僕の最期の向こう側

第1話 始まりは終わりの景色

 白い壁、白い天井。

 白いカーテンと白いシーツ。

 目に入る物のほとんどが白で統一された清潔な牢獄。

 独特な消毒薬の臭いと、忙しく動き回る職員の姿。

「高橋さん検温です。」

 二十代後半の看護師がにこやかに僕に話しかけた。名札には川村晴香と記入されている。

 ここは市内で唯一の総合病院。

 特に悪い噂も聞かないがこれと言って強みもない、可もなく不可もない病院だ。

 ただ、この都会とは言い難い市内において他に大きな病院があるわけでもないため、待合室はいつも混み合っている。

 僕は無言で右の腕を上げた。左腕は麻痺して動かないため、看護師、川村さんが脇の下に体温計を入れてくれる。

「今日もいい天気ですね。」

「カーテン開けますよ。」

「窓から気持ちいい風が入ってきますね。」

 川村さんはさっきから一人でしゃべっている。

 僕は窓の外に目をやった。

 先日まで満開だった桜も散って、緑の葉が生い茂っている。

 「四月か。」

 いつの間にか自分の学年が上げっている事に気がついて自嘲気味につぶやいた。

 本来であれば僕も大学四年生だ。就職活動真っ最中で、ゆっくりしている余裕などないのだろう。

 僕は窓の外の空を見上げた。

 空はどこまでも青く澄みきっていた。まばらに見える雲の白さが空の青色を強調して見える。

 何の鳥かは知らないが、小鳥が二羽窓の外を横切ったのが見えた。

 世界は平和だった。全てが無性にイライラする。

 分かっている。誰も悪くない。誰も悪くないんだ。

 鼻の奥がツンとした。

 僕は涙がこぼれないように上を向いた。


 脳腫瘍。

 医者が言った病名はもちろん僕も知っていた。

 でも、知っていたからと言って自分がかかるという事は微塵にも考えていないのが事実だ。

 あれは頭痛が何日も続いた後だった。思えば、軽い頭痛は一年以上の続いていた気がする。

 慣れとは怖いもので、最初のうちは気にしてた頭痛もそのうち「またか。」と思うようになり、薬局で買った頭痛薬を飲んで済ませていた。

 あの頃に医者に行っていれば・・・。

 いや、やめよう。今更考えても仕方がないし、もう一度同じ状況だったとしても、医者に行くなんて思わなかっただろう。それぐらい僕は今まで、病気とか怪我とは無縁だったのだ。

 あの日も僕は軽い頭痛を感じていた。いつも通り市販の頭痛薬を数個口の中に放り込むと一気に水を飲み大学へと向かった。

 残暑がまだまだ厳しい九月中旬だった。

 午前中の授業はとっていなかったので、家を出たのは十時過ぎ。

 お昼頃に大学に到着し、彼女である小林唯と待ち合わせ、大学の食堂でランチを摂り授業開始を待っていた。

「材料工学の授業、難しくない?」

 唯が僕に話しかけてくる。

 僕は食堂で頼んだラーメンをすすりながら頷いた。

「あーあー、最初っからこんな感じだと単位厳しいかも。」

 僕たちは工学部に通っていた。

 工学部とは、科学技術を産業分野に生かし・・・、とか以前に学部長が言っていたけど正直良くわかっていない。学部を選んだのもやりたいことがあった訳じゃないし、今だって何となく卒業するために単位をとりやすい授業をとっているだけだ。

 よくテレビで「大学に行く前にやりたいことをしっかりみつけて」とか、「将来の夢に向かって今できることを」とか言ってたりするけど、そんなことを考えているのはごく一部の人だ。少なくとも僕の通う三流大学ではそんな人は見たことがない。

