長官」


 渋木が振り返ると、堂々とした体躯の海軍中将――第五艦隊司令長官、近藤信武と目が合った。

 何処か布袋様を思わせる将官で、勇ましい名前に反し極めて温厚な印象を受ける。どちらかと言えば海上での経験よりも後方での勤務が多く、こうして艦隊を率いるのは今回が初めてという提督だった。

 しかし彼が任された第五艦隊は、旧式とはいえ戦艦二隻を擁し、小規模ではある者の南方進出において極めて重要な役割を果たす艦隊だ。

 初仕事としては簡単な部類でもなく、相当な重圧がかかると想像できるが、近藤長官の顔に覚悟は有れど焦りの色は見られなかった。

 現に、軽口に等しい渋木の言葉に「そうでなくては困る」と肩を竦めておどけて見せるほどだった。


「行きはよいよい、帰りは怖い。だよ、渋木艦長。それに後ろに陸さんもいるんだ、あまり無様な姿は見せられん」


 チラリ、と近藤の目が後方を気にするように動く。

 第五艦隊が出航した後、海上護衛総隊に守られる形でフィリピンと台湾を攻略する陸軍将兵を満載した輸送船団も金武湾を出る。いよいよ出陣と言う時に、玄関先で躓いていては帝国海軍の名折れも良い所だ。


「上の連中にも、ですな」


 渋木の言葉に何方からともなくの明け方の空へと視線を向けた瞬間、重厚な機関の鼓動を掻き消すような、軽快なエンジン音が後方から響く。

 直後、間近にまで迫ったエンジン音は頭上を飛びぬけ、蒼に染まりつつある空の中へと駆け上がっていった。研ぎ澄まされた日本刀のような伸びやかな主翼に朝日が光り、大きく描かれた日の丸を空に浮かび上がらせる。

 沖縄中央部に開設された中飛行場から離陸した、上空直掩の零式艦上戦闘機の編隊だ。今後、金武湾から出撃する第五艦隊は、中城湾に集結した第三艦隊と共に航空機の傘を借りながら一路台湾へと向かう事になっていた。


「当初の想定通り、楽に台湾を手に入れられれば良いのですがな」

「都合が良すぎるような気もするが、奴らの姿が見えない事は事実だからな。望みは捨てたモノでは無いだろう」


 第五艦隊の主な攻略目標は台湾とフィリピンだったが、現時点において前者に限っては殆ど無血で占領できると見られている。

 というのも、前大戦において日本は確かに、住民諸共に台湾から全面撤退を余儀なくされたが、終戦直後から台湾に上陸したレヴィオンの数は急激な減少を示していた。

 台湾の気候が合わなかったのか、それとも台湾から人類を叩き出したことで満足したのか、はたまたそれ以外の別の理由か。結局、この不可解な撤退を判断する前に、レヴィオンはおろかワーカーも、5年程度でその姿を消してしまったのだ。

 しかし残念なことに、当時は何らかの妨害や伏撃が予想される、台湾への再進出を考えられるほど国力に余裕などありはしなかった。それよりも、十分に保持でき、基地化、要塞化がある程度進んでいた沖縄への注力の方が現実的であったため、台湾に関しては経過観察と言う手が打たれていた。

 とはいえ、南方資源地帯を手中に収める場合、台湾はフィリピンと同様に重要な拠点であり、攻め落とさない理由は無い。

 上陸する機材の中には遺産工廠や各地の工場で生産した大量の土木作業機械も含まれており、上陸後は高雄付近に野戦飛行場を設営し、基地飛行隊である第二十一航空戦隊を大気地点の沖縄から進出させる手はずとなっている。

 フィリピン攻略戦に間に合う事は無いが、台湾に設営される飛行場は南方資源の輸送路を守る重要な傘になる筈だった。

 ただ、先にも近藤長官が口にした通り、台湾攻略は極めて順調に進むとみられる。

 これまでの偵察の結果、台湾の陸上にはレヴィオンの姿は無く、平穏其の物の巨大な無人島と言う他無かった。恐らく、一発も打つことなく上陸部隊と機材は演習さながらに陸揚げされ、第五艦隊は沖縄=台湾間の増援と補給物資の輸送を、海上護衛総隊に託してフィリピンへ発つことになるだろう。 

 そこが、第五艦隊の決戦の地、正念場となるのだ。


「時に渋木艦長、コレヒドールの件を聞いたかね?」


 探る様な近藤の言葉に「まぁ、一応は小耳に挟んでおりますが」と細い肩が竦められる。


「主砲での攻撃を禁じられている以上、今更気にするだけ無駄でしょう。何事もない様に祈りながら水道を抜ける他ありませんな。――本音を言えば最大射程で三十六センチ砲をぶち込んで、どうなるかを確認したいですがね。もしドカン!といっても、湾口も広くなって使い勝手も良くなるでしょうし」


 ヒッヒッヒと笑いをこらえる渋木だが、べっこう眼鏡の奥の目は笑っていない。

 コレヒドール島の隆起を遺産工廠の出現と考えている伏美宮のゴリ押しで決まった制約を、心の底では蹴飛ばしてしまいたいと考えている証拠だった。


「責任は私が取るから遠慮なく撃て、と言ってやりたいが、そうもいかないのが現状だ。まあ、要塞砲に対して副砲での反撃の許可は取り付けて来たから、それで何とかしてほしい」


 遺産工廠の外壁は其れなり以上の強度を持っていることは良く知られている。流石に大口径徹甲弾をはじき返すことはできないだろうが、中小口径の榴弾ならば万一直撃したとしても十分耐えると考えられていた。


