「死にふさわしい頃」収録作品
望月 鏡翠
人力車
大変面白いことに、私の愛した人はいま廓に囚われている。そして私は今、車につながれている。
その車を引いて赤の他人を運び、金をもらう。坂道をヒトの代わりに登り、長い道のりをヒトの代わりに歩く。
毎日のことであるので、既に辛いと思うことも無い。
坂道も難なく登れるようになった。込み入った道で迷うこともないし、出会いがしらに人にぶつかることもない。
昔、私はこの町で戸惑い立ち往生する事ばかりだったのに。
夏の暑い日に汗が背を伝うことも気にならなくなった。
私の舌は驚くほど滑らかに動く。京の町は良く知られたものもそうでないものもたくさんあるから私はよく喋る。
旅人を喜ばせるために、私は今いろんな事を知っている。若い女を喜ばせるために、私は良く笑う。綺麗な言葉をたくさん持っている。
それは客を待つ間に考えた言葉たちで、人と話すのも儘ならなかった私が、なぜこれほどうまく話すことができるのか、よくわからない。
私はからからと空虚に笑う。
バカみたいに笑っている間に、客を放り出して逃げれば、見付からないような気がしていたのだが、私は客を取るのに必死でそんな事も忘れてしまった。
両の手が、しっかりと私と車をつないでいる。
逃げ出すには、この両手を切り落とさねばならない。
細い道と広い道。橋を越えることもできる。遊里に愛しい女が居る。金をためて少し回り道をすれば、彼女に会えるのではないか。
彼女を乗せるための車はここにある。
だが、私は彼女を訪ねていけない。仕事が終わると真っ直ぐに家に帰る。
そうしている間は車から解放されている筈なのに、私の頭は車に縛り付けられている。どうすればもっとうまく話せるのか、どうすればもっとうまく客を取れるのか、どうすればもっと喜ばせられるのか。
「お前の頭はからっぽだな。馬鹿な笑いを浮かべて意味のない言葉しか言わない」
客だか同僚だが。誰かにそういわれたようだ。
手ひどく罵られたように思うのだが、一体それを言ったのは誰だったか、からっぽの私の頭は覚えていない。
この頭の悪い足を止めるには、切り落とすしかない。 そうしないかぎりずっと、歩き続けてしまう。私の目的地ではない場所に毎日のように辿りつく。そうしている間、私の頭は彼女のことを思いたいと願いながら、向かう先にあるものと途中の道をずっと考えている。
ただ一度、彼女を迎えに行くことができたら、わたしはどうにかこの車から逃れることができるのに。ただ一度でいい。ただ一度で私は成功させるのに。
仕方がないのは、私はこの車のものであるからだ。これは人の力の要る車である。暇つぶしの笑いの要る車である。
私の頭がからっぽでなかったら、この車に縛られずにすんだだろうか。私はこの車に所有されてしまった。
私の両手が、私を捕らえて放さない。
ああ、この車が私の物であったら、彼女を迎えに行けるのに。
「あら、あなた、どこかでみたことあるわ」
…………。
もうすぐ桜が咲きますねぇ。
大変面白い事があったんですよ、お客さん。聞いていただけますか?
いえいえ、京の町の話もいいんですがね。こんな話があるんです。
私、いま、つながれていましてね、この車に。
それなのに、私の愛した女は今、随分幸せにしているらしくてね。
金持ちのに身請けされて、きれーな着物を着ているんですよ。私と居た頃には話さなかったような言葉はなして、化粧なんてしなかったくせに。
今は全てを手に入れて、大層幸せそうだ。
この歩みを止めるには、足を切り落とすしかない。
そこの道の両脇にあるのは、桜でなく紅葉なんですよ。石段の幅は広いのは、馬や牛の歩幅にあわせているからなんですよ。高瀬川の曳夫は舟歌を歌わないんですよ。鴨川は案外深い。知っていますか?
あんたは俺のこと忘れちまったみたいだが、次の世では同じの蓮の上に咲いてくれるかい?
悪いな、俺の足は大層バカで止めるには切り落とすしかない。心配すんな鴨川が全部受け止めてくれる。車もあるからうまく沈むさ。
俺はこの車から離れなれないから、一緒に落ちようぜ。
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