 もちろん、「類は友を呼ぶ」と言うように僕の周りにいないだけかもしれないけど。

「涼太、聞いてる?」

 唯の言葉で我に返る。

「あ、ああ、材料工学難しいよね。」

 僕は急いで相槌をうった。

「もう、やっぱり聞いてないじゃない。」

 唯がほっぺたを膨らませる。リスみたいな仕草がとても可愛い。

「拓巳と梓って付き合ってるらしいよ。」

 どうやら会話は僕の知らないうちに、別の話題に移っていたらしい。

 唯は恋愛の話が好きだ。唯に限らず、女性は皆好きなのかもしれない。正直なところ僕はどうでも良かった。中学生じゃないんだからほっといてあげればいいのにと思う。

「どうやってつきあったのかな?やっぱ、拓巳が告ったのかな。」

 唯が大きな目を輝かせている。

 唯はどんなドラマチックな展開を期待しているのだろう。大学生のカップルなんて「何となく」一緒にいて、「何となく」フィーリングがあって、「何となく」付き合いだした。

 そんな「何となく」な二人が多いんじゃないかと僕は思う。

「涼太は私に大恋愛だったんだよね。」

 いきなりの言葉にすすっていたラーメンを吹き出しそうになる。いや、吹き出した。

「ちょっと、何やってるの?!きたなーい!」

 言葉とは裏腹に唯はとても楽しそうにケタケタと笑っている。

 そう、僕の唯に対する恋愛は「何となく」と言うものでは無かった。唯は昨年の学祭で準ミスに選ばれるほど美人で・・・。

「あ、そろそろ授業が始まっちゃう。行かなくちゃ。」

 ・・・ 美人で・・・マイペースだ。

 授業開始五分前。僕も食器を片付け、唯に続いた。

 講堂についたのは講義開始ギリギリ。材料工学の教授はせっかちで開始のチャイム前に席についていないと少し機嫌が悪い。

 僕たちは空いてる席を探して急いで腰を掛けた。幸運にも後ろから三番目の席が二つ空いていた。

 僕たちは腰を下ろすと、額から流れた汗を拭った。

 冷房の効いた講堂のひんやりとした空気が心地よい。

「前回も言いましたが、材料工学とはすべての工学の基本となる学問であり・・・。」

 教授の声が講堂に響き渡る。

 後の方の席では、数名の生徒が既に伏せ寝る状態に入っている。昼食直後の講義、しかもこの講堂は南側の窓から日が差していて、ぽかぽかと心地よい。不真面目は生徒でなくても眠くなってしまうのは仕方がないように思える。

 しかし、大学では寝ている生徒を起こすような教授はいない。そんな事をしてくれるのは高校生までだ。大学の生徒は自己責任で講義を受けているため、不真面目な生徒は単位が取れないだけだ。

「ふぁ~。」

 そうは言っても眠いものは眠い。僕は目をこすりながら唯の方を見た。

 綺麗な字でノートを取りながら真剣に講義を聞いている。

 大きな目、スッと通った鼻筋、厚すぎない唇。サラサラの髪は邪魔になるのか、右耳にかけている。

 唯のノートは見やすい。黒板に書かれたことだけでなく、教授の言ったことや自分なりのコメントを書き込んである。僕が単位を取れているのは唯のノートのおかげだと言っても過言ではない。

 それに比べ、僕のノートは黒板に書かれたことを汚い字で書き込んであるだけ。書いた僕でさえ解読できないことも多々あり、まったく役に立たない。

 僕は無意味なノートを取ることを早々に諦め、机に突っ伏した。隣に座る唯の視線に気がついたが気に留めることはしない。

 さっきも言ったが、眠いものは眠いのだ。


 講義終了のチャイムが鳴った。

 結局、僕はあのまま寝入ってしまい、講義の記憶は全くない。

 ずっと同じ姿勢でいたからか、両肩と首が痛い。

 両手を組み、そのまま上に伸びをする。肩がポキポキと音を立てて、筋肉が伸びるのが分かる。首を左右に倒すと、こちらもポキポキといい音がした。

 肩の痛みが取れると、今度は頭の右側から後頭部にかけて頭痛が襲ってきた。

 僕はいつも通り鞄から頭痛薬を取り出すと、無造作に口に放り込み水も使わずそのまま飲み込んだ。

「ねぇ、病院行った方が良いんじゃない?」

 唯が僕の顔をのぞき込んで言った。

「全然、治らないよね、その頭痛。」

  確かに一向に治る様子がない。

 最近は頭痛薬が手放せなくなってきている。

「確かに、そろそろ病院で診てもらった方が良いのかもしれない。」

 僕は呟いた。

 夏休みの間に行っておくんだったと少し後悔した。

「今日は次の講義で終わりだよね。」

 過ぎたことは考えても仕方がない。僕はなるべく明るい声で唯に聞いた。

「そうだね。終わったらどこか行く?」

 講義が終わったら駅前でデート。これが僕たちのいつもの流れだった。

「よーし、がんばって残りの講義を受けるぞ。」

 テンションの上がった僕を唯が笑いながら見ている。

「寝ないでねぇ。」

 唯が意地悪っぽく言う。

―――放課後

 僕たちは駅前のショッピングセンターにいた。

 唯が秋物のコートが欲しいと言うので付いてきたのだ。

 ファッションに疎い僕は秋物のコートと言われてもピンと来ない。

 コートと言えば冬に着るもの。それほど寒くない秋は少し厚着をしていれば問題なく過ごせる。

「それじゃモコモコになっちゃうし、冬のコートと色合いもシルエットも全然違うんだよ。」

 唯はコートについて力説しているが、全く興味のない僕に何を言っているのかさっぱり分からない。

 このショッピングモールは大学の最寄り駅にある。大小様々なショップが並ぶ人気のデートスポットであるが、他のショッピングモールと同じようにほとんどのショップがアパレル関連で、僕の興味をひくショップは少ない。

 唯はというと、僕のことなんかほっといてひとりでワンピースを見ている。

「涼太、このワンピール可愛くない?」

・・・コートはどうした!と、ツッコミを入れたいところであるが、今度はワンピースの説明を聞かされそうなので、そこは無視することとした。

「ねぇ、どっちが良いと思う?」

 唯は右手に赤、左手に青いワンピースをもって僕に尋ねた。

 いやいやいやいや!

