第3話 春風の中で

 さて、この状況をどうするべきか。

「おだんごちゃ〜ん、ご飯ですよ〜。」

 来てしまった、この時が。

 知っていた。知っていたけど考えないようにしていた。

 猫用品を買いに行く。

 そう言われたときに覚悟を決めておくべきだったのだ。

 唯がニコニコしながら僕の前に出したそれは、キャットフード。しかもカリカリなやつ。

 まだ缶詰系ならなんとか食べられる気がするけど、いきなりカリカリですか!?

 僕はカリカリ飯に鼻を近づけては離すといった行為を繰り返していた。

「お腹すいたでしょ?美味しいよ〜。」

 ニコニコしながら唯が僕の顔を覗き込んでいる。唯の期待に満ちた視線が痛い。

「どうしたのかな〜?お腹空いてないんですか〜?」

 僕の鼻先を指で触りながら唯が言った。

 どうする?

 どうする?

 食べるのか?

 食べるのか?

 食べるのか?

 ・・・。

 無理だよ〜。だってキャットフードだよ。

 サラダチキン出してよ。冷蔵庫にあるの知ってるから。

 僕の心の叫びは唯に届かない。

「おだんごちゃ〜ん、美味しいですよ〜。」

 ・・・食べてないくせに。

 僕は非難の視線を送るが、、もちろん唯に僕の声は届かない。変わらず笑顔で、僕の顔を覗き込んでいる。

 うぅぅ、視線が痛い。

 覚悟を決め、僕はキャットフードをひとつ口に入れる。

 カリッ。

 小気味良い音が響く。

 あぁ。

 ・・・不味い。

 まず、味が薄い。そして肉なのか魚なのか分からないが、変な臭いがする。

 お腹は空いているから、我慢して食べ続ける。覗き込む唯の満面の笑顔が、妙に腹立たしい

 僕は息を止めて食べ続けた。

 ゴフッ。

 むせた拍子に息を吸い込んでしまった。臭いと共に味が明確に感じられた。

 不味っ!

 涙が出てくる。

 口の中がカラカラだ。カリカリにかなりの水分が持っていかれているようだ。

 猫は元来それほど水分を必要としない。ホントかどうかは知らないが、元々エジプトあたりの動物だからタンパク質から水分を体内で生成できるとか聞いたことがある。

 でも口の中は乾く。

 世の猫たちはカリカリを食べるときに、水分補給をしないのだろうか。

 僕は我慢できず、キッチンに移動するとシンクに飛び乗った。洗い物だろうか、たまたま置いてあったコップの中の水を口を窄めて啜った。

(美味い!)

 思わず声に出して言ってしまった。

 水をお腹いっぱい飲んだあとに唯の元へ戻ると、すでにカリカリは片づけてあった。

 もちろん、これ以上食べる気にはなれなかった。明日以降の食事の事を考えると、頭が痛くなる。

「それじゃ、おだんごちゃん。食後の運動ですよ。」

 そう言うと、唯は手に持っていた物を誇らしげに僕に見せた。

 30センチメートルぐらいの黄色いプラスチックの棒の先に、10センチメートルぐらいの長さの毛の塊が付いたものを持っている。

 俗に言う、猫じゃらし。

 唯は床に寝転ぶと、僕の目の前で猫じゃらしを横に振った。

 もちろん僕には猫じゃらしを追う趣味はない。それどころか、さっき食べたカリカリのせいで今にも吐きそうだ。

「あれ?おだんごちゃ~ん。運動ですよ~。」

 今度はねこじゃらしを縦に振り出した。

「上下の動きならどうだ!」

(いや、横とか縦とか関係ないから!)

 思わずツッコミを入れる。

「おかしいな。何でじゃれないんだろう。」

(人間だからです。)

 答えても唯には分からないだろうけど。

「これならどうだ!」

 唯は猫じゃらしを、僕の顔に押し当ててくる。

 う、うざい・・・これは、かなりうざいぞ。

 思わず僕は右手で猫じゃらしを押し返した。

「あ、反応した!おだんごちゃんは、これがお好みですか。」

 調子に乗って、猫じゃらしを押し当ててくる唯。

 ・・・。

 ・・・。

(ちょっと!やめて!)

