青を抜けえぬ浅葱の路を
地下は日の光が入らなくて暗い。風通しも悪いし、壁からじわじわと染み出す水がそれに追い討ちをかけている。そんな居心地が最悪の場所で、マヌの友人は働いている。
昔はこの深い場所で、石炭を掘ってお金を稼いでいた時代もあったけどそれも今は昔。地盤沈下の恐れがあるから埋めることになったのだ。と、ここまではマヌが知っている知識。
崩落事故なんかが起きたりすると、一気に海水が流れ込んで作業している方はただじゃすまない。埋めるくらいなら最初から掘るな。と、ここまでは友人の話だ。絶えず壁から染み出してくる水を掻きだすのも大事な仕事だそうだ。
作業場の入口には見張りの人がいて、労働者以外の人間はよっぽどのことがない限り入れない。
その少し手前で待っていると、下から布ずれの音が近付いてきた。
「マヌ!」
泥だらけの服を纏った少年が、マヌに駆け寄った。危険がつき物の現場で着る服は厚く、それに泥まじりの海水がしみこんでごわごわとしている。
見張りの大人二人が嫌そうな顔で二人を見たが、マヌも親友のラクもそんなことはもう気にしなくなった。そろって階段を登って地上を目指す。
「今日は早かったな」
すぐに裏庭に出た。マヌは深部にはいけないから、待ち合わせの場所から上ってくるのもすぐだ。マヌは芝生に座り、ラクは潮風に当たって体を乾かした。地下以外で二人が自由に話せる場所はここしかない。本当はマヌが地下にいくのもあまりいい顔はされていないし、ラクが裏庭に来るのは勿論だ。裏庭は、上から下へ行くためのものであって、下から上に来るなんて想定していない。
「また誓約様に捕まってさ。いつもの二倍気疲れしたよ」
マヌは大袈裟に溜息をついた。いっそ次の開門の時に帰ってしまおうか、と投げ遣りな気分になる。その隣にラクが飛び込む。硬い葉の芝生の上に寝転がるなんてマヌには信じられないけれど、確かに地下の岩や石に身を投げ出すことを考えれば柔らかいのかもしれない。
と、マヌは慌てて自分を叱り付けた。駄目だ。そういう事を考えちゃいけない。友達はそういってバカにしちゃいけない。ラクは親友だから。そう、親友だ。
マヌは一人で納得してうんうんと頷いた。
その首を後ろにそらせて、どこの窓も開いていなくて誰も見ていない事を確めた。
「上も大変だなー。俺そういうの絶対無理」
ラクは屈託なく笑った。マヌの知り合いはもうしなくなった笑いだ。つられてマヌも笑った。
マヌの制服に滴った水滴はもう乾いていたけれど、ラクの服はまだ深い色のままだった。それでも所々乾いて白っぽい色になっている。今は染み込んだ泥の色に染まっているけれど、元の色はマヌと同じ薄い青。浅葱色だったはずだ。
柵の向こうには果てしない水平線があって、そこに太陽が少しずつ近付いていく。
この場所はとても狭いんだ、という話をいつかした事があった。書物で学び知っていることではあるけれど、あの太陽が沈むその先にマヌが知るよりももっと大きい大陸があるなんていわれても、実感がわかない。
寧ろラクの方が、世界の広さというものを知っているように見えた。
上に行きたい。とラクはよく言う。
いいところじゃないよ。とマヌは返す。
マヌは正式な学徒としてここに籍を置いていて、ラクは大勢いる労働者の一人だ。一緒にいても身分は違う。
厳格な規律と最高峰の知識を誇る、海に浮かぶ島。
カトル・ウィン・サクレ。
それはその建物をさすと同時に島そのものを示す名称だった。
◆◇◆
翌朝、マヌはノックの音で目が覚めた。鐘の音はまだ聞いていないから、起床時間は過ぎていない筈だ。今がどのくらいの時間なのか、いつもの癖でまず蔀窓を開ける。遠くから聞こえていた波の音が途端に間近に迫る。マヌの部屋は町とは反対の方向に面していて、真下は崖と海だ。
霧の立ち込める窓の外は、波が穏やかで風もない。日はまだ出ていないけれど、仄明るかった。今日も昨日に引き続き晴れのようだ。
空気が青い。
