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青島もうじき

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 ぽちゃんと、水が跳ねる。

 シャンパングラスを、ペンダントライトのこぼす白い光にかざす。飴玉の表面から透明なもやもやが広がっているのが見えた。透明なのに、見えた。

 丸く大きな、可愛らしい飴玉。薄い緑色に白波の立った、マスカットか青りんごかよくわからない匂いのする飴玉。グラスの中でもやもやと漂うのは、水に溶けだした砂糖だ。濃度で屈折率は変わるから、光が歪む。

 机に伏したまま、飴色のテーブルの木目をそっとなぞる。斜めに伐られたのか細長い楕円状に広がっているその曲線の一つは、に沿うように緩やかに曲がりながらすっと伸び、テーブルの端で途切れていた。なぞり続けた指が、木目と一緒になにもない空間をひと撫でし、世界から落ちていく。アルコールで濁った頭では、手をテーブルの上に引っ張り上げるのも面倒で、私は右手をだらりと下げたまま、視界の端でグラスをぼんやりと見つめた。

 飴玉からは緑色の着色料が溶け出す。ゆっくり、ゆらゆらと、光を歪める靄になって。

 カクテルって、そういうものじゃないことなんてわかっている。ヘミングウェイが好きだったとネットに書いてあったから頼んだフローズンダイキリ、好きな映画と同じ名前を冠したフレンチ・コネクション。Cが表情を変えずに胃に流しこんでいたシャンディガフ。それから、あなたが飲んでいた「同じの」。あなたと「同じの」を注文してしまったから、さっき飲んだカクテルの名前を、私は知らない。

 コートを脱ぐのが面倒だ。染み付いた煙草の匂いが気になったけれど、それ以上に頭が重い。化粧を落とさないと。コンタクトレンズを外さないと。気まぐれに落としてしまったこの飴玉を、なんとかしないと。そう考えているのに、思考はグラスの中で揺れる靄に絡め取られていくようだった。

 せめて。

 そう考えて、私はもう一つの飴玉をポケットから取り出した。桃味。これは、私のものだ。包装を剥ぎ取り、体温でべたつく小さな砂糖の塊をグラスの中に沈めた。再び、ぽちゃんと、水が跳ねる。緑色の飴にぶつかって「からん」と音を立てた桃色の飴には、大きなが入ってしまった。

 緑色の中に、うっすらと別の色が滲んでいく。そのゆらゆらと混ざりゆく靄を横目に眺めながら、私の意識は遠ざかっていった。


   * * *


 ムーンボウが見たかったのだ。

 この町の砂浜では、稀に、夜に虹がかかる。月明かりの強い夜、月の反対側に雨や霧があると、太陽と同じように空に橋が渡されるのだ。これを、月虹、またはムーンボウという。

 満月の夜の散歩は楽しい。隣にCがいなくともそれが楽しいのだと知ったのは、Cがいなくなってからだった。

 神社の敷地に沿うような形で曲がる細い路地に月光が降り注ぐと、ご神木の枝葉の影が地面を満たすことになる。それを踏みしめながら車のめったに通らない道の真ん中を歩く二人に、怖いものはなかった。

 Cは、シャンディガフをよく飲んだ。ジンジャーエールに等量のビールを注ぐだけでできる、シンプルなカクテル。

「別に、好きってわけじゃないんだけどね」

 のんびりとした口調でそう呟きながら口の周りを泡で濡らした後、Cは決まってグラスを指で弾く。なんでも、当時の恋人と初めて一緒にバーに行った時に恋人が飲んでいたのがシャンディガフだったから、なんとなくずっと飲んでいるのだとか。

 その恋人と別れて以来、Cには特定の恋人がいない。そういう話を、初めて会った時に聞いた。

 夜道に延びるアスファルトは、どこか湿り気を帯びている。スニーカーの底が二つ、しっとりと重い音でぺたりぺたり、交互に鳴る。それが四つだった頃を思い出しながら視線を上にやると、山からせり出している枝に隠れながらも、白く澄んだ月が見えた。

 Cと歩くのは、いつも満月の夜だった。一人で歩くようになってからも、それは変わらない。

 神社沿いの蛇行する道を抜けると、開けた土地が見えてくる。ホテルの駐車場になっているそのスペースは、夜になると猫の集会所と化す。シーズンならば海水浴客の大型車が並ぶ駐車場も、冬場とあっては閑散としている。見慣れた黒猫が、搬入口脇に止められた軽トラの下でくつろいでいるのが見えた。

