天上の燕、地上の蝶  ~翠浪の白馬、蒼穹の真珠 外伝4~

結城かおる

第1話 

 この辺境の烏翠うすい国にも他国より遅れてようやく春が到来したわけで、王都である瑞慶府ずいけいふでも、柳の緑が日ごとに濃さを増し、桜の蕾も膨らみ始めている。   

 厳しい冬に根を下ろした体内の強張りが少しずつ解けるように、都も人も動き、流れ出す。

 いや、烏翠のいまの国君の暴政のもとでは、たとえ冬でなくとも人々の背骨はこわばり、筋肉は縮こまっている。

 それでも誰の上にも春は巡ってきて、花の香りや鳥のさえずりを楽しむほどの余裕は、まだ国人には残されているのだ。


 そして、いつもは静かな光山府こうざんふも、今日は朝から人々が賑々しく邸内を往来していた。

 というのも、王の従弟かつ光山府の主人である弦朗君げんろうくんの計らいで、使用人たちが半日ずつ交代で休暇を取ることになっているからである。ある者は朝からめかし込んで花見に出かけ、またある者は中庭で双六に興じたり、菓子をつまみながらのんびり世間話をしたりしている。


「レツィン、持ってきたか?」

 中庭からの問いかけに、回廊を歩いていた侍女姿の少女が振り返り、一笑した。


「レツィン」と呼ばれた彼女は、山岳民族であるラゴ族の姫君で、族長代理の妹にあたる。そして、烏翠国とラゴ族との取り決めにより、烏翠の王都たる瑞慶府に送られ、今は光山弦朗君こうざんげんろうくんの監督のもと、王宮の女官となるべく修行中の身であった。

 彼女の持つ薄茶色の眼は今日も生き生きと輝き、若草色の仕着せの服も、その若さを一層引き立てていた。


「ええ、敏。あなたも?」

 彼女に向かって、背のすらりと高い、杏仁形の眼をした少年が歩いてくるところだった。彼は蝙蝠の形をした凧を持っている。一方、レツィンの手には燕の凧。

 二人とも、手先の器用な冬二とうじという使用人に凧の作り方を教わり、めいめい自作の凧を用意した次第である。


「清明節には皆がよく凧を揚げるけれども、まあ、凧なんていつ揚げてもいいわけだしね。良い風も吹いているから、未来を占うにはちょうどいい」

 敏の言に、レツィンはわずかに表情をこわばらせた。


――未来を占うといっても、私の将来はもう決まっているけど。半年したら王宮の籠の鳥になり、たぶん生涯をそこで終えるんだわ。


 だが、それを趙敏に言うことは憚られたので、彼女は自分の気持ちを押し隠してにっこりした。

「そうね。でも、承徳が来るといったのに、まだ姿が見えないけど」

「かまわないさ。あいつはどうせ休沐日きゅうかなのを幸い、凧揚げの約束を忘れて朝から眠りこけているに決まってる」

 敏はぶつくさ言った。

 柳承徳は弦朗君の部下であり、またその遠戚にも当たる名門の子弟で、レツィン達の友人でもあった。

「じゃあ、一足先に揚げてしまうわけね。でもこの調子じゃ、彼が来ないうちに私たちの休暇が終わってしまいそう。中午ちゅうごには仕事を交代しなければならないのに」


 敏とレツィンは中庭に並んで立ち、まずレツィンの凧から先に揚げた。黒と青で美しく模様が描かれた燕は、尾を翻してするすると蒼穹を上がっていく。

「ふふ、本当に凧揚げには良い日だこと」

 レツィンの凧には竹笛がついており、鳥が啼くかのごとき高い音を立てた。

「じゃ、俺のも……」

 ついで、敏は自分の蝙蝠こうもりの凧を揚げる。桃と蝙蝠の図案は「福きたる」の吉祥の意味を持つ。地上に二人が並ぶのと同様に、春の大空には燕と蝙蝠が仲良く泳いでいた。


「ほう、上がっているね」

 執務の合間の休憩だろうか、この邸のあるじである光山弦朗君が正堂から出て、中庭に降りてきた。敏とレツィンは凧糸を持ったまま、深々とお辞儀をする。弦朗君は澄んだ目で凧を見上げた。


「喧嘩凧にはしないのかい?」

「ええ、未来を占おうかと……」

「さてさて、結果はどう出るかな?」

 気が付けば、中庭で双六や噂話に興じていた他の者たちも、揃って口を開け、凧を眺めている。

「承徳ももうすぐ来るだろう、そしたら……おや」


 光山府の主人は何かに気が付いたらしい。レツィンと敏が弦朗君と同じ方角に目を向けると、糸の切れた緑色の蝶の凧が、こちらに向かって飛んでくるところだった。どこで揚げられたものやら、遠目からでも良い出来とわかる品である。


「あっ……」

 みるみる大きくなったそれは、短い自分の紐を燕の凧に絡ませた。燕は、悲鳴をあげるかのように竹笛を鳴らす。レツィンが思わず凧糸を引いたところ、それがぷつっと切れた。


 地上の束縛から免れ自由になった燕は、尾を翻してはるか高みに上っていく。反対に、絡み凧を引き起こした緑色の蝶は、力を失い空中を漂いながら落下してくる。レツィンも、中庭の者たちもみな無言でそれらを見守っていた。


