4
トニーが戻らないまま、また更に数日経った。
「ブルーノ! 出て来いよ! いるのは分かってるんだぜ! ブルーノ!!」
俺がババアの家のいつもの寝床で伏せていると、耳障りな猫ダミ声が聞こえた。俺の猫ヒゲがピリピリと危険を察知した。
俺は小窓の出入り口を使って表へ出た。するとやはり嫌な予感は的中した。そこには野良ネコどもが十匹、いや二十匹はいた。
「……マーティン」
そしてその群れの中央には一際大柄の野良ネコがいる。そいつはかつての俺の宿敵である、”ボスネコ” マーティン・キャットだった。
「こんなところにいやがったか、”噛み付き” ブルーノ・キャット! あー、いや、今は”負けネコ” ブルーノ・キャットって呼んだ方がいいか?」
マーティンの皮肉に手下どもが一斉に笑った。無くなった俺の尻尾が疼いた。いつかは来ると思っていた。ただ、こんなにも早く俺の元に辿りつくとは思いもしなかった。
それに加え、マーティンの傍らに怯えてさらに縮んだ見覚えのあるチビネコを見つけた時には俺は更に混乱した。
「トニー!?」
「ごめん、ブルーノ。俺、アンタの力になりたくて、それで、それで……」
それだけで俺は大方のことを察した。どうやらトニーは一匹でマーティンの野郎に挑んだようだ。それで捕まって俺のことをばらしてしまったのだろう。
だが、なんでこんな無茶な真似をしたんだ。無事だったことに一先ず安堵はしたが、正直トニーに腹が立った。
「マーティン! トニーを離せ! そいつは家ネコだぞ!」
「知らねえな、こいつは自分を野良だって言ってるぜ? なあ、チビスケ?」
「そ、そうだ、俺は野良だ。だから俺はどうなっても構わない。ブルーノ! 俺に構わずこいつらを殺ってくれ!」
薄々感じていたが、トニーは家ネコである自分に不満があったようだ。それでこんな無茶な真似をした。つまりこれは俺が原因だ。俺がトニーに近づかなければ、トニーはこんな馬鹿な真似をしなかった。全ては俺が悪い。
「……マーティン、どうしたら許してくれるんだ」
「はあ? 何言ってるんだブルーノ、俺がてめえを許すわけないだろう? 例えてめえを殺ったところで俺は絶対に許さねえ、この首の傷が疼く限りはずっとてめえを許すつもりはねえよ!」
血の気の多いマーティンはいつ暴走してもおかしくない。これはなりふり構っていられる状況じゃなかった。
「たのむ、許してくれ、マーティン! このとおりだ!」
俺は仰向けに寝転がりマーティンにお腹を見せた。これで許してくれるとは思えない。だが今の俺にはこれくらいしかできなかった。
「ブ、ブルーノ!?」
「幻滅したか、トニー? だが俺はもう喧嘩をしない」
「やめてくれよ、ブルーノ。俺はそんなブルーノを見たくない! アンタは誰もが恐れる ”噛み付き”ブルーノじゃないか!」
「トニー、それは違う。俺は野良の生き方はやめるんだ」
「ブルーノ、止してくれ、そんな話は聞きたくない!」
「聞いてくれ、トニー。お前は家ネコの生活を嫌っているようだが、あれは案外悪くない。雨風しのげる場所があって、食うに困る事もない。それに俺にはお前がいて、お前には俺がいる。これって幸せじゃないか?」
「そ、それは……」
そうだ俺は家ネコになりたかった。何もかも失いたくないし、奪いたくもない。もう野良でいるのは耐えきれなかった。
「お前も本当は嫌じゃないだろう? あのババアとの暮らしも楽しんでいたじゃないか?」
「そうかもしれないけど……」
トニーはまだどこか納得できないようでいた。だがこいつは優しくて良い奴だ、いずれトニーにも分かるだろう。
だがそれ以上に納得できないヤツもいる。
「ブルーノ、てめえ、また俺から逃げるつもりか?」
「そのとおりだ、マーティン。俺は野良を辞める。だから見逃してくれ」