 両方無いだろう!

 原色ですよ。赤と青って派手すぎませんか?

 秋なんだから、こう・・・もっとシックにとか、カーキ色を基調にワンポイントで可愛らしさを出すとか・・・そういうんじゃないの?よく分からないけど。

 唯の服のセンスは理解し難いものがあった。

 洋服が好きで色々調べているみたいだが、赤とか青とか黄色とか、皆が二の足を踏みそうないろばかり選ぶ。本人曰く「こういう色の服を着こなしてこそ、本当のお洒落さん。」らしい。

「あ、もしかして派手?」

 もしかしなくても派手。

 心の中でツッコミを入れる。

「そういえば涼太の服っていつも地味だよね。黒い服ばっかり。今度、私が選んであげようか?」

 丁重にお断りします。

 僕は左ほほが引きつるを感じた。

 そのまま引きつった笑いを向ける。男の洋服なんて着回しができそうな無難な物を選んで来ている人がほとんどだと思う。

 唯がワンピースを見ている間、僕はエレベーターの近くのベンチに腰を下ろした。

 いつものことであるが、唯の買い物は時間がかかる。

「頭が痛い・・・。」

 また頭痛だ。

 今日はやけに頭痛が多い。

 僕はカバンから頭痛薬を取り出すと右手で薬を取り出し、左手に乗せた。

 そのまま頭痛薬を口の中に放り込む。

 いや、放り込もうとして左手に違和感を感じた。

「左手が、痺れて動かない。」

 薬を乗せた左腕が、僕の左足に乗っかったまま持ち上がらないのだ。

 僕は、助けを求めて唯の方を見た。

 視界が歪む。

「ゆ・・・ゆ・・・。」

 声が出ない。

 おかしい、唯ちょっと来てくれ。

 僕はベンチから立ち上がった。

 景色が右へ傾く。

 違う、僕が左に倒れているんだ。

 左足に力が入らない。

 気づいたときは既にショッピングモールの通路に横たわっていた。

 カバンの中身が散乱するのが見えた。

 大変だ片付けないと。

 周りの人が集まってくる。

 唯が走ってくるのが見えた。何かを叫んでいる。

 僕の記憶はそこで途絶えた。


 目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。

 母さんと妹の利乃が心配そうに覗き込んでいる。

 父さんの姿はない。

 足元に父さんのカバンがあることから、病院に来ていることは分かる。仕事人間の人だから外で仕事の話でもしているのだろうか。

 真っ白い天井に、真っ白い壁。

 個室なのか、部屋の中にベッドは一つしかない。

 窓の外は暗い。

 時計の針は11時を指していた。

「涼太、良かった。気がついて。」

 母さんがホッとした表情で言った。

「色々話さなきゃならないこともあるけど、今日は疲れたでしょう。もう眠りなさい。」

 母さんの顔には疲労の色が濃く出ていた。

 疲れているのは母さんの方でしょう?と言いたかったが、うまく声に出せなかった。本当に疲れているのか左手と左足が重い。

 そのまま目を閉じると深い眠りに落ちていった。

 カーテンを通して入ってきた優しい朝日で目が覚めた。

 どうやらこの部屋は東側に位置しているようだ。

「おはよう。」

 母さんの声がしたので、顔を向けて「おはよう」と言った。起きてすぐだからか、やけに声を出しにくい。

 今は何時だろうか?

 母さんはずいぶん早くに見舞いに来ている。もしかしたら病院に泊まったのかもしれない。

 僕は体を起こそうと、左腕を動かした。

 ・・・いや、動かそうとして、動かせなかった。

 何だ?力が入らない。

 今度は両膝を立てて上半身を起こそうとする。

 右足は動くが、左足が全く言うことを聞かない。

「な、何だ?」

 そういえば上手くしゃべれていない。口も動かしづらい。

「か、母さん。」

 僕は母さんに助けを求めた。

「涼太・・・。」

 母さんが声を詰まらせる。

 母さんの頬を涙が伝った。

「大丈夫、大丈夫だからね。」

 まるで自分に言い聞かせるかのように、母さんが言う。

 ちょうどその時、病室の扉が開いて白衣の男性が入ってきた。後ろに父さんの姿もある。

 このあとの記憶はあまり無い。

 まるで他人事のように病態を聞いていた。

 横で泣いている母さんの姿と、険しい表情の父さんの姿がやけに目に焼き付いている。


 体温計の鳴る電子音で我に返った。

「高橋さん、体温計を出しますね。」

 看護師、川村さんが脇の下から体温計を出してくれた。

 あの時から8ヶ月が経過していた。

 病状は悪化の一途をたどっている。

 脳にできた腫瘍は運悪く悪性のもので、放置した期間が長かったため、体のあちこちに転移していた。

 「できる限りの手は尽くします。」そう言っていた医師の言うことを聞き、抗がん剤治療・放射線治療などを行ってきたが、改善の兆しは見えない。

 最近では呼吸もうまくできなくなって、鼻に酸素のチューブをるようになっていた。

 左半身は麻痺。当然のことながら車椅子の移動を強いられていた。最近では父さんが持ってきた電動車椅子のおかげで、ほんの少しだけ自由に移動できるようになったが、気分は滅入るばかりだ。

