第5話 繋がるということ
3日後。
僕の姿は空き地の盛土の上にあった。
(おだんごさん。あいつらが来ました。)
見張りをしていた若いメス猫が言った。
(よし!)
僕は短く気合を入れると、一度空を仰いだ。
少し風は強いが青い空が広がっている。大学の裏の丘で、ご飯を食べたら気持ち良さそうな日だ。また購買で買ったサンドイッチを広げて食べたいと思った。
ガクガクと前足が震える。
もともと僕は皆の指揮を取るような人間ではない。その他大勢という地位が心地良いと思っていたし「自分の長所は?」と聞かれたら迷わず「協調性があることです。」と答える。
しかし、今それを皆に気付かせるわけにはいかない。不安は士気を下げ、浮足立たせる。どんなに良い策を講じてもそれぞれが役割を果たせなかった時には敗れ去ってしまうものだ。
去年のクリスマスはひとりでケーキを食べていた。受験を控えた高校三年のクリスマスなんて、だいたいそんなものだろう。
工業高校を通っていたため、出会いもなく、彼女ができない理由を環境のせいにしていた高校時代。
しかし今年は違う。
彼女がいるクリスマスだ。恥ずかしながら人生初の彼女だ。
クリスマスデートと言われても全くピンと来なかったが、雑誌で調べ、ネットで調べ、拓巳に聞き、完璧なデートプランを準備した。
あとは彼女を完璧にエスコートするだけだ。
僕は待ち合わせの場所に行くために、電車に乗った。
待ち合わせは、渋谷のハチ公前にした。
ベタな待ち合わせ場所だが、分かりづらくて迷うよりもずっと良いと拓巳が言っていたからだ。
一駅一駅、渋谷に近づいている。
緊張で手汗をかいてきた。鼓動がうるさいぐらい心臓が脈打つ。
僕は大きく深呼吸した。
体の前にかけていたボディバッグからスマホを取り出すと、メモアプリを呼び出した。
そこには、今日の予定がぎっしりと書き込んであった。
午後2時、渋谷ハチ公前で待ち合わせ。待たせるわけにもいかないので、最低でも10分前には到着しておく。
道玄坂方面に歩きまずは喫茶店へ。道玄坂にはカプチーノに絵を書いてくれる店があるので、ふたりで盛り上がること間違いなし!
午後3時、喫茶店を出て映画館へ。彼女の大好きな恋愛映画(梓から聞いた)を見て良い雰囲気になるはず!
午後6時、予約しているイタリアンレストランに行く。食後のワインを飲みながらプレゼントを渡す。
「完璧なプランだ。」
店の位置も調べた。
映画の時間も調べた。
プレゼントも買った。
あとはプラン通りに実行すれば、クリスマスデート初心者マーク付きの僕でも成功するはず。
スマホの画面を凝視する僕。あと30分もすれば渋谷に着く。
落ち着かない僕は意味もなくネットサーフィンをしていた。
中東の情勢が安定しない影響でガソリンの価格が上昇する。高齢ドライバーの交通事故が続いていため、政府は免許返納を推奨する方針だ。年末に向け事件が多発する可能性を考慮し警視庁では・・・。
ニュースアプリを開いてみたが、ニュースの内容が全然頭に入ってこない。
渋谷まであと10分。
急に電車が止まった。
な、何で?!
「この先の踏切で、緊急停止ボタンが押されました。ただいま安全確認を行っております。しばらくお待ちください。」
車内アナウンスが流れた。
おいおいおいおい!急いでるんだよ!
いつもなら寛大な心で聞ける車内放送が、今日は洒落にならない。何しろ初のクリスマスデートなのだから。
都心ではダイヤが乱れるなんてことは、日常茶飯事なのだろう。社内の客の様子は落ち着いていた。慌てているのは、僕ぐらいなんじゃないかと錯覚する。
時間には余裕を持って出てきているから、少しぐらい遅れても問題ないはずだ。
待ち合わせ時間まであと20分。
僕は意味もなくスマホの時計を凝視する。
安全確認だけであれば、数分で終わるはず。問題は緊急停止ボタンを押した理由が、事故であった場合だ。事故処理が数分で終わるとは思えないため、僕のプランは頭から崩れ落ちる、というか遅刻確定だ。
1分、2分、無情にも時間は経過していく。
まだ社内アナウンスは流れない。
頭では、こんな短い時間で安全確認ができるはずがないと分かっているが、焦らずにはいられなかった。
10分経過。
「安全確認が終わりましたので、発射いたします。」
よしっ!