 右手で猫じゃらしを払いのける僕。

 寸前の所で、唯の猫じゃらしが僕の右手を避ける。

 む、むかつく!

 今度は、左手で掴みにいく。

 やはり、華麗によけられた。

 調子に乗った唯は、僕の目の前で猫じゃらしをクルクルと回転させた。

 今度はジャンプして両手で取りに行った。

 猫じゃらしが上に避けた。

 思わず猫じゃらしを目で追ってしまい、体勢が後ろに崩れてしまう。

 そのまま後頭部から床に落ちてしまった。

「あはは。おだんごちゃん、トロい!」

 く、屈辱だ!絶対に捕まえてやる。

 僕は全力で走った。

 立ち上がった唯は猫じゃらしを振りながら、ソファーの方に移動した。

 僕も後を追い、ソファーに飛び乗った。

「おだんごちゃん、こっちだよ~。」

 ソファーの反対側で唯が猫じゃらしを揺らしている。

 僕は狙いを定めて、力いっぱいソファーを蹴って走り出した。

 一歩、二歩、三歩。一歩ごとに僕の体が加速していくのが分かる。三歩目で大きくジャンプし右手を振った。

 唯の手から猫じゃらしが叩き落とされ、まるでスローモーションのように床に落ちた。

(やった!これが僕の実力だ!)

 僕は床に華麗に着地し、達成感に浸った。

「やった!おだんごちゃん、すごい!」

 唯が笑った。それが嬉しかった。

「あー、楽しかった。こんなに楽しかったのは久しぶり。」

 笑いすぎたのか、唯の目尻にはうっすらと涙が浮かんでるの見える。

「ホント、久しぶりに笑った。涼太が入院してからあんまり笑わなかったから・・・。」

 そう言うと、唯は僕を抱き上げて優しく抱いた。

 唯の目から一筋の涙が流れた。


 ベランダで鳴いている二匹の小鳥の声で目が覚めた。

 ベッドで丸くなって寝ていた僕は、いつも通り背中の筋肉を伸ばしたあと、肩の関節のストレッチをする。

 昨晩はあの猫じゃらしバトルのあと、シャワーを浴びてすぐに寝てしまった。

 唯は僕がお風呂を嫌がらない猫だと気づき、きれいに洗ってくれるのだ。舌で毛づくろいができない僕にとって、体を洗ってもらって、乾かして、梳かしてくれるのはとてもありがたい。

 まだ寝ている唯を起こさないように、僕は静かに床に飛び降りるとキッチンに向かった。

 昨晩から僕専用の餌箱と水入れが準備されたのだ。からっぽの餌箱の横には銀色の水入れがあり、半分ぐらい水が入っていた。

(ありがたい。これならずぶ濡れにならなくて済むな。)

