第4話 出会い、そして
昨日家に帰ると、唯はシャワーを浴びてすぐに寝てしまった。
夕飯は食べる気になれなかったのだろう。僕のカリカリだけ準備して、自分は何も口に入れることは無かった。
唯は毎日何をして過ごしているのだろうか。
今日は一日中丘の上にいたようだ。昨日は僕の物を買いに行っていた。
大学へはいつから行っていないのだろう。僕が死んでからだろうか?僕が入院してからずっとということは無いと思うが・・・。
ベッドの上では唯が寝息を立てている。
僕は唯の寝顔を覗き込んだ。
長い睫毛にはうっすらと涙が浮いている。
大きな目、形の良い鼻、少し小さめの口、白い肌。大学の準ミスだけあって、唯の容姿はとても整っている。
明るく、裏表なく、少し気が強いところはあるが、誰にでも親切で、皆に好かれていた。
笑顔がとても似合う人だった。僕はその笑顔を見るだけでいつも幸せな気分になれた。
4月。やっとのことで大学に入学した僕は初めての登校で少し緊張していた。
この大学は家から電車で2駅ほどの場所にある。頑張れば自転車でも来れるという便利な立地の上、志望していた工学部があり、少し足りない僕の偏差値を上げるための目標として大いに貢献してくれた。
今日は大講堂で、新入生のオリエンテーションがある。
入学のときに配られた書類に書いてあったが、大学というところは高校とは違って自分に必要な授業を自分で選択して単位というものを取得するらしい。
この大学では二年生の終わりに単位が足りないと、研究室に入ることができなく留年となるようだ。
留年をすると学費が余計にかかって親に迷惑をかけてしまうし、就職の際に履歴書に大学に5年間行ったことも書かなければならない。今日のオリエンテーションはしっかり聞いて、つまらないミスをしないようにしなければならないと思う。
僕はふと自分の格好と周りの学生の服装を見比べた。
僕はグレーのパーカーにジーンズを合わせ、足元はスニーカー。そしてリュックサックを背負うというラフな格好。
しかし、周りを見るとジャケットを羽織っている学生や、襟付きのシャツにスラックスの学生、中にはスーツを着たの学生もいたりして、自分の格好が場違いな気がして少し恥ずかしかった。
僕は少し早めに大講堂へ行くと、一番後ろの扉側の席の端っこに腰を下ろした。
なるべく目立ちたくなかった。明日からはもう少しちゃんとした格好で登校しようと思った。
同じ高校からこの大学に進学した友達はいない。僕が通っていた高校は、県内でも珍しい工業高校だった。
特に偏差値が低いという高校ではなかったが、物作りが好きな奴や、家が工場の奴、早めに手に職をつけたい奴が集まっていたので、自然と高校を卒業したら就職するのがあたりまえだという雰囲気があり、受験勉強を頑張るという雰囲気は無かった。
案の定、ほとんどの友達が就職希望で、地元の企業に就職したり東京に行ってしまったりとバラバラになってしまった。
講堂内を見ると、知り合い同士なのか何人かでおしゃべりをしている集団がいくつかあった。
僕は「羨ましい」と思った後、自嘲気味に笑った。
前からそうだった。誰かといないと不安になる、一人じゃ心細くて何もできない。
みんなと一緒じゃないとトイレにも行けないというほどではないが、集団の中の自分がとても安心できた。
誰かが決めてくれた課題をこなし、誰かが決めてくれた場所で遊び、誰かが決めてくれた場所で食事をする。誰かが決めてくれた時間に集合し、誰かが決めてくれた時間に帰宅する。
そんな不安も無く不満も無い毎日。
それはある意味楽しく、滑稽な日々だった。
そんな自分が嫌だった。大学生といえば社会人の一歩手前だ。社会に出たらそんなことじゃ務まらないだろう。
僕は右側の窓から入ってくる日差しに目を細めた。
「よし、がんばろう。」
小さく声に出すと、講堂を見渡した。これから4年間一緒に勉強する仲間だ。
改めてよく見ると、ひとりの人もたくさんいる。服装もまちまちだ。さっきはジャケットやスーツの人が目立って自分の恰好が恥ずかしく思えたが、そんなことはない。僕と同じようにラフな恰好をしているひとも多くいる。