まだ間に合う。
心の中でガッツポーズをした。
待ち合わせギリギリになってしまうが、改札から走れば間に合うだろう。
ところで待ち合わせ場所であるハチ公はすぐに見つかるだろうか?
拓巳はハチ公口を出たらすぐに見えると言っていたが、大丈夫だろうか?恥ずかしながら僕は渋谷に行くのは初めてなのだ。
僕はスマホで渋谷駅の構内図を呼び出すと、穴が開くほど凝視した。
「え〜と、ハチ公口は・・・あった。僕が乗ってる電車は何番線に着くんだ?」
スマホの画面をスクロールして画面を調整する。
「少し前よりの車両にのっているから、この階段を登って・・・。」
・・・。
き、気持ち悪い。
酔った。
スマホの画面を見すぎたからか?それとも緊張のしすぎか?見事に電車に酔ってしまった。
泣きっ面に蜂とは、まさにこの事か?!
僕は「デートをするなら現地で待ち合わせたほうが盛り上がる。」って言った拓巳を心底恨みたい気分だった。
「渋谷〜、渋谷〜。終点です。」
社内アナウンスが流れる。
「降りなきゃ。」
フラフラしながら電車を降り、改札を通る。途中、何回も人にぶつかり睨まれたりしたが、構ってはいられない。待ち合わせ時間ギリギリだった。
ハチ公口まであと少し。僕は人波をかき分け、やっとの思いでハチ公口に到着した。
「待ち合わせ場所まで、あと少し。」
小さな声でそう言い、僕はハチ公口を出た。
人、人、人。
何だ!この人の数は?!
僕はその人の多さに愕然とした。渋谷駅の周辺は人でごった返していたのだ。
ヤバい。渋谷をナメていた。
そういえばハロウィンなんかでも、ニュースになるほど人で溢れる街だ。クリスマスに人が多くないわけがない事ぐらい予想するべきだった。
というか、ハチ公像はどこだ?
スマホで調べた限りでは、ハチ公口を出るとすぐに見えると書いてあったが、どこにも見当たらない。
渋谷のシンボルだろ?3メートルぐらいの犬の像が、建ってるのではないのか?
「あの、すいません。」
僕は恥を忍んで近くの男性に尋ねる。
「ハチ公ってどこですか?」
男性は、キョトンとした表情で僕を見る。
すいませんね、どうせ僕は田舎者ですよ。
しばらく僕を見た男性は、何かに納得した様子でロータリーの方を指した。
僕は男性の指した方に視線を向ける。
人混み以外は特に何も見当たら・・・あった!というかハチ公小さっ!
初めて見るハチ公の像は、予想よりはるかに小さかった。
僕は男性にお礼を言うと、ハチ公の方に歩いた。誰かと待ち合わせなんて久しぶりだ。口から心臓が出そうなほど緊張している。
ハチ公の横には白いコートに身を包み、赤いショルダーバッグを持った唯の姿があった。
僕の贔屓目も存分にあるのだろうが、周りにいるどの女性よりも可愛いと思った。しばらくこのまま眺めていたい気分だった。
しかし、よく見ると唯が男の人に話しかけられている。なかなかのイケメンだ。
ナンパか?ナンパなのか?
