竜宮の使い
輝彦と乙女は互いに好き合っていた。
輝彦は神主の息子で、長男だった。しかし彼は家を継ぎ神に仕える気などなかった。子供の頃から空に強い憧れを持ち、いつか空を飛びたいと思っていた。
乙女はそれを子供っぽい夢だと笑っていたのだが、当人は本気だった。
驚くべきことに彼は子供じみた空想を、数学やら物理やらの学問と置き換えて考えるだけの聡明さを持っていた。
乙女が彼の賢さに目を丸くしているうちに、彼は家のことは全て弟に任せさっさと街に出て行ってしまった。弟は真面目で堅実な人で、父親と同じ道を進むことに異論はなかった。
輝彦は空を飛ぶことを子供の夢しか思わない故郷の雰囲気が、たまらなく嫌であったようだ。 故郷を振り返りもしない背中は、寂しくも誇らしくもあった。同時に乙女は、彼が街の荒波にもまれて世間の厳しさを知り、すぐに帰ってきてくれることを期待していた。 故郷の柔らかさの中で育った若者たちが、次々と夢を諦めて帰省たりそのまま見知らぬ土地で腐ったりしてゆく中、輝彦は流れ星のようにまっすぐに進み続けた。
都会と世間の厳しい波は、彼を傷つけるどころか磨き上げて更に洗練した若者に変えてしまった。
何年か後の正月に里帰りした輝彦は、あか抜けた都会の男になっていた。故郷にいても街にいても、すれ違った女性はみんな振り向くほどの美男子になっていた。
帰省した輝彦は乙女との再会を喜び、人を空に飛ばすというのがどんなに困難なことであるか、滑空をすることは容易だが自在に飛ぶというのがどれほど難しいか、そして仲間たちがどれほど素晴らしく機智にとんだ連中であるのかを熱っぽく語った。
彼は流行りのレコードにも賭け事にも興味は無かった。彼が興味を持っているのは、空を飛ぶこととそれを一緒に叶えてくれる仲間だけだった。
乙女は彼の心が離れてゆくのを寂しく思ったが、あいも変わらずに輝彦が好きだった。輝彦は輝彦で、年を経るごとに美しさを増す乙女の横顔を眩しく眺めていた。
乙女はごく普通の勤め人の家の子供だった。子供は女ばかり三人いたが、その中でも末に産まれた乙女が一番美しかった。
長女は闊達でよく働く娘だったので、早々に結婚して出て行った。侍女は運動がからっきし駄目だったが、頭がよく回り計算が得意だった。だから輝彦と気が合うようで、乙女に気をもませた。彼女は今、得意の計算を生かした仕事に就いている。どうやら心に決めた人がおり、それは輝彦ではないようすだったので、乙女は安堵した。両親も姉二人の将来を心配してはいない。
対して乙女は、習い事はそつなくこなし洋琴も得意だったが、内向的でおとなしい娘だった。友達と遊んだり人と話したりするのは苦手で、幼い頃はよく人の居ない神社の境内に逃げ込んでいた。輝彦と初めて出会ったのも、そこだ。
儚げに笑う美しい少女は、並の男子よりも運動が得意だった。
木登りもかけっこも虫取りも、乙女の方が上手だった。中でも特に泳ぎがうまかった。海に潜り込むと、まるで魚のように自在に泳いだ。それがまた、人魚のように美しい。髪をのばしたら素敵だと輝彦に言われ、彼女は髪を長く伸ばした。美しい二人が恋に落ちるのは当然のことだった。
街から帰ってきたとき、輝彦は乙女を連れ出そうとした。乙女も華やかな空気に触れれば、よりいっそう美しさに磨きがかかると思ったのだ。
だが、乙女は自由に泳ぐことのできる海と、誰の目も気にせずに走り回れる山を愛した。
輝彦も彼女は野にあってこそ美しい花なのだと理解して、無理には誘わなかった。都会の水は彼女にはあわないのだから、すぐに枯れてしまうだろうと思ったのだ。
乙女は輝彦を頻繁に海に誘った。日焼けはしないらしい。ただ、赤くやけどのようになってしまうのが、悩みだという。