 僕は独り言を言うと、水入れに入っている水を啜り飲んだ。

 水を飲んだあとはトイレの時間。廊下の先にある猫用トイレを尻目に、僕はトイレのドアに飛びついた。

 ドアノブを傾け、開いたドアの隙間に体をねじ込む。昨日と同様、開いたドアの先にある人間用の便器の上に飛び乗った。

 便座に四つん這いになり用を足す。

 あぁ、至福のときとはこの事ではないだろうか。

 ブルブルっと全身を震わせると、僕は便器から降りた。さすがにトイレの水を流すレバーは、動かせなかった。

 リビングに戻ると唯が起きていた。

「おはよう、おだんごちゃん。」

 髪はボサボサで半分寝ている唯が言った。

 フリース生地の大きめのパジャマを引きずるようにして、洗面所に向かう唯。

 顔を洗う音がして、少しだけ目を覚ました唯が洗面所から出てきた。相変わらず髪はボサボサだ。

 その後、トイレのドアを開け、中にはいるとすぐに出てきた。

 何か忘れ物かな?などと思ってたら、唯が僕の方を見て言った。

「おだんごちゃんのトイレはあっち。」

 唯の言う「あっち」とは廊下の先。つまり猫用のトイレを指している。

「トイレでおしっこできるのはすごいけど、また中に落ちちゃうから、ちゃんと猫ちゃんトイレでしてね。」

 唯はそう言うが、猫用のトイレを使用するのはどうしても抵抗がある。僕は今の言葉は聞かなかったことにしようと心に決めた。

 猫は本来、人間の言葉など分からないものなのだ。

 唯はすぐに朝ごはんの支度を始めた。冷蔵庫からゴソゴソと何かを取り出し、そのうちのひとつをオーブントースターに入れて温めだした。

 どうやら、唯の朝ごはんは昨日のうちに買っておいたコンビニのサラダとパンらしい。ホットドックだろうか、温度の上がったオーブンからはパンの焼ける香ばしい匂いが立ち込める。

