第2話 君との生活の始まり
カーテン越しに窓から差し込む朝日で目が覚めた。
僕はまず両手足をいっぱいに伸ばして背中を伸ばした。そして次に立ち上がって前足を思いっきり前に置き腰を伸ばすポーズ、ヨガで言うところの猫のポーズとやらをやった。
寝ていた間に凝り固まった全身が伸び気持ちがいい。
「くわぁ。」
大きなあくびが出た。
僕がいるのは緑色に統一されたベッド。昨日まで寝ていた家の軒下ではない。やはりふかふかの布団で寝るのは気持ち良い。
隣には唯が布団にくるまって寝息を立てている。
隣とは言ったが、一緒の布団で寝たわけではない。僕は唯の足元の布団の上で丸くなって寝たのだ。
さすがに無断で布団に入り込むほど非常識な教育は受けてはいない。まぁ、唯がどうしてもというのであれば、一緒に寝てやらない事もないけど・・・。
(喉が乾いたな。)
僕は独り言を呟くと、ベッドを降りキッチンに移動した。
シンクの上に飛び乗り、蛇口のレバーを押し上げ水を少し出した。
水を飲む。しかしこれがまた難しい。もちろん猫のように(猫だけど)舌で舐めるように水を口に運ぶのだがどうやってもうまくいかない。舌が反ってしまい、水がすくえないのだ。それでも、お皿の上の水のように溜まっている水ならば、口を窄めて啜るという手が使えるので何とかなる。
しかし、今回のミッションは水道からの水の採取!
僕は意を決して、流れる水に舌を差し出した。
やはり伸ばした舌はあご側に反りかえり流水を捉えることは出来ない。
もうちょっと。
僕はいっぱいに前足を伸ばし、蛇口に顔を近づけた。
あと、2ミリ。
下あごを前に出し、精一杯舌を伸ばす。
そして、ついに・・・。
前足が滑った。
・・・。
僕は豪快にシンクの中に転げ落ちると、頭から水を被ってしまった。
ま、まあ、水は飲めたから良いことにしよう。
滴る水を恨めしく見ながら体を犬のようにブルブルと振ってみる。多少水滴が飛んだが、うまくいかない。何回かためしたが同様の結果で、シンク付近を汚しただけで終わった。
濡れ鼠ならぬ濡れ猫になった僕は、今度は脱衣所に移動した。確かバスタオルが何本かあったはず。
三段のカラーボックスの一番上に、バスタオルが畳んで重ねてあった。
嫌な予感しかしない・・・。
僕は精一杯背伸びをして、バスタオルに右手を伸ばした。
重なっているバスタオルの一番上に右手の爪を引っかけて、手前にゆっくり引いた。
ゆっくり、ゆっくりとタオルを引っ張る。
崩れるなよ・・・。
左手は体勢を支えるため、使うことはできない。
右手だけでバスタオルを取り出す。人間だった頃は簡単に出来たことが、こんなにも難しいことなのだと痛感させられた。
もうちょっと・・・。
バスタオルは半分ぐらい手前にずれてきている。このままゆっくり引っ張れば、バスタオルの山を崩さないで取れるかもしれない。
自然と爪に力が入る。右手を捻り、少しでもバスタオルを持ち上げるように引っ張った。
やった!バスタオルを取ることに成功した!
