霊の5

『女にふられましてね』

 岡本君は、シナモンスティックを齧り終えると、小さな声でゆっくりと語り始めた。

 彼が中学を卒業し、働き始めて4年ほど経った頃の事である。

 恋人が出来た。

 彼女は当時、青山にあったミッションスクールの高等部の三年生。特別金持という訳ではないが、中の上くらいの家柄の娘だった。

 聡明で賢く、人柄も良かった。

 知り合ったのは良くあるきっかけだった。

 ある雨の降った日の事、傘を持たずに外出したのだろう。

 駅の改札で戸惑っていた彼女に、

『恥ずかしくなかったら』と、自分の持っていた些か古めかしいコウモリ傘を貸してやり、彼自身は濡れネズミで家まで帰った。

 別に下心などまったく持ち合わせておらず、単に、

”困っていたから手を貸してやった”

 それだけだったという。

 二~三日経ったある日の夕方、再び彼女と駅で巡り合った。

 彼女は岡本君の姿を見つけると、ほっとしたような、嬉しそうな笑みを浮かべて、

”貴方の事、ずっと待っていたんです。傘をお返ししようと思いまして”

 そう言って綺麗に乾かした傘を指しだし、それとは別に、何か紙袋を渡してくれた。

”あの、これ良かったら使って下さい。”

 そう言って顔を真っ赤にし、何度も頭を下げて帰っていったという。

 彼が自分のアパートに帰って開けてみると、それは国産だが、結構値の張る腕時計だった。

”これは以前私の兄から譲られたものです。男物ですから付けて歩くわけにも行きませんので、宜しかったら使って下さい”

 封筒に入った手紙が添えてあった。

 金がなくて腕時計を持ち合わせていなかったので、これは岡本君にとっては嬉しかったという。

 

 しかし、その時でもまだ彼には”単なる好意以上の何か”を持っていたわけではない。

 そのうち何度か二人で逢うようになった。

 お茶を飲んだり、映画を観たり、時には上野の博物館に出かけていったりしたが、”それ以上”に発展することはなかった。


『僕たちがお互いに”恋”ってものを意識したのは、付き合い始めてから3か月後の事でした』

 彼女が好きだというある米国のアニメ映画を一緒に観に行った帰り、二人で代々木公園のベンチに座っていた時、ふいに彼女が、

”岡本さん・・・・いえ、修平さん・・・・私、貴方の事が好きなんです。”そう言って、手を固く握りしめて来た。

 彼はそれまで女の子と付き合った経験などまるでなかったが、その言葉が何を意味するかぐらいは理解出来た。

 防犯灯しかついていない中で、二人は肩を抱きあい、キスをした。

 当り前の話だが、彼女はまだ未成年であるし、修平にしても、ようやく20はたちなったかならないかという年齢である。

 その日は勿論それ以上の事は何も起こらなかった。

 彼は黙って、

”帰ろう”とだけ言い、家まで送り、そのまま別れた。

 それからは定期的に二人で会っていた。

 彼女の学校はミッション系ではあったが、それほど校則は厳しくなく、別に男女交際も公ではなかったにせよ、禁止の対象にはなっていなかったから、休みの日にデートをしても、誰からも見とがめらえることはなかった。

 少なくとも学校側は・・・・・

 問題は彼女の家族である。

 父親は東京大学の法学部、

 母親はお茶の水女子大。

 他の兄弟(兄が二人と妹が一人いたそうだ)も、それぞれ結構いいところに行っている。

 だが、岡本君自身にとっては、生まれて初めての恋である。

 もう彼女無しでは考えられない。そんな切羽詰まった思いにまで至っていた。

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