彼氏としてはここで出ていって、ナンパ男を撃退することができるとかっこいいのだろうが、僕は喧嘩はおろか口喧嘩さえもほとんどやったことのない平和主義者だ。
下手に出ていってトラブルになるぐらいなら、このまま様子を見て、唯が断るのを待っていたほうが良いようにも感じる。
僕は散々迷った結果、唯の方に歩を進めた。やはり新米とはいえ彼氏なのだから、ここはビシッと言っておかなければならないだろう。
「ちょっと、すいません。」
意を決した僕は、唯に話しかけている男に話しかけた。
「さっきから見てましたけど、ちょっとしつこくないですか?」
男が振り向く。いかにも女性にモテそうな整った顔立ちに、不覚にも一瞬ひるんでしまった。
「僕、その子と待ち合わせしているんですよ。」
男と目があった。僕は目をそらさないようにするのが精一杯だ。
・・・。
あぁ、沈黙が怖い。
「涼太、その人は・・・。」
唯が声を上げる。
「道を聞いてきただけなの。」
・・・。
なんですと?!
張り詰めていた気が抜けた。
「す、すいませんでした!」
僕は力いっぱい、男性に謝罪した。
先入観とは怖いもので、ナンパだと決めつけていた時はチャラチャラした男に見えていたが、良く見ると気の良さそうな若者だった。
男性に道を教えふたりで見送った後、横からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
唯が肩を震わせながら笑っている。
「どうせ、僕はおっちょこちょいですよ。」
僕は頬を膨らませてみせる。
「うそうそ、男らしかったよ。」
唯は目に涙を浮かべながら笑っている。「男らしい」という言葉に全く信憑性が感じられない。
「そういえば、ごめん。待ち合わせに少し遅れちゃった。」
交通状況ではあるが、遅刻は遅刻だ。僕は素直に謝った。
「大丈夫、大丈夫。遅れたって言ってもちょっとじゃない。電車が遅れてるのも知ってたし。」
パタパタと手を振りながら、唯が言った。
「それよりどこに行く?」
来た!僕の完璧なプランを発表する時だ!
「私、買い物行きたいんだ。付き合ってもらってもいい?」
な、なんですと?!
「ね。せっかく渋谷まで来たんだからさ。」
唯のお願いに勝てるはずもなく、僕はしぶしぶ買い物に付き合うことになった。
買い物って言っても、いつもの洋服だろう。それほど時間はかからないはずだ。
「じゃ、決定!まずはヒカリエから。」
渋谷ヒカリエは、渋谷駅東口から連絡路を進むとあるショッピングモールのことだ。
洋服はもちろんのこと、コスメや小物類、レストランやお菓子屋まであり、いつも若者で賑わっている。
今日はクリスマスイブということもあり、いつも以上に混み合っている・・・と、思われる。何しろ初めて来たので右も左も分からない状態なのだ。
そんな僕などお構いなしに、唯はどんどん進んでいってしまう。こういう場所に慣れているのであろうか、足取りに迷いがない。
僕はというと、混みすぎていてどう歩いたらよいか分からず、さっきから人にぶつかりまくっている。「大丈夫かい?はぐれないように手をつないでおこう。」などと、男らしいセリフを言いに唯が戻ってこないかなどと、本気で考えてしまう。
「涼太!これ、可愛くない?」
唯が手に取ったのは猫の急須。
急須の蓋の部分が顔になっていて、鼻の部分をつまんで開けるようだ。例のごとく少しブサイクな顔をしている。僕には理解できないセンスだ。
「あ、1900円。安い。」
というか、それ買うんですか?!
