第8話 薄れゆく光の中で
毎日暑い日が続いている。
猫というのは、なぜ故に毛皮を脱ぐことができないのか。この迷惑極まりない毛をすべて取り除くことができたら、どれほど快適な生活が送れることであろうか。
毛皮を脱ぐことができたら、猫が家にいるからという理由で一日中エアコンをつけっぱなしにしなければならない家の電力消費量を抑えることができ、お財布にも優しく、地球温暖化にも貢献できるのではないかと本気で思ってしまう。
ちなみに唯は僕がいても容赦なくエアコンを止めて出かける。なんて奴だ。
玄関付近に大きめのヒンヤリマットを敷いてあるので、熱中症になるという事はないと思うが、一日中ヒンヤリマットの上で過ごすのも面白くないので、日中は大学の自然林の中で過ごすことが多くなっている。
自然林は木陰が多い上に地面が土なので、気温も低く過ごしやすい。たまに外で実験している太陽研の姿を木の上から眺めるのも楽しみのひとつになっている。
(さてと、そろそろ起きようかな。)
僕は唯のベッドの上で、日課のストレッチをしてから床に下りた。
床が冷えている。下半身がブルブルっとした。少し肌寒いか。
唯は寝ている間はエアコンをつけっぱなしにしている。女性の一人暮らしのため、窓や戸を開けて寝るのは防犯上良くないのだろうが、少し温度を下げ過ぎかもしれない。
何とかして温度を上げてもらえる方法は無いものだろうか。
考えても答えが出ないので、僕はこれ以上考えるのを止めて玄関へ移動した。
玄関には僕用のトイレがある。
なんでも、おしっこが臭わないとか言う高級品らしい。
おしっこが自慢の尻尾にかからないように、尻尾をピンと上に持ち上げ用を足す。これが僕のベストポジションだ。
さて、高級トイレの性能は如何ほどか。
物は試しだと、僕は自分がおしっこをした部分に鼻を近づけた。
(臭っさ!!)
思わず鼻をつまみたくなる。
しかし肉球ではつまむ事はできず、両手の肉球で鼻を押さえるのが精一杯だ。
(っていうか、手も臭っさ!!)
いつの間にかかっていたのか、右手の肉球がおしっこ臭い。
「おだんごちゃん、おはよう。」
いつの間にか起きてきた唯が、僕の用を足してる姿を見ていた。何と悪趣味な奴なんだ。
「おだんごちゃん、最近はちゃんと自分のトイレでおしっこできて偉いね。」
唯が僕の頭を撫でた。
何を言っているのだろうか?僕が自分のトイレでおしっこをするのは当たり前じゃないか。唯はたまに変なことを言う。
トイレを済ませると、僕はキッチンに移動して水を飲んだ。舌を反らせ、軽く水面に舌を付けてから素早く口の中に戻すと、水分子同士が凝集し口の中に入ってくる。
人間のようにコップを使わなくても水が飲めるのだ。水の飲み方に限らず、動体視力や脚力、バランス能力など、肉体の基本的な能力に関して、人間とはなんと劣った種族なのだろうかと感じる。
(おっと、床が濡れていた。)
水を飲んでいるときにこぼしたのか、右の前足で水を踏んでしまった。
途端に僕は右足が気持ち悪くてしょうがなくなった。猫というのは濡れることを極端に嫌う生き物なのだ。
ブルブルと右足を振ったが、うまく水滴が飛んでいかない。
仕方がないので、右足を舐めて水滴を取ることにした。
(臭っさ!)