 自販機の明かりと低い駆動音を背中に受けながら小さな丘を越えると、すぐに砂浜が見える。細い舗道一本を境界線として、ある意味、陸と海よりもはっきりと分け隔てられた砂地と地面がそこにはある。

 Cは、天体が好きだった。それも、太陽や星ではない、衛星のことが。

「私もね、衛星みたいに生きていたいんだ。恒星の周りを公転するのが惑星。そんな惑星の周りを惑星に付き従うようにして公転する衛星みたいに。ほら、惑星の軌道にほとんど影響を与えていないようでいて、だけどほんの少しだけその軌道を歪めてしまうような、そんな存在が衛星だと思うんだ。だから、私は衛星が好き」

 そう言いながら月を見上げるCの姿は、きっともう二度と見ることがない。

 砂浜には小さなベンチが置いてある。三人座るのが精いっぱいの、古びた木のベンチ。そこに一緒に腰掛けて、月と、その反対側を見るのが満月の日の二人のいつもだった。

 Cがムーンボウに重ねていたものは、きっと、希望だったのだろう。

 月が輝けるのは、太陽の光があるから。太陽から放たれ、月がはじいた光を、人間たちは月光として見つめている。星々の紡ぐ光のリレーにおいて、月は常にアンカーだ。

 だけど、ムーンボウだけは光の流れが異なっている。太陽から月へ、月から空中の水滴へ、その水滴がプリズムとしての働きを担って、様々な波長の色に分解したものを人間が見ているのがムーンボウ。

 月だって、本当に稀にかもしれないけれど、誰かに光を繋げられる。

 常に輝くこと、恒星であることを求めなかったCは、きっとそれでも気まぐれに誰かを輝かせたかったのだろう。シャンディガフを満月にかざすと黄色く細かい泡が煌めいて宝石みたいになるんだって教えてくれたのも、Cだった。

 だけど、なにも言わずにCは消えてしまった。

 一度は偶然だと思った。私はCの連絡先を知らないし、Cも私のを知らない。だから、なにか外せない用事が入ったのだろうと、そう考えて一人で月を眺めた。

 二度目は心配になった。なにか、散歩に出られないような状態になってしまったのではないか。私が、満月の日を勘違いしているのではないか。そう考えて、手元のスマホで何度も月齢を確認した。

 そして、三度目からは諦めた。

 詳しい理由を聞くことはできなかった。だけど、きっと、公転軌道から外れてしまったのだろう。もしくは、とっくに公転なんかしていなかったのかもしれない。その中心となるような惑星はもうすでに消え失せていて、Cはそれに気づかないままムーンボウを求め続けていて、私はその、代わりの惑星にはなれなかった。

 好きだったわけではないのだと思う。だけど、大切な存在ではあった。

 あなたに夜の虹を見せられなかったことを想い、あなたがいなくなってからも三十日の間隔で繰り返される満月の夜に、ふらりと海に来てしまうくらいには。

 一人で掛けるベンチは広い。東の空から上ってくる月の反対側、海の方には薄い雲が広がっている。

 今日も、ムーンボウは見えない。


   * * *


 潮風のたっぷりしみ込んだコートを、色濃い煙草の香りが迎える。

 重い木製の扉の向こうは、質量を持ったような甘いオレンジの光が満たしている。隠れ家的なこのバーの存在は、Cに教えてもらった。

 月に一度しか訪れない私のことも、マスターは常連だと認識してくれているらしく、いつも二人で座っていた端の方のカウンター席に、一人だというのに通してくれた。

 誰も使っていないビリヤード台の向こうには小さな窓が設えられていて、その向こうには港が見える。小さな船がいくつも係留されていて、波が寄せるたびにゆっくりと揺れていた。

 私の他にはカウンター席に二人連れがいるだけだ。平日の夜であることを思えば、これでも繁盛している方なのだろう。煙草の細い煙が、空調に乗って私の方へと漂ってくる。

 Cとの散歩は、一年半ほど続いた。その間に私は大学生から社会人になったし、ここで小さな就職祝いをしてもらったりもした。だけど、その長いようで短い期間ではムーンボウを見ることはできなかった。Cが普段はなにをしていて、どんな家庭で育ったのか、私は知らない。ただ、私たちは月に一度散歩に出て、その帰りにこのバーに寄る。そんな関係を続けていた。