爪に引っ掛けたバスタオルは、確かに他のタオルを崩すことなく、僕の顔の上に舞い降りたのだった。
僕は戦利品のバスタオルで意気揚々と頭とお腹を拭いた。背中までは手が届かないので、床に置いたバスタオルに背中を擦りつけて拭くことにした。
乱れた毛をブラシで梳かしたいところであるが、小さい肉球ではそれも叶わない。後で唯にアピールるでもすることにしよう。
体を拭いていると、ブルブルっと下半身が震えた。
朝の日課も言えば、もちろんトイレにも行かなければならない。
僕はトイレのドアの前まで来ると、上を見上げた。見慣れたドアノブが見える。
ドアノブの高さはだいたい僕の体長の1.5倍ぐらいだろう。人間で言えば3メートルぐらいの高さにドアノブがあると言えば分かりやすいか。
僕は思いっきりジャンプして両手でドアノブに飛びついた。カチャリと音が鳴り、トイレのドアが少しだけ開いた。
できた隙間に顔をねじ込み、ドアを開ける。
目の前には巨大な人間用の便器が鎮座していた。
僕は少し迷ったが、便座に飛び乗り四つん這いになる。欲を言えば立ってしたいところであるが、二本足で立つにはバランスが悪すぎる。
トイレで用を足しているといると、パタパタと足音が聞こえてきた。
唯が起きたか。
そんなことを思っていると、突然トイレのドアが開いた。
もちろんドアを開けたのは唯だった。まるで時間が止まったように唯と僕は見つめ合った。思わず「もしかして恋の予感?」などとくだらないことを思ってしまう。
・・・。
(いやん。えっち。)
唯がドアを閉めてくれないので、僕は抗議の声を上げる。と言っても唯には「にゃ~。」としか聞こえないだろうけど。
「ね、猫ちゃん?!」
唯は目を丸くして驚いている。
何をそんなに驚いているのだろう?そんなことより、早くドアを閉めほしいんだけど・・・。
しばらくして僕は気づいてしまった。この不自然は状況を・・・。
「す、すごい!猫ちゃんすごいよ!」
突然、唯の大きな声。
呆然としていた僕は唯の声にビックリして右足を滑らせて、便器の中に滑り落ちてしまった。必死に便座にしがみつくが爪が引っかかる場所がなく、尻尾、右足、左足とじわじわと濡れていくのが分かる。
あぁ、汚い・・・。
必死にこらえたが、お腹から下は便器の水に浸かってしまった。
その恰好がおかしかったのか、小さく吹き出した唯はびしょ濡れの僕を抱き上げると、シャワーを浴びさせてくれた。
その間、しきりに「すごい。」「どこで覚えたの?」などと質問攻めにしてきたが、僕が何を答えようと、唯には「にゃ~。」としか聞こえない。
朝食は昨日と同じサラダチキンだった。
唯は昨日と同様、僕をテーブルの上に乗せて僕が食べるのを眺めている。ひとに見られていると食べづらい。
「猫ちゃんって、なんとなく涼太に似てるかも。」
(まあ、本人ですけど。)
「なんでかな?目がクリクリなところかな?」
(でも、猫に似てるって言われてる僕ってどうなの?)
「う~ん、なんでだろう?」
僕は自分の姿を確認してみた。僕に似てるという要素は皆無だ。
「あ、分かった!」
唯が目を輝かせる。
(え?どこ?)
「白と黒のところ。」
(意味が分かりませんけど。)
「涼太はね、白と黒の服しか持ってなかったの。」
僕の鼻先を指で触りながら唯が言った。
「何回言っても同じような服ばっかり。おしゃれには無頓着だった。」
唯の目は僕を見ているようでもあり、遠くを見ているようでもあった。
唯は洋服が好きだ。
そのため、大学帰りはよく買い物に付き合わされた。
この街は都会とは言えないが、大学のキャンパスが建っているため、駅前はそれなりに栄えている。東西の駅周辺には小さな商店街が広がり、駅には3階建てのショッピングセンターが建てられている。特にキャンパス側である東口周辺は、学生街と呼ばれ若者向けの服屋や古着屋が多く見られた。
唯は古着はあまり興味が無いようで、だいたい今季発売とかの流行りの服を多く買っていた。
「涼太、これ見て。」
唯が持っているのは、新作のレザーコートだった。襟元にファーを取り付け、全体的に柔らかい生地で仕上げている。
色は落ち着いたキャメルで、可愛さと大人っぽさが共存する・・・らしい。
値段は・・・六万八千円。
一流ブランドであれば安い商品なのだろうが、唯が持っているのは若者向けのセレクトショップのコート。相場は分からないが安い買い物とは思えない。
「でも、高いね。」
唯の言葉に僕は安心した。どうやら一般的な大学生の金銭感覚は持ち合わせているらしい。
唯は名残惜しそうにコートをラックに戻すと、別のコートの物色を開始した。
しかし、さっきのコートが頭から離れないらしく、どれを見てもイマイチな表情をしてラックに戻すことを繰り返している。
買ってあげようか?そんな言葉がサラッと言えたらカッコいい男なのだろう。しかし、僕自身もあまり多くはないバイト代で過ごしていたので、そんなカッコいい言葉を口から出すことはできなかった。
「今日はウインドーショッピングに変更!」
唯は元気よく言うと、僕の手を引いた。
無理な背伸びはしない。そんな唯の性格を僕は好きだった。
一緒にいて安心できる存在。僕にとって唯はそんなような存在だ。彼女にとっての僕が同じような存在であることを願う。
僕の手をとって彼女がまず向かったのは雑貨屋だった。
ところ狭しと商品が並べられ、歩くのも骨が折れるショップだ。肩から掛けたバッグが商品を引っ掛けて落としてしまいそうでヒヤヒヤした。
「涼太、これ可愛くない?」
唯が手に取ったのは、小さな猫の置物だった。
茶色いトラ猫の置物で、ちょっとブサイクな顔をしている。その猫があぐらをかいて、こちらを見上げていた。口元に浮かべた笑みがなんとなくイラッとする。
「そう?ブサイクじゃん。」
「涼太はセンスがないなぁ。女子の間じゃ今はこういうちょっと変わった物が流行ってんだよ。」
そうなのか?