「ちょっと・・・散歩。」

 僕は川村さんに一言言うと、電動車椅子を右手で扱うと病室を後にした。

 以前は「安静に」とか「危ないから」とか色々言って自由にさせてもらえなかったけど、今年に入った頃からあまり言われなくなっていた。

 両親が何か言ったのか、病院の方針が変わったのか。どちらにしろサジを投げられたと言うことなのだろう。

 僕は電動車椅子を操作して病室を出ると、エレベータで一階に下り中庭に向かった。

 この病院には入院棟と外来棟に挟まれた小さな中庭があった。芝生の間に遊歩道が整備され、所々に木が植えてある。

 何人かの入院患者は木陰にできたベンチに腰を下ろし気持ち良さそうにしている。

 僕も木陰に車椅子を移動させると空を見上げた。先程と同様どこまでも澄んだ青空が空一面に広がっていた。

 そういえば最近唯が見舞いに来ていない。

 入院したばかりの時は毎日のように見舞いに来ていたが、日がたつにつれて回数が減り、最近は全然来てくれなくなってしまった。

「所詮、他人って事だよな。」

 分かっている。

 彼女は家族ではない。

 分かってはいるけど切なさが残る。

 唯はどんな毎日を送っているのだろうか?

 僕がいなくて寂しいと思ってくれているのだろうか?それとも、僕のことなど気にせず友達と楽しく生活してるのだろうか?

 東から上がった太陽は、そろそろ南の空に位置する。

「そろそろお昼ご飯か。」

 僕は電動車椅子を操作して病室へ戻った。午後からは検査があると言われている。


 今日は、朝から少し肌寒い。

 いつも通りの時間に検温に来た看護師、川村さんに電動車椅子に移動させてもらい、日課の散歩に出る。

 中庭を一周して帰ってくるだけだが、今の僕には一番楽しみな時間だ。

 病棟を出ると冷たい風が頬を打った。

 今日は日曜日のため外来の待合室に患者の姿は少ない。

 車椅子から見上げた空には太陽の姿を確認することはできず、灰色の分厚い雲がどこまでも続いていた。

 もうすぐゴールデンウィークだ。

 大学の友達達はどのように過ごしているのだろうか?

 去年と同じように遊びに行く計画でも立てているのだろうか。それともゼミや就活で忙しくてそれどころでないのだろうか。

 去年のゴールデンウィークは男女六人で海に行った。

 よせばいいのに男三人が海に入り、次の日拓巳が風邪をひいたのを思い出す。

 「楽しかったなぁ。」

 もう自分にはそのような時間を過ごすことはできないのだ。

 入院から時間が経てば足が遠退くことぐらい理解している。

 僕は空を仰いだ。

「みんなに会いたい。唯に会いたい。」

 唯は大学近くのマンションに一人暮らししている。

 同じ市内にあるこの病院からは歩いていけない距離ではない。

 今日は土曜日。唯は土曜日の午後からヨガに通っているからお昼頃は家にいる可能性が高い。

「ちょっとだけ、ちょっと行って帰ってくれば、誰にも迷惑はかけない。」

 僕は自分に言い聞かせるように呟いた。

 幸い土曜日の出入り口には、いつもの警備員のおじさんは立っていない。

 川村さんには言っておいたほうが良いのだろうか?