マヌは潮の匂いがする空気をいっぱいに吸い込んだ。
すると、もう一度今度はさっきよりも少し強い調子で扉が叩かれた。マヌは自分がまだ寝巻きのままだったことに気がついて、慌てて戸に走る。
「ごめんなさい。もう少し待ってください」
扉越しに声を掛けながら、服を脱ぎに掛かる。クローゼットから服を取りだして、袖を通す。ズボンを履きながらローブに手を伸ばしたとき、履きかけのズボンに足を取られて転んだ。
情けない声を上げて床に転がると、外から穏やかな笑いが聞こえてきた。
「焦らずとも構いませんよ。誓約様がお呼びです。着替えたら出向くように」
さら、と布ずれの音がして人の気配が遠ざかっていった。恥かしさで顔を真っ赤にしていたマヌの表情が、落胆と興奮が入り混じったものに変わる。
(笑われた! けど、顔を見られなくて良かった)
今の声は秩序様だ。カトル・ウィン・サクレの最高位は誓約で秩序がそれに次ぐ。先代からその職を受け継いだばかりだけれど、怖くて厳しい誓約様と対照的な秩序様は、皆の憧れの的だ。そんな人に直々に部屋に出向いて貰えるなんて、光栄だ。間近で見れなくて残念だけど、寝起きのだらしない様子を見られなくて安堵もした。
その秩序の言葉を思い出して、マヌはがっくりと肩を落とした。
また、呼び出された。
何を失敗したのか、マヌはあの人に目を付けられてしまったらしく、呼び出されては雑務をさせられて、手際の悪さを怒られる。講義に出られないから勉強も遅れるしいい事なしだ。
そんなことを思っていたら、起床の鐘が遠くから聞こえてきた。
さっき取り損ねたローブを羽織って、身支度を急ぐ。
靴が片方しかない。頭に手を当てて昨晩の自分を思い返して、ベッドの下を覗き込む。案の定そこに蹴りこんであった。手をいっぱいに伸ばして靴紐をつかんで引っ張り出して、足をねじ込む。
また誓約様に呼ばれたなんて知れたら、皆に笑われる。成績だって悪くないし真面目に講義にも出ているのに、何でこんな目に会うんだろう。名誉な役目なんて思っていたのは、最初の一日だけだ。
ああ、こんな事をしていたらまた誓約様に嫌味を言われる。
鐘の音が止まった。
活気付いてきた廊下を避けるようにして裏庭に駆け込む。
太陽がちょうど頭をのぞかせた所らしくて、照らされる町並みの真ん中が黒々と影になっている。マヌは石の手摺に近寄って眼下に広がる石造りの町を見た。
海から生えた岩山のような島の麓には、カトル・ウィン・サクレを成り立たせている人たちの居住区がある。島に必要な物資を運んできてくれる商人の家。中にはマヌたちの制服をつくる仕立て屋や、本屋もいる。ラクも、あのどこかで目を覚ました所なんだろう。
この高台にある大きな建物の所為で、町にはまだ日が当たっていない。しかし、家々の隙間の道には、荷車と人影がちらほらと見えた。
石畳も立派な家もマヌの故郷では見たことがないから、ここが随分と立派な町だということは遠目に見てもわかった。
「裏庭に隠れていれば見付からないとでも思ったか?」
かなりの怒気が混じった声がした。
ぎょっとして振り向くと、藍色の制服姿の二人がそこに立っていた。特別な役割を与えられたものだけに許される色だ。
誓約様と、秩序様だ。
制服を身につけているのは十代が殆どの場所で二人の長身はとても目立つ。それに加えてその藍色は一線を画しているのだ。誓約様はいつにもまして目が釣りあがっていて、まさに怒髪天をつく勢いだ。その後ろで秩序様が困ったように笑っていた。
言い訳を何か、と思うけれど、何か言わなくちゃという心の声ばかりがうるさくて言葉が出てこない。
「先に俺の部屋に行け」
視線で後ろを示されて、マヌは返事もできずに二人の脇をすり抜ける。対照的な二つの顔が、マヌを監視している。一つは指一本でも無駄に動かすことを許さぬ一対の目。一つは優しく穏やかな、度を過ぎた自由はけして許さない一対の目。
マヌよりも先に誓約は歩き出し、寄宿舎に向かった。
(あれ?)
