買われた死体 1

 地下のその部屋は、薄暗く、汚れていた。死臭と精液の混じり合う悪臭。腐った倫理が放つ吐瀉物よりも下卑た。脳味噌を下半身に宿した悪神が、楽園のつもりで産み落とした掃き溜め。そんなであり、そんな空間であった。

 彼女はそこで目を覚ました。ゲロの山から頭を突き出した乳児のように、世界を試すように息を吸った。彼女はもう死体なのに。呼吸の真似事は堂に入ったものだった。

「……ああ。私、死んでるのか」

 自身の声を確かめるように、死体の声帯が奏でられる。普通の死体は喋らない。死とは、沈黙を促すものだ。普通の死体なら。つまり、普通ではない死体なら。語ることもあるのだろう。そして彼女は、普通の死体ではなかった。動く死体。生者の敵。かばねだった。

「なんだ。私、裸じゃない」

 彼女は自分の身体を見下ろして、おどけるように言った。その言葉どおり、死体の彼女は一糸もまとっていなかった。乳房も女性器も露出していた。とはいえ、死体が裸なのは珍しいことではないのかもしれない。衣服を真っ先に剥ぎ取られるのが死体だ。全裸の幽霊は少なく、全裸の死体は多い。それが世の常だ。衣服とは、文明社会を標榜する場においては尊厳を意味する。死体から最も奪われやすいのが、尊厳だった。

「あれ? 私、なんでこんなに汚れてるんだろう」

 踏んでもいないトマトがなぜ潰れたのか不思議がるように、彼女は血まみれの自身をいぶかしんだ。手にも乳房にも下腹部にも足裏にも、血がこびりついて汚れている。その大部分は、自身の血ではなく、他人の血だった。他人という、不快な肉袋。害なす不快なトマトたちの。

 彼女は薄暗いその部屋を見まわした。複数人が性交しても余裕のありそうな幅広のベッド。拘束のためか単なる雰囲気づくりのためか、じゃらじゃらと壁から何本も垂れ下がった鎖。注射器や灰皿やクスリやグラスが雑然と置かれたガラステーブル。床のところどころに散らばった、美的センスのかけらもない性玩具と、機能美を有した刃物たち。ナイフ、包丁、鋏、ノコギリ。傷つけることに特化したそれらに、彼女は暫しうっとりと見とれた。だが、部屋に散らばっているのはそれらだけではない。

「よかった。死んでるのは私だけじゃなかったんだ」

 死体の彼女は寂しさが報われたとでもいうかのように、安堵するように笑った。その言葉どおり、地下のこの部屋にいる死体は彼女だけではなかった。男たちの死体がごろごろ転がっていた。無様な裸体、ちぎれた四肢。常人離れした腕力で叩きつけられて、頭が壁にめり込んでしまっている死体もあった。彼女はそれを見て思わず吹き出した。頭を支点として腑抜けたように壁にもたれかかるその死体は、等身大のバナナのように間抜けな姿だった。死体の彼女を輪姦した男たち。死体の彼女に殺された男たち。部屋は死体で満ちていた。だが、動く死体は彼女だけのようだった。

「さて、と。これからどうしよっかな……」

 自身に問うように、彼女は呟いた。会社を辞めたばかりの若人わこうどのように、当てのない旅に出た浮浪者のように、かばねとしての一歩を踏み出した彼女は、社会と死別した清々しさを感じていた。もう、生きなくていい。もう、生者じゃなくていい。これからは死体なのだ。やりたいようにやるだけだ。

 私のやりたいこととは何だろう? そんなことはわかりきっていた。生きていた頃からの夢を叶えるのだ。生者だろうが屍者だろうが、人間には夢が必要だ。そして、夢は焦がれるためではなく、叶えるためにある。ありがたいことに、私には夢がある。神に感謝だ。こんな私にも、夢がある。

 有害な男たちを、ひとり残らず、ぶち殺すのだ。

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骸と屍 koumoto @koumoto

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