第7話 雨間の陽光とともに

 梅雨に入り、雨の日が多くなってきた。

 現在、部屋の中にいるのは僕だけだ。少し前から唯は大学へ行くようになったからだ。

 朝に梓が訪ねてきたあの日、唯は少しすっきりした表情で帰ってきた。ひとりきりで悩んでいた時には見せない表情だった。大学へ行くようになったきっかけが、梓と話したからなのか、しつこい梓に根負けしたのかを唯は僕に話してはくれなかった。

 その事に関して若干の寂しさはあるが、猫となってしまった僕には力の及ばないところなのだろう。

 しかし、ここで問題がある。

 ひとりで過ごすというのは、何故こんなにも暇なのだろうか?

 唯が家にいるときは、不本意ながらも猫じゃらしで遊んであげたり、唯の膝に乗って癒してあげるなどという役割が僕にはある。唯のいない部屋というのは遊ぶものも何もなく、寝るぐらいしかやる事がない。

 猫は一日の半分以上は寝ているというが、それは単にやる事が無いだけで、役割を与えてあげれば睡眠時間7時間ぐらいで頑張れるのではないかと、本気で思ってしまう。

 僕はテラス戸を開けて外に出た。

 朝から降っていた雨は上がり、雲の間から晴れ間も見えていた。これならば外出できるかもしれない。

 僕はいつも通り、ベランダの手すりを通り非常階段を下りてマンションから出た。

 今日は大学へ行ってみることにしよう。

 唯の入った研究室は太陽光エネルギーの有効活用を研究している。太陽光エネルギーの研究室、通称「太陽研」は研究室棟の一階だったはずだ。今日のような天気の悪い日は研究室内での活動となっている可能性が高く、窓の外からでも中の様子を伺えることだろう。

 通常、猫というものは雨上がりの外出を好まない。今までは漠然と猫が雨を嫌うだからだろうと思っていたが、濡れた地面が肉球を濡らす上に、肉球の間に細かい砂が入って、不快なことこの上ない。

 確かにこんな思いをするのであれば、雨の日などは行動せずに寝て過ごすことを選択するだろう。

 道路には所々水たまりがある。これ以上不快な思いをするのを避けるため、僕は塀の上を進んだ。

 雨上がりの西の空にうっすらと虹が出ている。

(綺麗だ。)

 ゆっくりと虹を見るのは、いったい何年ぶりだろうか。心が洗われる気分というのは、きっとこのような事を指すのだろう。

 僕は軽く弾む心を抑えながら、塀の上を進んだ。綺麗な景色を見る、こんな些細なことに感動する、何と心に余裕がある事だろう。

 それに比べ、生前の僕はつまらない事に腹を立て、周りに当り散らしていた。僕という人間は、いや、人類全てに共通するかもしれないが、なんともちっぽけな存在だったのか。

(ふふふ〜ん、ふ〜ん。)

 気分が良いので、鼻歌も歌っちゃいます。

(タッタラッタッター)

 スキップだってしちゃいます。

 もうすぐ大学に着く。

 その時・・・僕は塀を踏み外した。

 やべっ、油断した。

 豪快にアスファルトの上に落ちる僕。受け身も取れずに背中から落下する。

(あはははは!)

 み、見られた。

 周りを見回すと、小さな黒猫がこちらを指さして笑っている。

(あはは、お兄さん!トロいな〜。)

 黒猫が近づいてくる。

(僕はクロ。お兄さんは?)

 名前、そのまんまだな。そこが逆に新鮮だ。

(名前はおだんご。)

(変な名前。)

 う、うるさい!ちょっと気にしてんだから。

 そうは思っても、決して口に出さない。子供相手に本気にならないのが、大人の余裕。

(ボウズ、こんな所で何やってんだ?雨が降ったばっかりだと濡れちゃうだろう。)

(ボウズじゃなくて、クロ。ちゃんと名前で呼んでよね。濡れちゃうのはそっちもでしょ?そっちこそ何やってんの?)

 お前こそちゃんと名前で呼べ。教育がなってないな!・・・いや、怒ってないですよ。大人ですから。

(俺か?俺は大学・・・道を渡った先の大きな建物に行く途中だ。)

(マジで!一緒に行っていい?この道車通りが激しくて、うまく渡れないんだよ。)

 クロは目を輝かせながら言った。

(昨日も、僕と追いかけっこしてたおじさんが目の前で車にひかれちゃったんだよ。)

 な、何だと?!