「どうせなら湯呑みとセットで買いたいな。」
そう言うと、唯は近くの棚を探し出した。
「涼太、私クリスマスプレゼントこれがいいから買って。」
唯がとんでもないことを言い出した。
何しろ、クリスマスプレゼントはちゃんと僕のリュックの中に入っているのだ。恥ずかしい思いをしながらちゃんとラッピングしてもらったのだから、それなりの雰囲気を作ってから渡したい。
「唯、今買うと荷物になっちうから、また今度にしよう。」
何とかして、購入を阻止しなければ。僕は説得を試みた。
「確かにそうだね。重いと大変だもんね。」
以外にも素直に従った唯。
「じゃあ、帰りまで待っててね〜。」
あ、帰りに買うんだ。僕は少し眉間が痛くなるのを感じた。
僕たちは・・・というか、唯と付き添いの僕は、洋服を見て、雑貨屋に戻ってきて、化粧品屋で口紅を買い、バッグを見て、今に至る。
たっぷり3時間は買い物に突き合わされたので、僕はクタクタだった。
「唯、ちょっと休憩しよう。」
目をつけていた喫茶店に行く時間は無かったので、駅前のスタバに入りトールラテを注文した。唯の分の長い名前のなんとかフラペチーノの料金も一緒に払い、ソファー席に腰を下ろす。
思わず「よっこいしょ」と言いそうになるが、何とか我慢した。
「結構、色々回ったね。」
隣に腰を下ろした唯が言った。
「ほとんど何も買ってないけどね。」
確かに買ったのは口紅一本だけだ。あんなに歩いたのに、何だか損した気分だ。
僕らは少し休んでから映画館に行った。見ようと思っていた恋愛映画は残念ながら上映が始まってしまったので、カンフーアクション映画を見ることになった。
ポップコーンとコーラを買い、座席に着く。
ふたりで映画を見るのは初めてだ。唯が好きな恋愛映画ではないが、それだと僕が寝てしまう可能性があるので、僕的にはこちらの方がありがたい。
映画の内容は、若手刑事が担当していた事件の黒幕が大きな組織で、その組織によって刑事の恋人がさらわれてしまうという、映画ではよくある話。
この映画の見どころは、注目の若手アクションスターによるド派手なアクションである。
僕は何度かこの俳優の映画を見たことがあるが、ノンスタントでギリギリのアクションをするシーンに毎回ヒヤヒヤさせられる。
そういうシーンを見るたびに、自分がアクション映画の事を好きなのだと実感する。
唯は電車に飛び移る場面で目を伏せたりしながらも楽しんで見ているように思える。
「すごかったね。」
唯が興奮気味に言った。
どうやら気に入ってもらえたようだ。自分が好きなものを気に入ってもらえるというのは、嬉しいものなのだなと思う。
「そろそろご飯だね。」
「今日はどこもいっぱいだね。食べる所あるかなぁ。」
周りを見渡して、眉間にシワを寄せる唯。
「大丈夫。今日はちゃんと予約しているから。」
得意気に唯に言った。
「すごいね、準備万端じゃん!」
褒められた僕は調子に乗り、これから行くイタリアンのお店は、ミシュランひとつ星の店だとか、店長がミラノで修行をした本場の味だとかネットで調べた内容を喋り続けた。
道玄坂の中腹まで行くと、美味しそうな匂いとともに、目当ての店が現れた。
道側の大きな窓からは厨房の様子を見て取れた。ちょうど大きなマルゲリータが焼き上がったところだ。急にお腹が空いてきた気がするから不思議だ。
「高橋様という名前では、ご予約取られていないようです。」
店に入り、店員にそう告げられた僕は愕然とした。
「そんなはずないと思います。確かに1か月ぐらい前に予約を入れているはずです。」
僕は店員に詰め寄った。
「そう申されましても、ご予約は確認できませんので・・・。」
店員も困ってしまっている。
「もう少し調べますので、少しお待ちください。」
店員はレジ奥の端末で予約状況を確認している。
「え〜、11月の25日に高橋様という方からご2名の予約でお電話が・・・。」
確か僕が店に電話したのも11月25日。
「それです!多分それだと思います!」
良かった。予約を取っていないわけじゃなかった。
「それがですね、支店の方の予約を取っているようでして・・・。」
支店?確かに何店舗か支店があったような気がする。でも、近い支店なら行けるかもしれない。
「・・・大阪の。」
僕は頭を抱えて、天を仰いだ。
「予約をしてない場合は、どれくらい待ちますか?」
唯が僕の後ろから店員さんに聞いてくれた。
「大変申し訳ありませんが、本日は予約でいっぱいでして。」
店員さんの言葉が死刑宣告のように聞こえた。
「まぁ、元気出しなよ。」
僕たちの姿は駅前のマックにあった。
ふたりでダブルバーガーセットを頼んで向かい合って座っている。
周りはガヤガヤと煩く、とても良い雰囲気とは言えない。
「また来ようよ。楽しみにしてるから連れてきて。」
唯は明るく振る舞っている。
僕の失態を責めるようなことはなく、いつも通り優しく接してくれている。
「映画、面白かったね。」
「そうだね。唯の好みじゃなかったかもしれないけどね。」
僕も笑って答えた。
「そんなことないよ。すごくドキドキした。」
「そうだ、クリスマスプレゼント・・・。」
僕はリュックのジッパーを開けながら、唯に言った。
「嘘。すごく嬉しい。」
唯が目をキラキラさせながらこちらを見ている。
「あんまり、こういうの買ったことないから気にいるかどうか分からないんだけど・・・。」
「そんなことないよ。涼太がくれるものなら何でも嬉しいよ。」
唯の優しい言葉が身に沁みる。
ラッピングが崩れないように、リュック内のポケットに入れたはず。
・・・。
入れたはずなのに・・・見当たらない。
というかホントに入れたか?
