霊の9

『それは本当ですか?』霊子は疑わしげに、少しばかり眉を吊り上げた。

『使い古しの例えだが、俺は”ウソと坊主の頭は結ったことがない”んでね』

 彼女は手に提げていた黒いバッグから、一枚の書類を取り出した。

 何やら見たこともない文字が書いてあり、最後に空白があった。

『契約書です。そこに署名をお願いします』

 いつの間にか万年筆も用意してあった。

 俺は黙ってそこにサインをし、ポケットに手を突っ込むと、小型のナイフを取り出し、右手の親指を少しだけ切って、血がにじんだのを見届けてから、名前の最後に押し付けた。

『ハードボイルドさんなのに、随分アナクロな真似をするんですね』

 霊子は書類を確かめると、疑いが解けたのか、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、書類を元の通りバッグにしまった。

『元々俺はアナクロ人間なんだよ。』

『でも・・・・困ったな。だって肉体はもうないんでしょう?なかみはあっても、肉体いれものが無かったら、たった一日でも蘇らせることは出来ないし・・・・』

 俺はしばらく考え、そしてこう答えた。

『それなら一つ方法がある。』

『どうするの?』

 彼女の問いに、俺はまた新しいスティックをかじりながら答えた。

『まあ、いささか気が咎めるのは確かだし、それに・・・・』

『それに?』

 霊子の最後の問いには、俺は答えなかった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 結婚式、そして披露宴は滞りなく終わった。

 明美は多くの出席者に祝福され、幸福そうであったが、何よりも彼女が喜んだのは、来ないと諦めていた兄の岡本修平が出席してくれたことである。

 地味な礼服姿の兄は、幾分前と表情が変わっていたが、それでも妹と、その夫である、陸自の礼服を着こなした花婿に挨拶をし、

”幸せになるんだぞ”と、簡単な言葉を添えて握手をし、

”悪いが、急がなきゃならないんでね”

 そう言って式場を後にした。


 数時間後、そこは新宿のとあるビルの屋上・・・・いや、この辺りでは通称

”三角ビル”と呼ばれている、地上六階建てのビルだ。

 屋上はだだっ広く、東側の片隅に長方形の建物があるきりで、後は洗濯を干すためのロープが、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らせてある。


 礼服姿の男は、その屋上・・・・テラスと洒落た呼び方を人はする・・・・の、コンクリート製の床に描かれた円陣の真ん中に立っていた。

 円陣には幾つかの数字、そして得体の知れぬ文字が所々に記されてある。

『済んだ?』

 男の傍に、いつの間にか女子高生みたいな制服を着た少女が立っていた。

『頼みます』

 男がそういうと、彼女は右手をまっすぐ上に挙げ、人差し指を立てると、魔法陣が時計とは逆方向に回り始め、周囲から白い煙が立ち上る。

 回転が終わり、煙が空中に吸い込まれると、礼服姿の男は、相変わらずそこに立っていたが、さっきまでとは表情が違っていた。

 顔を上にすると、大きく息を吐く。

 すると、男の口から、くすんだ灰色をした、オタマジャクシのようなものがゆっくりと出て来た。

『いただき!』

 傍らに立っていた少女は満面に笑顔を浮かべて飛び上がると、オタマジャクシの尻尾を掴み、持っていた鞄の中に押し込んだ。


 そこで俺はやっと自分を取り戻し、もう一度大きく息を吐き、腰に手を当てて後ろに反らすと、シナモンスティックを取り出して口に咥えた。

『随分無茶をするわね。霊媒体質でもない人間が、他人の魂を取り憑かせるなんて・・・・』

 霊子は呆れたような顔をして俺を見た。

 人間には霊が憑りつきやすい”霊媒体質”というのがあるんだそうだが、そういう人間なら、他人の霊魂を身体に取り込むことも可能らしい。

 しかし全くそういうものを受け付けない体質の人間が、軽々しく他人の魂を身体に入れるなんてことをしたら、下手をすると命に係わるんだそうだ。

『仕方ないだろう。他に方法がなかったんだからな』

 そう、岡本修平の魂に身体を貸したのはこの俺だったのさ。

 

 

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