「今朝のおだんごちゃんのご飯は・・・。」

 キッチンの中の引き出しのひとつは、キャットフードスペースになったようだ。引き出しの中身を楽しそうに唯が見ている。

「じゃーん!ジューシーしっとりサーモン!」

 唯が取り出したのは、レトルトタイプのキャットフード。プレミアムの文字が金色に輝いている。

 ジューシーしっとりサーモンが僕のお皿に盛られた。プレミアムというだけあって、昨日のカリカリより数倍美味しそうだ。

 僕はジューシーしっとりサーモンを一口食べた。少し味が薄いが、口の中にサーモンの旨味が広がる。

 醤油が欲しいところだが、素材の味を活かしているということにして、そのまま食べた。

「おだんごちゃん、美味しい?昨日のカリカリはあんまり好きじゃなかったみたいだしね。」

 どうやらバレているらしい。

「でもカリカリも食べてね。レトルトタイプって高いんだから。」

 唯が顔を近づけて言った。有無を言わさぬ迫力があって、僕は一歩後ずさった。


 ご飯を食べ、シャワーを浴びた唯は出かける準備を始めた。

 天気予報では気温は25度ぐらいまで上昇し、暖かな晴天に恵まれると言っていた。

 今日の唯のファッションは、クラシカルな前ボタンのデニムスカートに白いブラウスを合わせている。

 化粧をして僕の前に立っている唯の姿は、先程までの髪ボサボサなスエット女とは似ても似つかないものだった。

 小さなショルダーバッグに、財布やポーチを入れる唯。

 いったいどこに行くのだろう?テキストの準備をしていないところを見ると大学って事は無さそうだが。

「おだんごちゃん、お留守番お願いね。昨日みたいに外に出ちゃダメだからね。」

 唯はベランダに出るテラス戸の鍵もしっかり確認して玄関から外に出ていった。

 引きこもりになってない所は安心したが、唯の行動には不明な点が多い。僕は今日も唯を探してみることにした。

 昨日と同様、ベランダに続くテラス戸の鍵を開け外に出る。手すりを通り非常階段に飛び乗る。あとは階段を降りるだけだ。猫の僕にとっては造作もないことだった。

 さて、唯は何処に行ったのだろうか。

 犬であったなら臭いで後をつけるといったいった事が可能であろうが、僕の嗅覚はそれほど鋭くはないようだ。

 唯の家から坂を上がると大学。坂を下ると商店街だ。

 大学の準備はしていないようだったので、行先は商店街か・・・それとも駅か・・・。

 洋服好きの唯のことだからショッピングモールに行ったのかもしれない。

 僕は商店街方面に行くことにした。

 住宅街の塀の上を移動し坂を下る。特に目的地があるわけでは無いので、昨日と違う道をゆっくりと進んだ。

 途中、大きな庭のある家があった。ガーデニングが趣味なのか、庭には様々な植物が植えられている。

 木の柵を越え、道に飛び出ている藤色の花はライラックだろう。ハート形の葉っぱに小さな円錐形の花が咲き乱れて、とても華やかだ。

 庭の奥にはバラのゲートが見えた。赤と白の花が混ざり合い、鮮やかな空間を作り出している。

 僕は柵を飛び越え庭に入ると、バラのゲートをくぐってみた。

 空一面に咲き乱れるバラの数々は、外で見ているより遥かに幻想的だ。まるで自分がバラの世界に迷い込んでしまったようだ。

 僕は深呼吸をして、バラの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。自分の大学の近くにこのような場所があるとは思わなかった。唯に教えてあげたら喜ぶであろうか。

 隣の家には犬がいた。雑種・・・いまはミックスと言うのか?が、玄関先のコンクリートの上で気持ちよさそうに寝ていた。耳をピクピク動かしている所を見ると眠っているのではなく、目を閉じているだけのように思える。

 僕は「にゃあ。」と一声鳴いてみた。

 犬はすぐさま目を開け、僕の姿を確認すると、塀の下まで走ってきた。

 塀の下で牙を剥き吠えたてる犬は、僕に手が届かず悔しそうだ。僕はそんな犬を尻目に涼しい顔で塀の上を移動してやった。

 犬がいる家の隣は、昨日トラ猫がいた空き地だった。別の道を通ったつもりだったが、それほど離れた道ではなかったようだ。

 僕は辺りを注意して空き地に降りた。空き地の中は草が生い茂っていて視界が悪いため、昨日のトラ猫がいきなり跳びかかってきても気づけない。

(お・・・い・・・。)

 誰かの声がした。

(お・・・い、兄・・・さ・・・ん・・・。)

 だ・・・誰だ!?

 昨日のトラ猫が、草むらの中からのっそりと姿を現した。

 やばい、奴だ。

 僕は全速力で空き地を駆け抜けると、塀に飛び乗り走って逃げた。

(ま、待・・・て・・・。)

 後ろからトラ猫の声がしたが、相手をする気にはなれなかった。昨日はたまたま勝てたが、ケンカ慣れしている野良猫との勝負など二度とする気にはなれない。

 住宅街を抜け、商店街に入った。

 相変わらずけたたましい音をたてているパチンコ屋を横目に、商店街を進む。昨日、様子を見に行ったペットショップを越えると銀行、携帯電話ショップ、そして古着屋が続いてる。

 唯が生きそう場所は、服屋か雑貨屋ぐらいだろうか?ショッピングモールの方に行かれたら、さすがにこの姿では入ることはできないのでお手上げだ。

 古着屋を外から覗き込む。

 店員のこだわりなのか、それともただ単に面倒なのか、この店のレイアウトは数年変わっていない。店頭にはジーンズのラックが並んでおり、横に置いてあるマネキンは、少し汚れたミリタリー風のジャンパーにジーンズを合わせている。

 購買意欲がそそられるともとも思えないが、古着好きの学生たちにはそこそこ評判の良い店だ。

 唯はあまり古着を好んで着る方ではない。どちらかといえば、流行りの服を来て友達と盛り上がるのが好きなタイプだ。唯にとってのファッションは、コミュニケーションツールのひとつなのかもしれない。

