老兵は死なず 8
「菊地さん……」
空はうっすらと赤い。魚群のような雲が預言のように滲んでいる。夕暮れだった。電柱や街灯から伸びる影が広がり、地面を黒く覆っていく。夜の訪れを待ちわびた影が、光を塗りつぶして駆けまわる時間帯だ。黄昏に死ぬのは、どんな気分だろう。空の色と死体には、いかなる関係性もないのだろうか。もしもよみがえったとしたら、死ぬときの空を思い出すこともあるのだろうか。
「真司、これを見てください」
病葉に言われるがままに視線を巡らすと、死体から少し離れた地面に、影よりも黒々とした物体が落ちていた。
「銃か?」
「アンテナからの報告によると、菊地さんのそばに屍の姿はなかったようです。片腕を使って、ひとりで器用に屋上の柵を乗り越えると、銃を取り出し、自らの頭を撃ち抜いてから、落下したそうです」
「そうか……つまり、亡者化の心配はしなくていいってわけか。いずれにせよ、頭蓋がこの有り様じゃあな……それにしても、本当に銃を隠し持っていたとはな」
頭を自分で撃ち抜いた、か。いまは、ありがたいことかもしれない。たとえ殺すべき死体であっても、何度か会話した相手の額を撃ち抜くような気分じゃなかった。寝不足がたたったのか、ひどく憂鬱だった。
「安らかにな、菊地さん。正真正銘の死だ。もう目覚めなくていいんだからな。お勤めご苦労さん」
俺は踵を返して、とりあえずその場を離れようとした。一息つきたかった。
「待ってください、真司。……屋上に? いまですか?」
病葉が、どうやら連絡を受けて、上を見上げた。
「真司、アンテナから報告です。紫陽花コロニーの屋上に、ぞろぞろと老人たちが集まり出しているようです」
「あ? なんだ? 菊地さんの自殺にいまさら気づいたのか? まあ、銃声はしただろうからな……もっと早く気づいて、止めてでもくれたらよかったのに」
「いえ、そうではなく」
「そうではなく?」
「つまり……」
俺はあまり頭がまわらなかった。死体には慣れているつもりだが(生きた死体にも死んだ死体にも)、ときおり思い出したように胸がむかつくことがある。皮膚を切り開いて骨を押しのけて、肺やら心臓やら何やらを爪で直接かきむしりたいようなたまらない気分に落ち込むのだ。いまがそうで、そういうときはなにもかもがどうでもよくなって、現実が膜の向こう側のように遠くなって、頭が少しばかりうつろになる。つまり、呆けていた。
その呆けた頭上から、風のささやきのようにかすかに、「せーの」という呑気な掛け声が聞こえた気がした。
「伏せてください」
言うよりも早く、俺は気づくと病葉に引き倒されていた。地面に荒々しく打ちつけられ、痛みとむかつきに濁った頭で倒れたまま天を見上げると、そこに落ちてきたなにかを病葉が全力でぶん殴るのが見えた。
その一瞬で頭が冴えて、スローモーションのようによく見えた。落ちてきたのは人間だ。それもひとりではない。十人近くがひとまとめに落ちてくる。老人の雨だ。落下傘部隊のような自殺者の群れだ。その一団のなかの、俺たちに危うく激突しそうだった二人ばかりの老人を、病葉は空中で一気に殴り飛ばしたのだ。重力と馬鹿力がおぞましく噛み合って、大砲のように鮮やかなカウンターパンチが老人たちの肉体の一部をごっそりと吹き飛ばし、脳漿や肉片や骨片や血液が、肉袋でこさえた花火のように盛大に飛び散った。
ぼとぼとぼとぼとぼと、と、病葉に殴られた老人(だったもの)だけではなく、プレーンな飛び降り自殺として地面に到達できた墜落者たちの死の音が、辺りに響き渡った。肉体によるゲリラ豪雨だ。いのちが砕けて終わる音だ。
「大丈夫ですか、真司」
「ああ……ありがとよ」
病葉が差し出す手を握って、俺は起き上がった。血にべたついた、冷たい死体の手だ。死の真っ只中にある
周囲を見まわす。あまりいい景色とは言えなかった。死体が夕映えのように広がっていた。一部はぐちゃぐちゃで、一部はキレイで、地面にこびりつく苔のようだったり、地面に寝転がる老木のようだったり、顔だけは眠るように綺麗だったり、顔なんてもとからなかったかのようだったり、十人十色に死んでいた。数えてみると、九人だったが。菊地さんの死体だけは、その九人の落下地点からは少し離れていた。
「ひでえもんだ……老人たちの、集団飛び降り自殺か」
「片付けが大変でしょうね。清掃班はお気の毒です」
「気の毒なのは、この人たちだろ。なんだってこんな死に方を選んだのか……」
「選んだのか、選ばされたのか。自由意志でしょうか、運命でしょうか」
「知るかよ、そんなこと」
「待ってください。……ええ。了解しました。至急、向かいます」
死体を見下ろしていた死体の病葉が、俺の方を振り返った。
「真司、コールです。
あっけらかんと、わが相棒はそのありがたい命令を伝える。
「やれますか、真司」
「……やるさ。仕事だろ」
「では、任せました」
そう言い残して、病葉は去った。紫陽花コロニーの区画から、梔子コロニーの方へと向かった。残った俺は、銃を取り出し、老人たちの夢の跡を見まわして、ため息をついた。死体たちには名前がない。菊地さんがいてくれたら、ひとりひとり、その名を教えてくれただろうに。
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