僕は猫の置物をマジマジと見たが、どこが良いのかはさっぱり分からなかった。
値段は千二百円。
そこそこの値段だ。
「涼太、こっち来て!これも可愛い。」
唯との買い物はいつもこんな感じだ。唯の行きたいところに行き、唯の欲しいものを見る。
しかし、僕はその行為を不快に思ったことはない。元々それほど物欲が強い方ではない僕にとって、唯の楽しそうに買い物をする姿は新鮮で輝いて見えた。
「じゃあ、涼太の服を見に行こうか。」
「またぁ?」
僕は抗議の声を上げた。
唯は事あるごとに、僕の服を選びたがる。今年の流行りはグリーングレーのカットソーだの、白と青の組み合わせが夏には合っているだの、講釈を垂れながら着せ替え人形にするのが楽しいようだ。
あまりうるさい時は買うこともあるが、ほとんど冷やかし状態で、いつも店員さんには申し訳ないと思う。
唯に連れられメンズファッションのエリアに移動する。
ウィメンズに比べてメンズファッションのエリアは小さい。エリアの中央にカバンや財布、ネクタイ、ハンカチ等の小物が並び、壁沿いにエリアを囲うようにして特定のブランドのショップが並んでいる。
唯に連れられて入ったのは、モード系ファッションの店。モノトーンを基調にして控えめに色を取り入れる事をコンセプトにしているブランドだ。
このブランドの洋服は僕もいくつか持っている。僕にとって比較的お気に入りの洋服が見つかることが多いブランドだ。
「涼太、これ着てみて。」
そう言って唯が持ってきたのは、Vネックのニットだった。大きめに首の空いたインナーとして着るタイプだ。色はライトグレー、そこそこ僕の好みに合った服だ。
「確か黒の秋物のコート持ってたじゃない。合わせると良いと思うんだよね。」
確かに黒の秋物のコートは持っている。持っているというか、去年買わされたと言っても過言ではない。
しかし、秋物のコートと言うものは、お洒落な人は使うかもしれないが、洋服に無頓着な人間はなかなか使う機会が無い。
最近は9月になってもなかなか涼しくならない上に、涼しくなったと思ったらすぐに寒くなってしまう。短い秋はパーカーや厚手のニットがあれば十分なのだ。
「これも着てみて。」
持ってきたのはカーキ色のチノパン。僕は大体ジーンズを穿いているので、チノパンのレパートリーは少ない。
まあ、これはこれでなかなか良いように思える。
「じゃあ、次はこれと、これと、これと・・・。」
コート、マフラー、バッグ・・・試着室に次々と放り込まれる衣料品。
「ちょっ・・・唯、多すぎる・・・。」
「良いから着てみて。」
唯は心底楽しそうだ。
仕方がないので、放り込まれた洋服に袖を通す。
薄手の茶色のコート・・・秋物のコートは使う機会があまりない。
ボディバッグ・・・小さすぎて物が入らなそう。
マフラー・・・レストランとかで外した後、持っているのが面倒。
靴下・・・いや、これって試着しちゃだめなやつでしょ?