めずらしいな、と振り返って足を止めた。振り返ると同時に、その勢いを殺すようなタイミングで肩に手が置かれた。体を震わせて、その手の持ち主を見ると唇の前に手を立てている秩序がいた。横目で誓約の姿を確認すると、こちらには気づかないで裏庭と寄宿舎を繋ぐ扉に向かって歩いていた。
「怖い思いをさせてしまいましたね。君のせいではないので、安心してください。今日は少し機嫌が悪いようです」
問題児がいまして、といわれてぎくりとするが、皮肉ではないらしい。いつも通りの困ったような笑顔を浮かべたまま、誓約の後ろ姿を窺った。
ずしりと重い、布をかけられた籠を手渡された。
「後でお茶でも淹れましょう」
秩序の体がそよ風のように密やかに通りすぎた。
重たい手の中の籠から漂ってくる香りに気がついて、そっと布の中を覗くと、中には簡単な食事が入っていた。誓約が帰ってくる前に食べるようにと書かれた紙切れも一緒だ。
涎が溢れる前に、秩序様にお礼を言おうと振り向いたマヌだったが、藍色は既に見えなくなっていた。もう一度整った字で書かれたメモを見て、次に渡り廊下に友人の姿を見とめて、慌てて誓約の部屋へ繋がる建物に駆け込んだ。
頬が上気しているのは、どうやら階段を登っているのだけが原因ではなさそうだ。
厨房の人たちがこんな気遣いを見せるとは思わないし、たぶん、というか恐らく、というかきっと、秩序様が用意してくれたに違いない。そう考えただけで、今日という日を幸せに過ごせそうな予感がするのだ。
手前にある秩序の部屋を通り過ぎ、至るのは誓約の部屋。
一応、礼儀としてノックをして、そっと扉を引いてみる。待っていろといわれたくらいだから、鍵はかかっていなかった。驚いたのは机と椅子が用意されていたことだ。
誓約の執務机は黒檀の重々しいものだけれど、部屋の隅の窓際の日当たりがいい所に、小さな木製の机と椅子がある。随分と安っぽい造りだ。
朝食を食べるのに座るところが欲しいマヌにはおあつらえ向きだ。二つの机を見比べてどちらを取るかなんて質問にならない。迷わずに、マヌにお似合いの安っぽい机を取った。
籠を置いて椅子に座って、中のものを机の上に並べる。形式だけとなった祈りの言葉を捧げて、まずはバケッドに手を伸ばす。が、遠くから聞こえてきた誓約の怒声に冷や汗が滴った。
いつもの立ち振る舞いに似つかわしくない大声だ。騒がしくするのは彼の好みではない筈なのに。何を言っているのかわからなくて、怒りに満ちた声の振動だけが伝わってきたから余計にそわそわと落ち着かない。
秩序と誓約の言葉を思い出して、自分ではないと言い聞かせる。
そっと窓から顔を出して、どこからか誓約がこちらを睨んでいないか、勝手な振る舞いを見咎められていないか、しっかりと確認した。
今、優先すべきは心穏やかな食事だ。
半ば開き直り気味に自分に言い聞かせて、マヌは気を取り直して固いパンを頬張った。
厚めに切ったバケッドは更に横に切れ込みが入っていて、具がはさんである。周りを海に囲まれているだけあって、海産物を煮込んだものが多い。朝一番で運ばれてくる生野菜は荒く引いた黒胡椒と岩塩そしてオリーブオイルがかかっていて、ちりばめられた削ったチーズと砕いたナッツが香り高い。
窓の下では、浅葱色の集団が食堂へ流れていく。マヌがここから見下ろしていることに気づく人は誰もいなかった。自分もいつもこうして誓約に監視されているのかと思うとぞっとするが、誓約や秩序が素行の悪い人間を見つけることが出来る理由もこういったところにあるような気がした。
二枚目のパンに手を伸ばしたとき、ドアがノックされた。マヌが返事をするべきかどうか迷うより前に、扉が開いて秩序が顔を出した。窓際にマヌの姿を確認すると、遠慮なく室内に入ってくる。最高位の部屋なのに、流石に唯一誓約に口出しできる立場のことはある。どこぞの小心者と違ってその行動には微塵の迷いもない。
秩序の手のお盆には、ティーセットがのったお盆がある。