 天井に彫られたレールに沿って、メニューが滑らされる。チェーンでぶら下がった黒板には、今日のオススメとしてオリジナルカクテルが書かれていた。冬らしく、身体が温まりそうなお酒がベースになっている。度数は高そうだけど。

 チョコレートと一緒に注文すると、マスターは少しなにか問いたげな顔をしたけれど、結局は黙って一つ頷いた。きっと、数か月前までは一緒にここに来ていたCの不在が気になるのだろう。

 星の綺麗な地方都市にも、雰囲気のあるバーは存在する。Cが教えてくれたことの一つだった。自分に関係すること以外だったら、Cはなんでも教えてくれた。

 初めて会った日のことは覚えている。日記を書きたかったのだ。

 その日の昼間、私は台風の影響で家に閉じこもっていた。暴風警報が出るくらいには強力な台風で、頭痛持ちの私は見事に低気圧にやられて一日頭を抱えて横になる羽目になった。

 夜になり、台風が過ぎ去り、なにもできなかった一日を取り戻すように、私はノートパソコン一台を抱えて海辺へ向かった。強風で折れたと思しき木の枝、常緑樹の葉が地面に転がる中、空気だけが透明になっている。普段はべたべたとしている海風すらも、どこか清らかなものに感じられた。

 台風が空気を洗い流したからか、それとも夜の力か。そんなことを考えながらふらふらと辿り着いた砂浜は波が高く、ごうごうと海鳴りが響いていた。

 砂浜にベンチがあることを、私はそこで初めて知った。

 しっとりと湿っているけれど、気持ち悪くはなかった。部屋着に毛が生えたようなジーンズが濡れるのも構わず、月明かりの下パソコンを叩いていると、突然、暗い影がモニターを覆い隠した。

 それが、Cだった。

「こんばんは。隣、いいかな」

 突然かけられた声に、肩が跳ねた。

 バーのマスターが、怪訝そうな顔でこちらを見ている。ここからすぐの砂浜から、もう戻ってこない過去から、思考を慌てて現実に引っ張り戻す。

 動転したのは、バーで突然誰かから声をかけられたからというだけの理由ではなかった。その声が、あまりにCのものとよく似ていたから。脳の奥の方で反芻していたCとの出会いと同じ言葉が、Cとよく似た音で紡がれている。

 どぎまぎと見上げると、声の主は暗い照明を逆光に、歯を見せて笑っていた。表情だけでわかる。Cとは、別人だ。

「大丈夫、ですけど……」

 混乱する私をよそに、ゆっくりとカウンターチェアに腰掛け、優雅に脚を組んだ。その仕草を見て、ようやく思い出した。この人のことは、何度かここで見たことがある。常連の一人なのだろう。そうか、こんな喋り方をする人だったのか。

「えっと……」

「ああ、私? ケイ」

 一瞬、アルファベットの「K」が頭によぎり、それを察してくれたのか、Kは「億、兆の次の、ケイ」と補足してくれた。そうして私はやっと、Cの名乗っていた「C」が「シイ」だったのかもしれないと思い至った。きっと、Cは面白がって訂正しなかったのだと思うけど。

 私の前にオリジナルカクテルが置かれ、続いて氷で冷やされた生チョコが供される。そこに刺さっているピックは二本になっていた。それは見慣れた光景であり、見慣れた光景であることが異常だった。

 京さんの前にもグラスが置かれる。口の広いカクテルグラス。注文していた様子はなかったし、きっといつも同じものを注文しているのだろう。白い澱が沈むその上澄みが、橙色の光をつるりと弾いていた。

「じゃ、まずは乾杯しよっか」

 とろとろとした液体を掲げるその仕草があまりに自然で、「は、はい」とだけ返事をするのに、不自然な間を開けてしまった。そんな私の様子を見て、京さんは目を細めた。どうやら、色々な笑い方を持った人のようだ。

「乾杯」

「乾杯」

 ほとんど動かせなかった私のグラスに、京さんのグラスが軽く触れた。ちん、と涼やかな音が響く。横目で観察していると、京さんは舐めるようにカクテルを口に運んでいった。

 その喉の動きが、Cのものによく似ている。声が似ているくらいだし、喉の作りが似ているのかもしれない。柔らかく上下するCのその喉に、私は触れたことがなかった。目の前で踊るように波打つ細く白い首筋に目を奪われそうになって、私は慌てて会話で思考を遮断した。

