事故物件奇譚

冷門 風之助 

霊の1

『お客さん、本当にこの部屋、借りるんですか?』

 頭がすっかり禿げあがり、でっぷりと肥った六十過ぎの不動産屋は、訝し気な顔をしながら、部屋の前で立ち止まり、鍵を出した。

『嘘なんか言うほど暇な商売じゃないんでね』俺は素っ気なく答えてそれを受取る。

『じゃ、明後日あさっての朝、返しに行く』

『それまであんたがいればいいんだがね』

 上目遣いにこっちを見ながら、厄介事は御免だと言わんばかりに踵を返すと、そそくさと立ち去った。

 目黒区中目黒にある木造二階建てのアパート。

 つい2~30年前なら、どこでも見かけたあり触れた物件だ。


 俺こと、私立探偵の乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうの事務所に彼女が現れたのは、今からざっと半年前の、ある夏の昼下がりだった。

 彼女は地味な茶色の半袖ワンピースに、籐で出来た大きなバッグを下げ、丁寧にお辞儀をしてから、俺の勧めるソファに腰を降ろした。

”生憎ですがコーヒーをきらしていましてね。コーラならあります”

 俺の言葉に彼女は声に出して答える代わりに、黙って首を縦に振った。

『初めにお断りしておきますが』

 俺はグラスを二個、向こうと手前に置き、コーラのリッターボトルから、琥珀色の泡立つ液体を代わる代わる注いでから、いつものフレーズを切り出した。

『私は法に反しておらず、筋が通っていて反社組織とも無縁で、かつ離婚と結婚に関わるコトでなければ、大抵の依頼はお引き受けします。その点は大丈夫ですか?』

 彼女は注がれたコーラに口をつけ、また首を縦に振った。

『中村三等空佐をご存知ですか?航空自衛隊横田基地におられる』

 俺はかつて陸自に所属していたことは、これまでに何度も書いた。

 普通自衛官同士ってのは、陸自同士、海自同士、空自同士であっても、お互いの勤務についてはあまり顔見知りにはならないものだが、俺はどうしたものか、あっちこっちに結構顔が売れていた。

 別に八方美人を気取っていたわけではないのだが、どうしてかそうなっていたのだ。

 中村三等空佐とは、俺が第一空挺団に居た頃に、降下訓練の際に何度か顔を合わせたことがあった。

 酒のみであったこと。

 互いに孤独を愛し、へそ曲がりであったことなどから、何となくウマが合い、何度か酒を呑みに行ったことがあった。

『失礼しました。私は岡本明美おかもと・あけみといいまして、都内の幼稚園で教諭をしています。中村三等空佐の息子さんの恋人なんです』

 息子というのは、中村空佐と同じ航空自衛官で、現在いまは千葉県で勤務している三等空尉で、来年の春には挙式をする予定だという。

『その中村空佐が貴方なら絶対に解決してくれるとおっしゃいまして』

 確かに、中村空佐からは、数日前に電話があり、岡本明美という女性が君の所に訪ねて行くから、相談に乗ってやって欲しい旨を伝えて来ていた。

 仕事となれば、情を絡めるのは禁物なんだが、ウマのあった昔馴染みに頼まれちゃ、嫌ともいえまい。

『取り敢えずお話を伺いましょう。諾否はそれからでもよろしいですか?』

 俺の言葉に、彼女はまた首を縦に振り、それからゆっくりと話し始めた。

『端的に申し上げます。私の兄の行方を捜して欲しいんです』

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 岡本明美は早くに両親に死に別れ、四歳上の兄と二人、親戚の家をたらい回しにされながら育った。

 虐待をされたことはなかったが、かといって”暖かく育てられた”という訳でもない。

 どこに行っても居心地はお世辞にも良くなかったし、向こうには向こうの家庭の事情があったのだから、血は繋がっていても、完全な意味で溶け込むというのは不可能だった。

 

 その兄は中学を終えると高校に進学をせず、すぐに働き始めた。

 決して成績が悪くはなかったので、教師たちは何とかして高校に行くことを勧めたが、兄は、

”僕は妹を守ってやらなければいけませんから”と答え、東京に出ると、建設会社で鳶工の見習として働き出した。

 元来無口で、真面目な兄は必死に働き、稼いだ金の殆どを、当時養護施設で暮らしていた妹に送金してきたという。

”お前は絶対に高校に行け。そのための金は何としても兄さんが作ってやるから”

 金と一緒に送られてくる手紙には、いつもそうしたためられてあった。

『お陰で私は、高校にも通うことが出来、無事に卒業し、奨学金も貰って、短大へも通うことが出来ました』

 兄は職を転々と変えているらしかったが、仕事の内容については殆ど教えてくれなかった。

『兄からの連絡が途絶えたのは、私が短大を卒業してすぐでした』

 彼女は感極まったのか、俯いて涙をこぼした。



 

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