そういえば、さっきおしっこがかかったんだった。
「おだんごちゃん、朝ごはんにしようか。」
唯の誘いに「にゃあ」と答える。
朝ごはんはレトルトのキャットフードだ。この時間が一日のうちで一番楽しみだと言っても過言ではない。
「今日の朝ごはんは、マグロ&カツオミックスです。」
唯がレトルトのパッケージを見せてくる。
なるほど!マグロとカツオ、そのままだな。
パッケージには美味しそうなマグロとカツオの絵が書いてあった。
そんなことより、早くご飯をお皿に盛ってほしい。僕は早くしてくれというアピールのため、唯の足に絡みつく。
「はいはい、おだんごちゃんは食いしん坊だからね〜。」
唯が笑いながら僕の食器にキャトフードを盛り付けていく。
盛り付け終わらないうちに、強引に食器とパックの間に顔をねじ込んだ。そんな姿の僕を見て、唯がまた笑った。
「今日は大学でね、就職支援イベントがあるんだ。」
食事をしながら唯が言った。
唯は大学四年生だ。普通にいけば来年は大学を卒業し社会人となる。
しかし、唯は未だにどこの企業からも内定をもらっていない。冬から春にかけて大学へ行かず、就職活動もしていなかったため、他の学生に比べて出遅れているのだ。
「大学の卒業生がたくさん来て、話をしてくれるんだって。企業によってはエントリーシートを受け取ってくれる所もあるんだって。」
朝ごはんを食べ終わった僕を抱き上げ、膝に乗せながら唯が言った。
「地元に帰るとしても、別のところに住むにしても、仕事がなくちゃしょうがないもんね。」
そう言うと、唯は食器を片付けてから、控えめにお化粧をした。
クローゼットから出したグレーのスーツに見を包み、ハンドバッグにお財布と携帯を入れた。それとは別に書類ケースに筆記用具と履歴書と準備する。
「行ってきます。」
気合を入れたのか、唯はいつもよりも強めにの声でそう言うと、エアコンを止めて玄関を後にした。
部屋にはいつも通り、ポツンと僕ひとりが残された。
今日も暑くなるのだろうか?外からは蝉の鳴き声が聞こえる。
(さてと、もうひと眠りするかな。)
僕は独り言を言うと、ヒンヤリマットの上に移動した。
最近は二度寝が習慣になってきている。二度寝だけでなく昼寝もするので、一日の半分ぐらいは寝ているのではないだろうか。
(くわぁ〜。)
大きなあくびが出た。
お腹がいっぱいになると、眠くなる。これは消化を助けるためで、生物としてはごく自然なものなのだ・・・と、僕は思っている。
僕はヒンヤリマットの上で丸くなり、自慢のしっぽに顎を乗せた。この体勢が一番しっくりくる。
5分も立たないうちに、深い眠りに落ちた。
ここはどこだ?
気がついたら外にいた。
僕は周りを見渡した。
ブロック塀で囲まれた空間。
背の高い草。
奥に少し土を盛った丘がある。
少し太った茶色いトラ猫。
(兄貴、聞いてます?)
茶色いトラ猫が何やら話しかけている。
(兄貴ってば!)
(え?あ・・・あぁ、何だっけ?)
(兄貴、しっかりして下さいよ。)
ミケは盛大に溜め息をついた。
ここは・・・いつもの空き地か?
僕は唯の家のヒンヤリマットの上で、寝ていたはず。
まだ夢の中なのだろうか?夢にしてはすべてがリアルだ。
(兄さ〜ん!)
後からクロが飛びついてきた。
意表を突かれた僕は、成すすべもなく前に倒れ、鼻を強打した。
(い、痛い。)
どうやら夢ではないらしい。
(最近の暑さのせいで、ミシュランが熱中症みたいなんですよ。)
ミケが心配そうに言った。
(熱中症?大変じゃないか、とりあえず木陰に仰向けで寝かせてから、凍ったペットボトルで脇の下冷やして。あと水分補給もしなきゃならないから、スポーツドリンク買ってきて!)
