19th Chart:歳月不待


 母屋を回り込み中庭に出ると、一面の銀世界が有瀬を出迎えた。

 本日の月齢は17。敷き詰められた白砂が銀光を反射し、普段以上に明るく周囲を照らしている。葉が落ちて久しい植木はモノクロのシルエットを形作り、こじんまりとした池には小波一つ立っていない。

 静寂に支配された庭は、見慣れているはずなのに、何処か現実離れした印象を受ける。

 そんな一種の水墨画すら連想させる静寂の中に佇む、小柄な人影。

 考えるまでもないその正体に、未だに揺らいでいた内心へ、軽い失望のため息を吐きながら腹をくくる。白砂を踏みしめ、飛び石を跨ぎ、自分に背を向ける同居人――永倉永雫に歩み寄って行った。


「忘れ物でもしたか?有瀬」


 後3m程度という距離で不意にかけられた声に、思わず足を止める。

 その声に何時もの涼やかさは無く、ガラス細工の様な、脆く硬質な響きが込められていた。


「――忘れ物、と言えば忘れ物と言えるかもな」

「これから戦争だというのに、弛んでいるんじゃないのか?」


 と思ったのも束の間。つい先ほどまでの硬質さが嘘のような、冗談めかした口調と共に、月光に照らされた華奢な影が揺らいだ。

 肩越しに振り返った顔には、口調通りの揶揄う様な表情が浮かんでいる。

 普段通りの、可愛げのない技術者然とした雰囲気だった。


「戦場で弛むよりはマシさ」


 つられて浮かんだ苦笑と共に、残りの数歩を進め彼女の元へ。

 隣に立てば、池の水面に移った月が良く見えた。鏡の様な水面に、白銀の盆が小動もせず浮かんでいる。

 しばらくの間、静寂が二人を包み込んだ。

 片方は空の月を見上げ、もう片方は水面に映る月を見下ろしている。

 銀砂に落ちた二つの影の間に言葉は無く。変化の希薄な風景は、当事者たちに時間が止まっているような錯覚すら起こさせる。

 数分続いた静寂は、意を決したような有瀬のため息と、それに続く言葉によって打ち破られた。


「君も知っての通り、明日、『扶桑』は呉を出る。行先は言えないが……」

「『扶桑』の行先は数日もすればブン屋が嗅ぎつけるだろう。貴様が気に病むことではない。ま、凡その予想はついているがな」


 言葉を選んでいる有瀬に、「老朽艦の使いどころなど、高が知れている」と大げさに肩を竦めて見せた。

 真っ先に考えられるのは、上陸作戦前の準備砲撃だ。

 海軍では豆鉄砲と評価される一〇センチ砲も、陸軍の基準では立派な重砲と定義される。三十六センチ砲12門を備える扶桑型戦艦ともなれば、浮かぶ要塞に等しい。

 上陸時から橋頭保の確保までの最も危険な時間、火焔の傘を差し掛ける戦艦の存在は、陸軍将兵にとっての生命線となるだろう。

 そして大規模な上陸作戦が行われる場所も、地形と資源、フラグレス主力の分布を見れば自ずと見えてくる。


「マレーにはコンステレーションが居るから、恐らくはフィリピンか。まあ貴様の腕ならば、陸上目標など据え物切りも良い所だろう。問題は、それを阻止しようとするフラグレスをどう片付けるかだな」


 これまでフィリピンのマニラにフラグレスの主力が居たという話は聞いたことがない。いるとしても、せいぜい巡洋艦以下の補助艦艇と言ったところか。

 しかし、巡洋艦を始めとする水雷戦隊による強襲。潜水艦、水雷艇による伏撃は艦齢を20以上も積み重ねた『扶桑』にとって、致命打になりかねない。上陸作戦支援という名目であっても、戦闘艦である『扶桑』が進む海は敵地だ。穏やかなはずがなかった。

 なんてことは無い、彼の乗艦が進出する先の推定に意識を割くことで、見たくない現実から目を逸らそうとする幼稚な自己防衛だ。しかし、身勝手な逃避の報いなのか、最終的な結論として、重油の海の中で火刑に処されるように燃え落ちていく、丈高い艦橋の姿に行き着いてしまう。

