四、帰らじの鍵。




 海辺を後にする。

 濡れた脚に靴下はきたくないのか、部員たちは素足のままローファーを引っ掛けて歩き始めた。坂道を引き返し、中学校の正門前を通り過ぎる。

 米塚よねづか部長と豊水とよみさんに両側から構われる柚季ゆずきの後ろ姿を、やはり往路と同様に加島かしまさんと眺めながら歩く。そして広い県道に出た辺りで、突然雨が降り出した。

 決して弱くは無い雨脚だったが、皆迷惑そうに空を一瞥いちべつしただけで特に対処を起こさない。そのため僕は、慌てて取り出した傘を何やら開き兼ねた。

 そうこうしている内に、今朝柚季と別れた歩道橋へと差し掛かる。

「……あ、僕らは渡らないよ。」

 柚季を連れたまま、当然のようにその階段を上ろうとする部員たちを呼び止める。

「あれ、そうなの?」

「向こうの地区なんだ。」

「そっか、だから今まで面識無かったんだね。」

 柚季はひょこりと頭を下げて二人の拘束からのがれ、こちらへ駆け寄る。その表情には安堵と、多少の未練も含まれていそうだった。

「お帰り。」

 そう迎える僕を、彼女は撫で回された髪を整えながらにらむ。もっと早く助けろという意味なのだろうが、それほど嫌がっては見えなかったのだから仕方ない。

「じゃあユズちゃん、またね。」

「今度美術室にも遊びにおいで。」

「タチハラ君も、また明日。」

「あ、ちょっと待って。」

 すっかり柚季の付属品おまけとして扱われているけれど、ともかく閉じたままの傘を差し出す。

「これ、よければ使って。」

 祖父の物を勝手に貸すべきかは分からないが、傘を持っているのは僕と柚季だけらしいので、やむを得ないだろう。

 が、彼女らは不思議そうにこちらを見返した。

「何で?」

「いいよ別に。」

「すぐむし。」

「……でも、濡れて帰る事になるよ?」

「流石に紳士だねえ。でもそういうのは淑女にんなよ。じゃね。」

 彼女たちは笑い合いながら、さっさと階段を上り始めてしまう。

 三人連れに一本の傘を貸すというのも善意として成立しているか怪しいが、何もしないよりは……と思ったのだけれど。

「またね。」

 加島さんも軽く手を振り、あっさりと続いてゆく。

「あ、うん……気をつけて。」

 特に彼女には一日を通して世話になったので、きちんと感謝を伝えるべきだと思っていた。しかし雨の中自転車をスロープへ押し上げているところを呼び止めるのも気が引けて、ついそんな呆気ない別れを看過してしまった。

 隣の席だからまた明朝でいいかと思い直し、差し出した傘を結局自分で開いてまた歩き出す。

「……で、何で柚季まで傘を使わないの。」

「やっぱり?」

「せっかく持ってるんだから、ちゃんと差しなよ。」

「はぁい。」

 柚季は渋々、折畳傘おりたたみがさを開く。

 この町では総意で傘を軽んじているのだろうか。確かに雨具として万全とは言いがたいけれど、何もそう邪険にしなくてもと思う。

「そもそも、寒くないの?」

 昨夜も、そして先ほどの海辺でも思った事だけれど、ただでさえ軽装の彼女が水に濡れていると酷く心配になる。自分だったら即刻風邪をひいてしまいそうなシチュエーションなので。

「ぜんぜん。だってもう六月じゃん。」

「そうだけど……。」

 持って生まれた体力が違うのか、あるいは競泳で得た免疫力なのだろうか。けろりとそう言って退ける柚季が羨ましくなり、隣へ手を伸ばす。

「ちょっといいかな。」

「ん?」僕の挙動をただ目で追う彼女の、二の腕辺りに触れてみる。てのひらに、幼い筋肉の起伏と脈動を感じた。

 その琥珀めいた色の肌は、まるで昼間の日差しを覚え続けているように熱を帯びている。

「……本当に寒くないみたいだね。かなり温かい。」

 年齢は大して変わらない筈なのに、柚季の剥き出しの体温は僕では持ち得ないほど健全であるように思えた。それは先ほどすくった海の舌先のようでもあって、生々しいけれど執拗でも冗長でも無かった。