僕はミケに指示を出し、次にやらなければならないことを考えた。
(あの、おだんごの兄貴。)
ミケが指示通りに動いていないことに苛立ちを感じながら、ミケの方に振り向く。
(何いってるか、さっぱりわかりません。)
・・・。
・・・。
そうでした。
僕たちは猫でした。
(ひとまず、ミシュランを涼しい場所に移動して・・・氷・・・は無いから、舐めて!気化熱で体の体温を下げるんだ。)
必死の介助のおかげで、ミシュランの様子は落ち着いてきた。
後はミシュランが目を覚ましたとき、自分の体がよだれ臭い事に怒らないのを願うばかりだ。
これも地球温暖化が原因なのか、ここ数年の猛暑は異常だ。この空き地は木陰もなく直射日光を浴びてしまうので、避暑地のようなものが必要なのかもしれない。
(ところで兄貴。)
ミケが話しかけてきた。
(こことは直接は関係ないんですが、駅の向こう側のトップが入れ替わったらしいです。)
ミケの話では、駅の向こう側の商店街にも大きな猫の群れがあり、最近ボス猫が変わったらしい。
特に付き合いのあった群れではないので、あまり関係ないとは思うが、調査が必要かもしれないとの事だ。
(ミケはここを離れられないだろうから、僕が行こう。でも道案内が必要だな。コーディ、付いて来てくれるかい?)
ミシュランを心配そうに覗き込んでいたコーディに、僕は声をかけた。
(お、俺ッスか?)
コーディは驚いたのか、目をまん丸くして聞いてきた後、興奮した表情で何回も頷いた。
(じゃあ、ちょっと行ってくるよ。)
僕とコーディはすぐに空き地を後にした。
途中、コーディに信号の渡り方と踏切の渡り方を教え、駅の反対側の商店街へと足を踏み入れた。
途端にコーディがソワソワしだした。
(どうした?コーディ。)
(おだんごさんは大丈夫なんですか?普通は自分のテリトリーの外になんて出たら、不安でしょうがなくなると思うんですけど。)
そういうものなのか、確かにテリトリー外で襲われないとも限らない。
(さすが、おだんごさんッスね。きっと数々の修羅場をくぐってきたから、小さなことじゃびびらないんスね。)
(ま、まあ、そうかな。)
思わずコーディの尊敬の眼差しから、思わず目をそれせてしまった。
これは、決して嘘をついたわけではない。若者の夢を壊さないという、崇高な意識の現れなのだ。
(おだんごさん、気をつけて下さいよ。そろそろ路地裏に入ります。そしたら、どこから襲われるか分からないですからね。)
線路を超え、アーケードの中ほどまで来た僕たちは、小さなイタリアンレストランと惣菜屋の間の細い路地に入った。
イタリアンレストラン側も惣菜屋側も、ところ狭しとダンボールが積まれている。かろうじて人がひとり入れるような隙間を抜けると、少し広い丁字路に出た。
コーディは丁字路を右に曲がり、その先の十字路を左に曲がった。
この辺りは小さな飲み屋が何件かある。味が良いのか安いからなのかは分からないが、夜になるとそれなりに活気づいていた記憶がある。
(おだんごさん、そろそろ着くッス。)
先頭を歩いていたコーディが歩くのを止めたのは、商店街を少し離れ、ホテル街の近くに差し掛かったあたりであった。
ここから先は僕が先を歩く番だ。
僕は無言で気合を入れると、コーディの横をすり抜け、十字路を曲がった。
曲がった先は袋小路だった。
僕は地元民のくせに、こんな場所があるなんて全く知らなかった。
袋小路の入り口には、飲み屋のダンボールが高く積み上げられ、袋小路が外から死角となっている。
少し風通しが悪いのが気になるが、隠れ家としてはこんなにいい場所はなかなか無い。
(何だ、お前ら。)
袋小路の奥からドスの効いた声がした。
声を合図に袋小路のあちこちから、一匹、二匹と猫が姿を表す。
少し暗くて見づらいが、奥に鎮座しているのは黒ネコ、いや黒ブチか。左右に茶色いトラ猫と灰色の猫が控えている。
さらに周りに若い猫が数匹。
参ったな、偵察のつもりで来たのにいきなり戦いになっちゃうかもしれないな。
(おだんごさん!あいつら!)
コーディが興奮気味に言った。
僕は目を凝らしてボス猫を見た。
(な?!)
僕はボスの姿を見て息を飲んだ。
あいつらは確か、ミケたちの空き地を襲ってきた・・・。
(クー、チー、パー、三兄弟!!)