ひとまず試着できそうなやつは試着してカーテンを開けた。丁寧にショートブーツも準備してあった。
ショートブーツを履き試着室の前に立った。あまりにも騒がしかったのか、店員さんの視線が少し痛い。
唯は親指を立てているが、正直「無いな。」と思った。ジーンズにパーカーを着て、財布は後ろのポケットに突っ込んでいるのが性に合っている。唯もその事を知っているため、選んだ服を僕が買わなくても文句を言うことはない。さっきも言ったが、着せ替え人形にして楽しんでいるだけなのだ。
ただ、今回のコーディネートの中にあったグレーのニットは買おうかと思った。家でクローゼットのこやしになっている秋物のコートに合わせると確かに良いかもしれない。
買い物が終わると駅前のファーストフード店で軽く食べて帰るのが日課となっていた。唯はここで食べると夕飯は食べないらしい。僕はというと、ハンバーガーを食べたと自宅に帰ってしっかり夕飯を頂く。最近お腹の肉がたるんできた気がするのは、この食生活が原因かもしれない。
「君の名前はおだんごちゃんにしよう。」
唯のことばで我に帰った。
(何で?)
「うちに住む気満々のようだから、名前決めなくちゃならないもんね。」
(いや、何でその名前?センス無くない?)
「涼太はね、おだんごが好きだったんだよ。」
テーブルの上に顎を乗せ、僕を見上げるように唯は言った。
相変わらず、唯は僕を見ているようでもあり、遠くを見ているようでもある。
――危うい。
よく使われる表現を使うのであれば、この言葉が当てはまるのではないかと僕は思った。
でも、僕は言いたい!
その名前のセンスはどうかと思う!
それに、おだんごは嫌いじゃないけど、好物ってほど好きじゃない。
「それじゃ、おだんごちゃん。私はおだんごちゃんの物を色々買って来るね。大人しく待ってるんだからね。」
そう言うと、唯は立ち上がった。
ドレッサーの前に座ると、化粧水?乳液?化粧下地?・・・次々と、良くわからない液体を塗っていく。そして、ファンデーション、チーク、口紅。そして、アイライナーと器用に化けていった。
化粧とは「身なりを飾り立てて化かす」と書く。知ってはいたが、世の男性たちはこのマジックに騙されていくんだなぁ、と感心する。
次は服選びだ。
唯の洋服は多い。クローゼットの中には所狭しと洋服が並んでいた。
少し悩んだ結果、グレーの長袖のカットソーに淡い青色の薄手の上着を羽織り、黒のワイドパンツをいうコーディネートに決めたらしい。
「たくさん買うから動きやすくなくちゃね。」
どうやら、今回は見た目より機能を重視したらしい。
「おだんごちゃん、行ってくるからね。」
そう言うとショルダーバックを肩にかけ、黒いショートブーツを履いて出て行ってしまった。
(ちょっと待って、僕も行・・・。)
そう言いかけた時には、ドアはバタンと閉められ、外から鍵が閉まる音がした。
ひとり残された僕は部屋の中を見回した。昨日は気づかなかったが、前に来た時よりも随分と散らかっている。
僕はまずキッチンの様子を見た。
ゴミ箱の中にはカップラーメンの容器がいくつも捨てられていた。
唯は僕と外食する以外は、基本的には自炊をしていたはずだ。「美容のため。」とか言って栄養成分まで気にしていたのを思い出す。自信作ができたときは僕も部屋に呼ばれて、一緒に夕飯を食べたことも多い。また、ぼくがカップラーメンを食べていると「そんなものばっかり食べていると、体に悪い。」と注意をするほど食事には気を使っていた。
ビールの空き缶が多いのもの目についた。
唯はお酒に強くない。酔っぱらうというより、気持ちが悪くなって吐いてしまうのだ。好んで家で飲むとは思えなかった。
リビングにはテレビ、ソファーの他に、ローテーブル、パソコン、本棚、学習机がある。
まず目についたのは、学習机の上に平積みされた本の数々だった。4年生の大学の教科書のようだが、開いた形跡がない上にうっすらと埃が被っている。机の足元にも教科書が平積みされていた。こちらは僕も見覚えがある3年生の教科書だが、こちらにもうっすらと埃が被っていた。
大学に行っていないのだろうか?
僕は少し心配になった。
ローテーブルの下には就職情報誌が置いてあった。こちらは読み跡があったので多少は開いた形跡が見受けられたが、それほど読み込んだ様には見えなかった。
就職活動と言えば3年生の冬ぐらいから少しずつやっていくものだが、どうしてしまったのだろう?