「そんなに驚いた顔をしないでください。約束したでしょう?」
くすくすと笑って、秩序はカップにお茶を注いで机の上に置いた。パンに口の中の水分をもっていかれていたマヌは、ありがたく紅茶を口に運ぶ。秩序も、マヌの使っている机を借りてお茶を飲み始める。
「あ、あの! 美味しかったです。ありがとうございました」
籠を受け取ったときにいい忘れたお礼を、ようやく言うことができた。秩序は微笑みでそれに答えてから、暇を玩ぶように部屋を一巡りして、誓約の執務机に座った。ふと目に止まった紙切れを手にとって、興味深そうに読みはじめる。
誓約の前でまともに話すことすら出来ないマヌは、秩序の行動に肝を冷やす。少しして秩序がいきなり笑い始めたので、マヌはその中身が気になった。見せてくださいともいえないので、少しずつ体をそらして、それを覗き込む。
途中で秩序に気づかれて、伸びをする振りをしようとしたが、それもはしたないような気がして中途半端な視線で固まってしまった。
秩序は困った顔をして、マヌに歩み寄る。
「そんなに硬くならないでください」
そういってマヌにその紙を差し出した。見覚えがない名前と汚い字でなにか書き付けてある。字が汚くて読めなかったけれど、その形式には見覚えがあった。
マヌは順調に進級したからもう縁がないけれど、下の子たちの雑用の一つに誓約と秩序の食事を作る役目がある。二人の食事は専用の厨房があり特別に作られるのだ。その当番を誓約に知らせる紙だけどそれが一体どうしたというんだろう。
「今日は朝食抜きだったようですね。どうりであの鉄仮面が声を荒げた筈です」
再び笑いがこみ上げてきたのか、秩序は口元を覆って笑いを堪えていた。
「て、鉄仮面って秩序様」
流石に失言だ。例え陰口でも誓約を鉄仮面だなんて、怖くて呼べないのに、あろうことかここは誓約の部屋だ。もっともその鉄仮面が誓約のことだとすぐにわかったあたり、マヌも同感だった。みんなに言いふらしたら、きっと流行るだろう。
「私が言ったのは、秘密ですよ。・・・こう見えて、私と誓約は子供の頃からの友なんですよ」
それにしても、あの問題児は。と秩序は笑いが止まらないようだった。声を上げて笑う姿なんて想像したこともなかったけれど、ラクのような嫌味のない笑いだった。誓約と秩序の友情を心の中で思い浮かべてみるととても羨ましいことのような気がした。マヌとラクみたいな関係だったのだろうか。でも二人はきっと自由に会えて自由に遊べたから、もっと仲が良かったに違いない。
秩序が笑うように鉄仮面も笑うのだろうか。
だけど、誓約の笑顔というのはどうしても引きつった笑い以外に頭に浮かばなかった。笑うのがへたくそなら、誓約はマヌで秩序はラクかと当てはめてみたが、あまりに図々しい妄想であることに気がついて恥かしくなった。
「そういえば、もうすぐ開門ですね」
何気なく窓の外を眺めていた秩序は思い出したように言った。自分の意思で島を出ることが出来るのは、開門の日を除いて他にない。
だけど、ラクを置いて島をでるのは友達に対する裏切りだし、なによりこうして秩序と話していると、ここも悪くない場所だと思えてくる。
マヌにとってラクは、嫌なことも嬉しいことも新しい発見も日常の愚痴も、みんな一緒に話して一緒に笑える大切な友達だ。
秩序なら、他の人が所詮は労働階級と見下すラクのことも、わかってくれるような気がした。
しかし口を開く前に、ふと視線を落とした秩序が、そろそろ誓約が帰ってきますよ。と耳打ちをした。
思わず背筋を伸ばしたのを秩序に笑われたしばらく後、お茶を飲み終わる頃に誓約は帰ってきた。
「ここはお前らの休憩室か?」
開口一番にそういった。機嫌が悪いのはまだ治っていないらしい。
誓約の皮肉になれないマヌは、落ち着かない気持ちをベルトを弄ることで紛らわせた。秩序に背中を突かれて、慌てて机の上を片付けて、誓約からの指示を待つ。