(変な名前で呼ぶな!)
間髪入れずに、ツッコミを入れる三匹。
良いお笑い芸人になれそうだ。
(ここで会ったが百年目!お前らここから生きて帰れると思うなよ。)
時代劇の台詞のような言葉を言い、クーは仲間の猫を散開させた。
(おだんごさん、どうします?数じゃ厳しいッスよ。
コーディは明らかに逃げ腰だ。
逃げると言っても、クーの手下に後側にも回り込まれていて逃げようがない。
(おい、クー!)
僕はクーに話しかけた。
(だからクーじゃねぇって!)
(ちょっと話があるんだよ。良いだろ?少しぐらい。)
クーは少し考えてから、面倒くさそうにこちらに歩いてきた。
(ったく、何だよ。)
(今日は見逃してくれないかなぁ?)
(ヤダね。俺はお前らのせいで、こんな汚い場所に群れを構えることになっちまったんだ。)
クーが吐き捨てるように言った。
(せいぜい、殺されないように頑張るんだな。)
(そうか残念だ。このままじゃ、クーがどうやって空き地で負けたか大声で言っちゃいそうだよ。恥ずかしいだろうなぁ、あんな負け方をしたんだから。)
(おい!ちょっと待て!)
(クーは、ここのボスになってから日が浅いんだよね〜。まだ、そんなには慕われてないんだろうなぁ。大丈夫かなぁ?言っちゃっても。)
(おい!卑怯だぞ!)
(みなさ〜ん、ここにいる黒ブチのクーは・・・。)
(分かったよ。さっさとどっか行けよ。)
クーはそう言うと、もと居た場所に座り直した。どうやらあそこが、この群れのボスの席のようだ。
(何だ?親分の知り合いだったのか?)
(そうならそうと、早めに言ってくれれば良いのに。)
クーの声かけにより、戦う相手ではないと判断した猫たちは、思い思いの場所に去って行った。
(じゃあなクー。また遊ぼうな。)
僕は尻尾を振って、路地を後にした。
(塩撒いとけ、塩。)
後ろからクーの声がした。
ミケに商店街であったことを話したあと、僕は大学に来ていた。
太陽は真上から少し西に傾いた位置にある。時間で言うと・・・。
時間で言うと?
そもそも時間とは何だ?自分で思っておいて不思議な事だが、時間というものが何なのかが分からなかった。
何か重要な事を忘れているのか?それとも単に必要の無いことだから、思い出せないだけなのか?
目の前を何かの虫が横切った。
僕の興味がそちらに向く。何かを考えなきゃならないのは分かっているが、虫の動きを無視できない。
僕は跳ねる虫に向かって手を出した。
虫は僕の手をスルリとかわすと、草むらに消えていった。
僕は虫を追うのを止めた。
太陽が少し西に傾いたといえども、まだまだ陽射しは強い。
僕はいつも通り、自然林の木に登り、学生広場を見渡した。
唯は就職支援イベントに参加している頃であろうか、さすがに暑いのか学生広場で休憩している人の姿を見ることはできない。
蝉が鳴いている。
この鳴き声はアブラゼミだ。もう少し日が傾けばアブラゼミの大合唱が始まることだろう。
そういえば、唯は虫が嫌いだったな。
「ちょっと、ここすごくない?」
唯は興奮気味に言った。
大学の二年の夏、僕は友達四人でキャンプ場に来ていた。
ここのキャンプ場は小学校の廃校を利用しているため、教室で宿泊ができ、校庭でキャンプファイヤーや花火ができるようになっている。
また、ここの売りは教室での宿泊や校庭だけではない。音楽室、理科室、体育館がそのまま残されているため、体育館でスポーツをすることも、理科室で実験器具に触れることも、音楽室で演奏を楽しむこともできるのだ。
料理の提供はしていないため、持ち込み食材だけしか食べられないが、これだけの施設が利用可能で、さらに値段もお手頃ときている。
昇降口を改造したフロントで、部屋の鍵を受け取ると、僕たちは2階の一番奥の教室へと向かった。
さすがに引き戸は新しくされ、鍵がしっかりかけられるようになっていたが、その他の部分は学校の教室そのものだった。