 冷静な技術者としての自分が導き出した悍ましい結論を、思わず頭を振って遠ざけた。

 対する特急士官は、自分の苦悩を知ってか知らずか、何処か他人事のように言葉を続けて見せた。


「君の予想はともかく、何処に行くにせよ一戦するのは免れんだろう。いや、戦う機会があれば幸運とすら言えるかもな。潜水艦相手じゃ、流石の三十六センチ砲も丸太に過ぎん」

「間抜けな最後にならぬよう、違法建築じみた艦橋の天辺からよく見張っておくことだ」

「西村大佐に見張りのコツを聞いておくことにするよ」


 取り繕うように釘を刺した永雫の言葉に、そう言えば今日の壮行会で西村大佐に会っていない事を思い出す。

 帰ったら必ず――いや、時間も遅くなるだろうし、集結地点の沖縄についてからでも遅くは無いか。今日は、なんとなくそんな気分だ。

 再び会話が途切れ、世界が止まる。

 沈黙が支配する空間だが、居心地の悪さは不思議と感じなかった。

 ここが、仮初と言えど自分の家であり、隣にいるのが彼女だからだろうか。あるいは、もう二度と過ごすことのできない貴重な猶予期間モラトリアムだと、頭の何処かが悟っているからだろうか。

 永遠に続いて欲しいとすら思える薄氷の様な静寂を破ったのは、彼女の方だった。


「有瀬……何か、私に出来ることは無いか?」


 不意の一言に、水面に向けていた視線を隣に移す。

 やや下から自分を見上げる様な格好になった紺碧の瞳には、小さな月が浮かんでいる。

 そこに、つい先ほどまで幅を利かせていた揶揄うような表情は微塵もない。真剣ではあるが、険しさの無い、好意的な意味での無表情と言えるだろう。


「どんな些細な事でもいい。……その……だな、い、今まで貴様には随分世話になったし、これと言って、私が何か返したという記憶も余りない。結局、A-801は間に合わなかったし、これが――」


 徐々に早くなっていった言葉が壁に衝突したかのように止まり、続きを言いかけたまま、永雫の口が固まる。数度、言葉を紡ごうとはしてみるが、結局、中途半端に空いた口は閉じられ、赤いフレームの奥に揺れる瞳が、自分の視線から逃げるように目を落とした。




「最後に、なる。――かもしれない」


 なんと、見苦しい。

 思わず内心で吐き捨てた罵声の彼方で、厚く塗り重ねたはずのメッキに罅が入る音がする。蚊の鳴くような声が情けなく震えることを、抑えることができなかった。鼻の奥にツンとしたものを感じ、とっさに唇を噛んで滲もうとする視界を堪える。

 もとより、彼が海軍への道を志した時点で、こうなる覚悟はしていたはずだ。

 あの日、彼と養父の会話に背を向けた時から、焦がれるような想いを無感動に踏みにじると決めたはずだ。――自分の手が届く前に、失う事を許容した筈だ。

 だと言うのに、精神は断末魔にも似た軋みを上げ続けている。癇癪を起した幼子の様に、後悔と自責が荒れ狂っている。

 ああ、私に、もっと力があったなら。私が、もっと早く図面を掻き上げていたなら。あの時、艦政本部を出奔していなかったら。もっと強引に、戦艦の建造を推し進めていたのなら……

 吐いて捨てるほどの傲慢極まりないIFが溢れ、その全てが、自分の望む未来を否定する。そして何より、今更そんなことを考えたところで如何なるものでもなかった。

 それでも、浅ましい自分は針の穴を通すような確率であることを承知しながら、生還の可能性を探ってしまう。彼の口から甘い嘘が零れ落ちることを望んでしまうのだった。

 そんな甘言を吐くような男では無いからこそ、此処まで想いを募らせている自分が居るのだということを無視しながら。




「確かに――僕がここに戻ってこられる可能性は低いだろう」


 嘘偽りの無い本心に、ビクリ、と永雫の細い肩が震えた。袖から覗く華奢な手は、関節が白く染まるほど強く袴を握りしめている。

 それなりの期間を共にした同居人に、惨い現実を突きつけていることは自覚している。しかし、こうして内心の欠片を吐露してくれる彼女を、優しい嘘で煙に巻く気には成れなかった。