違和感はそれだけでは無かった。
積まれた洗濯物、洗われていない食器類、玄関に散乱した靴。
それらは、几帳面な唯の部屋には似つかわしくないものだった。
僕は背伸びをして、ベランダのテラス戸の鍵を開けると外に出た。
唯の部屋はベランダ伝いに手すりを西側に移動すると、非常階段にに飛び移れるのだ。
もちろん人間にはできない芸当だが、今の僕には難しいことではなかった。
唯はどこに行ったのだろうか?
猫用品を買いに行くと言っていたから、ペットショップがホームセンターと言ったところだろう。
車の運転ができない唯がホームセンターに行くとは思えなったので、僕は駅前の小さなペットショップに向かった。
非常階段を降り、住宅街の塀に飛び乗り、ゆっくりと駅方面へ歩いた。
東から昇った太陽はもう少しで真南に位置する。随分早くに起きた気もするが色々やっているうちにお昼近くになってしまったということだろう。
今日は良い天気になりそうだ。
昨日の雨が嘘のように、今日の空は澄み渡っていた。少し風が強いのが気になるが、春らしくて丁度良いかもしれない。
途中の空き地に淡い赤色の丸い小さな花があるのを見つけた。確かアカツメクサとか言う花だ。もちろんこれも唯が教えてくれたものだ。丸い花に見えるのは小さな花のが集まったものだそうだ。
僕は空き地に降り、花に近づいた。湿った土が肉球にヒンヤリとした感触を残す。新緑が少し青臭いと思った。
アカツメクサに近づいた。
なるほど、蝶々のような小さな花が集まって小さな球体を形作っているのか。鼻を近づけると良い匂いがした。
「にゃ〜。」
猫の声がして、僕は振り返った。
茶色のトラ猫がゆっくりと僕に近づいてくるのが分かった。明らかによそ者の僕を警戒している。
「ふにゃ〜お。」
何かを言っている。
もちろん何を言っているのかは分からない。
(え〜と、何か御用でしょうか?猫になりたてで言葉が良く分からないんです。)
一応、コミュニケーションをとってみる。
「シャーーー!」
トラ猫は毛を逆立てた。どうやら怒らせてしまったらしい。
僕はびっくりして腰が引けてしまった。トラ猫がニヤリと笑った気がした。
「フーー!」
トラ猫はジワジワと間合いを詰めてくる。詰めた分だけ僕が下がる。後ろ足が塀にぶつかった。いつの間にか塀まで追い詰められてしまったらしい。
僕は二本足で立ち上がると、文字通り壁を背にした。
腰を高く上げ、トラ猫はジリジリと間合いを詰めてくる。
距離にしてあと20センチメートル。
・・・。
僕は思った。
間合い、近くない?
そういえば以前ネットの動画で見た猫の喧嘩でも、やけに近づいて猫パンチをしていた記憶がある。
冷静になれば怖くも何ともないことが分かった。
牙を剥いているものの、猫の最初の一撃は猫パンチ。所詮、人間様の敵ではない!
そう思うと自然に体が動いた。僕は右足を少し引くと、トラ猫のあごを思いっきり蹴り上げた。
思いもよらない攻撃にトラ猫は目を丸くする。そのまま僕を見上げると、一目散に逃げていった。
(どうだ!)
初勝利に気を良くした僕は、四足歩行に戻り鼻歌を歌いながらその場を後にした。
僕は中華料理屋の裏を通り大通りの横断歩道を渡って、駅前の商店街に行った。
うるさい音を出し続けるパチンコ屋の前を通り、銀行、靴のチェーン店の前を進むと、目的のペットショップがある。
この商店街にあるペットショップはとても小さい。コンセプトとしてお洒落な街のペットショップというものがあるのだろう。店内は白を基調とした清潔な空間に仕上げてある。
扱っているペットは犬と猫のみ。大きなガラスケースに数匹が入れられ、時間ごとに入れ替えられるようだ。
若い女性には人気のスポットで、今日も何人かの女性が店内でペットを眺めている。付き添いだろうか、男性が一人所在なく歩いている。チラチラと猫の様子を見ているところを見ると、本当は猫と遊びたいが女性ばかりなので混ざるのに二の足を踏んでいるといったところか。
僕は店内を見渡した。
唯の姿は無い。小さな店なので、見落とすという可能性は低い。もう帰ってしまったのだろうか?