 それって交通事故じゃないか?!

(もう、おじさんぺちゃんこ。ピクリとも動かなくて、すごく悲しかったよ。)

 しかも、死亡事故?!

 そう話すクロは今にも泣き出しそうだ。

(まあ、元気出せよ。)

 かける言葉が見つからない。

(おじさんはすごく大きくて、強そうだったんだ。でも、さすがに車には勝てなかったんだ。)

(そうか・・・。)

 話を聞く。それだけで救われることもあるだろう。

(あれだけ大きかったら、お腹いっぱいになっただろうに。)

(そうだな・・・ん?)

(僕、思うんだ!道路を向った先の建物の周りの草原には、もっとたくさんのおじさんがいるに違いないって!)

(待て待て待て待て!おじさんって何だ?)

 クロはキョトンとしている。

(あ、おじさんってのは、トノサマバッタの事。顔が人間のおじさんみたいでしょ?僕が名付けたんだ。たまに道を渡って、こっちに来るんだ。なかなか美味しいんだよ。)

 クロは得意気に話続けた。

 ああ、何で猫世界はこんなにもネーミングセンスが無いのだろうか。

 頭の奥が痛くなり、僕は眉間に爪を立てた。


 結局、僕はクロを連れて大学前まで来た。

(良いかクロ、道路には信号という物がある所がある。)

 目の前にあるのは歩行者信号。

 普通の信号を教えることも考えたが、色の識別ができるかどうかも微妙だったので、歩行者信号を教えることにしたのだ。

(上が光っていたら、止まれ。下が光っていたら、進め。分かる?)

 クロは真剣な眼差しで信号を見ている。

(今は上が光ってるから、車が道路を走っている。この時に渡ろうとすると、轢かれるから気をつけろ。)

 クロは黙って頷いた。

「お母さん、見て見て!大っきい猫さんと、小さい黒猫さんが、信号待ってる。お母さんと子供かなぁ。」

 信号待ちをしていた女の子が、僕らを指さして言った。

「そうかも知れないわね。頭の良い猫さんたちね。」

 女の子のお母さんも、僕らの行動に感心している。

 しかし、お母さん!間違わないでほしいのですが、僕はオスです。僕にも男としてのプライド(?)があるので、そこん所宜しく。

 信号が青になった。

(しばらくすると、信号の下側が光る。そうしたら車は止まるから、渡っても大丈夫だ。)

 クロがこちらを見る。正に尊敬の眼差しだ!

(スゲーや、兄さん!伊達に年食って無いな。)

 こいつは礼儀というものが無いのだろうか・・・。

 クロの礼儀についてはさて置き、僕たちは信号を渡り、大学の敷地内に入った。

 そろそろ午後の講義が始まる頃だろうか。4年生は取得しなければいけない単位数も少ないことから、研究室にこもって自分の研究に没頭していることが多い。

 まずは太陽研の様子を伺う事としよう。

(じゃ、兄さん!僕は美味しそうなオジサンを探してくるよ。)

 クロはそう言うと、学生広場の方に歩いていった。学生広場というのは芝生が生えた場所にベンチがいくつかあり、学生がくつろげるようになっているスペースである。    トノサマバッタがいるならば、そっちじゃなくて理学部棟の裏にある湿地帯や雑木林付近の原っぱだと思うが・・・。

 それほどお腹が空いているようにも思えないから、あえて教えてやる必要もないだろう。

 僕はそう考えると研究室棟の方に向った。

 三ツ星がモンシロチョウを食べていたときは驚いたが、よくよく考えると外国には普通に昆虫を食べる文化の人達がいる。日本人でもイナゴの佃煮やハチノコを食べたりする。案外、虫というものは美味しいのかもしれない。餓死しそうになったら食べてみる事としよう。

 さて、僕の記憶では太陽研は、研究室棟1階の奥から2番目だったはず。

 僕は研究室等の建物に沿って走り、目的の部屋の前まで移動した。

 窓の外にはエアコンの室外機がいくつか並んでいた。高さも申し分なく、窓から中を覗くのにはお誂え向きだ。

 僕はエアコンの室外機の上に立ち、後ろ足で立ち上がると恐る恐る中を見た。

 中にはところ狭しと機材と机が並んでいる。

 研究室と言うと、白衣を着た研究員が滅菌手袋をして試験管を振っているイメージだったが、太陽研の中は違っていた。

 ハンマー、ノコギリ、電気ドライバーと様々な工具が机の上に並び、ソーラーパネル、電球、モーター等がキャビネットの中にしまわれている。

 唯は・・・いた!

