老兵は死なず 9
「国民服ですよ。乙号です」
自分が着ている服を指し示して、年老いた死体は目を細めて笑った。
「懐かしい。まだ残っていたとはね。私のものではなく、死んだ友人のものですが。せっかくだから、着させてもらいました。最後の晴れ舞台ですから。あの時代にはよく見かけたものですよ。もっとも、きみには縁もゆかりもない感傷ですかね」
「許可なく甦った死体は殺します。あなたをいまから殺します。システムの名において
病葉の宣言に、国民服をまとった老人の死体は笑った。
「よろしくはないが、そう命じられているんだろう? お上の事には間違はございますまいから、といったところですか。同じ死体のよしみで少し待ってもらえないかな。よければきみと話してみたい」
「いいですよ。後ほど死んでもらえるなら」
国民服の老人はまたしても笑った。
「もうすでに死んでいるはずなんだがね。私は一応は肺炎で死んだはずなのだが。死体が死ぬとはややこしいものだ。だが、まあ、それもいい。死にきれないかぎり、死は何度でもやってくる。いつでも待っている。逃れられない」
「それが話したいことですか。死について?」
病葉はコートのポケットからメリケンサックを取り出し、拳に嵌めた。
「死体と死体が死について話しても、不毛かな? いや……つまらない質問なのだがね。この国に落とされた核爆弾の数を、きみは知っているか?」
「……なぜ、いまそんなことを? 歴史の講釈ですか」
「答えてほしいんだ」
「四十六発。二県を除く各地の県庁所在地に落とされ、この国は壊滅的な打撃を受けました。再起不能と言われたほどです」
国民服の老人は吹き出した。そのまま低く、笑いつづけた。おかしくてたまらない、というように。さっきからこの死体は笑ってばかりだった。口調もどんどん砕けていく。
「四十六発……四十六発……いや、失礼。笑うつもりはなかったんだがね。しかし、これはね、笑うしかないんだよ。とんだジェネレーションギャップだ。きみたちとわれわれは、世界の認識がまるで違っているんだよ」
「きみたちとは、だれを指して言っているのですか? われわれとは、あなたと自殺した戦傷病者たちのことですか?」
「システムに染まった者と、染まらなかった者の話さ。四十六発。本気でそれを信じているのか? そしておなじみの、焼け野原から立ち直ったというサクセスストーリーか? システムは灰塵のなかから生まれ、人々に希望と栄光と秩序を授けました、か? きみたちはみんな同じだな。加害の歴史は直視せず、被害の実態にも興味はない。憐れだよ。まるで餌を頬張る家畜だ。きみたちの知らない歴史、きみたちに見えない世界があると、少しでも考えたことはないのかな?」
「陰謀論者は、みんなそう言いますね」
乾いた笑いがなおも屍から洩れる。対峙する死体の返答が、よほど愉快であるかのように。
「これが断絶さ。世代の問題とも言いきれないがね。長生きしているくせに、本気でそれを信じ込んでいるやつらも多い。だが、このコロニーの彼らは違ったんだ。コロニー……。花の名前なんてのは後付けでね。もともとは、
「それで集団自殺? よくわかりませんね。そして、無意味です。この自殺騒動は、大々的に報道されることもない。大手のメディアはすべてシステムに掌握されているし、捌け口として見逃されている劣悪なゴシップ誌のコラムが、せいぜい数行、芸能人のスキャンダルの隣に載せるだけでしょう。信憑性のない噂話のひとつとしてね。どれだけ死のうと、だれにもあなたたちの声は届かない」
国民服の屍は笑うのをやめて、案山子のような骸を見つめた。
「きみがいるじゃないか。きみには届いた」
病葉は拳を握りしめて、老人に一歩近づいた。
「本気で言っているんですか? 僕は骸です。あなたが唾棄するシステムの走狗です」
「私は本気で言っているんだよ。だれであろうと、ひとりに届けばそれで十分さ。実際ね、いのちを懸けても、なにひとつ伝わらないのがこの世の普通だ。普通なる世の中の普通なる無情だ。ひとりに伝わるだけで、それは奇跡なんだ。もっとも、さっきの集団飛び降りで、あわよくば巻き込もうとしていたのも事実だがね。システムの走狗も死ねば、スキャンダルになるかと期待したんだが……そうそう、憲貴……片腕の菊地が、きみたちになにか差し入れを持っては来なかったかな?」
「差し入れ? おはぎのことですか。受け取りはしませんでしたが……」
老人の死体は、それまでの哄笑とは違って、寂しげに微笑んだ。
「おはぎ……。そうか。憲貴も、システム相手とはいえ、決意が鈍ってしまったのだろう。もう人を殺したくはなかったのか。優しい男だったからね」
国民服の死体は相手に見えるように、手を前に突き出した。その手には小指が欠けていた。
「これが私の傷です。他の仲間からよく言われましたよ。戦争に駆り出されて、指の一本で済んだなら安いものだとね。でも、彼はそんなことは一度も言いませんでした」
そう言ってから、小指の欠けた手を下げて、屍は後ずさり、屋上の柵を身軽に乗り越えて縁に立った。
「ところで、私もおはぎを持っていてね。駐留軍の横流し品の、最上級のおはぎです。ああ、それと。きみが聞いてくれないから、勝手に名乗っておきますけど。私の名前は石神岩夫です。きみの名前は?」
「病葉仁です」
神父のような、案山子のような、コートを身にまとい、メリケンサックを拳に嵌めた骸は、相手のやろうとしていることを察して、構えを解いた。
「病葉くんか。妙な名前だね。だが、お似合いかもな」
そう言って、手にしたおはぎのピンを抜いた。
「私の死を見届けてくれてありがとう」
国民服を着た屍は、口にくわえた手榴弾の爆発によって、頭蓋を四方に撒き散らしながら、地上へと落下していった。
「よお、仁……屍はどうなった?」
「勝手に死にました。他の老人と同じです。自殺ですよ」
飛び降りた老人たちの死体広場に病葉が戻ると、律儀にひとりひとりの頭を撃ち抜いた後、普段は吸わない煙草をくわえた瀬田真司が、血だまりのなかで首を振った。
「自殺、自殺、自殺、か……老人が自殺する町は滅ぶって、どこかで聞いたことがあるよ」
「そうですか」
病葉は瀬田真司を何気なく観察する。煙草を挟んだ指がかすかに震えている。血に酔い、神経が乱れ、魂を病んでいる。明らかに常軌を逸している。生きた人間の精神は壊れやすい。殺すことが日常ならなおさらだ。
「真司。この国に落とされた核爆弾の数は……」
病葉はそう言いかけて、口を閉じた。
「あ? なんだって?」
瀬田真司は、うつろな目つきで病葉の方を睨んだ。
「……いえ。なんでもありません」
地面を見下ろすと、老人たちの死体と血だまりが夕暮れの光に淡く染まって、片付け忘れた絵の具と玩具のようだった。過去を引きずった、老兵気取りたちの残骸だ。老兵は死なず、死にきれず、死体となって、そして死んだ。やがてだれからも忘れ去られてしまう、すべての死者たちと同じように。
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