それを待っていたように、机の上に見慣れた本がたっぷりと乗せられた。見慣れている筈である。毎日講義で使っている本ばかりだ。
「いくらこちらが呼び出したとはいえ、カトル・ウィン・サクレにいるものとしての義務は果たしてもらいますよ」
「休んでいた講義の分を補うだけでは足りん。覚悟しろよ」
申し合わせたように微笑む二人をみて、背中を嫌な汗が流れた。
補講、なんて嫌な言葉だろう。
ラク、ラク、今日は君に話すことがいっぱいあるよ。
◆◇◆
「俺も上にいきたいよ」
ラクはぼやく。
「そんなに良いところじゃないよ。すぐに外に出たくなるって」
ため息がこぼれる。一日中緊張でカチカチに強張った状態で、机に向かっていたら、肩が凝るし手が痛い。
もうすぐ開門と言う言葉を思い返した。
村に帰ったほうがいいのかもしれない。誓約に気に入られても、彼の意図はマヌの成績には何の関係もないし関係できない。多少いいことがあることも認めるけど、絶対に不利なことの方が多い。そもそもマヌは〝目をつけられている〟のであって、気に入られているわけではない。
正直、田舎モノにとってこの場所は居心地が悪い。辛いことの方が多かった。ラクという友達ができても、毎日が楽しくなったわけじゃない。苦しみがまぎれるようになっただけだし、ラクを友達と認めてくれる人は周りにいなくて、嫌なことばっかり。
気がついたらマヌは芝生をむしっていた。
「でも、最高位に近づけるんだろ? 飛び級したりできるかもしれないじゃん」
この場所のことを何も知らないが故の発言に、マヌは苦笑いした。
「誓約様にも秩序様にもそんな権限ないよ。飛び級したいと思ったら、それだけ勉強しなくちゃいけない」
ラクは目を丸くして驚いた。驚くのは分かっていたけれど、予想以上の勢いに気圧された。ラクの基準からすると誓約のような立場の人はもっと色々なことができるらしい。
ラクの語りようはやけに熱心で、その内に怒り出しそうな勢いすらあった。何をそんなに必死になることがあるのかと首を傾げたが、ラクはどうしてもマヌの同意を得て、マヌが「僕がまちがっていたよ」と言い出すことを期待しているようだった。
それよりも今日は話すことが、良いことも悪いこともいっぱいあったのだが、ラクの演説の中には今まで出会った上司に対する愚痴も含まれていたので、マヌも大人しく聞いていた。例えば、気に入らない奴を気に入らないという理由で辞めさせたりだとか、気に入った奴を気に入ったという理由で昇給させたりだとか、無理難題を吹っかけたりその日の気分で当たり散らしたり。
いくら誓約様でもそんなことをしたら、すぐさま誓約の位を剥奪されてしまうに違いない。ラクの上司はまるで神様か王様みたいに振舞っているようだ。それとも、女王蜂かな。
冬を迎えた外の世界はこんなに寒いのに、暖かい巣の中の女王蜂は気づかない。やがて寒さで働き蜂が皆死んでしまうと、誰も守ってくれない、誰も暖めてくれない。彼女は職務怠慢の部下に怒鳴り散らしながら、凍えて死んでしまう。そんな感じの童話を古びた本棚の片隅で見かけた記憶あった。
彼の話す世界で起こる出来事もシステムも半分わからないけれど、ラクの話す上司というのはその女王蜂を思い出させる。
理解を追いつかせようと頑張っていたら、ロウソクの日が消えるようにラクの話は途切れた。話をしている最中に何か諦念のようなものに憑かれてしまったようだ。
「全然違うんだな」
そういったきり、ラクは黙ってしまった。
親友が落ち込んでいるというのはわかったけれど、慰める方法がちっとも思いつかない。
少なくともそこで愚痴り始めないだけの分別を持ち合わせていたマヌは、手っ取り早く話題を変えることにした。
「そういえば、もうすぐ開門だよな」
ただの開門ではない。自由にこの島を去り、入ることができる年に一度の特別な開門だ。
裏庭からは、正門と海に沈んでいる道は見えない。なんとなくのっぺりとした黒い海の下に自分が逃げ出す道が見える気がした。