ぐちゃぐちゃになったら困るから、最後に入れようとして机の上に置いておいて・・・。
僕は顔が青くなるのを感じた。
机の上に置きっぱなしだ。
「ゴメン!プレゼント忘れてきちゃった。」
唯は僕らしいと言って笑っていた。
(おだんごの兄貴!)
ミケの声がした。
あの後、唯のバッグからはちゃんと僕へのプレゼントが出てきて、さらに立場がなくなったのを思い出す。
あんなに悩んで買ったのに、とんだ醜態をさらしたものだ。帰ってから急いで唯の家に行ってプレゼントを渡す姿はどれほど滑稽だっただろうか。
唯に似合うだろうと思って、一生懸命選んだ・・・。
(兄貴!来ましたよ!)
あれ?プレゼントは何だったっけ?
記憶にモヤがかかったかのようにプレゼントだけが思い出せなかった。
(兄貴、早く準備して!)
ミケの言葉で我に帰り、茂みの中に隠れた。ミケはというと、手はず通り空き地の入り口に陣取っている。
(今日こそは、この空き地を明け渡してもらうぜ)
ガラの悪そうな黒ブチ、茶トラ、灰色の三匹の野良猫がミケに近づいて言った。名前がないと不便なので、僕はこの三匹を勝手に「クー」「チー」「パー」と呼ぶことにした。センスがないのは重々承知であるが、他の名前が思い浮かばなかったので、これで良いことにしよう。
三匹のセリフがいかにも悪役が言いそうなものであったため、思わず吹き出してしまった。。
ミケがこちらにチラリと、非難の眼差しを向けた。思わず両手の手の平を合わせるという、猫好きの人かみたら目がハートになること間違いないしのポーズをとってしまった。
ミケが三匹に威嚇する。背中の毛が逆立ち、これでもかというほどに尻尾が太くなっている。
この姿を見ただけでチーとパーの二匹は逃げ腰だ。ミケの強さは相当なものなのだろう。これが守る者の強さなのかと、感心させられる。
残るクーがミケの前に出てきた。一瞬口角を上げたかと思ったら、次の瞬間、背中の毛を逆立て牙を剥いた。隠れて見ているこちらまですくみ上がってしまうほどの迫力だ。
二匹の猫が威嚇の声を上げる。
その姿は人間に見せるペットの顔ではなく、まさしく猛獣のそれであった。
ジリジリと近づくミケとクー。幾度となく繰り返された戦い。
これまでは何とかミケが勝利を収めてきたが、相手もミケの迫力に慣れてきたのか、簡単には引かなくなってきてしまっているらしい。
さっき見せたクーの表情も気になるところだ。明らかに何かを狙っているものだった。
さらに間合いを詰めるミケ。もう顔と顔がくっつきそうなほど近い。クーの下方向から牙を剥き出して威嚇するミケに、クーの余裕が消える。
一騎打ちはミケの勝ちだ。
威風堂々たるミケの姿にクーは尻尾が垂れ下がってしまったのだ。
誰もが勝利を確信した次の瞬間、クーがチーとパーに合図を送った。
左右に散開する、チーとパー。
どうやら三方から攻め寄る事が、相手の作戦らしい。
正面、右、左。三方から攻め寄られては、さすがのミケも分が悪い。
一歩、二歩とミケが後退る。
ミケがこちらに合図を送った。
作戦開始だ。
空き地の奥には少し土が盛られ、小高い丘になっている場所がある。ミケはまず、丘を目指して走った。
ニヤニヤしながら、クー、チー、パーの順番でミケを追う。丘へ続く道は、左右を背の高い草が茂りとても狭い。必然的に四匹は一列になって進む事となる。
丘まではあと2メートル。丘の手前は多くの春紫苑が生え、地面を隠している。
ミケが春紫苑をジャンプして飛び越え、丘の上に着地、振り返った。
クー、チー、パーの三匹は気にせず、走り抜ける。
次の瞬間、春紫苑の中から三匹の悲鳴が聞こえた。
(な、何だこれは!)