 僕は用心しながら少しだけ店の中に入って様子を伺った。数人の客の姿を確認できただけで唯の姿は無かった。

 唯の好きな雑貨屋は古着屋から100メートルぐらい先にある。

 店内はところ狭しと雑貨が並び、すれ違うのも苦労する程だ。よく分からない雑貨がたくさん売っていて、事あるごとに唯が「可愛い」を連発していたのを思い出す。

 入り口近くに展示してある公園にありそうなベンチ(誰が買うんだ?)の上に登り、窓から中の様子を伺う。

 店内には棚が林立していて、ほとんどの場所は見ることができないが、店員の動きから推測すると客は一人もいないようだった。

 僕はその後もしばらく商店街を探したが、結局、唯の姿を見つけることはできなかった。

 そろそろお昼になる。

 猫になってからはなぜかあまりお腹が空かず、ご飯は朝晩の2回で済むようになっていた。大学のランチを唯と一緒に食べたのが懐かしい。

 授業の準備を持って出なかった唯が大学に行くとは思えないが、僕は一回大学へ行くことにした。

 茶色のトラ猫がいる空き地は避け、僕は商店街の裏道の階段を使って大学までの道を登ることにした。

 定位置なのか、黒っぽいトラ猫が昨日と同じ塀の上で寝そべっている。こちらを眺めているが昨日と同様、敵意があるようには見えない。

「にゃ〜。」

 一応、挨拶をしてみる。

(こ・・・んに・・・は。)

 黒っぽいトラ猫が何かを言ったような気がするが、分かるはずもない。きっと気のせいであろう。

 僕はそう思い、大学への道を進んだ。

(さよ・・・な・・・ら。)

 後ろを向くと、黒っぽいトラ猫は長い尻尾をゆっくりと振っていた。

 唯と僕が通う大学には2つの門があった。

 駅からの大通りに面している東門と、山側に向かう西門だ。

 東門を入るとすぐに工学部棟がある。ここでは基礎工学に関する授業を受ける。その隣が、研究室と実験室が入っている研究棟。

 少し進むと食堂があり、理学部棟へと続く。

 理学部棟の奥は、自然林と呼ばれる雑木林や、人工的に作られた湿地帯、よく分からないものが植えられた畑まである。

 キャンパスの大部分は理学部の敷地であるが、そのほとんどが林や湿地帯で、何のためにあるのかは工学部の人間には分からない。学生数も工学部の方が多く、理学部は謎に包まれている。

 理学部はマッドサイエンティストを作っている、などという噂が工学部内で流れるのも頷ける。

 西門を抜けると、大学の建てっている丘の頂上へと続く道が開ける。丘の上には大学の敷地や駅周辺の施設が一望でる草原があり、一部の学生たちの人気のデートスポットとなっている。

 僕と唯も購買で買ったご飯を持って丘を登り、授業をサボって昼寝していたりしていた。風がとても気持ちよく、いつまでもいたくなるような場所だった。


「風が気持ちいいね。」

 唯が言った。

「そ、そうだね。」

 息を切らした僕が答える。

 大学2年生の春、僕たちは付き合い始めて半年が経っていた。

 僕は両手に大学の購買で買った特製サンドイッチと、ペットボトルのお茶が入ったビニール袋を下げていた。

 唯は中学校からバレーボールを続けている。大学でもバレー部に入り、週に4回練習をしている。

 僕はと言うと高校からずっと帰宅部だ。中学校では陸上部に入っていたが、あまり真剣な部員ではなく、良いタイムを出したことはない。

 軽い足取りで丘を登っていく唯。

 僕の足取りとは雲泥の差だ。これは荷物を持っているかどうかという問題ではなく、そもそもの身体能力が違うのだと痛感させられる。

 綺麗な顔に抜群のスタイル、頭も良く運動神経も良い唯。

 片や僕は、顔はそこそこ、中肉中背。成績はいたって普通、きっと明日は筋肉痛。

 神様は人間を不平等に作ったものだと恨めしく思う。

「涼太!はやくー!」

 唯がどんどん先に行ってしまう。

 僕は力を振り絞って、足を前に動かした。大腿なんとか筋が悲鳴を上げる。

「一番上まで行くよー。」

 遠くから唯の声が聞こえる。

「そろそろこの辺で、いいんじゃない?」

「なにー?聞こえないよー。」

 精一杯叫んだが、遠すぎて唯には届かないらしい。

 どんどん上がっていく唯。

 どんどん上がっていく息。

 僕はやっとのことで、頂上に着いた。もう一歩も歩けない。唯は涼しい顔で僕の顔を覗き込んできた。

「涼太は運動不足なんだよ。また陸上やったら?」

 冗談じゃない。

 大学に入ってまで部活の上下関係に気を使うなんてゴメンだ。それに、陸上部に入ったのは中学校では何らかの部活動をしなければならなかったからで、別に走るのが好きな訳じゃない。かっこつけて運動部に入ったけど、今同じ選択に迫られたら文化部に入るね、絶対。昼寝部とかあったら最高だ。