「輝彦さん、どうしてそんなに空に生きたがるの」
「じゃ、君はどうしてそんなに海に行きたがるんだい」
岬で二人は笑い合った。
乙女にとって海は空と変わらないくらい美しくて、自由な場所だった。透明度の高い海に沈んで上を見れば、空にいるような気分になれた。
空に上ったら、空気は青くてきっと綺麗なんでしょう。
海は空と違って、雷を落としたりはしないだろう。
乙女は街に行くことを拒んだが、内心では輝彦に手を貸したかった。
潮の流れを呼んで、抵抗を無くして水の隙間を切るように滑っていくのは、空の飛ぶのに似ている気がした。風を読むのも、うまい筈だ。
学問は苦手だった。だが、感覚的な所で乙女はその辺りのことを良くわかっていた。
だが、輝彦は町に帰ってゆく。輝彦には、この古びた街で研究を続けるという選択肢は無いからだ。またしばらく帰ってこない。
輝彦が発つ前日、乙女は彼を海へ誘った。
「輝彦さんは、海が嫌い?」
「嫌いじゃないさ。ただ、君のように泳ぎは得意じゃないし、空の方が好きなだけだ」
「でも輝彦さんが来てくれないと」
甘えたことをいう乙女をほほえましく思うが、その顔は切実に何かを訴えていた。いいたいことは包み隠さずいう仲だが、こういう時の乙女は多くを語らなかった。
「きっと輝彦さんが欲しい物もあるわ」
輝彦は静かに首を振った。空には、ここにはないものがある。乙女が夢に出てくるのと同じくらい頻繁に、空を飛ぶ夢をみる。叶わない恋をしているように、胸が苦しい。実際に体験したように、その感覚を言うことができた。翼を巧みに操って空に舞い上がり、荒波のような風を切って飛ぶ感覚。それは素晴らしいものだ。
その日の海は、穏やかだった。
輝彦を陸に残し、乙女は軽やかに海を泳いでいく。彼女は輝彦にはない翼を持っている。海を飛ぶ翼だ。
水に濡れた黒髪に、夕陽が赤く照っている。
「そろそろ帰ろう」
いくら泳ぎが達者な乙女でも、夜の海は危ない。彼女が星を見たいといっても、輝彦は彼女を家へ帰した。
昔から繰り返し、乙女は妖しい笑みとともに輝彦を海へ誘った。彼女と海のつながりに底知れぬものを感じて、彼は海を遠ざけがちだった。
空への憧れは開放的で自由でどこまでも続く明るい希望だ。海というのはうねりの中に、何を秘めているのかわからない。底が見えない深い蒼は、魅力的でもあったが恐ろしくもあった。
物語の中の怪物が、ほの暗い海の底から上ってくるような気さえした。根っからのインテリである彼は、そんなお伽噺信じていなかったが、理性と感情はすれ違っていた。
「大丈夫。輝彦さんが思っているほど暗くないし、輝彦さんを連れて行くのが私の仕事なの」
「妙な仕事だ。そんなことなら研究を手伝ってくれればいいのに」
乙女の言葉は揺ぎなく、誇りに満ちていた。
普段は確固たる態度で己の夢を主張する輝彦も、乙女を前にすると自慢の弁舌が鈍った。
輝彦は強く空に焦がれていたが、乙女は海に馴染みに海に寄り添っていた。その関係がどうやったら構築されるのか分からないが、空とそのような関係になることが、輝彦の理想だった。
「また帰ってくる。その時は、一緒に」
「その時は一緒に、ね」
乙女は優しくほほ笑んだ。
次の日の早朝、輝彦は乙女の元から去った。
愛しい人が居ない間、乙女は海にいった。輝彦が空を思うように、海を思った。
ある日、彼女は海の中で紅色の珊瑚を見つけた。それは海のとても深い所に或る類のものだった。それを見つけたとき、乙女は輝彦を思った。
例えばそれでお守りを作って、空に向かう輝彦に渡したら素敵だろうと思ったのだ。水底に落ちても怪我はしないが、空から落ちたら怪我をする。