 数秒の間そうしていて、やがて彼女は身を引く。

「……せくはらだ。ついに。」

ついにって。」

「うそだけど。だって諒兄まこにいの手、冷たいんだもん。」

「あ、ごめん。」

 妙な点を謝る。

「……そういえば。このまま借り物の傘を持ち歩くのは不便だから、僕も自分用に折畳傘を買いたいんだけど……近くに売っている店ってあるかな。」

 正面へ向き直っていた柚季が、再度こちらへ振り返る。

「諒兄って、不良なの?」

「どうして?」

「だってお金持ってきてるんでしょ。昨日だってお酒の匂いしてたし。」

「……ああ、」

 祖父に注がれた日本酒のアルコール臭に気づいていたらしい。もしそれが彼女の母親にまで届いていたら、だいぶ不味まずい。

「それは不可抗力で……、」

「ふかこうりょく?」

「やむを得ずというか。要は、不良って訳じゃないよ。」

「ふうん。まあひとくち飲ませようとしてくるおじさんとかいるもんね。」

 本気で追及する気も無いらしく、柚季はプランを提案してくれた。

「このまままっすぐ行くとっきめのお店あるけど、ここ通って帰る先生も多いから見つかるかも。やだよね?」

「そうだね、転校初日から目をつけられたくないな。」

「じゃあ帰る途中にある、小さい雑貨屋さんだね。そこなら絶対ばれないよ。種類は選べないと思うけど。」

「……まず、途中に雑貨屋があったんだね。」

 存在にすら気づけなかったのだから、相当小規模な店なのだろう。ただ傘は雨さえしのげればいいので、僕もそうこだわりは無い。

「じゃあそっちに案内して貰っていいかな。」

「わかった。」

 それから暫くは二人で黙って歩いた。部員たちがいないと、やたら静かに感じてしまう。傘が雨粒を弾く音と、濡れた道路を車が滑っていく音が忙しげに行き交う。

「……そういえば、今日の昼に何を食べたかは訊かないの?」

 ふと思いついて問う。柚季は傘を持ち上げて顔を見せ、

「だっておんなじじゃん。給食でしょ。」と一蹴いっしゅうした。

「それもそうか。」

「……じゃあ、ちゃんと残さないで食べた?」僅かに間を置き、そう訊いてくる。

「量がきつかったけど、何とか。」

 確か具沢山の味噌汁と、白身魚のフライと、根菜のサラダだった。こちらの食器は金属アルマイト製で何だか軍隊のようだったが、味そのものは美味しかった気がする。

「柚季は?」

「んー……しいたけは友達にこっそり食べてもらったけど、それくらい。」

 おや、と今度はこちらが傘を持ち上げて顔を覗く。

「椎茸、苦手なの?」

「だってナメクジじゃん、あんなの。」

「……それ、食べてくれる友達の前では言わない方がいいと思うよ。」

「みたいだね。すごいおこられた。」

 間に合わなかったらしい。

 やがて県道かられて、細い坂道に入る。昨日バスを降りてから歩いたルートで、今朝も通った通学路だ。

 下る時は楽だったけれど、授業と部活まで終えたタイミングで長い坂道を上るのは中々つらい。

 田角たすみ先生には重ね重ね悪いけれど、運動部に入るまでも無い気がする。毎日この坂を上り下りするだけでも、僕にとっては十分な鍛練になりそうだ。

 隣の柚季は、明らかに僕と歩調を合わせてくれていた。彼女は多少の勾配こうばいや水辺を駆け回る程度では息一つ乱れず、むしろ活力を持て余しているように感じられる。

「諒兄、そろそろカサしまったら?」

「え……ああ。」

 雨が止んでいた事にも気づけないほど草臥くたびれているらしい。傘を閉じると、まだらに輝く曇り空が雨上りの路地を照らしていた。その中を柚季は、泳ぐような軽やかさで歩いている。

「……なに? さっきからじろじろ見てきて。」

「いや、柚季が眩しくて。」

 薄気味悪そうに眉をひそめられる。

「またせくはら?」

「……さっきのも違うってば。」

 雨風に晒されても顧みずに済む肌と、いちいち憂慮する必要も無く走り回れる器官。割りと純粋な羨望だと思うのだけれど。




 会計を済ませ、ただ土間どまに商品棚を並べただけの雑貨屋を後にした。外観を振り返ってもやはり看板など見当たらず、あらかじめ知っていなければただの民家にしか見えないだろう。