不安が視界を狭めるのだ。自分が異質なものに感じてしまい、自分と異なるものを探す。異なるものと自分との差異がさらに不安を掻き立て、視界を狭める。負の連鎖だ。
分ってはいることだが、今まで誰かといることでそういう不安を払拭してきた僕にとって、「その他大勢」でなくなることにストレスを感じられずにいられない。
僕は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「よし、がんばろう。」
独り言を言い、再度講堂の中を見回す。
「結構、女の子がいるな。」
女性の数は全体の3分の1といったところか。工学部という工業系の学部のため、他の学部に比べると女性の数は少ないが、僕の通っていた工業高校に比べればかなり多い。何しろ学年で女生徒は3人しかいなかったのだから。
心なしか良い匂いがする気がする。高校の教室の臭いと言ったら「汗臭い」の一言で言い表せたが講堂内は何とも言えない香りがした。
彼女できるかな。
そんなことを考えながら、講堂を見回した。好みの子がいると「もし付き合えたらどうしよう。」とか考えながら、ひとりニヤニヤした。傍から見たらかなり「キモイ奴」だったことだろう。
講堂の前の入口から誰か入ってきた。大学の職員だろうか、手にはいくつかの資料を持っている。
「それではオリエンテーションを始めます。」
その人は、そう言って資料を配りだした。
講義要項、履修申請書、テキスト申込書などなど。大学での講義を受けるための注意事項や施設の使用方法などが書いてある資料だ。
「まずは、講義を履修する際ですが・・・。」
オリエンテーションが始まった。
僕は細かくメモをとりながら、内容をまとめていった。
高校までと違って、誰かが世話をしてくれるわけではない。全ては自分で管理しなければならない。
オリエンテーションが始まって、10分ほど経ったときだろうか、僕の座っている席のすぐ後ろの扉が開いて、ひとりの学生が入ってきた。
遅れてきた学生は講堂の中一瞥すると扉から一番近い椅子、つまり僕の隣に腰を下ろした。
チャコールグレーのTシャツに黒いロングカーディガン。腰から下は七分丈のワイドパンツに茶色いショートブーツを合わせている。髪は明るい茶色に染め、両耳には小さなピアスが光っていた。
あまりジロジロ見ても失礼かと思い、僕は前を向きなおした。横目で見る彼は膝の上でスマホをいじっている。オリエンテーションを聞く気は全くないらしい。
一時間ほどでオリエンテーションが終わった。
今日はオリエンテーションだけで他に講義はない。ほとんどの学生が学内で履修要項を見ながら、一年生の前期の講義のカリキュラムを組むのであろう。履修カリキュラムは一週間以内に学生課に提出しなければならにのだ。
「ねぇ、君。」
急に話しかけられた。隣に座っていた遅れてきた学生だ。
「俺、関口拓巳。」
「は、はぁ。」
急なことなので、なんとも間抜けな返事になってしまった。
「君、名前は?」
「え?僕?・・・高橋涼太。」
「涼太か。悪いいんだけどさ、オリエンテーションの内容教えてくれない?俺遅れてきたから良く分からなかったんだよね。」
良く分からなかったのは遅れてきたからじゃなくて、スマホをいじっていて聞いてなかったからだろう。
心の中でそう思ったが、それを言っても何の特にもならないだろうから黙っていた。
「別に・・・良いけど。」
「マジ?ラッキー。ちょっと待っててくれ。資料貰ってくるから。」
そう言うと、関口拓巳と名乗った学生は教壇まで行き、資料を一通り受け取ると走って戻ってきた。
「涼太も工学部だよな。一緒の授業取ろうぜ。」
初対面なのに馴れ馴れしい奴だ。講義が始まったら代返とかも頼まれそうだ。
「関口君・・・だっけ?ここ、もうすぐ閉めるみたいだからどこか移動しないと。」
「拓巳で良いって。そうかここ使えないのか。ちょっと待ってくれ。」
そういうと拓巳はスマホをいじり、誰かと連絡を取っている。
「別の教室にツレがいるんだよ。これからそいつと一緒に何の講義を受けるか決める予定。」
じゃあ、僕が教える必要なくない?