 いや、止められるのが関の山だ。

 僕はゆっくりと電動車椅子の操作レバーを前に倒した。静かなモーター音を立てて車椅子が移動する。

 点字ブロックを乗り越え、車椅子から病院の敷地から出た。

 何人かの歩行者がこちらを見ている気がしたが、病院の関係者では無いようだ。

 僕は歩道を進み、住宅街の路地に入った。

 不謹慎だとは思いながらも久しぶりの外出に心が踊っている自分がいた。

 庭に植えられている木々で囀るスズメが目に新鮮に映る。いや、電線にとまるカラスの鳴き声でさえも何だか心地よい。

 あいにく晴天とは言えない空模様だが、僕の心は晴れ晴れとしていた。

 電動車椅子の移動速度は決して早いとは言えないが、僕は少しも気にならなかった。

 住宅街を抜けると少し大きな公園に出た。

 何人かの女性がベビーカーを横に置いて話をしている。「あれがママ友ってやつか」とつぶやいてみる。

 公園の横の道を進む。公園に沿って木が植えられていた。

 晴れた日に木陰で休んだらとても気持ちがいいだろうと思う。

 保育園の子供だろうか。十人ぐらいの子供たちが元気に走り回っている。ふたりの保育士の姿も見えた。何人かの子供は保育士にべったりだ。

 公園を過ぎるとまた住宅街の中に入った。

 大学の最寄りの駅は、この住宅街を抜け、さらに商店街を抜けた先にある。

 駅から近い場所にあるのに、このあたりはとても静かだ。駅から続くメインストリートから少し離れているため、喧騒も聞こえずとても住みやすそうだ。

 ふと視線を感じ顔を上げると、塀の上に白と黒の猫の姿があった。

 猫は動かず、こちらを見続けている。

 人間を警戒しているのか、それとも餌でもくれると思っているのか。

 僕は猫から視線を外し路地を進んだ。

 その時、右の頬に冷たい物を感じた。

 雨が降り出したのだ。

 西の空から広がってきた雨雲は見る見る空を覆っていく。

 僕は天気予報を確認してこなかったことを心底後悔した。朝から空はどんよりしていたんだ。雨が降ることぐらい想像できたはずなのに・・・。

 僕はレバーを操作し、電動車椅子をUターンさせた。

 途中、右の車輪が何かに引っかかり、動かなくなる。

「あぁ、もう!急いでるのに。」

 僕は乱暴にレバーを動かした。

 車輪が動くと同時に、左に傾くのが分かった。

 しまった!