(痛い、痛い、痛い、痛い。)
(兄貴、肉球に穴が開いちゃうよ!)
春紫苑で隠れていたのは、ホームセンターで売っている猫避け用の棘付きのマット。散歩中にたまたま敷いている家を見つけたのでいくつか拝借してきたのだ。
三匹はたまらず転げ回る。
転げ回るほど棘が体に刺さり痛みが増す、さながら針山地獄。
三国志に登場する諸葛亮孔明は、敵を罠に誘い込み撃退することを得意としていたらしい。
三匹の態勢が整う前に、右側の春紫苑の奥から一匹の若いオス猫が飛び出した。一見すると黒猫だが、鼻先と四肢の先が白い。名はコーディ。珍しくマトモな名前だ。
コーディは走り抜けながら、チーの鼻先を爪で引っ掻いた。チーは驚いて後ろに飛び退く。飛び退いた拍子にクーとパーにぶつかり、三匹仲良く針地獄に舞い戻った。
混乱した三匹は立つこともままならなくなっていた。
さらに手前の茂みに潜んでいた若いオスの白猫が、パーの顔の上に飛び乗った。これによりパーの顔面は棘のマットに押し付けられた。失敗したら自分も針山地獄の餌食になってしまう危険な任務を完遂した猫の名は、シロ。ごく普通の名前で、逆に新鮮さを感じる。
丘の上からミケが、右側からコーディが、手前からシロがそれぞれ威嚇する。
クー、チー、パーの三匹は堪らなく左側の茂みに逃げた。
よし、予定通り。
左側の茂みにはあらかじめ、細い道が作ってあるのだ。三匹は罠とも知らずに細い道を全力疾走する。ミケ、コーディ、シロの三匹も後を追う。
(今だ!)
僕の合図に合わせて、ミシュランとメスの三毛猫の三ツ星(僕が名付けた)がロープを引っ張る。
ピンと張ったロープに足を取られ転倒するクー、チー、パー。
転んだ先には、蟻地獄がいる家で拝借してきた特製ハエ取り紙。
狙い通り三匹は仲良くハエ取り紙の餌食となった。
見たか!人間様の策略を!
クー、チー、パーの三匹は途中、小さな用水路に落ちてビショビショになりながら逃げていった。
(兄貴!おだんごの兄貴!)
興奮しながら走り寄るミケ。
(やりましたね!こんなにうまくいくなんて・・・。)
ミケは、今でも信じられないといった表情で、三匹が逃げていった方向を見ている。
これだけコテンパンにやったんだ、これに懲りてしばらくはやって来ないだろう。
(おだんごさん、バンザーイ!)
(兄貴ステキー!)
(ミケさんもかっこよかったよ!)
(これで、この空き地も安泰だ!)
(おだんごさん戦ってな〜い!)
(空き地の英雄!おだんご!)