光が届かないような水の深い所にあるもので空に向かう人間の無事を願うというのは、とても素敵な考えのような気がした。
水面にあがると、日暮れの斜光が乙女を照らした。光が徐々にまろやかな赤に変わってゆく。
息を胸いっぱいに吸い込むと、海の中に引き返した。
珊瑚があるのは、昼でも海の青が目立ち始める深い場所だった。
日が沈む前にとりたかった。きっと明日は、波が珊瑚を別の場所にさらっていってしまう。
海の中には陸上に例えるなら崖のような、いきなり深くなる場所がある。珊瑚はそこに沈んでいた。
乙女ですら、そこまで潜ったことは無かった。
太陽は沈みゆく。海面は血のように真っ赤に染まっていた。乙女の白い体は水底にまっすぐにおりてゆく。深くに潜ることは少しも怖くはない。
水がいきなり冷たくなる地点をとおりすぎて、更に潜っていく。沈めば沈むほど、水は重くなった。
息が苦しくなったとき、珊瑚は未だ遠かった。しかしもう少し頑張れば、手が届くかもしれない。ぐいと頭を下げて潜った。
乙女は海が好きで、海に生きている女だった。輝彦が子供の夢を学問で解釈するように、細い両手両足の全てで海を感覚的に理解していた。
海の中では物がすこし大きく見えて、すこし近い場所に見える。それを思い出したときには、もう遅かった。赤い珊瑚が乙女の手に収まった。
真珠のような空気の泡を吐き出して、乙女は海面にはあがってこなかった。泡だけが水面に上っていって、はじけた。
水底から見上げる水面が、空のように赤く揺れていた。
海の中の世界に、真っ赤な太陽が上っていく。その不思議な光景を目に焼き付けて、乙女の意識は闇に沈んでいく。
真っ白い顔が、赤い光に照らされた。
乙女が海に沈んだことに気づく人はなかなか居なかった。
輝彦が田舎の街に居ると人目を引く街の男であるように、乙女もとても目立った。しかし彼女は都会の女ではない。乙女には毒がなく、自分で雑踏を切り開く刃を持っていない。どこに馴染むのか知れなかったが、その美しい少女のもつ空気は故郷のものではなかった。
だから、周囲の人間もいつの間にか彼女を自分たちの物差しで考えるのをやめていた。
年頃の娘が海にばかり気を向けていても、乙女には輝彦がいるから嫁入り先に心配は無かった。
若い娘が、日が暮れても家に帰ってこないという異変と、乙女が海に行ったまま帰ってこないという事実が結びつけられたのは、なんと翌日のことだった。
彼女の靴は波打ち際にあったし、湖にも川にもいなければ乙女は海に居るのが普通だった。
喩え見つかったとしても、生きていないだろうというのが全員の意見だった。
一週間探しても、乙女は見つからなかった。
その知らせは当然、輝彦に届けられるべきだった。正式に婚約をしていないまでも二人は好き合っていた。年頃の二人に縁談が無かったのもそのせいだ。
だが、輝彦はなかなか捕まらなかった。たまにだす手紙に住所はあったが、よく住み場所を変えているようだった。より研究がしやすい場所を選び、家賃が安い場所を探しているようだった。
愛しい恋人の死すら知らない輝彦を、故郷の者は哀れんだ。
だが、当の輝彦はその時、天にも昇る気持ちでいたのだ。
彼はようやく設計図の物を作ってくれる親切な製造所の人間と、スポンサーに巡り会った。
試作機一号に乗るのはもちろん輝彦だ。
何度か無人飛行に失敗をし成功した後の改良型だった。
輝彦は、これが成功したらいったん故郷に帰るつもりだった。空を飛ぶ夢が現実になって、輝彦の手を離れて大きな金を動かす商売になっていく。そうなったら、乙女を迎えにいって二人で暮らすのだ。
望んだほど優雅な飛行では無かったが、輝彦は空に向かった。鳥のように羽ばたく案も虫のように羽ばたく案も失敗に終わり、彼の飛行はとても騒々しいエンジンとともにあった。