 そう思ったときにはすでに遅かった。

 スローモーションのように景色が右へと傾く。

 景色が完全に縦になったと同時に左肩に激痛が走る。直後、冷たいアスファルトに左の側頭部を強打した。左半身が麻痺した体では避けようが無かった。

 視界の端でさっきの猫が驚いてこちらを見るのが分かった。

 頭が痛い。

 あれだけ強く打てば当たり前だが、割れるように痛いとはこのことかと思い知らされる。

 僕は傷の状態を確かめようと、麻痺していない右腕を動かそうとした。

 おかしい。

 右腕がない。

 いや、無いわけはない。

 もう一度右腕を見る。

 はるか遠くに右腕が見える。

 おかしい。

 今度は足を見る。

 すごく小さく見えた。

 そうこうしていると、視界の端から黒いモヤモヤが広がってきた。

 視界がどんどん狭まってくる。

 「にゃあ」と猫の声が聞こえた。

 いつの間にかさっきの猫が塀から降りてきて覗き込んでいる。

 視界はすでに猫の顔を見るのがやっとの大きさまで狭まってきていた。

 あぁ。

 僕は理解した。

 僕は死ぬんだ。

 いやだ。

 何で僕だけ。

 いやだ。

 いやだ。

 いやだ。

 誰か助けて。

 唯。

 誰か・・・。

 目がかすんできた。もうほとんど何も見えなかった。

 ―――。

 にゃあ。

 猫の声が聞こえた。

 僕は恐る恐る目を開けた。

 車いすが倒れている。

 近くに見覚えがある人が倒れていた。

 僕も・・・僕も倒れていた。

「おい!誰か倒れているぞ!」

「救急車だ!救急車を呼んでくれ!」

 誰かの声がした。

 誰かが駆け寄ってくる。

 大きい、とてつもなく大きい人だ。

 僕は怖くなって塀の上に逃げ出した。


 何から話せば良いのだろうか。

 あの時倒れていたのは僕だった。

 大男に怖くなって塀の上に逃げ出した僕は、自分の手を見て目を疑った。

 毛が生えていたのだ。

 いや、腕毛とかそういう話じゃなくて、毛むくじゃらの獣の腕だった。

 腕全体は黒い毛が生え、手首付近からは白い毛が生えていた。

 手の平には肉球があり、鋭い爪が出し入れ出来た。

 塀の上は簡単に移動でき、体はとても軽かった。

 そして大男と思っていたひとは普通の大きさだった。

 僕が小さくなったのだった。

 僕の姿は猫だった。

 その後、病院に搬送された僕はそのまま目を覚まさなかったようだ。

 そりゃそうだ。だって僕はここにいる。

 三日後に葬儀が行われた。

 母さんが泣いていた。

 梨乃も泣いていた。

 みんな泣いていた。

 父さんはとても疲れた顔をしていた。

 これからどうしよう。

 三日も何も食べていない。

 唯は?そういえば唯の姿が葬儀になかった。

 唯の家は大学の近くのマンションだ。歩いて行けない距離じゃない。

 今日も空には厚い雲がかかっていた。 晴れ晴れとした春の日差しはどこに行ってしまったのか。

 もうすぐ日が暮れる。

 僕は近くの塀に飛び乗ると、駅方面に走った。

 不思議な気分だった。

 久しぶりに自由に動ける体だ。猫だからとても軽やかに動ける。バランス感覚も良い。信じられないほど高くジャンプできる。

 僕は風を感じながら走った。

 少しハイになっていたからか、自分が死んだことに対する悲壮感はあまりなかった。

 駅前には信号がある。

 もちろん赤信号では止まる。

「ママ~、見てあの猫ちゃん。」

 小さな(大きな?)女の子が僕の方を指さしている。

「あら、赤信号で待っているのかしら。随分お利口な猫ちゃんね。」

 女の子と手を繋いでいたお母さんが答える。

 あたりまえだ。猫と言えども交通ルールぐらいは守る。

 青信号になった。

 僕は少し胸を張って横断歩道を渡った。

 女の子はずっとこちらを見ている。少し誇らし気な気分だ。

 信号を渡ると駅の改札の前を通り、反対口へと抜けた。

 駅の反対側は小高い丘になっていて、その上に僕の通う大学があった。

 唯の住むマンションは駅と大学のちょうど真ん中ぐらいの距離にある。距離にして約一キロぐらい。猫の足では・・・まぁ、そんなにはかからないだろう。

 僕は駅の反対側の信号を渡ると、近くの塀に飛び乗った。道を歩くのも良いけれど、小さな体では誰かに蹴られかねないからだ。

 灰色の雲はどんどん濃くなってきた。

 空気が湿った臭いがする。鼻の頭が少し湿っていた。

 僕は鼻の頭をペロリと舐めると、塀の上を走り出した。ザラリとした舌の感触が猫のそれだと感じさせる。

 この辺は大学の生徒たちが多く住んでいる。いわゆる学生街と呼ばれる区画だ。

 飲食店は値段が安く、とにかく量が多い。

 僕も元気な頃・・・いや、人間だった頃と言うべきか?とにかくその頃は毎日のように通っていた。駅前の中華料理屋が特にお気に入りで、大盛りの唐揚げ定食中華ソースがけは絶品だった。

 ちょうど中華料理屋の裏を通りかかったので、換気扇の前で息を大きく吸い込む。変わらぬ油と香辛料が混ざったような懐かしい臭いがした。

 反対口の商店街を抜けるとすぐに上り坂に差し掛かる。

 僕は塀の段差を飛び越えながら唯のマンションに向かった。道路を進むよりも距離が近いのか、さほど時間はかからなかった。

 唯の家は三階建ての賃貸マンションだ。最上階(三階建てのだけど)、しかも一人暮らしのくせに1LDKの間取りに住んでいる。拓巳に言わせるとセレブらしい。といっても僕は実家から通っていたのでその辺の感覚はよく分からなかった。

 そうこうしているうちに唯のマンションについた。僕は階段を三階まで上がり唯の部屋の中を伺う。

 中には人の気配がしない。

 出かけているのだろうか?

 灰色の雲はどんどん厚さを増し、今にも雨が降ってきそうだった。

 僕は待ち続けた。

 日は沈み、雨足はどんどん強くなってきた。

 コツコツと階段を登る足音が聞こえてきた。

 僕は階段の方に注意を払う。

 控えめに茶色く染めた髪は、肩のところで軽くカールしている。細い肩、長い足、そこには喪服に見を包んだ唯の姿があった。

 喪服?

 唯は僕の葬式にはいなかったはず。それとも見落としたか?

 確かに猫の姿で葬式場に入るわけにもいかず、入り口で中の様子を伺っていただけなので見落とした可能性はあるが・・・。

 唯はフラフラとした足取りで自分の部屋の前まで行くと、鞄から鍵を出した。

 唯の全身はびっしょりに濡れていた。濡れて貼り付いた髪からは、今にも水滴が垂れるそうなほどだ。

 力ない動作で鍵を開け、扉の中に入る。

 正に心ここにあらずといった感じた。

 僕は隙を見て一緒に部屋の中に潜り込んだ。

 玄関に入った唯は、靴も脱がずにそのまま座り込んでしまった。頭を垂れ両手で抱える姿が痛々しく、僕は直視できなった。

「にゃあ。」

 僕は思わず声を上げた。

 びっくりした唯が顔を上げる。

「猫ちゃん?」

(見りゃ分かるだろ。)

 僕は唯に軽くツッコミを入れる。

「どこから入ってきたのかしら。」

 唯はキョロキョロと室内を見渡した。

「窓とか開いてたのかなぁ?」

(いやいや、一緒に入ってきましたから!)

「まあ、良いわ。猫好きだし。」

(そうそう、唯は無類の猫好きだったよね。)

「野良ちゃんかなぁ?」

(多分そう!)

「しょうがない。」

(飼ってくれるの?)

「外に出すか。」

(何で?!)

「汚いし。」

(いやいや、汚くないよ!)

「ノミとかいるし。」

(いないって!)

 そう言うと、唯は無慈悲にも僕を捕まえにかかった!

 やばい!逃げなきゃ!

 僕は条件反射で唯の手をスルリとかわすと、リビングに走り込んだ。

 そのままソファの背もたれに飛び乗る。

 靴を脱いだ唯がジリジリと間合いを詰めてくる。

 僕はローテーブルの下を経由して、奥の部屋へ行きドレッサーの上へ飛び乗った。そしてドレッサーの上においてあった、よく分からない瓶を豪快になぎ倒し、ベッドの下へと避難する。

 唯は部屋の隅に立てかけてあった、クイックルワイパーの柄を使って、ベッドの下にいる僕にプレッシャーをかけてくる。

(ひ、ひどい!動物虐待だ!)

