霊の8

 フロアの床に出された座布団に腰を降ろすと、彼女がペットボトルに入れたコーヒーとコップを卓子テーブルテーブルに置き、俺に勧め、一通の封書を取り出した。

 彼女の住所と名前が達筆な文字で記してある。

 裏を向けると、

”岡本修平”とだけあり、住所はなかった。

 消印は一昨日、つまり俺が修平君自身、いや、性格には彼の”霊”と会ったその日になっていた。

『読んでも構いませんか?』

 俺が言うと、向かい側に座った彼女は、黙ってうなずいた。

 手紙は便箋一枚に、こうしたためてあった。

”お前に心配を掛けてしまって、申し訳なかった。色々あったが、兄さんは今事情があって遠くに行かなければならない。恐らくもう二度と逢うことは出来ないだろう。申し訳ないが、結婚式にも出てやれない。こんな兄を許してくれ。また何か機会があったら便りをする。”

 本人の性格を表すような、几帳面な文字である。

 俺は便箋を畳み、封筒にしまった。

『兄が私の結婚式に出席できないのは残念ですけど、でも生きていてくれただけで満足です。』

 岡本明美はそう言って指の先で目の下を拭った。

 俺は何も答えず、

”ご期待に沿えず申し訳ない”とだけ言い、前金で受け取っていた中から、必要経費だけ受け取ると、残りは全部返した。


 帰り道、御世辞にもあまりいい気分はしなかった。

 そりゃそうだろう。

 探偵という職業に就いてから、初めて依頼人にウソをついたんだからな。

 しかし・・・・これじゃどうにも締まりが悪いな。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 その日の夜の事だ。

 東京にしては珍しく、雲一つない夜空に、星が瞬いていた。

 俺はTシャツに自衛隊時代の作業ズボン。それに突っ掛けという珍妙なスタイルでネグラの外に出ると、傍らに持っていたカビ臭い本を開く。

 帰宅する道すがら、神田の洋書専門の古書店に立ち寄り、仕入れてきたのだ。

 何でも中世ヨーロッパで書かれた、

『悪魔との対話』という題名の本だそうだ。

(店の親父は原書だと主張して、俺に法外な値段を吹っかけてきたが、こっちがまがい物だとすぐに見抜くと、渋々半値以下、それも分割で構わないというところに落ち着いた)

 コンクリートの地面には、俺が帰って来てからほぼ2時間かけてロウ石を使って描いた、魔法陣が記してあった。 

 息を整え、俺は本を開き、中にあった呪文(意味は分からん。恐らくラテン語だろう)を、腹から声を出して唱えてみた。

”ここで呪文を教えてもいいんだが、馬鹿な連中がヘタなことをやらかして真似をされると困るからな。割愛させて貰う。悪く思わんでくれ。”

 

 すると、俺の見ている前で、魔法陣が歯車の軋むような音を立てて回り始めた。

 2分ほど回転し続けると、白い煙が立ち上った。

 煙が消えてなくなると、そこには見慣れたブレザーのスーツにプリーツスカート姿の女の子が立っていた。

『やあ、しばらく、神の一種であるお前さんと、悪魔じゃ呼び出し方が違うと思ってな。この本を悪戦苦闘して読んで勉強した甲斐があった』俺は少しばかり懐かしそうに、円の中心に立っていた彼女に呼びかけた。 

 彼女は・・・・そう、いつぞやの俺の依頼人、番号四千二百四十二号こと、

 死神霊子嬢である。

 彼女は俺の姿を見ると、ちょっと懐かしそうにしたが、すぐに何だか疑い深そうな声で言った。

『あの・・・・貴方は確か神も妖怪も悪魔も信じない人かと・・・・』

『勿論、それは今でも変わっちゃいない』俺はシナモンスティックを咥え、端を齧って続けた。

『だがな。幾ら俺が私立探偵だからって、現世に生きているんだ。出来る事と出来ないことがある。お前さんにしか頼めないことだから、こんな手を使って来て貰うしかなかったのさ』

『で、何の御用ですか?私もこれで結構忙しいんですが・・・・』

『三~四日前に練炭自殺をした男がいる。そいつの魂を持ってきて欲しい』

 俺の言葉に霊子は目をむき、

『何をバカなことをおっしゃってるんですか?!一度死んだ魂を現世に戻すなんて、そんな真似が出来ますか?!』

 血相を変え、答えた。

『無理は承知だ。それに何も永遠に生き返らせろといってるんじゃない。たったの一日だけだ。その代わりと言っちゃなんだが、俺が死んだ時に、俺の魂とやらをあんたに引き取らせてやるよ』


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