「……お前ってヤツが都合のいいことばかり言いやがって、許さねえって言ってんだろ! どうでもいいからさっさと掛かって来いよ、どっちが本物のボスネコか白黒はっきりさせようぜ!」
無くなった尻尾がまた疼いた。マーティンはどうしても決着をつけたいらしい。俺はゆっくりと身体を起こして、更にチビになっているトニーを見た。
「無理だ。俺はもう喧嘩をしない。家ネコになるんだ」
俺は覚悟を決めていた。これでマーティンはブチ切れるだろう。そしてマーティンは俺を殺すはずだ。できれば俺も死にたくはない。だが、これでマーティンの怒りが少しでも治まってトニーを見逃してくれればそれでよかった。
まあこれは、マーティンの言う通り、都合のいい考えでしかないのだが。
「……そうか、それなら仕方ねえな。てめえが家ネコってんなら俺はもう爪は出さねえよ」
意外だった。まさかあの野良というより獣と言うべきマーティンがこんなにあっさりと諦めるなんて思いもしなかった。
「だが、落とし前はつけないといけねえよなあ」
「俺に出来る事があればなんだってする。煮るなり焼くなりなんだってすればいいさ」
「いや、野良を辞めたてめえに用はねえ。死体が必要だ。もちろん野良のな? だがお前はもう野良じゃねえ、ということは、この場にいる野良ネコっていうのは俺らと、このチビだけってことになるが……」
マーティンは自慢の尻尾でトニーの身体を引き寄せた。
「ってことで、あの腑抜けの代わりにお前が死んでくれないか?」
「──にゃひいっ!」
マーティンの鋭く尖った牙がトニーの喉元に突き刺さろうとしていた。
俺は記憶が飛んで、頭が真っ白になった。
「止めろ、マーティン!!」
そして、ふと我に返った瞬間にはマーティンはトニーから離れていた。それに何故か俺の前足には押さえつけられるマーティンがいた。俺はその無防備な喉元に噛み付こうとしている。無くなったはずの尻尾がまた疼いていた。
「はは、やっぱりな! やはりてめえは野良ネコだ!」
マーティンは俺の前足の下で笑っていた。
俺も理解しないうちに野良の本能が勝手に身体を動かしていたらしい。
それが恐ろしくなって俺はマーティンを解放した。
無くなったはずの尻尾の疼きが止まらない。
「い、いや違う。これは……」
「違わねえさ、どんなにてめえが猫被っても、中身は薄汚ねえ野良ネコのまんまなんだよ!」
マーティンの言う通り、俺は家ネコの皮を被って本性である野良ネコを隠そうとしていただけなのか?
いや違うはずだ、これはトニーを助けたい一心で身体が勝手に動いただけだ。
だが、それは本当なのか?
無くなったはずの尻尾が疼く。疼きが止まらない。
そう、今の俺はトニーのことなんてどうてもよかった。今の俺はこいつの喉元に牙を突き立てたくて、無くなったはずの尻尾がうずうずしている。
これで分かった。俺のこの疼きはマーティンを殺してやりたくて堪らなかったのだ。
「……そうだな、マーティン。俺はやはり野良ネコだ」
俺は毛を逆立てて戦闘態勢に入った。
「そうこなくっちゃな、殺してやるよ、ブルーノ!」
「こっちの台詞だ! マーティン!」
これでいい、俺はやはり猫を被っていた。やはり俺は野良でしかない。家ネコなんかにはなれはしない。
俺はマーティンに飛び掛かった。マーティンも俺に飛び掛かった。互いに本気で相手を殺すつもりだ。そしてあとは、野良の本能に従ってどちらかが死ぬだけだ。
あ、いや、だが待てよ。俺には気がかりをひとつ残していた。
──まあ、まめちゃん! 戻って来てくれたのね! まあ、それに、なんて素敵なの! こんなに沢山のお友達のネコちゃんを連れて来てくれたのね!!
猫を被って生きる そのいち @sonoichi
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