耳が痛くなるので、耳栓が必要だった。己の血液が流れる音が、流れ落ちる滝のように耳の奥でうなっている。
輝彦はエンジンが重たい鉄の機体を持ち上げて天に昇っていくまでの間、奇妙な手紙のことを考えていた。
忙しさにかまけて、転居の知らせをしていなかったので手紙が届くなどということは無い筈だった。それは手紙というにはあまりにお粗末なものだったので、仲間の誰かがしたいたずらだろうと思った。しかし誰もそんなものは書いていないというし、筆跡も知らない人間の物だった。
和紙のような質の悪い紙切れに、おそらく大変質の悪い筆で書いたのだろうと思われる不器用な字が書いてあった。墨が滲むので大きな字しかかけず、結局そんな短い文章になったのだろう。
“オトメはウミにかえった”
漢字が書けなかった理由は字が書けなかった理由と同じだろう。
乙女と海を結びつけると、人魚のイメージが湧いてくる。なら輝彦は何だろう。乙女の帰る所が海であるように、輝彦も地上に自分の居場所を見いだせないでいた。
きっと、俺は天にかえるのだ。
「輝彦さんは、海はお嫌い?」
乙女の笑い声が、こだました。
海に潜ったことがないから、海中の美しさは知らない。
次に彼女に贈るのは、珊瑚がいい。厚い雲の隙間らか覗ける夕空のような、緋色をした珊瑚で何かを作ってあげよう。彼女が水の底に連れて行かれないようにお守りになる物がいい。
試作機で長期の飛行は無理だ。輝彦はすぐに夕日に夕空に背を向けた。
「輝彦さん、なんでそんなに空に生きたがるの」
じゃあ、なんで君は海に行ってしまうんだい。
聞いては見たものの、理由なんてわかりきっている。彼女は海からきたのだ。だから海に帰るし、水中に居るときが一番美しい。彼女は海の底にある伝説の竜宮の住人なのだ。
「輝彦さんが帰ってきてくれないから、迎えにきたの。本当の故郷はこっちなのに、空にばっかり行ってしまうんですもの」
ああ、そうなのか。
天を目指した輝彦の居場所は海の底だったのだ。
それは不幸なことかも知れないが、乙女と同じ場所が自分の居るべき場所だというのは、輝彦にとって幸いだった。
ならば、人生のすべてが回り道だ。
喧しかったエンジン音は、霧散して消えた。
輝彦がずっと空にあると思い目指していた場所は、透明な海の中にあったのだ。夢見た青は海の青だった。この肌が求める風は、潮の流れだった。
時間にすれば、それほど長い時間ではない。試作機が天に昇り、地面に叩き付けられるのは、あっという間だった。輝彦は赤い炎に包まれて、誰も彼を見つけることはできなかった。
海の中では真っ赤な太陽が顔を出した所だった。
深紅に染まった海面をみて、乙女は愛しい人の帰還を悟った。
輝彦は、自分が遠く天に昇って真っ赤な空にぶつかるのを見た。空を波打たせて、飛び込むとそこはまるで海だった。
乙女は海の中を滑るように泳いでいた。
彼女の泳ぐ姿を海中で目にするのは初めてのことだった。泳ぎでは到底乙女には敵わない。しかし輝彦は乙女に導かれて、竜宮に泳ぎだした。
故郷は乙女の死を伝えぬうちに、輝彦の死の知らせを受け取った。輝彦はあちらこちらに逃げ回るが、故郷は動きようが無いからだ。
二人が水底で空を泳いでいることなど知らず、人々は若い二人の不幸を嘆いた。
乙女は海に帰った。
輝彦は空に帰った。
二人は竜宮で、真っ赤な太陽を見ている。空も海も血のように赤い夕暮れだった。
「死にふさわしい頃」収録作品 望月 鏡翠 @ky_motiduki
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