「開門か・・・」
ラクは立ち上がって大きく伸びをした。
「俺、帰るよ」
「あ、うん。暗いから気をつけて」
ラクはなぜか帰るといったのに帰らなかった。今日はいつもと違うと思いながら、マヌはラクを見つめた。
いつもと違って難しい話をしたし、いつもならすぐに帰るのにこんなに遅くなるまでここにいたし、いつもはもっとわかりやすいのに、今日はちっともわからない。
ラクは頭をかいてマヌをみた。その時だけラクは普段のラクらしく見える。
「俺、村に帰る。今度の開門の時にここを出るよ」
ラクらしくない冗談だ。
ラクはマヌの表情を確めて、馬鹿にしたような笑いを浮かべたけれど、それは無理矢理作ったような笑いに見えた。何か反応を返す前に、マヌの親友は階段を駆け下りて眼前から姿を消してしまった。
夜風が冷たくて、体が震えた。昼間から顔を出していた気の早い月が憎たらしく光っている。
村に帰る。島を出る。故郷に帰る。もうここにはこなくなる。マヌの友達が、いなくなってしまう。
帰りたいのはこっちだよ。上に来たいってラクが言うから、そしたら楽しくなると思ってたのに、待ってたのに帰るって何?
疲れてるからだ。もう一回ちゃんと話そう。ラクが来てくれたらきっと楽しい。ラクはその事を忘れている。
だって、この時間がもうなくなるんだよ。
マヌの言葉に我に帰って、謝るラクの姿が簡単に想像できた。忘れてるだけだから。ちゃんと話したらちゃんと元通りになる。だから、明日またちゃんと話そう。
マヌは逃げるように部屋に駆け込んだ。何かを考える気分にもなれなかった。補講の疲れはとっくに忘れていた。明日ちゃんと話そう。部屋に逃げ込むだけでは足りなかったマヌは、制服も脱がぬうちに、眠りの世界に逃げ込んだ。
次の日、ラクは来なかった。
その次の日も、開門の日があと二日に迫っても、待ち望んだ姿は現れない。労働者用の通路と裏庭に出る通路は全くの別物だから、裏庭を通らなくたって下の町にはいける。いけるけど、まさかそんな筈ない。それでは、まるでマヌを避けているみたいではないか。
このままじゃ、一度も顔を合わさないで二度と会わなくなってしまう。外の世界はあまりに広い。出身の村どころか地域すら知らないのだから、もう二度と会えなくなるかも知れないのに。
海を臨む形で据えられたベンチは、石でできているからとても冷たい。最後にラクと語らった日のように日が落ちるまでまっても、無駄だった。寄宿舎にも町にも明かりが灯っている。ランプの暖かい色は裏庭にはない。それが余計に寒々として骨身に沁みた。
その裏庭を見下ろす部屋にも、灯がともる。その日の仕事は既に終え、もうすぐ消されるランプはマヌが使った安い机の上に置かれた。
どうすればあの少年は部屋に戻るだろうか、と取り留めのないことを考えながら、誓約はマヌの姿を見下ろしていた。
「裏庭に何か面白いものでもありましたか?」
人の良い笑みを浮かべた秩序が、その背後から近付いた。その言葉の裏の棘に気づくのは、幼馴染である誓約だけだ。誓約はそれにはきづかないふりをして、蔀窓を閉めた。視界の端には、寄宿舎に走るマヌの姿をしっかりと捉えていた。裏庭を覗こうとしていた秩序は肩を竦める。誓約は、窓の傍を離れた。
「ふん、ここまで暗くてはなにも見えん」
「そういえば」
と、唐突に秩序は切り出した。肩を捕らえた手は意外と力が強い。半ばその話がはじまることを予見していた誓約は、動じる事無く秩序に向き直る。
「労働者が学徒と関わっているという噂を聞きましたが、知っていましたか?」
「ここのシステムを勘違いしている連中は多いからな。大方取り入ろうとしたんだろう」
不当にここの学徒の籍を得て、いい暮らしを得ようとする者は多い。将来働き口には困らないし、在籍している間は食うに困らないからだ。実際はそんなことは誓約が許さないし、ここはそんなに甘ったれた場所ではないが、特に若者には勘違いをしているものは多い。実際にはそんな不正はできないとはいえ、下の人間と必要以上に関われば、厳罰が科せられる。それは秩序の仕事だ。