「なにか、私に用ですか?」

 野暮だとは思いながらもそう聞くと、京さんは「一杯飲んでからね」と口の端だけで笑ってみせた。大人っぽい表情ではあるけれど、その真っ黒なショートボブは、どこか思春期の子供のようにも見えた。

 マスターが灰皿を持ってきて、京さんの前にごとりと置いた。視線で会釈を交わす二人を見ながら、私はカクテルを舐める。舌がぴりぴりする。京さんの指先に灯った小さな赤い炎からは、甘い香りがした。

「吸う?」

「結構です。吸ったことないので」

「そうなんだ。じゃあ吸わない方がいいよ」

 京さんはそう言って、煙で輪っかを作った。渦を巻く煙の輪は京さんの唇を離れて数十センチのところで、ゆらりと形を崩した。

「月が好きなの?」

 唐突な京さんの質問に顔を上げると、京さんはグラスにそっと口をつけた。丸いライトがその液面に反射し、光を飲んでいるようだった。

「相方が、好きだったんです」

 Cのことを説明する言葉が浮かばずそう伝えると、「いつも一緒に来てたあの金髪の子だよね。椎ちゃんだっけ」と返ってきた。突然出てきたCの名前、それにやっぱり私のとは違う「椎」というイントネーションにまごついていると、いたずらっぽい流し目で京さんが笑った。

「私もね、満月の日だけここに来るんだ。偶然だね」

 グラスの底に残っていた液体をぐいっと喉の奥に流し込むと、京さんはチョコレートを摘まんだ。刺せば人を傷つけられそうなくらい鋭利な金属のピックが、透明なガラスに当たって音を立てる。

「マスター、次はこの子が飲んでるので」

 私も慌てて残りを飲み干す。喉の奥がかあっと熱くなって、その熱の塊が胃の底へと落ちていく。

「そんなに焦らなくてもいいのに。あ、一杯飲んだら話すって言ったんだっけ。悪いことしちゃったかな」

 ごめんね、と呟きながらそっと私の頭へと差し伸べられた手を、私はなぜか無抵抗に受け入れていた。冷たくて薄い手のひらが、私の髪を、頭皮を、ゆっくりと這っていく。それがあまりに心地よくて、いまさらになってCの体温に触れたことが一度もなかったことに気付いた。

「私も、この方と同じのを」

 その手をなんとか掻い潜り注文すると、京さんは切れ長の目をゆっくりと細めた。空になったグラスを指先でもてあそびながら、私の頭を離れた左手は灰皿の上の煙草へと伸ばされた。

「本当は禁煙中なんだけどね、満月の日だけは吸ってもいいことにしてるんだ」

 京さんの吐き出した煙の向こうでは、マスターが慣れた手つきでシェイカーに液体を注いでいる。その奥のテーブルに並ぶ種々のボトルに書かれている文字を眺めながら、Cとよく似た京さんの声に耳を傾ける。

「だってさ、満月ってあんなに綺麗で可哀そうじゃない? だから、慈善事業してるんだ。綺麗な満月を、煙で霞ませてあげるボランティア」

 そう言って京さんは口の端から煙を漏らす。甘い香りは、バニラのそれによく似ている。灰皿の端でとんとんと叩くと、燃え尽きた部分がぽろりと落ちた。

 先に入っていた二人組が会計を始め、私たち二人だけがこの空間に取り残されていく。

「多分、月になるのって、そういうことだと思うんだ」

 マスターの手によって先ほどとは反対に並べられたカクテルを、私たちは摘まみ上げる。今度は、私も自然にグラスを合わせることができた。

 かんぱい、の声が重なる。

 私が口元に運んだ甘い香りのする液体を啜る前に、京さんは言葉を溢した。

「椎ちゃんから、伝言を預かってるんだ。聞きたい?」

 その表情は、今までで一番感情の読めないものだった。目の奥で笑い、口の端で笑い、頬で笑い、眉で笑い、だけどその全てがちぐはぐな意味をもって組み合わせられたもののように見えた。