「あった?」

 中は狭いからと店内に入らずガラス戸の脇で待っていた柚季に、目当てだった折畳傘を持ち上げて見せる。

「あった。確かに種類は選べなかったけど。」

 八畳ほどの売り場の片隅で見つけた傘はたった一種類で、うっすらと埃を被っていた。

 特に奇抜なデザインでは無かったので安堵して会計を頼むと、店主は開けっ放しのレジから釣銭を取り出し、それを僕に渡すと奥へ引っ込んでしまった。色々と心配になる店だ。

「あと、これも。」

 また帰路を歩き始める際、先ほど買ったフェイスタオルを広げて柚季の両肩に被せた。ベージュと白のマスコット(熊らしい)がプリントされているそれをとりあえず見回してから、彼女は顔を上げる。

「なにこれ?」

「寒くないのは分かってるけど、一応。今日のお礼も含めて。」

 探しはしたけれど、生活雑貨や園芸用品ばかりが揃うこの店の中では、これが最もプレゼントらしい物だった。タオルなら幾ら有っても困りはしないだろうし。

「べつにいいのに。」

「まあ、女の子用のデザインだし使ってよ。高い物でも無いから。」

「んん……じゃあわかった。もらう。」

 濡れた髪を拭きながら「ありがと。」と小さく零され、「こちらこそ。」と呟き返す。

 坂の上から町を振り返ると、雲間から紅い西日が射していた。本当に通り雨と言うか、ただ夕立だったらしい。

 ふと心配になって問う。

「部活まで付き合わせて悪かったよ。大分だいぶ帰りが遅くなったけど、怒られたりはしない?」

「平気。より道とかしょっちゅうだし、この辺じゃなんにもないって。」

 昨日も似たような事を言っていたか。夜に子供一人を出歩かせるのだから、本当に治安のいい地域なのだろう。

「だけど、濡れて帰るのは不味いんだ?」

「うん。まあうちのお母さんは、ここで育ってないからね。」

「そうなんだ。……関係あるの?」

「あるの。」

 なぜか自信たっぷりに頷かれた。

「……ん、さっぱりした。」

 髪の水気を拭き終えて、柚季はタオルを折り畳む。そして珍しくばつの悪そうな表情を浮かべた。

「でさ、これもらうけど、諒兄の家であずかっててくれない?」

「どうして?」

「うちね、勝手に人から物もらったりしても怒られるんだ。」

「そうなんだ。えっと、一応僕は親戚って事になるんだけど……それでも駄目なのかな。」

 随分と行儀のいい家庭だと感心しつつ確かめるが、柚季は難しい顔でうなった。

「んん……実はうちだと、諒兄の話ってあんまりできなくて。」

「うん?」

 言いづらそうに、けれどそれ以上に不可解そうな様子で彼女も首を傾げる。

「昨日もだったけど、諒兄の名前出すとお父さんもお母さんも……なんか、だまっちゃうっていうか。なんだろ?」

「……そうなんだ。」不思議がる柚季の隣で、頷く。

 彼女の母親と会った昨夜に感じた、緩やかな拒絶を思い出す。確かに、一人娘がいわくつきの従兄いとこへ無邪気に構うというのは……両親にとって歓迎すべき事では無いだろう。

 あるいは、もしも柚季が今ほど幼くなければ、その原因も知らされていたのだろうか。しかしそうであれば彼女も、こんなに気安くは接してくれなかったように思う。

 不毛にその胸中をおもんぱかっていて、ふと柚季が覗き込むようにこちらを見上げている事に気づいた。

「……。」

 目が合うとすぐに前方へ向き直った彼女の所作しょさに、反応を誤ってしまった事を悟る。

 僕が憤慨ふんがいどころかいぶかしむ事すらしなければ、柚季には知らされていない何かしらの理由が在るのだと、はっきり教えてしまうようなものだった。

 今さら取りつくろえずに、ただ首を振る。

「とりあえず、分かった。そういう事なら預かっておくよ。」

「ん。だから雨でぬれたら、諒兄の家によってこのタオルでふいてから帰るよ。ちゃんと洗たくしといてね。」

「……どんな使い方?」

「いいじゃん、あたしのなんだし。」

「君のだけどさ。まず傘を差しなよ。」

「やっぱりそうなる?」

「そうなるよ。」

「だってさあ、」

 互いに先ほどの空白を認識しつつ、そうやって流し合っていく。

 僕も未成年だけれど、それにしても子供とは物事や他者の顔色を敏感に感じ取るようだ。あるいは柚季が特別なのだろうか? 考えてみると年下の人間と接する機会は殆ど持ち得なかったので、推し量れない。