そう思ったが、黙っていた。初対面の相手に色々言えるほど口が達者ではない。
「涼太。食堂で待ち合わせだって。」
拓巳がスマホから顔を上げて言った。食堂は工学部棟と理学部棟の間にある。今いる大講堂のある建物から出ればすぐに見える。
食堂に行くと、ひとりの女性が拓巳に手を上げて合図を送ってきた。
拓巳の彼女なのか、少し明るめの茶色い髪を肩より少し下ぐらいの長さで切った綺麗な女性だ。
白いTシャツにデニムのジャケットを羽織り、ワインレッドのロングスカートを穿いている。
「拓巳、また遅刻したんだって?」
合図を送ってきた女性が言った。
「遅刻って言っても10分だぜ。遅刻のうちに入らねぇよ。」
拓巳が威張って答える。
10分でも遅刻は遅刻だ。
「それでよ、よく分かんなかったから、助っ人連れてきたぜ。高橋涼太君、講堂で仲良くなったんだ。」
仲良くはなっていない。
「髙橋涼太です。」
僕は簡単に自己紹介して席についた。
「私は西崎梓。こちらは小林唯さん、オリエンテーションでたまたま隣の席だったの。」
「小林です。」
一目惚れだった。
大きな目も、形の良い鼻も、大きすぎない口も、綺麗な髪も、白い肌も、声も、佇まいも、全てが好みだった。こういう人を僕は探していたのだと思った。
「唯ちゃん、超美人じゃん。彼氏いるの?いないんだったら、俺立候補しちゃおうかな。」
拓巳がふざけて手を上げる。
初対面の相手に対してなんて奴だと思う反面、僕も聞いてみたい内容だったので興味津々だった。
「ちょっと!唯が困ってるでしょ!」
梓さんが横から注意した。
「良いじゃんかよ、これくらい。お互いの事を知っといたほうが良いんだよ。」
拓巳がもっともらしく持論を話す。しかし、小林さんが困っているのは明白だった。
「と、とりあえずさ、カリキュラム決めちゃおうよ。今週中に出さなきゃならないんだし。」
僕は会話に割って入った。
「え、そうなの?」
拓巳と梓さんが一緒に聞いてきた。ふたりとも聞いていなかったのか!?