 僕の声は唯には届かない。

「猫ちゃーん、ひどいことしないから出ておいで。」

(説得力ゼロですから!)

 僕は唯の横をスルリと抜けると、キッチンの奥へ走った。

 大女(唯だけど)が、ゆっくりと迫り寄ってくる。

 僕は心底恐怖を感じた。

 唯の家のキッチンはカウンター型のキッチンだ。僕にもう逃げ道は無い。

 僕は為す術もなく、唯の大きな(?)手に捕まった。

 唯は僕の脇の下に両手を入れると、ゆっくりと持ち上げた。

 両足をバタつかせ、なんとか脱出を試みるも徒労に終った。

 僕は観念して両足の力を抜く。

 十字架に張り付けられたイエス・キリストはこんな気分だったのだろうか。

 ああ、僕の人生はこんな所で幕を閉じてしまうのか。

 大きなため息をつき、僕は力なく頭を垂れた。

 キュルキュルキュルキュル。

 信じられないような大きな音で、僕のお腹が鳴った。

 唯は目を丸くして僕を見ている。

 は、恥ずかしい。

 確かに三日も食べてないからお腹はペコペコだけど、何もこんなタイミングで鳴らなくてもいいじゃないか!

 唯は小さく吹き出すと、僕を床に置いた。

「猫ちゃん、お腹空いてるのね。何かあったかなぁ。」

 唯は冷蔵庫の中を探しながら迷っている。

「サラダチキンぐらいならあげても大丈夫かな?」

 顎の下に手を当てながら考えるのが唯の癖だ。以前、オッサン臭いからやめろと言ったが一向に治る気配は無かった。

「あ、でもその前に。」

 唯の口元がニヤリと笑った。

「君をお風呂に入れなきゃね。」

 唯は手に持ったサラダチキンを冷蔵庫に戻すと、バスルームへと入っていった。

 どうやらお預けを食らったらしい。僕のお腹が抗議の声を上げる。

「猫ちゃん、おいで〜。」

 バスルームから唯の声がする。

(おかしいよね!野良猫は呼ばれても普通は行かないよね!)

「猫ちゃ〜ん。」

(だから、行かないって!)

「猫ちゃん、早く〜。」

 バスルームから布が擦れる音がする。

 そういえば唯の体は雨で濡れていたはず。冷えた体をお風呂で温めるのは道理!

 ま、まさか、この流れは!

 一緒にお風呂に・・・。

 バスタブにお湯が溜まったのか、蛇口を閉める音が聞えた。

 僕の足がふらふら〜と、バスルームへ向かう。

 い、いや、ダメだ。

 野良猫には野良猫のプライドがある!

 もう自分でも何を言っているのか訳分からない。

「猫ちゃん、早く〜。」

(は〜い。)

 野良猫のプライドが砕けるのに一秒とかからなかった。

 僕は軽い足取りでバスルームに向かう。

 軽い足取りで、軽い足取り・・・軽い・・・ダ、ダメだ心臓がバクバクする。

 さっきから見開いている僕の目はきっと充血ていることだろう。呼吸も荒い。傍から見たらアブナイヤツだろう。

 だってしょうがないじゃないか!こんな展開、予想していなかった。

 バスルームまであと10センチメートル。

 僕は満を持してバスルームの方に首を向けた。そこには・・・。

 Tシャツに短パン姿の唯が居た。

 いや、知ってましたよ。人生そんなに甘くないって事ぐらい。でも、夢ぐらい見たっていいじゃないですか?!

 誰に対して言っているのか分からない心の叫びを響かせ、僕は人生の厳しさを痛感したのでした。

「猫ちゃ〜ん、怖くないからね〜。」

 僕の足からゆっくりと唯がシャワーをかけてくる。普通の猫なら暴れるところだろうが、僕は人間なので少しも怖くない。

 何なら湯船の中でクロールでも披露したい気分だ。

「じゃあ、シャンプーしますよ〜。」

 唯は器用にシャンプーを自分の手の上で泡立てると、僕の背中に置いた。

 そのまま泡を広げて、足、背中、お腹、尻尾と洗っていく。

 最後に頭と耳を洗ってからゆっくりと泡を流してくれた。

「はい、キレイになりました。」

 唯は僕の脇の下に両手を入れるとそのまま持ち上げながら言った。

「ふ〜ん。」

 唯は僕の体をまじまじと見ている。

 ど、どうしたんだろう。

「君、男の子なんだね。」

 唯は僕の下半身を見ながら言った。

 一気に顔が熱くなるのを感じた。

(な・・・!どこ見てんの?!)