「それが唯一の救いですな。もっとも、アイツが居なけりゃ第五艦隊の誰もが首を縦に振らなかったでしょうが」


 渋木の言葉に、近藤を含む会話を聞いていた第五艦隊幕僚の彼方此方から失笑が漏れた。見えない事を解っていながら、思わず天井に視線をやってしまう人間も数人みられる。

 当初、アイツこと『扶桑』砲術長、有瀬一春中佐の技量に疑念を抱く第五艦隊の幕僚は少なくなかった。

 書類上は優秀な成績、というよりも”あまりに出来すぎで荒唐無稽”とすら称せる経歴を持っていたたために、口の美味い山師や詐欺師の様な認識が一時広がっていたほどだ。

 だが、彼らの認識は、彼ら自身が化けの皮を剝がすために設えた標的艦『摂津』と共同した砲撃訓練を目にして、大きく改められることになった。

 金剛型戦艦の発注時、搭載予定であった十五センチ単装副砲を日本人の体格では速射は難しいとして、土壇場で変更した過去を持つ十四センチ砲は、今では帝国海軍艦艇の多くに採用された中口径砲であり、『扶桑』の副砲としても装備されている。『摂津』はこの砲が発射する演習弾を5000mで耐える能力を持たされているため、白羽の矢が立った。

 訓練当日、射程ギリギリを逃げ回る『摂津』に対して、有瀬の操る『扶桑』が放った演習弾が文字通り容赦なく降り注いだ。波の荒い外海で大口径砲よりも精度に劣る砲を用いたにも関わらず、演習弾はことごとくが命中弾や至近弾となり、で実戦配備されている艦艇と遜色ないほど整備されていた艦体は、見る見るうちに無残な姿になり果ててしまった。

 仮にも古巣で、艦長としての経験を積んだ艦に対し容赦のなさすぎる砲撃に顔を引きつらせる者もいたが、当の本人は「初めから外そうとして引き金を引く将校に、戦艦の砲術長は務まらんでしょう」と涼しい顔だったという。

 訓練終了後、ある参謀は「訓練前に『摂津』側が【頼むから勘弁してくれ】なんて言って来た意味がよく分かった。据物切りも良い所じゃないか。悪いことをしてしまった」とバツの悪そうな顔で語り、命中多数でボロボロになった『摂津』を見て意気消沈する乗員たちに、第五艦隊司令部の名義で酒を送ったという。

 とにもかくにも、尊い標的艦の犠牲もあって、若すぎる『扶桑』砲術長の腕に疑問を持つ者は居なくなったのだった。


「まあ、とにかくご安心を。得体の知れない要塞はともかく、マニラ湾にいる雑魚に、我が『扶桑』は負けやしません。蹴散らして御覧に入れますよ」


――もっとも、コレヒドールの腹ん中に、何も居なけりゃの話ですがね。


 不意に浮かんだ後半の言葉を飲み込み、艦の指揮に集中する事にする。

 外海に乗り入れた『扶桑』の艦内では、通常配置の将兵がそれぞれの務めをこなしているのが手に取るように分かった。

 前部や後部の艦橋では見張り員が空と海を睨みつけ、ある対空砲座では担当指揮官による自主的な訓練が始まっている。手入れの行き届いた士官室ガンルームで、テーブルの上に地図を広げて今後の展開を議論する若手士官も居れば、灼熱の中、長年連れ添った古臭い機関と格闘するベテランの准士官の姿もある。烹炊所では、立ち込める湯気の中、主計科の科員たちが『扶桑』将兵1200名の見るも無残に備を早々に始めていた。


 軍艦は確かに戦う為の艦ではあるが、実際の所、その生涯の多くは移動と待機と研鑽の時間が占めている。

 こういった、何でもない様な日常の積み重ねの果てに、鉄と火と油と血が飛び交う実戦がある。

 艦長として否が応にも認識してしまう、『扶桑』の中で繰り広げられる平時に近い営み。年寄りの感傷に外ならないと自嘲はするが、渋木にとっては、最後の奉公と錨を上げた老嬢が、過去の遺物となりつつある平和と言う言葉を噛締めている様にすら感じられた。


 ふと気になって、意識の一端を射撃指揮所に飛ばしてみる。

 僅かな間、話題に上った砲術長は、艦橋トップの持ち場に陣取り機材の点検を行っているようだ。その手つき、動きに呉を出航する直前まで滲んでいた澱みは無く、的確其の物。副長の報告通り「出師準備」を首尾よく済ませられたらしい。

 少々生き急ぐきらいもあるが、今後の帝国海軍には無くてはならない人材だ。ぜひとも、己の命の使い時は心得て欲しいと願わずにはいられなかった。


 水平線の彼方には、『扶桑』や『山城』よりも重厚な面構えを持つ巨大な戦艦『長門』と『陸奥』の鐘楼と、それらを取り巻く第三艦隊の艦艇が見え始めている。


 第三、第五艦隊の艦艇群は、陸軍将兵を護衛する海上護衛総隊と、上空を旋回する零戦を引き連れながら、一路南西へと舵を切った。










「風に立て!」

「面舵一杯!両舷前進全速!」


 数日後、トラック環礁北部海域では、10隻もの空母が太平洋の波を押しつぶし、その背に乗せた艦上機を空に送り出すべく、次々と艦首を振って風上へと全速航行に移っていった。



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イマジナリ・フリート クレイドル501 @magnetite

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