ご丁寧に、引き戸の上には「2年1組」と書いてあった。
「ああ、懐かしい。私の通っていた小学校もこんな感じだった。」
教室に入った僕たちを待っていたのは、タイムスリップしたかのような空間だった。
教室の前には黒板があり、チョークで「ご宿泊ありがとうございます」と書いてあった。
また、文字の周りにはちょっと歪んだアニメのキャラクターの姿もあった。
「涼太、後もすごいよ。」
唯の言葉で後ろを振り返ると、後ろの壁一面に習字が貼ってあった。
「お正月だってよ!俺も散々書かされたよ。」
「見て、この子の字、めっちゃ綺麗じゃない?」
「いたいた、こういう子。習字とかやってて必ず金賞取るんだよな。」
荷物を置き、しばらく懐かしさに浸った後、僕たちは机を四つくっつけて食事を摂った。
「懐かしい!こうやって給食食べたよな!涼太の所も同じだろ?」
夕飯は来るときに買ってきたコンビニ弁当だったが、こういう食事も良いものだと思った。
「涼太。これから何する?」
僕はそう聞かれて困った。外は暗くなってしまったし、キャンプファイヤーは予約が必要だからできない。
「肝試しってのはどうよ。」
途端に、女性陣ふたりから反対の声が上がる。
「まあ、待てよ。こういう機会ってのはあんまり無いと思うんだよ。夜の理科室とか音楽室ってのはなかなか入れないぞ。」
確かに、こんな経験ができる機会っていうのは無いかもしれない。
「俺、今から音楽室と理科室に、このトランプを隠してくるからさ、涼太と唯で探しに行くってのはどうよ。帰ってきたら交代な。」
こうなったら、断ることができないのは唯も僕も知っていた。
「じゃあ、決まり。ちょっと行ってくる。」
そう言うと、勢いよく引き戸を開けると、走って行ってしまった。
音楽室と理科室は4階にある。
唯と僕は、まず音楽室に入った。
音楽室の中央には大きなグランドピアノが鎮座し、その周りに鉄琴や木琴、小太鼓などが置いてあった。
音楽室の怪談と言えば、ベートーベンの肖像画がこっちを見ているとか、誰もいないはずなのにピアノの演奏が聞こえるとか言うのが定番だ。
なるほど、月明かりで見るベートーベンの肖像画は確かに怖い。小学生が怪談化したくなるのも頷ける。
そんな事を思っていたら、ピアノの音が聞こえてきた。
そんな馬鹿な?!空耳か?
間違いだと思いたいが、確かにピアノの音が聞こえる。
僕は恐る恐る振り返った。
そこにはクスクスと笑う唯の姿があった。
「涼太ってば、真剣な顔して肖像画を見てるんだもん。ちょっと脅かしたくなっちゃった。」
唯が楽しそうに笑った。
これでは肝試しになっていないが、唯が楽しいのであればそれで良いと思った。
「久しぶりに弾いてみようかな。私ね小学校の頃、ピアノを習ってたんだ。」
そう言うと、唯はピアノを弾きだした。
音楽に疎い僕にはなんの曲かは分からなかったが、小学校の音楽の授業で聞いたことのある曲だった。
今日は満月だ。
カーテンのかかっていない音楽室に、月明かりが差し込んでいた。
月明かりの中、ピアノを演奏する唯はとても美しかった。
「奇麗だ。」
思わず僕の口から声が出た。
「何か言った?」
唯が演奏しながら尋ねてきた。
「唯が綺麗だって言ったんだ。」
「何言ってんの?涼太らしくない。」
確かに僕らしくないと思う。月明かりに充てられたのかもしれない。
唯が微笑んでいる。このまま静かな時が流れてくれたらと思った。
「きゃ!」
突然、唯が短い悲鳴を上げた。
「何?どうしたの?」
「虫、虫がいる。」
ピアノの方を見ると、5センチはありそうな大きな蛾が止まっていた。
「へぇ、やっぱり田舎の蛾は大きいな。」
僕はもう少し観察しようと、蛾の方へ移動する。
「ちょっと、やめてよ。飛んだら怖いじゃない。」
いや、蛾は飛ぶものですから、それが普通です。
次の瞬間、蛾は唯の方に飛んできた。
こういう時はどうして嫌がる人の方に、飛んでくるものなのだろうか?