 今は休憩中なのか、部屋の奥の方にあるホワイトボードの前に、数人で椅子を並べて喋っている。

 みんなが座っているのは、背もたれの無い丸椅子。高校の科学実験室なんかにある、丸い座面に四本の足を付けただけのシンプルな椅子だ。

 さすがに声は聞こえてこないが、ひとりの学生が何やら皆に話しかけている。

 リラックスした雰囲気なので、研究内容の論議などという話ではなく雑談なのだろう。唯の表情も明るく、ひと安心といったところだ。

(なるほど、あれが兄さんの女なんだね。)

 いつの間にやらクロが隣に立ち、窓の中を覗いていた。

(ぼ、僕の女って・・・何を言って・・・。)

 クロの言葉に不覚にもしどろもどろになってしまった。

(違うの?近所の飼い猫が言ってんだ。(ご主人様?何言ってんだよ。人間が寂しいだろうから俺が一緒にいてやってんだよ。言うなればあれは俺の女なんだ)って。)

 なるほど、猫というものは日頃飼い主の事をそういう目で見ているということか。覚えておこう。


「やっぱり、再生可能エネルギーの活用っていうのは大切だと思うんだ。」

 唐突に唯がそう言い出したのは、大学2年の秋だった。

 唯はたまに突拍子の無いことを言い出す。

 付き合い始めて1年が経過したが、いまだにこのような発言に慣れることは無い。とりあえず理由を聞いてみることにした。

「もちろん最近、火力発電の地球温暖化ガスの排出とか、原子力発電の危険性とかの話題が、テレビとかてやってるってのもあるんだけど。」

 唯は一回ここで言葉を止め、手に持っていたペットボトルのお茶を口に含んだ。

「日本って、海に囲まれてたり、火山があったりして自然の力を使いやすい国だと思うの。」

 唯の話を要約するとこうだ。

 日本は海に囲まれているから、波力発電が可能。

 火山が多いから地熱発電が可能。

 山が多いから水力発電が可能

 ソーラーパネルを効率よく設置すれば、電力供給能力が増える。

 ・・・僕にはよく分からないが、唯が力説するのだからそういうものなのであろう。しかし、大学生が考えつくようなことならば、その辺の頭が良い人が考えてると思うので、何かしら障害があって実現していない物なのだと思うが。

 ただソーラーパネルの設置に関しては少し興味があった。

 ソーラーパネルを付けた方が、得だと思っている人は多く存在するだろう。

 しかし大部分の人は、初期投資の問題や維持費の問題、または単に面倒だからという理由で付けていない。

 そこで、「会社側が個人宅にソーラーパネルを付けさせてもらう代わりに、家の持ち主に月々1万円払う。」というような隙間産業の会社を立ち上げてはどうだろうか?

 もちろん「メンテナンスや維持費は会社持ち。個人は何もせず月々1万円の報酬を得る」という感じにすれば儲かるのではないだろうか?

 今度、経済学部の友達にでも聞いてみよう。卒業してしばらく社会人をやってから起業するのもいいかもしれない。

 社会というものがそれほど甘いものでは無いことを理解しつつも、社会人一歩手前の大学生が無責任にあれこれと夢を見るのは、それはそれで気持ちのいいものだと思う。

「だから私は太陽研に入ろうかと思ってるんだ。涼太はどこを希望するつもり?」

 うちの大学は4年生になってから、研究室に入ることになっている。卒論を書くという課題はさることながら、就職等その後の人生を左右される重要な選択だ。

 そのため、大学3年になる頃には希望の研究室を決めて、教授に顔と名前と覚えてもらうために研究室に出入りする学生が多くなってくる。

 僕はというと、もちろん研究室に関しては・・・全く何も決めていなかった。

 「まだ時間がある。」そう思って漠然と大学生活を送ってきたため、自分が何に興味があるのかさえも理解していなかった。

 しかし、周りが騒ぎ出すと急に焦ってくるから不思議だ。僕も早めに希望の研究室を決めなければならないと遅れを取ってしまう。

 今更ながら思うが、時間は待ってはくれないのだから。

 ロボット工学、AI、材料工学、再生可能エネルギー、エネルギー応用、ナノテクノロジー等、メジャーな研究からマイナーや研究まで大学には様々は研究室がある。

 選択方法としては、唯のようにやりたいことを見つけて進む人もいれば、先輩から楽な研究室を教えてらって進む人や何も考えずに適当に選ぶ人もいる。

 案外、こういう所で人生の勝ち組と負け組に分けられていくのかもしれない。

 そう考えると、何も考えていない僕は、負け組街道まっしぐらということになる。

 唯に愛想を尽かされないように、少しはしっかりしなければならないと思う。

「そうだな、僕は・・・」


(痛っ!)