「聞きたい、です」

 京さんと「同じの」が私の唇を濡らした。甘い香りのする液体は、舌の上で転がすととろみが強くなり、体液を啜っているような気分になった。もったりとした甘さの上に乗せられた、果実を思わせる華やかな酸味。一体何を混ぜればこんな液体になるのだろう。

「じゃあ、このあと海に行こっか」

 そう言って、京さんはCの声で私を海に誘った。


   * * *


 二人で夜道を歩くのは、数か月ぶり、Cがいなくなって初めてのことだった。

「あそこで飲んでたら、急に声を掛けられたんだよね。見覚えのある顔だったからびっくりしちゃった。椎ちゃん、金髪似合うよね」

 その色がどちらかというと月面の白に近いことは、きっと橙色の照明の下では気づかなかったのだろう。地毛ではないのだろうけど、どんな意図でそんな色にしていたのか、Cが教えてくれることはなかった。

 京さんの足が、灯籠の影を踏む。真っ黒のショートボブのシルエットが、月明かりによって地面に投影されていた。街灯が近づくたびにかき消され、月明かりだけになると再び現れる京さんの影を眺めながら、私は歩いていた。

「京さんがバーに行くのは、満月の日だけじゃなかったんですか?」

 満月の日なら私も必ずバーに行っている。なのにCと出くわさなかったことを言外に責めると、京さんは織り込み済みであるようにさらりと答えた。

「ムーンボウが見えるのって、日没から二、三時間くらいなんでしょ? 私はその日たまたま少し早く飲み始めてたから、椎ちゃんに会えたってわけ。きっと、あなたが二、三時間は来ないことを知ってて、椎ちゃんはバーに来たんじゃないかな」

 だとすれば、Cは自らの意思で私の前から姿を消したことになる。そうなんだろうと思っていたけれど、私を避けて消えたのだと突き付けられると、やはり後悔が湧き上がってくる。

 猫の集会は終わっていた。軽トラの下にはもう黒猫はおらず、ホテルの窓も、ほとんどは電気が消えている。海風が強い。

「そうだ、ちょっと酔っちゃったから水でも買おうかな。要る?」

「欲しいです」

 そう答えると、京さんは「おっけ」と呟いてコインケースを取り出した。じゃらじゃらと適当に小銭を入れて、ミネラルウォーターのボタンを押し、それを二回繰り返した。

「はい。どーぞ」

「ありがとうございます」

 受け取ったペットボトルは思っていたよりも冷たくて、だから、私の体温が高くなっていることに気付けた。ペースの速い京さんの飲み方に合わせて飲んだからか、こうしてそのあと歩いているからか、それとも他に理由があるのか、わからない。わからなさを飲み込みたくて、甘さの残る口をゆすぐようにして、ペットボトルの中のものを一気に呷った。

 京さんはペットボトルを頬に当てている。寒くないのかなとも思ったけど、きっと、私と同じで、火照る体温にはそれが心地良いのだろう。

 私たちを真上から照らす月に、ペットボトルをかざしてみる。きらきらと光が乱反射するけれど、Cが言っていたような宝石みたいな状態にはならない。やっぱり、シャンディガフじゃないとできないのかな。

 アルコールの入ったプラスチックカップを持ってふらふら歩くCの姿が砂浜の向こうに見えたような気がして、目を擦った。

「ムーンボウって、こういう時間帯には見えないんだっけ?」

 京さんがペットボトルを振りながら歩き始める。私は慌ててそれについていく。小さな丘の向こうからは、低い海鳴り。

「そうですね。虹と同じで、ある程度光に角度がついている方が見えやすいみたいですね」

「ってことは、日没から二、三時間と、日の出前の二、三時間くらいが狙い目になるのか。確かに言われてみれば虹も夕方に見かけることが多い気がするね」

「太陽光に角度がつくからですね」

 コートのポケットに手を突っ込むと、硬いものが指先に触れた。バーを出る時に貰った飴玉だ。入り口近くに飴やら何やらが小さく積み上げられた籠が置いてあることを、今までずっと通っていたのに気付かなかった。「何味にしよっかなー」と背中を丸めて選んでいる京さんの姿が目に焼き付いている。

 京さんは、何者なのだろう。

 私はついぞ、Cがどんな存在だったのか知ることがなかった。一緒に月を見上げ、その反対側に虹がかかることを期待して、一緒にお酒を飲むだけの、そんな関係。それをなんと呼ぶのか、私は知らなかった。