 頂上の風は火照った体を冷ましてくれる。

 僕は目をつぶって風を全身で受けた。汗が引いていくのが分かる。

「ね、気持ちいいでしょ?」

 唯が得意気に聞いてくる。

 この場所は、唯がバレー部の先輩から教えてもらった場所なのだ。

「まあ、たまには良いかな。」

 内心は感動していたが、なんとなく悔しかったので僕はそっけなく答えた。

 吹き抜ける風。眼下に広がる大学のキャンパスと、駅周辺の学生街。小さく見える人の流れ。

 まるで箱庭のようだ。言い古された言い方ではあるが、他に表現する言葉が見つからなかった。

「さ、お昼ご飯食べよっか。」

 唯が僕の隣に座った。

 汗だくの僕とは違い、唯はほとんど汗をかいていない。これがアスリートと一般ピープルの違いか。少しだけ情けなくなった。僕はその気持ちに気づかれないように乱暴に汗を拭くと、羽織っていた上着を脱ぎ草の上に置き、大の字に寝転んだ。

 気付かれないように唯の姿を見る。

 心地よい風に髪をなびかせて、唯は空を仰いでいた。唯の視線をたどってみても何も見つからない。雲でも見ているのだろうか?

「この時間じゃ、三限はサボりだな。」

 時刻は12時半を回ったところ。今からサンドイッチを食べてから丘を降りたとしても、三限の開始時間には間に合いそうに無かった。

「私は三限の授業は取ってないけどね。」

 唯がいたずらっぽく言った。

 ず、ずるい・・・。

 三限の授業は基礎情報処理。これは選択科目であり、履修していない唯は出席する必要はない。僕のこの講義への力の入れ具合はひどいものだ。4月から講義が始まって、今日で3回目の欠席となる。

 理由は・・・唯がいないから・・・。

 僕は昔から友達に流されるタイプだった。自分で判断できる人たちはすごいと思う。ずっと人の決めることに従っていた僕は、一人で行動することが本当に苦手なのだ。

 購買のサンドイッチはパン屋での人気のメニューのひとつだ。

 きつね色に焼いた耳付きのパンに、ハムカツ、卵焼き、レタス、スライスしたトマト、オニオンが挟んであって、230円とお手頃な価格だ。他のパンはコンビニでも売っている市販のパンであるが、このサンドイッチだけは学内で作っているらしい。これに70円のパックジュースを付ければ立派な昼食になる。貧乏学生には嬉しいメニューだ。

「やっぱり、外で食べるご飯は美味しいね。」

 同感だった。同じ味のはずなのに外で食べる食事は格別だ。ピクニック、運動会、バーベキュー、子供の頃はいろいろな場面で色々な料理を食べたがどれも美味しかったのを思い出す。

 大学生にもなると親と出かけることもなくなり、そういう場面はめっきり減ってしまった。インドア派の僕なんかは仲間内でバーベキューに行くこともなく、最後に外で食事をしたのがいつなのかさえも思い出せないほどだ。