 急に激しい頭痛に見舞われ、僕は頭を抱えた。

(兄さん、どうしたの?大丈夫?)

 クロが心配そうに僕の顔を覗き込む。

 僕が人間だったら、きっと真っ青な顔をして脂汗をかいている事だろう。

(あ・・・あぁ、大丈夫。ありがとう。)

 不思議なことに頭痛はすぐに治まった。

 そういえば、唯と研究室の話をした後、結局研究室は決めたのであろうか?

 あの頃に興味があった物といえば、ロボット工学やAIであるが、このふたつの研究室は特に人気が高い。

 成績も研究室決定に大きな要因になるため、至って普通の成績の僕がロボット工学研究室やAI研究室に入るためには、教授と事前に仲良くなっておく必要がある。

 研究室に入るために、せっせと教授の元に通った気もするし、早々に諦めたような気もする。

(う〜ん、自分のことなのに何で思い出せないんだろう。)

 僕は眉間にしわを寄せ、首をかしげた。

 目の前でクロも眉間にしわを寄せ、首をかしげている。

(クロ、何やってるんだ?)

(え?兄さんの真似、大人の男みたいでカッコいいよ。)

 そう言うと、クロは今まで以上に大きく首をかしげた。もはや首をかしげるというレベルの話ではなく、腰あたりから上半身すべてが傾いている。

 傍から見たら可愛い仕草なのだろうが、真似されてる本人にしてみたら、些か腹が立つ格好だ。

 僕は一生懸命眉間にしわを寄せ、すでに目を開いていないクロに軽く足払いをした。

 全く見えていなかったのか、クロはバランスを崩し、室外機の下に転げ落ちた。

(猫のくせにトロい奴だな。)

 僕は室外機の上から、クロの顔を覗き込んで言った。

(うるさいな。不意打ちなんて卑怯だよ。)

 クロは口を尖らせている。悪態ばかりついているクロだが、こういう表情は子猫らしくて可愛いと心底思う。

(それより兄さん、兄さんの女が出てきたよ。)

(僕の女って言うな。育ちが悪いのが・・・って出てきたの?)

 クロをかまうのに夢中になって、唯の観察を忘れていた。

 確かにクロの言う通り、研究室棟の出入り口から、太陽研の面々が出てきたところだった。

 10名ぐらいの学生が色々な機材を運んでいる。黒っぽい板はソーラーパネルだろうか?他にも電子基板や、オシロスコープ、電球、車のバッテリーなんかを持っている人もいる。

 雨の合間に、実験をするつもりなのであろう。確かに梅雨時期の晴れ間は、太陽研にとっては貴重な時間だ。

 僕とクロは見つからないように、そっと後を付けた。

 覗きのあとは尾行か、ストーカー街道まっしぐらといった感じだな。

(ところで、クロは何でついてくるんだ?付き合わなくても良いんだぞ。)

 いつまでも付いてくるクロに聞いてみた。

(何でって・・・特にやることも無いし、ヒマだから。)

 確かに猫の生活はヒマだ。いや、余裕がある言った方が、適切だろうか。

 ルールを守り、世間体を気にし、将来を憂う。猫になって、初めて人間というものは何と面倒な世界に生かされているのかと痛感させられる。

 彼らが向かったのは、学生広場の芝生の上だ。僕らはというと、近くに生えている欅の木に登り、様子を見ることにした。

 まずはソーラーパネルを芝生の上に敷き、電子基板を取り付けた。

 何の基盤だろうか?部外者の僕には見当もつかないが、オシロスコープで波形のチェックをしているので、電力を安定させるためのものなのだろう。

 その後、彼らはモーターや電球、テレビなどを取り付け、動作確認を行った。

 研究室の学生たちはとても仲がよく、楽しそうに見えた。

 唯も笑っていた。少し前まで、あんなにも悲しい顔ばかりを見せていたのに・・・。それはとても良い事で、祝福しなければならない。

 そうなのだ。祝福しなければならない事なのだ。

 それなのに、僕はわけも分からずイライラしていた。

 唯と僕との間に、距離を感じた。

(兄さん、どうかした?)