 やがて祖父の前へ辿り着き、柚季は湿り気を帯びたタオルを手渡してきた。

「じゃあさっそく、これおねがいね。」

「うん、分かった。」

 受け取って今日の送迎の礼を言おうとしたが、彼女は僕より先に戸を引き開けていた。

はくじいー。」

 それに続く形で玄関へ入ると、玉暖簾たまのれんから顔を覗かせた祖父が僅かに口の片端を上げて応えていた。

「戻りました。」

「ん。」

 こちらへ頷いた祖父は、柚季の「いいにおい。なに作ってんの?」という言葉を聞いて台所へ引っ込んだ。間を置かず、細長くピンク色の何かを手に玄関へやって来る。

「お。えび?」

「ん。」

 差し出されたそれに柚季は噛みついて、器用に尾だけを祖父の手に残して食いちぎった。

「ん、おいし。じゃね。」

 咀嚼そしゃくしながら手を振り、そのまま彼女はさっさと玄関から出て行ってしまう。

「え。あ、」

 その動作は素早くて、柚季の後ろ姿はあっという間に死角へ入って見えなくなってしまった。

 加島さんに続き、また礼を言いそこねた。寧ろ皆、別れ際があっさりし過ぎている気もする。

「……すぐ出来る。はよう荷物、置いてぃ。」

 餌の無心に訪れた野良猫をあしらうように柚季へ応対した祖父が、台所へ戻りながら言う。またあの、赤く染まった包丁を振るっているのだろうか。

 刃物のイメージで、ふと思い出す。

「あ、あの。小振りな物でいいので、ノコギリを一つ貸して貰えますか? 明日、学校に持って行きたいんです。」

 祖父は再び玉暖簾から顔を覗かせた。

「誰にいじめられた。」

「……いえ、そうでは無くて。美術部で木を切るのに使いたいんです。」

「ふん。」

 どこか意外そうに繁々しげしげとこちらを見て、頷く。

めしの後でいいか。」

「勿論です。有難うございます。」

「なら早う戸を閉めて上がれ。……あとそんな言葉づかい、めい。」

「あ。は、い……。」

 そして今度こそ、台所へと引っ込んでいく。

 揺れる玉暖簾を数秒眺めて、「そうは言っても……。」と思いながら靴を脱ぐ。



   #



「えらく遅かったが。帰りは毎日、今くらいになるのか。」

 茹でた海老と、昨夜と異なる種類の刺身を並べた夕食の折、祖父がそう訊いてきた。

 その歯応えと風味を夢中で堪能していた僕は時計を見遣る。確かに一八時を半ば近くまで回っていた。

「いえ、ただ今日が部活動の日だったようで。おそらく木曜日も遅くなります。」

「美術部と言うたか。」

「はい。絵画や彫刻をしようと思いまして。」

「……そんな器用な真似が出来るのか。」

「一応は。幼少期から教室にも通っていました。」

 そう答えると祖父は箸を止め、ずいぶん奥まで引っ込んだようにも見える小さな瞳を丸くした。

「習っていたのはピアノと聞いたが。」

「ピアノもですが、それはどちらかというと母に強く促されたもので。自主的に学んでいたのは美術関連の方でした。」

「そうな。」

 何やら渋面じゅうめんで頷かれ、僕は慌てて付け加える。

「あ、もちろんピアノも好きです。先ほど学校でも、少し触ってきました。」

 昨日、二階にピアノが在ると告げられた事をすっかり忘れていた。もしそれが僕の為に用意された物なら、結構な失言をした事になる。

 だけど杞憂だったらしく、当の祖父はどこか満足そうに細かく頷いていた。

「ママゴトばかりかと思ったが……。」

「はい?」

「学校は、どうだったな。」

「あ、緊張しましたが大丈夫でした。この町は親切な人が多いですね。クラスメイトにも、色々と助けて貰いました。」

 やはり返答半ばで、もう分かったと言うように頷かれる。それでも不思議と、嫌悪や威圧は感じない。

「久し振りの授業だったと思うが、ついて行けそうか。」

「何とか大丈夫だと思います。」

「ん。」

 そして昨夜と同じく消毒という名目で、僅かな量の日本酒を僕のコップにも注がれた。そろそろ遠慮する口実を見つけないと、新鮮な生物なまものと一緒に味を覚えてしまうかも知れない。