 サンドイッチを食べ終わると、ふたりで草の上に寝転んだ。

 新緑の香りと爽やかな風が気持ちいい。

 このまま寝てしまおうか。

 そう思ってから眠りに落ちるまで、さほど時間はかからなかった。


 丘の上にいるかもしれない。

 唯を探して大学まで来た僕は、直感的にそう思った。

 新緑の季節。

 唯が一番好きな季節だ。

 この季節はよく唯と一緒に丘の上でご飯を食べていた。

 僕は大学の東門の前の信号を渡ると学内に入り、東西に横断した。

 理学部棟の近くにある自然林を抜けると、西門があり、丘へと続く道に行くことができる。

 僕は自然林を抜け、丘へと向かった。

 西門を出るとしばらく林が続く。少し湿った土が肉球を冷やす。よく見ると小さな羽虫がたくさん飛んでいた。

 ベニシジミが二匹、葉っぱにとまっている。もう少し暖かくなるとアゲハ蝶も見られるかもしれない。この林はクヌギの木も多いため、夏になるとカブトムシの姿を見ることもできる。大学に入学したての時は、皆でカブトムシを捕りに来て、年甲斐もなくはしゃいだものだ。

 森を抜けると緩い傾斜のある草原に出る。

 今の季節はタンポポとオオイヌノフグリの姿を見ることができる。数匹のモンシロチョウがヒラヒラと飛んでいる。

 僕はたんぽぽに鼻を近づけてみた。人間のときには感じなかったタンポポの仄かな香りが楽しめた。

 タンポポやオオイヌノフグリでといった、人間のときにはとても小さく感じていた花でも、今の僕にとっては大輪だ。雑草に大きな生命力さえも感じる。

 草原を道なりに登ると丘の頂上に出ることができる。よほど物好きな学生でないと、ここまで来る者はいない。

 僕は目を凝らして唯の姿を探した。

 お弁当を食べている者。

 草の上に寝転んでいる者。

 何人かで話をしている者。

 それぞれ思い思いに過ごしている中で、木陰で膝に顔を埋めている人がいた。

 白いブラウスにデニムのスカート。

 控えめに茶色く染めた少し長めの髪。

 唯だ。

 僕は唯に近づいた。

 寝ているのだろうか、唯はそのままの姿勢で動かない。

「にゃ〜。」

 僕は小さな声で話しかけた。

 唯がゆっくりと顔を上げる。

 唯の顔には涙の跡があった。

「おだんごちゃん?」

 びっくりした唯が、涙の跡を擦りながら僕を見た。

「こんな所で何してるの?」

 それはこっちのセリフです。

 心の中でツッコミを入れる。

 唯は僕の脇の下に手を入れ持ち上げると、自分の膝の上に僕を座らせた。

「君は、こんな所で何をしていたのかなぁ?」

 僕の鼻の頭を指先で撫でながら、微笑みながら唯が言った。

 寂しい微笑みだった。

「ここはね、涼太とよく来てた場所なんだ。」

 ゆっくりと唯が話し出した。

「涼太はね、ここに来るとすぐに寝ちゃうんだよ。」

(悪かったね!)

「その寝顔が可愛くて、ずっと見てたんだ。」

 唯の両目に涙が溜まり、そして流れた。

「もう会えないの。こういうのは無くなってから気付くってよく言うけど、ホントだね。もっと大事にしておけばよかった。」

 唯の涙は止まらなかった。

 そんなことはない。唯がいてくれて僕は幸せだった。そう伝えたかったが僕には伝えることはできない。それがもどかしかった。

「入院してからも、私、辛くて、信じられなくて、怖くて。・・・自分のことばっかり。涼太が病気と戦ってるのに、お見舞いに行けなくて、会うのが辛くて・・・。」

 あとの言葉は嗚咽となって消えた。

 唯は僕の事を抱きしめながら子供のように泣き続けた。

 春の強い風が凪ぎ、暖かい太陽が丘を照らしている。

 しばらく泣き続けた唯も、少し落ち着いたのか、膝に顔を埋めてじっとしている。

 僕はというと、さっきから唯の横にちょこんと座り、唯の様子を眺めていた。

「帰ろうか。」

 どれくらいの時間が経った後だろうか。日が傾き始めた頃、唯がぽつりとそう言った。

「にゃあ。」

 そう答えた僕を抱き上げ、唯は丘を下りだした。顔には涙の跡が残り、アイシャドーは滲んでいた。

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