 クロが顔を覗き込んでくる。

(いや、何でもないよ。そろそろ帰ろうか。)

 クロが怪訝な表情をしている。

 僕たちは唯に見つからないように、林の中を抜けて大学の外に出た。


 信号を渡り、クロと別れた。

 特に行く宛もないため、トボトボと駅方面に坂を下っていった。

 駅に向かう裏通り、唯のマンションと空き地の間には花好きな人が多いのか、綺麗な花を多く見ることができる。

 軒下にアリジゴクがいる家の庭には紫陽花が咲いていた。よく見ると、青い紫陽花の中にピンクの紫陽花も混ざって咲いている。

 これは紫陽花の種類が違うのだろうか?それとも、一つの紫陽花から青い花やピンクの花が咲くのだろうか?

 花好きの唯なら知っているのかもしれない。今度、聞いてみよう。

 そういえば、梅雨といえば紫陽花とカタツムリというイメージがある。しかし、実際は紫陽花の葉には毒があるから、カタツムリは紫陽花の葉を食べないと聞いたことがあるのだが、本当だろうか?これも今度、唯に聞いてみよう。

 気がつくと、空き地の前まで来ていた。

 雨上がりだというのに、ミケはいつもと同様、空き地の丘の上に寝そべり、道路の方を見ている。

 僕はミケに近づき、話しかけた。

(おだんごの兄貴、今日はどうしました?飼い猫なんだから、こんなジメジメしている日に出かけなくたっていいだろうに。)

 ミケが丘の上に腰掛けて言った。

(いや、特にすることも無かったから、暇つぶしに。)

(暇つぶしですか?暇なら寝てれば良いんですよ。雨の日は特に眠いから、あっという間に一日が終わっちゃいますよ。)

 ミケの言うことも最もだ。猫には試験も、仕事も無いのだから。大切なのは生存競争であり、この空き地の猫はその生存競争に勝ったばかりで、新たな脅威は訪れていない。

(ところで兄貴、その後ろにいるちっこいのは何ですか?)

 ミケが僕の後ろを指差す。

(後ろ?何かあるのか?)

 不思議に思い僕は首だけを捻り、後ろを確認する。

 後ろには小さい黒ネコがちょこんと座っていた。

(ク、クロ?!どうしたんだ?家に帰ったんじゃないのか?)

 僕は驚いてクロに尋ねる。

(実は、少し前にお母さんがいなくなっちゃったんだよ。しばらく兄弟で暮らしてたんだけど、みんなどこかに行っちゃって、僕ひとりになっちゃったんだ。)

 クロがうつむきながら答えた。

(可哀想に。まだ親離れの時期じゃないから、育児放棄されたんだな。)

 丘から下りてきたミケが言った。

(僕にはどうすれば分からなくてさ、兄さんなら何とかしてくれるんじゃないかと思って、付いてきちゃったんだ。迷惑だったかな?)

 クロの気持ちは分かるし、何とかしてあげたいが、僕も唯に飼われている身のため出来ることには限りがある。

 僕はミケを見た。

 ミケは目をつぶり、何か考え事をしている。

(じゃあ、この空き地に住むか?近くに雨風がしのげる軒下もある。ただし飯は自分でなんとかするんだ。いいな。)

(ありがとう!おじさん!)

(おじさんじゃねえよ!)

 元気に答えたクロの言葉にミケは不満そうだ。ミケが本当にオジサンに見えたのか、それともトノサマバッタに似てたのかは定かではないが、ひとまずクロの件は解決したようだ。

 クロは新しい住処に満足したようだ。さっきから空き地を歩き回り、隅々まで観察し、においを嗅いでいる。

(ミケ、ありがとう。)

 僕は短くお礼を言った。

(兄貴の頼みじゃ断れませんよ。何しろ兄貴はこの空き地の救世主なんだから。)

 救世主と言われ、少しくすぐったいと思ったが、悪い気分ではない。

(兄貴、何だか元気がないような気がするんだけど、大丈夫ですかい?)