似たもの同士ということみたいだが、これを言うと何倍にもなって帰ってきそうなので、黙っている事にした。
僕たちは食堂で一年前期のカリキュラムを決めた。一年前期必修科目が多く、結局全員で同じ授業を取ることになった。
食堂を出ると、小林さんが話しかけてきた。
「4年間よろしくね。私、地元が遠くて大学で知り合いがいないから心細かったんだ。」
「小林さん。こちらこそ、よろしく。」
「唯でいいよ。私も涼太って呼ばせてもらおうかな。」
「分かった。ゆ、唯ちゃん。」
自分でも鼓動が聞こえるんじゃないかと思うぐらいドキドキしていた。
これからの大学生活、大いに期待できそうだと思った。
朝はいつもストレッチから始める。
一晩中丸くなって寝ているので、関節という関節が固まってしまって痛くて仕方がない。人間のときは、猫は丸くなって寝るものだから、この姿勢が一番楽なのだと思っていたが、そんなことは無い。仰向けにでは寝られない猫の苦肉の策なのだと思い知らされる。
大きなあくびをした僕は、隣に唯の姿が無いことに気づいた。
珍しい事もあるものだと思いながら、キッチンの方へ歩く。唯はというと何をするでもなく、リビングのソファに座っていた。
低血圧の唯は朝に弱い。いつもはベッドの中で目が覚めるのを待っているらしいが、今日はリビングに来る事ができたようだ。
どちらにしろ、しばらくは行動できそうに無いことは明らかだ。
僕は唯の事は放っておいて、自分の朝の日課を済ます。
キッチンに置いてある僕専用の水入れから水を飲み、唯にバレないようにトイレのドアを開けて人間用の便器で用を足す。
スッキリしたところで、唯の様子を伺いに戻ってきた。目が半分閉じていて、この上なくブサイクだ。
「おだんごちゃん、おはよ。」
僕に気づいた唯が眠そうな声で言った。
「にゃ〜。」
僕は「おはよう。」と答える。
挨拶を済ませた唯は、ゆっくりとソファから立ち上がり、洗面所の方に歩いていった。
顔を洗い、トイレを済ませ、やはりゆっくりと戻ってくる唯。
猫用のトイレを使っていない僕に何も言わない唯。寝ぼけているのか、言うのを諦めたのかは分からないが、あえてその話題に触れるのもヤブヘビだと思い黙っている事にした。
「えっと、おだんごちゃんの朝ごはんは・・・これにするか。」
唯が出してきたのは、レトルトタイプのキャットフード。今日のメニューはチキンらしい。
申し訳無いと思いつつも、昨晩のカリカリ飯は半分ぐらい残してしまった。どうしても、あの臭いと食感が好きになれない。
お腹がペコペコだった僕は、朝ごはんを一気にたいらげた。昨日のジューシーサーモンと比べて少し味が濃いのかもしれない。それほど薄い味が気にならなかった。
唯の今日の朝ごはんは、海藻サラダとスープのみ。もともとそれほど食べる人ではなかったが、ここ数日の食事を見ている限りでは、以前に増して食べる量が減ってきているように感じる。
心配になった僕は、唯の手に自分の頭を擦りつけた。どうすれば元気付けられるかは分からないが、生き物の体温を感じれば少しは元気になるかもしれない。
「あれ?おだんごちゃん、甘えてるのかな?」
(違います。元気になってほしいのです。)
例のごとく気持ちは届かない。ここまで届かないと逆に清々しくなるから不思議だ。
いつからここに置きっぱなしなのか、テレビの前には唯が大学に持っていっていた少し大きめのバッグが置いてある。
ものは試しだと思い、右足でカバンを指して「にゃあ。」と鳴いてみた。
唯は一瞬体を硬直させたが、すぐに笑顔に戻った。
「おだんごちゃ〜ん、それはバッグっ言うんですよ〜。」
(そんなことは知ってるよ!)