「おー。結構眺めいいんだね」

 見晴るかすように手のひらで庇を作りながら丘の上から海を眺める京さんの姿は、Cとは似ても似つかず、その声だけが私を惹きつけていた。

 月は、ずっと私に同じ面を向け続けている。きっと私が知っていたCはそんな存在で、反対に、京さんが見せるパーツごとにばらばらの感情を宿しているような笑顔は、キュビズムのようなものだった。

「あ、ベンチあんだね。座ろ?」

 京さんの指さす先には、私たちのベンチがあった。三人で掛けると狭くて、二人だと少し広すぎる、小さな木のベンチ。私は今でもそこにCが座っているような気がして、その海の先に虹を見ようとしている視線がまだ残っているような気がして、ペットボトルを取り落とした。

「京さん。Cは、なんて言ってたんですか?」

 ゆっくりと、ショートボブの影が振り返る。真上から砂浜へと降ってくる月明りは、細かい砂粒の隙間に吸い込まれて消えていく。京さんは、ふっと眉尻を下げて笑った。

「うん。あなたのことを、好きになっちゃったんだって」

 座りなよ、と京さんは私にベンチを勧めた。拾ってくれたペットボトルは砂にまみれていた。京さんは代わりに自分のペットボトルを私に放り投げた。反射で掴んだそれは、京さんの体温ですっかりぬるくなっていた。

「そう伝えればわかる、って椎ちゃんは言ってたけど、やっぱりわかっちゃったのかな。私には何のことかよくわからないけど」

 京さんのそれは、きっと優しさだ。さっきの悲しそうな笑顔がその証拠だ。

 きっと私は、ずっとわかっていたのだと思う。月になりたかったCが私から離れなければならなかった理由は一つだ。私を、惑星にしそうになったから。

 Cが私に唯一教えてくれたC自身のことは、恋人と別れて以来、特定の恋人を持っていないことだった。シャンディガフを教えてくれた、その恋人。

 Cにとっての地球は、その人だった。きっと、Cは地球を駄目にしてしまったのだろう。月が地球に落ちたか、地球が月に落ちたか。どちらかは知らない。

 それでも月に憧れることをやめられなかったCのことを、私は嫌いになれない。

「カクテル言葉ってのがあるんだってね」

「知ってます」

 Cに、教えてもらったから。

 誰かを好きになることは、時として許されないものなのだろう。傷つけると知っていながら想うことは、拳を振り上げることと同じだ。

 だけど、きっと私も同じ病に侵された人間なのだ。

 私にとっての「同じの」は、Cにとってのシャンディガフになってしまったのだと思う。ついさっき撫でられた頭が、まだ熱を帯びている。だけど、この熱を冷ますための水にはすでに、あなたの体温がしみ込んでいる。

 そっと、ベンチに腰掛けた。Cの座っていた場所には、今、京さんがいる。

「すいません。少しだけ粘ってもいいですか。ムーンボウが見たいので」

 私がそう言うと、京さんはそっと私に飴玉を握らせてくれた。こんな時間に、空に虹がかかるわけがない。それでも京さんは何も言わず、私と一緒に月を見上げてくれた。きっと、なにもかもお見通しだったのだと思う。

 ムーンボウは、やっぱり見えなかった。


   * * *


 目が痛くて、起きた。

 コンタクトレンズを外し忘れたらしい。乾き、眼球に張り付くそれをなんとか引きはがすと、涙が出た。

 ピントのぼやけた視界の中に、それはあった。飴玉を二つ放り込んだ、昨日のシャンパングラス。

 緑と桃色の混じりあったそれは、灰色に近い色に濁っていた。きっと、虹をかき混ぜると、こんな色になるのだろう。

 コートから漂う甘いそれは、あなたの吸っていた煙草の香りだ。バニラのようなその匂いを胸いっぱいに吸い込んで、それから私は、シャンパングラスの中に溜まっていた液体を一気に口の中へ流し込んだ。

 自然と、喉が動く。白くて細い喉を思い出す。

 飲めたものではない甘ったるい液体は、あなたからもらった水と、飴と、私の飴で作った。昨日の「同じの」とは遠くかけ離れたその液体に、それでも私は酔ってしまう。

 小さな天体を二つ溶かしたこの液体は、月にかざしても、きっと灰色に濁るだけなのに。

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