「裏庭への通路の見張りが情に厚い所為で気づくのが遅れました」
秩序と誓約の手も地下までは回らない。規律の元に育まれる高潔なイメージの島の裏側は、外の世界と何も変わらないのだ。その汚い世俗と学徒を交わらせることは、秩序の乱れを生む。
故の処罰。故の見張り。故の秩序。
仕事を果たせていない秩序からは、柄にもなく苛立ちのようなものが伝わって来た。
「明日調べてこよう」
「秩序を守るのが私の仕事です。秩序を乱す可能性がある行為を、容認するわけにはいかないんです」
それは、歴代の秩序が守ってきた不文法だ。学徒が意識する事がないように、あえて明文化せず守りついで来た島の伝統だ。
「この部屋からは、裏庭が良く見えますね」
秩序は、蔀度をあけた。寄宿舎の明かりももうまばらで半数以上は既に眠りについているようだ。裏庭もそれにしたがって先程よりも暗さを増している。どんなに夜目が利いても、そこにあるのが裏庭かどうかすら判然としないのが正直なところだろう。しかし、秩序は誓約に意味ありげな視線を向けた。
「何が言いたい」
秩序は大きく溜息をついて椅子に座った。安い机に両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せる。
「ずっと監視していたのなら、なぜ私に報告をしてくれなかったんですか?」
誓約の部屋からは、裏庭が良く見えた。当然そこで誰がなにをしているのか、朝起きてから夜寝るまで好きなときに監視できる。それが何を意味するのかは、誓約が一番よくわかっているはずだった。学徒と労働者が繋がりを持つ危険性が高い裏庭を監視するのも、誓約の仕事だからだ。
「何のことだ」
あくまで知らないふりをする誓約をみて、秩序は諦めたようだ。
「あまり、私の仕事を取らないでください」
秩序はそれだけ言い残して、誓約の部屋を後にした。
◆◇◆
結局、開門の前日まで一度もラクの姿を見なかった。
マヌはベンチの上で、今日も膝を抱えて待っていた。時間は虚しく過ぎていく。とても空虚だった。曇った空は灰色でどんよりとして、肌寒い。今にも雨が降り出しそうな空の下、一人で待つのはとても憂鬱で寂しい行動だった。
友達だと思っていた。友達のことはわかっているつもりだった。少なくとも、いきなり絶交したりしない仲間だと思っていた。上と下。地上と地下。決定的な違いはなんだろう。
始めから、ラクは嫌っていたのだろうか。いつも、こんな風に顔も合わせないで真っ直ぐ家に帰りたいと思っていたんだろうか。
周囲が真っ暗になるまで待っても、ラクは現れなかった。最後の日まで、姿を見せてはくれなかった。このままラクは帰ってしまう。マヌの前から消えてしまう。裏庭の隅の階段は、裏門の脇に通じている。裏門を出れば、カトル・ウィン・サクレの町がある。階段を数歩下りて、マヌは町を見下ろした。
灯がともる町は綺麗だ。このどこかにラクがいて、明日この綺麗な町を出て行く。空は相変らず雲に鎖されていて、星も月も見えない。真っ黒な中に建物の灯が心細く光っている。
一日、地下にいるのはこんな孤独な気分なんだろうか。
「こんな所にいれば見付からないとでも思ったか?」
呆れをふんだんに含んだ声がして、マヌは振り向いた。
どこかで聞いたことがある声と台詞だ。誓約以外にありえない。
誓約はなぜか外出用のコートを羽織った姿で立っていた。海から吹き上げる風で落ち着かない前髪を鬱陶しそうに手で払って、書類の一枚を引っ張りだす。
「お前の友人は数日前に辞めている。待っても来ないぞ」
「え・・・」
辞めた。それなら、来るわけがないじゃないか。そんなことはわかっているけれど、そんなことが問題なんじゃなくて、数日前にやめている。数日前って一体、いつ?