(モンプチ食べた〜い。)
歓声は止まらなかった。
よく分からない声があったが、あえて無視することにしよう。
コーディーとシロが近づいてきた。
(おだんごさん、僕らやりましたよ。)
(初めてのケンカだったんで緊張しました。でも、おだんごさんの作戦があったから不安は無かったです。)
二匹とも興奮しているのが分かる。
三ツ星が近づいてきた。
(メスも戦うって聞いたとき正直びっくりしましたが、自分で勝ち取る勝利って格別ですね。)
ロープを引いて足を引っかける事を担当した三ツ星も、皆と同様に興奮している。正直メス猫がケンカに参加することには抵抗あったが、こちらの戦力不足を補うたのめ苦渋の選択だ。
人間の世界でも仕事を行う女性が増えてきている。今後は猫の世界でもメス猫のケンカ進出があたりまえになる日が・・・来ないか・・・。
僕は三ツ星にお礼を言うと、ほおずりをした。三ツ星が気持ちよさそうに目を閉じる。
(まったく、妬けちゃうわね。私も頑張ったんだけど。)
ミシュランは最初から僕に好意的だった猫だ。
最近、分かってきたのだが、ミシュランは色気たっぷりのお姉さん猫。それに対して、三ツ星はボーイッシュな性格な猫。
二匹とも僕に好意を抱いているのは分かる。どちらが好みかと言うと・・・甲乙付け難いというのが正直なところだ。人間の世界だったら非難を浴びるところだが、それはそれ。ここは猫の世界なのだ。
家に帰る頃には日も陰ってきていた。
いつも通りに、非常階段からベランダの手すりを通り、唯の部屋のベランダに降りる。
テラス戸の鍵は開いていた。
僕がテラス戸から出入りしていることは、唯も気づいていることだろう。鍵を開けておいてくれるということは、黙認してくれてるということであろう。
今日の作戦はうまくいった。完璧であったと、思わず自画自賛してしまう。
猫相手に騙し合いをするのであるから、勝てないはずはないのは分かっているが、ここまでうまく事が運ぶと、自分が名軍師になったかのような錯覚を覚える。
「おだんごちゃん、おかえり。」
リビングの奥から唯の声がした。
キッチンに立つ唯を見るのは久しぶりだ。
もともと料理が好きな子で、僕が元気な頃はよく手料理を作ってくれたものだ。
猫の僕がここに住みだしてからは、キッチンに立つ結の姿を見ることは稀だ。せいぜい食器を洗う姿を見るぐらいだろうか。
リビングのローテーブルの近くには、僕のカリカリ飯が準備されていた。
思わず溜息が出た。
なぜカリカリ飯などというものが存在するのか?!世の飼い猫達よ立ち上がれ!
と、猫の国会とかがあったらデモ隊率いて講義に行くね僕は。
そういえば、唯は何を作っているのだろう?できれば唯が作ったのを、夕飯として頂きたい。塩加減なんかを気をつければ、猫でも食べられるものができるのではないだろうか?
キッチンでは唯が野菜を切っていた。サラダでも作っているのだろうか。シンクの中には、ザルが置いてあり、中には千切ったレタスが置いてあった。
サラダだと食べられないな。
肉か魚があると嬉しいんだけど。
冷蔵庫にはサラダチキンが常備してあることは知っている。裂いてサラダに盛っても良いし、厚めに切ってごまドレッシングをかけても美味しい。
ちょっと油っぽいけど、シーチキンという手もある。よく油を切ってくれれば食べられないこともない。
僕はキッチンカウンターに飛び乗り、まな板の上を見た。人参サラダを作っているのか、千切りにされた人参が、まな板の上にあった。
唯の手は動いていなかった。
うつむき、虚ろな表情で包丁を眺めている。
10秒、20秒。
そのままの姿勢で時が流れた。
ゆっくりと、しかし流れるように、包丁を持った唯の手が左手首に移動した。
(まずい!)
体が勝手に動いた。
僕はキッチンカウンターからシンクへ飛び移り、唯の右手を払った。
(痛っ!)
背中に鋭い痛みを感じた。
手を払うときに包丁が当たったのであろう。背中から生温かい物が流れてくるのが分かった。
「おだんごちゃん、ごめん!あぁ、私何やってるんだろう。」
僕の血を見て我に返ったのか、唯が狼狽しながら言った。
救急箱からガーゼを出して、僕の傷に当ててくれる。ガーゼに血液が染み込んでいく。出血量と痛みから、傷はそんなに深くはない事が分かる。
それでも唯の顔は真っ青だ。
「ごめんね。ごめんね。」
(大丈夫、傷は深くないよ。)
「もう二度とこんな事はしないからね。」
(そうだね。危ないからやめようね。)
唯は謝り続けた。
僕は精一杯優しい声で「にゃあ。」と鳴いた。
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