 ミケは意外と鋭い。伊達に一つの群れのトップをやってはいない。

 僕はさっきの大学で感じたことを、ミケに話した。

(なるほど、飼い主との距離ですか。なかなか難しい問題ですね。)

 ミケは眉間にしわを寄せて言った。

(猫はネコ語しか話せないし、人はヒト語しか話せない。これはどうやっても解決できない。)

 ミケは少し寂しい表情をしている。もしかしたら、かつてのご主人様を思い出しているのかもしれない。

(だから、お互いに信じ合うしかないんですよ。違う種類の生き物だから、完全に信じることはできないかもしれないけど・・・。それが、ご主人様と飼い猫の関係なんじゃないですかね。)

 そう言うと、ミケは照れくさそうに笑った。

(それって、さっき見た兄さんの女の話?)

 いつの間に来たのか、僕の後ろに座っていたクロが尋ねな。

(だからその言い方やめろよ。誤解を生むだろう?)

 クロはいたずらっぽく笑った。

 つられて僕とミケも笑う。


 部屋に帰ると、既に唯が帰宅していた。

 珍しく緑茶を飲んでいたのか、テーブルの上には急須とマグカップが置いてあった。

 猫好きの唯のチョイスだろうか。急須は猫の形をしていた。

 急須は蓋の部分が猫の顔になっていて、鼻の部分をつまんで開ける作りになっている。少しブサイクな顔をしているのが、唯らしいといえば唯らしい。

 少し年季の入ったその急須はいつ買われたものなのだろう。友達とでも買いに行ったのか、僕の見たことのない物だった。

「おだんごちゃん、おかえり。」

 カウンターキッチン越しに唯が言った。

 僕がテラス戸を開け閉めする姿を見ても、唯は驚かなくなってしまった。普通の猫はそんなことしないのだが、不思議に思わなくなったようだ。習慣とは怖いものだと思う。

 キッチンからいい匂いがする。

 今日の夕飯は豚肉の生姜焼きかな?

 唯は大学に行くようになってから、こまめに料理をするようになった。料理の恩恵にあずかれないのは残念だが、以前の唯に戻りつつある事実は好ましく思えた。

「よし、こんなものかな。」

 キッチンでは豚肉の生姜焼きを作り終えた唯が、千切りキャベツを盛ったお皿に盛り付けている。

「あとは、おだんごちゃんのご飯だね。」

 キッチンの戸棚から、カリカリ飯の入った箱を取り出しながら唯が言った。

 カリカリを食器に移す時の乾いた音が、小気味よく響いている。

 僕はというと、空き地で汚れた足や毛並みの乱れたお腹、後ろ足を舌で綺麗にしながら夕飯を待っていた。

 最近では、お腹や足を舐めて綺麗にするだけでなく、一度濡らした前足で顔が洗えるぐらいになっていた。誰がどう見ても、もう立派な猫だ。

「はい、おだんごちゃん、ご飯ですよ。」

 今日は色々な所に出かけたので、お腹がペコペコだった。

 さっきも思ったが、慣れとは怖いもので、何と!最近はカリカリ飯でも普通に食べられるようになってきたのだ。もちろんレトルトの味には遠く及ばないが、カリカリ飯も捨てたもんじゃないと思うようになってきた。今日みたいにお腹が空いているときなど、美味しく思えてきたから不思議だ。

「さて、食後の運動の時間だね。」

 そう言うと、唯は引き出しから猫じゃらしを取り出した。

 最近では僕もこの時間を楽しみにするようになってきた。野生が呼び起こされるというか、体の内側から溢れるものがあるというか、とにかく自分を開放できるような感じがするのだ。

 唯が僕の目の前に、猫じゃらしを差し出し左右に振る。最初はゆっくり、だんだん速く。

 猫じゃらしを追って、僕は首を左右に振る。瞳孔が広がり、体が狩りの体勢に入るのがわかる。

 お尻がムズムズする。

 僕はお尻高く上げて、腰をを振った。

 上半身を低く構え、後ろ足を少し広げ地面を踏みしめる。

(今だ!)

 一気にトップスピードに加速し、猫じゃらしを捕まえようとする。しかし、寸前で唯が猫じゃらしを手前に引き僕の手から逃れた。

 次こそはと思うがなかなか捕まらない。

 捕まらなければ捕まらないほど、僕の心は踊る。次こそはと思い腰を振る。

 ふとテーブルの上に目をやった。急須の猫と目が合った気がした。

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