昨日でもなく、今日でもない。お金をもらうために、事前に仕事をやめるのは珍しいことじゃない。だけどそれは、ラクは前から島を出ることを決めていて、あの日を境にもうマヌとは会わないつもりでいたってことじゃないか。知らなかったのはマヌだけで、ラクは相談をするつもりも、お別れをいうつもりもなく、マヌだけが一人で・・・。結局は、独りよがり。
「気が済んだなら帰れ。そこはお前のために用意された場所ではない」
裏庭を一歩出れば、曖昧な領域。しかしそこは確かにマヌのために用意された場所じゃない。受け取りようによっては、誓約の言葉はマヌを気遣っているようにも取れないことはないけれど、監視の視線をひしひしと感じていた。
嫌われて、いたのかな。
上と下の違いはなんだろう。同じ建物の中にいるのに、相容れなかったものはなんだろう。
服が汚れるのも気にならなかった。差別をしないようにしてきた。対等の立場で友達として接するようにしてきた。
吹き上げる風が海の生臭い匂いを運んでくる。島にはじめてきたとき、この潮の匂いとべたつく風が嫌いだった。いつの間にか、今みたいに平気になって海に近い部屋でも気にならなくなった。それと同じように、住む世界が違う地下の労働者にも慣れて、友達になれると思っていたのに。
ラクは、マヌのことをどう思っていたんだろう。
「部屋に、帰ります」
ごめんね、ラク。
僕たちは、やっぱり君たちを見下すことしかできないかもしれない。
◆◇◆
磯の匂いがとても濃い。昨日空を覆っていた雲はどこへ行ってしまったんだろう。雨に洗い流された空気と、濃い青色。海の傍まで下ってきたのに、いつもよりも空は一層近くに見えた。
朝一番に島をでるせっかちな人間は、それほど多くない。ラクの姿はすぐに見つかった。いつもと違う泥だらけじゃない服。
一番門に近いところで、ラクは門を念力で開けそうな勢いで見つめていた。声を掛けようとしたら、向こうはマヌに気づいたようで、人影に隠れて見失ってしまった。ラクがいるはずのところに近付くと、彼は目を逸らして空の青さを見ているふりをしていた。
手が届く距離までいっても、目が合わない。目の前にいるのに、なんだか声を掛けるのが怖くなって、二人ともしばらくそのままだった。
長く横たわった沈黙が気になったラクがちらりとマヌを窺って、図らずも目が合ってしまった。同時に目を泳がせて、口を開くのもほぼ同時だった。
「あの、ごめん」
マヌのほうが一瞬早くて、先を越されたラクを困らせる。
「なんで、マヌがあやまるんだよ」
ラクが決まりが悪そうに頭をかいた。
「うん、なんかね」
あはは、とマヌはいつものラクのように笑ってみた。あまりにぎこちない笑い方に、つられてラクも笑い出す。
「怒っていいんだよ。お前は」
ラクが困った顔をして着なれない服を引っ張った。
マヌは首を振った。昨日の夕方があまりにも寒かったから、怒りまで冷めてしまったようだ。悲しさは増したけど怒ろうという気分にはなれなかった。怒ってもいいし、いつもなら怒っている場面だったけれど、やっぱり今朝も怒る気はおきない。
ラクの後ろで、大きな正門がゆっくりと開いていく。陸から上がる朝日が、開いた門の隙間から差し込んでくる。
「医者になったら、ラクの村にいくかも」
何年後だよ、とラクは呆れた。
何年後だろ、とマヌは笑った。
「じゃあ、またね」
「またな」
交わした別れの言葉は、おもったよりも短かった。
干潮で海の底から現れた道は、所々に潮溜まりが残っている。
真っ直ぐに陸に続く道を、マヌはいつまでも見送っていた。
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