 僕は両足を持ち上げて必死に隠した。

「あはは!おかし〜い。何だか人間の言葉が分かってるみたい。」

 楽しそうに笑う唯。

 僕はうつむきながら、必死に両足で隠し続けた。腹筋が悲鳴を上げる。

「お風呂から上がったらご飯上げるから、おとなしく待っててね。」

 唯は僕の毛をタオルで拭くと脱衣所から出した。

 僕は所在なく唯の部屋を歩く。

 この部屋に入るのは随分久しぶりだ。無駄なものが少ないシンプルで整理された部屋だ。

 カウンターキッチンの前には小さなテーブルがあり椅子が二つ、テレビの前には白いローテーブルがあり、少し間を開けてふたりがけのソファが置いてある。

 寝室の壁にはコルクボードがかけてあり、僕と唯の写真がところ狭しと貼られていた。

 あのときのままだった。

 僕が最後にこの部屋を訪れた時のまま、この部屋の時間は止まっていた。

「じゃあ、猫ちゃん。乾かそうか。」

 いつの間にかバスルームから出てきた唯が僕を持ち上げる。そのままリビングのソファに座るとを膝に乗せドライヤーをかけてくれた。ついでに自分の髪も乾かしている。いや、どちらかと言うと僕を乾かすのがついでか。

 温かい風が気持ち良い。

 僕は唯を見上げた。少し疲れたような表情をしている。

「さて、猫ちゃん。ご飯にしようか。」

 僕は「にゃあ」と答えた。もうお腹がペコペコだった。

 唯はいったんキッチンに行き、すぐに戻ってきた。手にはさっきのサラダチキンを裂いたものとカップラーメンがあった。

 テーブルの上にカップラーメンとサラダチキンを唯が置いた。

 僕は一瞬迷ったがテーブルの上に飛び乗り、サラダチキンに口をつけた。テーブルに乗った僕を咎める様子は無いようだ。

 サラダチキンは美味しかった。三日も食べていなかったから当然と言えば当然だ。誰が言ったか知らないが、空腹は最高のスパイスとかいう言葉は納得だ。

 むせながらサラダチキンを頬張る。半分ほど平らげたあと、ふと壁にかかっている時計を見る。時計盤にカラフルな三角とか四角とかが書かれた少し大きめな時計だ。

 ご飯を食べ始めたのは何時だっただろうか?

 正確な時間は覚えていないが、三分以上は経ったはずだ。

 唯はカップラーメンを食べ始める様子は無い。ただテーブルに伏せたまま動かない。

 「にゃあ。」

 僕は小さな声で鳴いてみた。

 反応は無かった。

 少し様子を見た。肩が微かに震えているのが分かる。

「にゃあ。」

 少し近づいて鳴いてみた。

 唯はテーブルに伏せたままだ。

 僕は唯の顔に僕の顔を近づけて鼻をヒクヒクしてみた。

「猫ちゃん。」

 唯がこちらを向いた。

 目が赤い。

「私ね、大切な人にひどいことをしたの。」

 僕は唯の言葉で鼓動が早くなるのを感じた。

「私の大切な人はね・・・病気だったの。」

 唯は目を伏せた。

「でも、私はそれを受け入れられなかった。」

 さらに唯は続けた。

「急に倒れて、入院して、どんどん悪くなっていって・・・私見てられなかったの。」

 唯が両手で目を覆った。指の間から微かに涙が滲んでいる。

「見てるのが辛くなって、だんだんお見舞いに行くのが辛くなって・・・行かない日が続くと、どんどん行きにくくなって。」

 覆った両手から涙がこぼれ落ちた。

「にゃあ。」

 僕は唯に声をかけた。ひとの言葉は話せないが、精一杯声をかけた。

「そしたら、死んじゃった。」

 唯が天井を仰ぐ。

「もう会えないの。もう二度と会えないの。」

 とめどなく涙が流れる。

 僕は唯の顔に近づき、流れる涙を舐めた。

「猫ちゃん・・・。」

 唯は僕を抱きしめた。

「こんなことになるなら、毎日会いに行けばよかった。」

 唯の両腕に力が入る。

「どんなに後悔したって、もう遅いの。涼太は帰ってこないの。」

 唯の口から嗚咽が漏れた。

 幼い少女のように泣き続けた。

 ・・・。

 どれくらいの時間が経ったであろうか、唯は僕の体を離し膝の上に置いた。

「ごめんね。苦しかったよね。」

 唯は涙を拭いて言った。

「あ、カップラーメン食べなくちゃ。もう伸びちゃってるだろうけど。」

 そう言うと、唯は伸びきった麺をすすった。柔らかくなった麺は所々ちぎれている。

「今日ね・・・。」

 唯が小さい声で言った。

「涼太のお葬式行ったんだ。」

 僕は無言で唯の横顔を見つめる。

「でも入れなかった。こんな私にお葬式に行く資格なんて無いと思った。」

 唯はもう一度涙を拭った。

「ごめんね。変な話して。」

 僕の方を見る唯の顔は笑顔だった。ただただ寂しい笑顔だった。

 僕は「にゃあ。」と答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る