 そもそも、そんなぬるま湯のような言葉を吐くために、此処に戻ってきたわけではない。

 この庭に足を踏み入れ、彼女の姿を見た時から、この問題に一定のケリを付けようと決めていた。


「関東で被災した後、此処で暮らせたのは幸運だった。確かに誰一人血は繋がっていないが、僕は此処に住んでいる皆の事を、自分の家族、自分の家だと胸を張れる」


 一つ一つ確認するような声に釣られ、永雫の顔がゆらりとこちらを見上げた。血の気が失せつつある口を真一文字に引き結びながらも、拙い自分の言葉を真正面から受け止めようとしてくれている。


「何か願いがあるとすれば。そうだな――『どうか生き延びて、幸せになってくれ』とでも言っておくよ。月並みで無責任極まりないが、他に思いつかない」

「ッ――」


 初めて、永雫の顔があからさまに歪んだ。

 言葉に詰まる彼女が何を考えているのか、何を、考えてしまったのか。反射的に推し量ろうとする思考を、深く封印して胸の奥底に沈める。

 こんなことを望んだ時点で、その思考に価値は無くなったのだから。

 絶句した彼女は、二度三度口を開閉した後。顔を俯かせて、胸の奥で泡立った感情を慎重に抜く様に、息を細く、長く、吐いた。


「――随分、難題を吹っ掛けてくれる」


 再び自分を見上げた顔には、何処か呆れと諦めを滲ませた、苦笑いが浮かんでいた。


「最後だからな。吹っ掛けられるだけ、吹っ掛けるに越したことは無い。君がどう思おうと、僕にとっては、拾った命を張るに足る願いだよ」

「腹の立つことに先に大口を叩いたのは私だ、努力はしてみる。尤も、前半はともかく、後半は保証しかねるが」

「前半分さえ守ってくれれば、後ろ半分は時間が解決してくれるよ」

「無責任極まりないな」

「そう言っただろ?」


 顔を見合わせ、どちらからともなく小さな笑みが零れた。

 幾度となく交わした、他愛のない軽口。笑いどころかと問われれば首を傾げざるを得ないが、これまで築き上げて来た自分達の歪な関係の縮図にも思えた。


「では、君曰く”無理難題”を吹っ掛けた代わりに、今度は僕が何か君の願いを聞くことにするよ。何かあるかい?」

「なら、二つほど頼もうか」


「欲張りだな」と半目を向ければ、「貴様だって”生きろ”と”幸せになれ”なんて二つ願ってるじゃないか」と、調子が戻ってきたのか、見覚えのある顔が返される。


「一つ目、どんな鉄火場に行ったとしても、必ず生きて帰ってこい。――まあ、これは2万海里ほど譲って努力目標にしてやってもいい」

「君にしては寛大だな。で、絶対に履行しろって二つ目は?」

「簡単なことだ――以後、二人でいる時は名前で呼んでくれ」


 意外な願いに目をしばたかせる。

 二つ目を言い切った彼女は「私の事を妹分だなんだと言うのであれば、何時までも苗字呼びでは収まりが悪いだろう?」と悪戯好きの童女の様な微笑を浮かべ、言葉を続けた。


「第一、大昔は名前で呼んでいたじゃないか。それとも、と呼べば、名前で呼んでくれるのか?」

「兄上は止してくれ。背筋がゾワッとする」

「喧嘩なら買うぞ」

「叩き売りしてるのは永雫の方じゃないか」

 

 変に身構えると気恥ずかしくなりそうなので、反撃の意味も込め、やや強引だがさらりと名前を呼ぶ事にした。

 十数年ぶりに口に出した言葉だが、つい先ほどまで使っていたかのように喉を通っていく。懐かしさと同時に、胸に重く暖かなモノが突き刺さる感覚を覚えた。

 深々と精神を抉った想いモノ。一昨日、副長の介助を経てようやく日の目を見た、ソレ自体が作り出した汚水ビルジの底に沈んでいたモノ。

 酷く長い回り道をしてようやく自分で掬い上げることができるようになった、本音だった。「ああ、そう言えば、そうだった」と、『扶桑』の甲板上で初めて目にし、今の今まで何処か忌避感を持っていた想いの本質、根源を自覚する。