僕は何回か店の入り口付近を往復したが、結局唯と会うことはできなかった。唯が家を出たあと、しばらく家の中を観察したからもう買い物を済ませて帰ってしまったのかもしれない。
別の店に行ったのかもしれない。
僕はそう考えると、無闇に待つのをやめて散歩に行くことにした。
思えば入院してからは自由に外出する機会は無かった。久しぶりに自由に動き回れる体を手に入れて、僕の心は少し踊った。
自分はすでに人間の体ではない。
その事実は心に影を落としていたが、不思議とそれほど悲壮感は無かった。治療中の苦しみから開放された事実が大きかったからだろうか。
まずは駅から大学までの道をゆっくり歩くことにした。大学は丘の中腹に位置している。大学へ通うためには長い坂を上らなければならない。通学時は面倒だと思っていた坂も、今となっては愛しくも思える。
商店街を抜け、大学方面に曲がった。真っすぐ歩いて大通りの坂を上っていくという手もあるが、あえて住宅街を通る小さな道を曲がる。僕はいつもこの道を通って大学へ通っていた。
この街には急な坂が多いため、いたる所に歩行者用に階段がある。その為、大通りの坂を上るよりも住宅街の階段を上った方が大学へは楽に通えるのだ。
バラの香りがした。
近くの家に植えてあるのだろうか。以前よりも鼻が良くなっている気がする。鼻だけではない。遠くの音もよく聞こえる。感覚も猫に近くなっているということかもしれない。
十段ほどの階段を上ると、再度緩やかな上り坂に差し掛かる。車通りのほとんどない小道を進む。
塀の上から黒っぽいトラ猫がこちらを見ていた。
「にゃ~。」
何となく挨拶をしてみた。塀の上の猫も「にゃ~。」と鳴いた。意味は分からないが敵視はされていないことは分かった。
僕は塀に飛び乗るとトラ猫に近づいた。寝そべっていたトラ猫も起き上がり、ゆっくりと僕に近づいてきた。お互い鼻を近づけて挨拶をすると、ほほの辺りをこすり付けあった。
良く分からないが、そうした方が良いと感じたからだ。
トラ猫との挨拶が終わると、大学への散歩を再開した。人間だった時には知らなかった景色が塀の上から見える。
小さな子供がいる家がある。盆栽が趣味の人が住んでいる家がある。中にはゴミだらけの家もあった。ひとつひとつの家には個性があり、僕を飽きさせることはなかった。
住宅街からひとつ道を渡ると大学の敷地があった。
丘の上に立つ大学にはたくさんの木々が植えられている。理工学キャンパスと名づけられたこの場所には僕の通う工学部の他に理学部があった。理学部棟がある西側は特に植物が多い。なんでも生物学科の研究に使用するらしく、敷地内に森があったり、湿地帯があったりしている。
僕は食堂近くの木陰に座った。
食堂は工学部と理学部の中間に位置する。そのためこの場所は、工学部と理学部の学生が入り交じりキャンパスの中でも特に賑やかな場所だ。
服飾系の大学ほどではないが、学生のファッションは個性的だ。
今年のトレンドのカラーをうまくコーディネートしている子がいるかと思えば、奇抜なファッションに身を包んでいる人もいる。みんな社会人になる前の最後の自由を楽しんでいるのかもしれない。
しばらく学生の流れを見ていたら知った顔を見つけた。拓巳だ。隣には梓の姿もある。
懐かしい二人の姿。
二人の前に歩いて行こうかと思ったが、思わず二の足を踏んでしまった。
自分とは関係が無くなってしまった人たち。
さすがに目頭が熱くなり、鼻がツンと傷んだ。
「唯、最近大学来ないね。」
遠くのふたりの会話が耳に入ってきた。かなり小さな声の会話だがはっきりと聞こえる。やはり五感が鋭くなってきているのか。
「研究室にも顔を出していないって。」
拓巳が言った。
「このままじゃ、卒業できないんじゃないか?」
「でもね、涼太が死んだばかりじゃない。もう少しそっとしておいた方が・・・。」
梓がうつむきながら言った。
僕の心臓がドクンと脈打つのが分かった。
僕の死という事実が、他人の人生に影響を与えてしまっているのだ。
死んだ人間の苦しみはそこで終わるが、残された人の苦しみはそこから始まるのだ。