 そこへ。

「おーい、いつもながら遅れてすまん。凧を作ってくれるはずの妹がすっかり忘れていて……」

 朱金色もまばゆい金魚の凧を手にした柳承徳が、これまた鮮やかな青色の常服を身にまとい、通用門から入ってくるところだった。

「みんな、どうしたそんな間の抜けた顔をして……痛っ!」

 舞い落ちてきた蝶の凧が彼の頭を直撃した。軽いものとはいえ、落下の衝撃はそれなりであっただろう、承徳は頭を抱え、金魚の凧を取り落としてしまった。


「誰だよ、凧を我が君の邸内に落として……」

 よそから邸内に落ちてきた凧は、不吉のしるしとして忌まれるのだ。

「大丈夫かい? 承徳」

 上司である弦朗君の心配顔に、部下は眼球をくるりと回し、「へへへ」と答える。

本官わたくし、頭が大丈夫ではないかもしれませんので、明日の登庁は見合わせて自宅にて静養いたしたく存じます……いてて」

 彼は冗談口をやめ、眉間に皺を寄せて足元の蝶の凧を拾い上げたが、そこへ表門から門番が走ってきた。


「こちらに凧が落ちてきたようですが、何でも宰領補さいりょうほ呉一思ごいっしさまの邸内から揚げていたもので、いま使いの者が門前に……」

「宰領補の?」

 弦朗君がすっと眼を細め、何かを吟味しているかのようだった。


「『サイリョウホ』って何?」

 ひそひそ声でレツィンが敏に問うた。

「王の治政を補佐する最高の役職を烏翠では『宰領』って言うけど、宰領補はその補佐官ということだよ」

「ふうん……」


 弦朗君は中庭から回廊に上がり、一同を見回した。

「では、その使いを正堂に通しなさい。私が会おう。承徳、その凧はこちらに」

「いけません、主君。凧の載せてきた不吉が御身おんみに移ります」

「いいからよこしなさい。私はそういう迷信は信じないし、呉どのの使者にそれを返してやらないと。それに、そなたはすでに王宮に出仕した身なのだから、ここでの見習いの時のように私を『主君』と呼んではならないよ」

 いささか硬い表情、しかも叱責まじりで弦朗君が命じたので、承徳も「はい」と小声で答え、素直に緑の蝶を差し出した。


 そういうわけで、せっかくの楽しい凧揚げに「けち」がついたようで、敏もレツィンも失望の色を顔にのぼせて、弦朗君を見送っていた。

「主君が使いに直接会うなんて、よほど呉さまの権力が強いのかしら?」

 レツィンの疑問に、出仕前の身ながら事情通でもある敏は、微妙な表情になった。

「まあ、権力もそうだけど、とにかくお若いのに切れ者という噂だからね。いろいろと……」

 その口調に、レツィンは何かを察するものがあった。承徳はその脇で、「げー」という表情をつくっている。


「呉一思は切れ者というより、嫌な奴だともっぱらの評判だよ。俺は瑞慶府の部属で良かったけどね」

「上官が弦朗君さまでお前にはよかったな。呉一思さまの部下だったら、お前は今頃免職だ」

「うるさいな。というか、あの呉一思の邸は凧揚げなんて許すのかな?」

 しかめ面の承徳をなだめるように、敏がつとめて明るい声を出した。


「そんな話はよそう。さあ、レツィンの凧は飛んで行ってしまったけど、きっと不運を載せて蓬莱山まで運んでくれたに違いないよ。だから、レツィンは安心しなよ。占いはいい結果になった」

「……ええ、そうだといいわね」


 ――でも、何だろう。この頼りないような、不安なような気持ち。

 レツィンは大空を振り仰いだ。彼女の凧はいまや遠くに離れ、ほとんど黒点ほどの大きさになっている。


「何だか知らんけど、まあ敏の言う通りだろうな。それに、あの凧みたいに、レツィンがどこか遠くに行ってしまうなんてことはあり得ないわけだし」

 凧が当たった箇所がまだ痛いのか、頭を撫でていた承徳も同意する。


「さあ、俺の凧と敏の凧はまだ残っているんだから、さっさと揚げちまおうぜ」

 敏は愉快そうに眉を上げた。

「占いは終わったし、ただ揚げるんじゃつまらないな。蝙蝠と金魚、いっそのこと糸を取り換えて喧嘩凧にしようか? 主君が先ほど仰っていたみたいに」

 友人の挑戦的な言葉に、承徳もにやりと笑って反応する。


「そりゃ面白い、受けて立つさ。邸内で喧嘩したらこってり絞られるけど、大空での喧嘩なら誰にも怒られないだろう?」

「よし、じゃあ、喧嘩凧用の糸を取ってくる」

「私は点心とお茶を持ってきてあげる。闘うには、まずお腹に美味しいものを入れてからじゃないとね」

 若人たちの笑い声が邸内に響く。元気が出たレツィンは厨房を指して、裳裾をからげて駆け出して行った。

 

――こうして、仮の姿をとった燕は天上のものとなった。

 だが、本物の燕は、もう少し先の季節で地上に姿を現し、尾を翻しつつ川面を飛ぶだろう。

 翼をきらめかせながら、少年と少女たちのそばをすり抜けるだろう。

 そして、その瞳にそれぞれの運命を映し出すだろう。


【 了 】

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