――不精に亘る、なかりしか


――努力に憾る、なかりしか


――気力に欠くる、なかりしか

 

――言行に恥づる、なかりしか


――至誠に悖る、なかりしか


「……うん」


 泣きたいのか、笑いたいのか、喜びたいのか、悲しみたいのか。恐らく、彼女自身よくわかっていない感情に飲み込まれ。

 それでも、必死に自分に笑顔を浮かべて見せようとするこの人を、永倉永雫という一個人を、守りたかったんじゃないのか。


「そうだ。それで、いい」


 ありとあらゆる感情が綯交ぜになった中、それでも造られた微笑。

 細められた目の端から、月光を反射しながら零れ落ちていった一滴に、手を伸ばすことは出来なかった。

 その雫を流させたのは、外ならぬ自分だ。だから――





「お嬢様」


 隣からかけられた声に、漸く我に返る。

 屋敷の塀の向こうで騒々しいエンジン音が溶けてから、どれほど時間がたっただろうか。

 緩慢な動作で振り向けば、静かな表情を浮かべた王が、直ぐ近くに佇んでいた。


「そろそろお戻りになりませんと。お体を冷やしてはなりません」


 そう言えばもう11月も終わりだと自覚した瞬間、先ほどまで感じなかった風が、肌に突き刺さる様な冷たさに変った。

 普段ならば冷え切った身体をさすりつつ足早に屋敷に戻るところだが、今日ばかりはそんな気にはなれなかった。

 寒風に晒される手足や顔とは裏腹に、胸の奥では焼かれるような熱が荒れ狂っている。


「なあ、王。私は――」

「お嬢様は、中佐のお力に成れましたよ」


 穏やかな、それでいて有無を言わさぬ声にハッとさせられる。自分を見つめる鳶色の瞳には、慈愛の色が浮かんでいた。


「お迎えした時と、お見送りをした時では、中佐の目の色が変わっておりました。死ぬために覚悟を決めるのではなく、生きる為に腹を括っていらっしゃったのです。――そうさせたのは、貴女ですよお嬢様」


 王の声に「それなら、良いのだが」と返そうとして、開いた口から漏れてきたのは、情けない嗚咽だった。細身の使用人の姿は既に滲み、気づいた時には頬の上に熱いものがとめどなく流れ落ちていく。

 不意に視界が暗くなり、いつの間にか凍えそうになっていた体を暖かな熱が包み込んだ。ゆっくりと、細い指が髪を漉いていく。


「私たちは、私たちに出来ることをしながら待ちましょう。そうして、中佐がお帰りになったら、心配を掛けられた側として、また、我儘を聞いてもらいましょう。――今度は、妹としてではなく、一人の女として名前を呼んで欲しいと」