僕はさらに右足でバッグをトントンと叩いて「にゃあ。」と鳴いた。
唯の表情が強張る。
唯の全身が緊張しているのが分かった。
時計の秒針の音がやけに耳につく。
僕はもう一声鳴いた。
「にゃ・・・。」
「やめてよ!」
僕の鳴き声を唯が遮る。
「・・・辛いんだよ。」
目を伏せ、唯が静かに言った。
悪いことをしたな。と僕は思った。
あれから2時間ほど経つが、唯はそれっきり寝室にこもってしまい出てきていない。
元気になってもらいたい。そういう気持ちだったのだが、まだ早かったか。
考えてみると、当たり前だ。
何しろ僕が死んでから、まだ一週間ぐらいしか経っていないのだ。
むしろ、僕自身が何故これほどまで割り切れているのかが不思議に思えてくる。
しばらくそっとしておこう。
そう思うと、僕はいつも通りテラス戸を開けると外に出た。
ベランダの手すりから非常階段への道はお手の物になっていた。
さて、どこに行こう。大学に向かうか、それとも駅方面を散策するか。春は好きな季節なので、どこに行っても楽しめるように思える。昨日と同じように大学裏の丘に向かって、野草を観察するのもいいだろう。また、駅までの道にある家々の庭を見て楽しむという手もある。
空き地にいる茶色のトラ猫には要注意だ。野良猫特有のヤバい雰囲気がある。でも、住宅街にいる黒っぽいトラ猫は可愛い。彼女とは仲良くなれそうな気がする。
よし、駅方面に行こう。
僕は家を出ると坂を下り、住宅街の方に足を進めた。決して下心があった訳ではないことは付け加えておく。
駅までの道を少し大回りをして住宅街を進む。
駅まで行くのが目的ではないので、別に時間がかかっても良い。
まず目についたのが、古い平屋の家だった。古いといっても決して汚いわけではない。よく手入れされた庭にはいくつかの盆栽が飾ってあった。危険も無さそうなので、塀から庭に降りると家の方に近づいた。
縁側におばあちゃんでもいるのであれば絵になると思ったが、留守なのであろうか、家には人間の気配はしなかった。
僕は縁側の下にすり鉢状の窪みを見つけた。
アリジゴクだ。
小学生の頃によく捕まえていたのを思い出した。よく友達と一緒に巣ごと大きく掴み取り、中のアリジゴクを家に持って帰っていた。そういえば、その後はそのアリジゴクはどうしたのだろうか?小学生の知識でアリジゴクを飼えるとも思えないから、きっと死なせてしまったのだろう。今思えば、ずいぶんひどいことをしたものだと思う。
近くに小さな蟻が歩いていたのをみつけた僕は、右手を使ってアリジゴクの巣の方に導いた。蟻はアリジゴクの巣に落ちると必死に抜け出そうとする。このまま窪みの中心まで落ちると、アリジゴクに捕まって捕食されてしまうのだ。
僕は蟻の動きをじっと見ていた。
ちっぽけな虫が必死に生きている。もしかしたら昆虫自身には「生きている」という気はないのかもしれない。しかし、その生にしがみつく動きには確かに力強さがあった。
僕はいつの間にか、アリジゴクの巣から出ようとする蟻を応援していた。巣に落とした本人が応援するというのも変な話ではあるが、その必死さと力強さの熱に当てられたのかもしれない。
応援も空しく、蟻はどんどん巣の中心に滑り落ちていく。
がんばれ、がんばれ。
巣の中央にはアリジゴクの顎が見えていた。あの顎に挟まれたら、体液を吸われてしまうのだ。
ジワジワと死の淵へ落ちていく姿に、僕は生前の自分の姿を重ねていた。病気に蝕まれていく体。自分の意思ではどうしようもない虚しさと恐怖。
僕は耐えられなくなって、アリジゴクの巣を右手で掬った。
捕えられていた蟻は足早に去り、巣のあった場所ではアリジゴクが恨めしそうにこっちを見ていた。気のせいであろうが、昼飯を奪った僕を非難してるかのように感じ、僕はその場を後にした。
塀を登った先はいつもの空き地だった。
随分遠回りをした気でいたが、やはりこの空き地に来てしまう。
塀の上で僕は振り返った。
唯の住んでいるマンションが見える。距離にしてだいたい百メートルぐらいであろうか。人間の感覚では短い距離だが、体が小さくなった分だけ距離が長く感じているのか。
とはいえ空き地を越えなければ、駅に行くのにさらに遠回りをしなければならない。
僕は静かに空き地に降り立った。
相変わらず背の高い雑草に覆われた空き地は隠れるのに適していて、いつあの茶色のトラ猫に出くわすかわからない。僕は用心して歩を進めた。
(おい、兄さん。)
もう聞きなれた声がした。
何で、いつもいるかなぁ。
(兄さん、今度は逃げるなよ。)
ここで違和感に気づいた。猫の言葉がわかる?