急に唯が心配になった。
太陽は随分西に傾いている。唯の家を出てどれくらいの時間が経っているのだろうか。
僕はすぐに大学から出ると唯の家に急いだ。信号待ちの時間がもどかしかった。
塀に飛び乗り最短距離を走る。塀から落ちる気はしない。驚くほどバランス感覚は良くなっていた。
十分ほどで唯のマンションの下についた。
非常階段を上り、ベランダの手すりに飛び乗る。手すりの上を歩いて、唯の部屋のベランダに降りる。僕は外出時と逆の手順で唯の部屋に戻った。
テラス戸は開いていた。中に入ると買い物袋の中には、猫用品がたくさん入っていた。買い物を終え、唯は一回自宅に戻ってきたようだ。
玄関の扉が開いていた。
僕は玄関から外に飛び出した。唯の姿は無い。
耳に神経を集中させる。
・・・。
遠くで僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
僕は急いで階段を降りると声が聞こえた方に走った。
自宅から3区画ほど離れた場所に唯の姿はあった。
「おだんごちゃん、どこ!」
一心不乱に僕の名前を呼んでいる。
目が真っ赤だった。
(唯っ。)
僕は唯の名前を呼んだ。
「おだんごちゃんどこに行ってたの!」
唯が走り寄ってきて僕を抱きしめた。
「私を、もう私を置いていかないで。」
唯は僕を抱きしめたまま子供のように泣き続けた。
いったい唯はどれくらい泣いていたのであろうか。あたりはすでに薄暗く、人通りもまばらだ。子供のように泣きじゃくる唯に、危うさを感じもした。
僕は唯に抱かれながら部屋に戻った。
部屋に戻ると、誰もいない部屋に向かって唯が「ただいま。」と言った。
返ってくるはずもない事はわかっているが、「おかえり。」の声が無いことが、これ程寂しいものなのかと僕は感じた。
僕は実家から大学に通っていた。
家に帰ると当たり前のように母がいて、当たり前のように「おかえり。」と言ってくれた。夕食の時間になれば当たり前のように皆で食卓を囲み、当たり前のようにリビングでテレビを見た。そんな当たり前の生活がここには無かった。
唯には両親がいない。
中学生の頃、交通事故で亡くなったらしい。母方の実家が九州にあり、その後の面倒は九州の祖父母にみてもらったと言っていた。
明るく優しい祖父母で、また少しではあるが両親の保険金もあった為、特段不自由な思いはしなかったとの事だ。
その祖父母も昨年、続けざまに他界。九州の家は親戚に管理してもらっているが、大学を卒業したら、今後の事は唯が決めなければならないらしい。
父方の祖父母は、唯が生まれる前に既に他界。
唯はこの歳にして、天涯孤独の身なのだ。 僕が死んでから、いや、僕が入院してからの唯の生活を想像する。
孤独な生活を続けていたのであろうか?
悲しみを共有できる人はいたのであろうか?
「おだんごちゃんお腹すいたよね。ご飯にしようか。」
唯が目を擦りながら言った。
目は真っ赤に充血し、アイライナーは滲んでいた。
僕はできる限り優しく「にゃ〜。」と鳴いた。言葉は分からなくても伝わるものがある。そう信じたかった。
「にゃ〜。」
唯が僕の真似をした。
猫が飼い主にやるように、僕もキッチンに立つ唯の足に耳の後ろを擦りつけた。
「おだんごちゃん、なぐさめてくれてるの?優しいね。」
唯が微笑んだ。
僕は何の為にこの姿になったのだろう?この不思議でしょうがない出来事について考えた。
あまりにも可愛そうな僕に神様が時間をくれたのだろうか?
実は全て夢で、目が覚めたら病院のベッドの上と言うこともあるかもしれない。もし夢なら元気な僕が自分の部屋で寝ているぐらいまで時間を戻してほしい。
考えても分からないことだが、僕にはひとつどうしてもやりたいことがあった。
それは、唯を元気にすること。
元気な唯を取り戻すこと。
僕に何ができるかは分からなかったが、このままじゃいけないと思った。
唯にはいつでも笑っていてもらいたい。そう思った。
笑顔の唯が一番魅力的なのだから。
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