 王に抱きしめられ、その胸に顔を埋めながら首を横に振った。

 あの時一度だけ、何でもない事のように苦笑した彼の口に上った、自分の名前。

 これが只の思い上がりだと唾棄しようとする自分理性が居る一方で、あの二文字に込められた意味が、家族では無い他者に向けられたものだと解釈しようとする自分感情が居る。

 その自分の身勝手な側面が、想いを押し込んでいた箱を蹴り飛ばしていた。この時まで圧縮され続けた感情が、蹴倒された箱を引き裂いて噴出し、体の中で荒れ狂っている。

 轟々と胸の中を蹂躙する多様な感情の全てが、天から与えられた能力を何一つ生かすことができず、彼を戦場へ向かわせた自身の無力さを責め立てていた。

 それでも、雨粒の全てが五寸釘に代わっているかのような感情の暴風雨の中、傷だらけの自分の掌に「これだけは手放すまい」とした一片の想いがあった。




もしもの話だ。


もし、彼が生き延びて故国の地を踏めたのなら。


もし、また私の前に現われてくれたのなら。


もし、また今日の様に名前を呼んでくれたのら。


もし、その中に妹分以上の感情が込められていると、私が誤解したなら。


その時は、「好きだ」と伝えてみよう。


一人の女として、貴方を愛していると伝えてみよう。


例え、貴方の想いを私が誤解していたとしても。


私の想いに、嘘偽りは無いのだから。










 排気量1400㏄のV型2気筒強制空冷エンジンの咳き込むような音を聞きながら、車窓に流れていく暗い呉の町並みを眺めている。

 たかだか数分前に永倉邸を辞したのが、遠い昔の様に思えた。

 涙を堪え、それでも笑顔を向けてくれた彼女に報いるためにどうすべきか考えようとし、考えるまでもないことだと言う結論に至ることを、もう二桁は繰り返している。


「バカな話だな」

「何が?」


 脈絡のないボヤキに乗ってくれる当たり、この三船と言う男の意外ともとれるノリの良さは海兵時代から変わっていない。

 まあ、魔窟の『耳』として情報を扱う以上、引き出せそうな話は引き出そうとしているだけなのかもしれないが。


「軍人などと言う阿漕な商売を始めた以上、潔く死ぬための理由を持っていなくちゃいけないと思っていた。――いや、違うな、それをと思いたかったんだ。国の為に、あの人の為に死ぬ。そうやって初めて、胸を張って靖国に行けると考えていた」

「別に、それが間違っているわけでは無いだろう」

「ああ、間違いなんかじゃない。けど――何だろうな」


 一つ言葉を切り、新たに抱いた想いを転がしてみる。ほんの少し前に形を成した筈の想いは、大昔からそこに合ったかのように、静かに収まっていた。


「潔く死ぬための理由と、絶対に死ぬわけにはいかなくなった理由が、蓋を開けてみれば全く一緒だったんで戸惑ってるのさ」


 白銀の光の中、自分を見上げた泣き笑いの顔。

 彼女の安寧を守るためならば、喜んで死地に向かう。けれどあの時、月を反射した雫を、これ以上零させるわけにはいかないと、強く感じたのも事実だ。

 無論、こんな考えに至ったからと言って『扶桑』と自分がフィリピン攻略戦、ひいてはこの戦争を五体満足で乗り越えられるようには到底思えない事に、変わりはない。

 しかし、「何かの間違いで生き延びれば儲けもの」が「絶対に生き延びなければならない」に変わったことは確かで、これは思いのほか大きな変化だ。

 不意に、エンジン音に交じってクックッと噛み殺すような笑い声が隣から聞こえた。

 見れば、可笑しくてたまらないと言う風に、ついさっきまで能面のようだった三船の顔に苦笑が浮かんでいる。やはりこの男、笑う時は見た目によらず子供っぽいな。


「何が可笑しい?」

「いや、すまん。まさか、殿下が「天才」ともてはやす神童にしては――随分バカなことで悩んでいたのだと思ってな」

「とりあえず頭に”化石”が抜けてると殿下に伝えてくれ。それで?」

「貴様が得意顔で言った死ぬ理由と死ねない理由の話だが。そんなもん、。むしろその体たらくで、よく砲術長なんて役職に上り詰められたものだと感心する」

「――誉め言葉、として受け取っとく」

「皮肉に決まってるだろうが。調子に乗んな特急中佐」


 顔をヒクつかせた有瀬に、容赦なく追撃が加えられる。

 本当にそのとおりであるため、反論の糸口すらない。戦艦の砲術長らしからぬ、バカバカしい悩みであったことは事実だ。参ったと言う風に息を吐いて、肩を竦めるしかなかった。


「さて、もう呉鎮に戻るだけだが、本当に要望は無いんだな?無いなら無いで殿下に報告するだけだがね」


 「どうする?」と目で聞いてくる三船。行きの車内で言っていた甲鉄会の自分に対するご機嫌取の件だろう。

 つい一時間前までなら思い浮かばなかったが、今は別だ。甲鉄会としては「何を今さら」と呆れられそうな依頼だが、だからこそ信用できる。

 自分の予想とは裏腹に「了解、必ず履行する」と三船は努めて冷静に、青二才のバカな願いを聞き入れてくれた。

 フロントガラスの向こうには、黒いシルエットになりつつある呉の町並みと、その間から見え隠れする巨大な呉遺産工廠の姿があった。

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