(何とか言ったらどうだ。)
茶色のトラ猫は草むらからのっそり現れ、僕の前まで来た。
(僕は、草むらを通らせてもらいたいだけなんだよ。)
僕は茶色のトラ猫に向かって言ってみた。
(あぁ、それは分かってる。)
通じた!?不思議と猫と会話ができる。
いや、むしろ当たり前なのか?
(兄さんを、男と見込んで頼みがあるんだ。)
茶色のトラ猫は僕に言った。
(こないだのケンカの時に見せた、ネコキック。あれにはシビれたね。兄さん、実は百戦錬磨の猫大将だろう。)
いや、違いますけど・・・。
(俺もこのあたりじゃ名の知れた猫なんだが、兄さんのケンカには敵う気がしない。)
遠くを見ながら語る、茶色のトラ猫。
(おっと、自己紹介がまだだったな。兄さんもこの辺の猫なら、ちっとは俺の名前を聞いたことがあるだろう。)
茶色のトラ猫は、そこで一息ついてから続けた。
(俺の名前は、ミケ。)
いや、あんたトラ猫ですから!!
(カッコいい名前だろう。自分で付けたんだぜ。)
茶色のトラ猫「ミケ」は口角を上げながら言った。鋭い牙がキラリと光る。
(俺はもともと飼い猫だったんだ。)
ミケが語りだした。
(あの頃は、何不自由ない暮らしでよ。自分で言うのもナンだけど、愛くるしい子猫だった。)
(は、はぁ。)
(あの頃の名前は、チャトラン。)
ぼくは思わず、噴き出した。何というお約束な名前。
(笑うがいいさ。似合わねぇナンパな名前だった事は自覚してる。)
再度、遠くを見るチャトラン・・・いや
ミケ。
(知ってるからこそ、俺は改名したのさ。俺にピッタリの硬派な名前に!)
ピッタリではないですから!
(で、兄さんの名前は?)
僕の名前?今は・・・涼太ではないよな。
(僕の名前はおだんごだ。)
自分で言っててちょっと恥ずかしくなる。
(おだんご?)
ミケがニヤリと笑った気がした。
そうだよ!変な名前だよ!笑えよ!チクショウ!
(和名か。なかなかカッコイイ名前だな。)
どういうセンスしてるんですか?!
(それで、おだんごの兄貴。)
いつの間にやら兄貴と呼ばれている。
(兄貴を漢と見込んで頼みがある。)
いつの間にやら漢と見込まれている。
(俺たちを助けてくれ!)
(断る!!)
呆気に取られるミケを尻目に、空き地を通り抜けようと走った。
冗談じゃない!なんでわざわざ面倒事に首を突っ込まなきゃならないんだ。僕は僕で唯のことで色々忙しいんだ。
(そこを何とかお願いできないでしょうか?)
もう少しで空き地を通り過ぎようかというときに、僕の前に何匹かの猫が姿を現した。
住宅街で何回か姿を見た黒っぽいトラ猫や、子猫の姿もある。
(そいつらはこの辺を縄張りにしてる猫たちだ。そいつらに免じて話だけでも聞いてくれないだろうか?)
ミケが言った。僕の周りには十匹以上の猫が集まり、必死な眼差しを向けている。
これでは話を聞かないわけにはいかない。
(話・・・だけなら。)
僕は知っていた。こういう状況で話だけ聞いて「はい、サヨナラ」って帰れるわけがない。
ミケが話し出した。
最近、この空き地周辺を荒らす、野良猫のチームがいる事。
その荒らしチームは空き地を縄張りとして狙っている事。
何とかして、荒らしチームを追い出したい事。
この空き地周辺は、現在10匹程度の猫が縄張りとして生活している事。
その半分以上の猫がメスや子供で、戦える猫が少なくなってしまっている事。
僕に協力を頼みたい事。
・・・。
ほら、面倒なことになった。
この空き地に変な猫が住み着いたら、僕自身も迷惑を被る事は必須。
そして、懇願する子猫たちの視線が痛い。
何とかするしかないのか。
(わ、分かった。協力するよ。)
僕はしぶしぶ同意した。
(さすが、私が見込んだ男だわ。)
黒っぽいトラ猫が、僕に近づきながら言った。
(私の名前はミシュラン。)
タイヤか?!