背中に蛾がとまった唯はパニックになって、僕にしがみついてきた。
「涼太、取って!早く!」
唯は涙目で僕に言った。
僕は軽く蛾を払いのた。蛾は何事もなかったように飛び去ると、音楽室の外に出ていった。
唯はしばらく僕にしがみついていた。
少しでも落ち着けばと、僕は唯の髪を撫でる。
5分ぐらい経った頃であろうか、唯が顔を上げて僕を見た。
月明かりの元、透き通るような肌をした唯はとても美しかった。
僕たちは引き寄せられるようにキスをした。
ガヤガヤと騒がしい音がしたので、僕は目を開けた。
目の前の校舎からスーツを着た学生たちが出てきたのだ。就職支援のイベントが終わったのであろう。
馬子にも衣装とはこの事だろう。スーツを着ているというだけで、社会人の仲間入りしているように見えてくるから不思議だ。
集団の中に唯の姿もあった。
友達なのであろうか、唯は男性ひとり、女性ふたりのグループを作っていた。唯以外のふたりは知らない顔だ。
「梓はどういうところに就職したいの?」
唯が女性に話しかけた。
「一応、アパレル関連志望。事務職なんだけど、今最終面接まで行ってるんだ。唯は?」
「う〜ん、まだあんまり決まってないんだよね。自分がどういう仕事が合ってるのかも分からないし。」
「まだ決まってないのヤバくない?俺、いっこ内定出たぜ」
男性が言った。
「ホントに?拓巳が?あぁ!もうどうしよう、どうやったら良いか分かんないのに、時間ばっかり過ぎていくよ。」
「唯はしっかりしてるからさ、ゆっくり自分に合った所を探せば良いよ。」
三人の姿は僕から遠ざかり、大学の正門の方に消えていった。
唯の交友関係はだいたい把握していた気でいたが、あんなに仲良く話せる友達がいたとは驚きだった。まだまだ僕の知らない唯が居るのだと感心させられる。
やることも無いので、しばらく気の上で昼寝をする事とした。この場所は日光を遮ってくれる上に風通しも良く、昼寝には最適なのだ。
アブラゼミの鳴き声にヒグラシが混ざるようになった。気温は相変わらず高いが、刺すような陽射しは薄れてきたように感じる。
「さっきうちのブースに来た子、めっちゃ可愛くなかった?」
就職支援のイベントに来ていた卒業生が、片付けを終えて出てきたようだ。
「分かる。ひとり居たよね、かわいい子。確か、小林唯。」
僕の耳がピクリと動いた。
「そうそう、その子。すげー好み。」
「良いのか近藤。彼女に言っちゃうぞ。」
「それはそれ。そういえばさ、俺の先輩が言ってたんだけど、この時期の学生は内定を餌にすればすぐ食いついてくるって。」
こいつらは、一体なんの話をしてるんだ?!
「ダメだろそれ?犯罪じゃね?」
「そうなのか?同意の上だから良いんだろ?」
近藤と呼ばれた男がとんでもない話をしだした。
「学生は内定を手に入れる。俺らはその見返りとして・・・な?ウィンウィンの関係じゃん。」
「そもそも、お前じゃ内定出せないじゃん。」
「それはそれ。後で頑張ったけどダメでした。とか言っとけば良いんじゃない?どうせ学生なんて遊んでばっかりなんだから。」
「最悪だなお前?」
「ははは、冗談だよ。そんな事やるわけ無いじゃん。」
ふたりは荷物を乗せた台車を押して、駐車場の方へ向かっていった。
嫌な予感しかしない。
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