思わず心の中で突っ込む。
(よろしくね。)
ミシュランが耳の後ろを僕に擦り付けてきた。
悪い気分では無い。
(相手は三匹だ。)
ミケが神妙な趣で話し出した。
(数こそ少ないが、三匹とも手練の猫だ。こちらの戦力は俺とおだんごの兄貴の二匹、それと喧嘩慣れしてない若いオスが二匹だ。)
僕も喧嘩慣れしてませーん!
口に出して言える雰囲気ではない。
(それで、おだんごの兄貴、どうする?)
僕は空き地を見渡した。
この空き地は三方を壁で囲われている。空き地の左奥には土を盛っている場所があり、そこ以外は背の高い雑草に囲まれている。
人間であれば道路に面している一方からの侵入に対してのみ警戒していれば良いが、猫相手となると、塀の上からの侵入も考えなければならない。
(兄貴、奴らがどこから攻めてくるか考えてるのなら、道路側からに間違いない。あいつらは俺達をナメてるから奇襲なんて仕掛けてこないのさ。)
ミケは悔しそうに肉球を握りしめた。
ミケはここの仲間たちを守るため、三匹相手に孤軍奮闘していたのだ。よく見ると、体中が傷だらけだ。背中側の傷が多いのは、卑怯にも後ろから攻撃をされるからだろう。
普通であれば逃げ出してしまうような状況下で、ミケは逃げ出さずにいる。僕に助けを求めるのも、相当悔しかったであろう。
ミケという猫が、この空き地の猫たちに信頼されているのも納得できる。
(じゃあ、みんなに準備してもらいたい物がある。)
僕は子猫も含め、空き地の猫全員に言った。
ミケの思いは無下にはできない。全員で勝利を勝ち取るんだ。
太陽は西に傾き、辺りは夕焼けに包まれていた。
空き地での作戦会議の後、皆で必要なものを集め、決戦の準備をした。
今まで誰かの先頭に立つことの無かった僕にとって、指揮を取るというのは始めての経験だった。
うまくいくだろうか?不安もあるがやるしかない。人間の知識を見せつけてやる。
僕は意気揚々と唯のマンションに帰ってきた。夕飯は何だろう。そんなことを思うのは何ヶ月ぶりであろうか。
いつも通り階段からベランダの手すりに飛び移り、唯の部屋まで移動する。ベランダに降りてテラス戸に手をかけた。
テラス戸は閉まっていたが、左手に力を入れると、カラカラとスムーズに開いた。
部屋には電気がついていない。
唯は出かけたのだろうか?
僕は部屋の中に入ると、キッチンに行き水入れの水を飲んだ。時間が早いからか僕の食器には夕飯は準備されていない。
「にゃ〜ん。」
僕は唯を呼んでみた。
静かだった寝室の中から、ガタッという音が聞こえ、中から唯が顔を出した。
唯の表情には安堵の色があった。
「おだんごちゃん、帰ってきてくれたのね。」
唯はキッチンまで早足で来ると、僕の脇の下に手を入れて抱き上げた。
「よかった帰ってきた。おだんごちゃん、今朝はごめんね。」
唯の目にはうっすら涙が見えている。
「もう、ひとりは嫌だよ。誰も私をおいて行かないでよ。」
唯はその場で座り込むと、僕を少し強く抱きしめながら言った。
唯の頬を一筋の涙が流れた。
僕は涙をペロリと舐めた。
涙は少ししょっぱい味がした。
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