 不思議なもので、昨夜と変わらぬ量にも関わらず今日は足元がふらついた。顔が熱く、脳がギアを落としたような感覚がする。それも随分と歯のなめらかなものへ。これが酔いというものだろうか。

 察してくれたらしい祖父に、「部屋で休め。」と二階へ上げられた。ふらふらと自室に入ろうとして不意に、背後のもう一つの部屋へ意識が向かう。

「……。」

 そちらのふすまを開けて、壁を手探って電灯のスイッチを入れる。

 僕の部屋と左右対称の、ただし少し狭く設えられた和室だった。積み重なる座布団や電気ヒーター、色褪せた鏡台などを、ぼんやりと見回す。

 そして片隅の電子ピアノに歩み寄り、自分はそれが目的だったのだと気づく。椅子が無いので、鏡台のそれを引き寄せて前に座る。

(まだ二〇時はちじ前だし、少し鳴らしてもいいかな。)

 何よりアコースティックでは無いので、音量調節は自在に利く。束ねられていたコードをコンセントへ繋ぎ、電源を入れてトーンをグランドピアノに設定する。

 そっと鍵盤けんばんを押した。正確に割り切れるだけの音が、弱々しく鳴る。本物のピアノのような、手に触れるような実感を持った響きでは無い。

 無意識に指先がかたどる和音を幾つか試した後、バッハのメヌエットを弾いた。何となく、古びた民家の夕闇とも馴染む旋律であるように思えて。

 鍵盤もチープでストロークまで軽薄だけれど、ひどく使い込まれている印象を受けた。やはり奏者は若き日の母だろうか。ああも躍起やっきになって僕へ押し付けた演奏の基礎は、これでつちかったのかも知れない。

 皮肉のような巡り合わせで帰ってきた指使いを、この電子ピアノはどんな思いで奏でたのだろう。

(……楽譜、一部くらい残しておくべきだったかな。)

 もうピアノなど弾く機会も無いだろうと、安易に全ての譜面を処分した事を少しだけ後悔した。

 ボリュームを絞った演奏が聴こえていたのかは分からないけれど、やがて祖父から「風呂が沸いたぞ。」と襖越しに伝えられた。僕は電源を落として立ち上がり、着替えを用意するため自室へ向かった。



   #



 携帯電話のアラーム音で目を覚ました。枕元のそれを手に取り、寝惚ねぼまなこで解除する。午前六時。

 カーテンを開いて一頻ひとしきり窓の外を眺めてから、布団を畳んで部屋を出た。昨夜ころびかけた事を思い出し、慎重に階段を下りる。

(祖父は……もう出かけた後か。今朝も早い。)

 こうなると、自分ももっと早起きするべきなのかとも思う。朝陽で照らされる玄関の靴棚には鍵が置かれ、台所には湯気の立つ鍋が残されていた。

 昨朝と同じ光景をぼんやりと確認し、顔を洗って朝食を並べる。白米と貝の味噌汁に、小魚の甘露煮かんろに。今日は早く登校する必要もないので、再びニュースを眺めながらなるべく丁寧に咀嚼する。

「……。」

 考えてみると、僕が今まで与えられてきた食事は「ここでこうして、このように味わうもの。」と全て道筋みちすじが決められていたように思う。

 それに比べて祖父の料理は質素だけれど、ある程度こちらに判断をゆだねている気がする。まるで「ここまでは作ったから、あとは好きにせい。」と、解釈や派生の余地を残してくれているような。

 極端な例だけれど、現に彼は同じ味に飽きると自ら調味料を加えて食事中に改変していく癖が有るようだった。刺身にマヨネーズや納豆を乗せて食べ始めた時は流石に驚いたが、少し味見させて貰うと確かに悪く無かった。

 そう云々と思考していると、唐突に玄関の戸を引き開ける音がした。慌てて立ち上がり台所から顔を出せば、玄関から身を乗り出した柚季が、同様に顔を覗かせている。

「おはよ。」

「……おはよう。」

「て、まだ制服も着てないし。」

 そうこぼし、今日も軽装の彼女は玄関の上がりかまちにちょこんと座った。

「えっと、色々と訊きたいけど、とりあえずチャイムは鳴らす子だったよね?」

「うん? まあ気にするなよ。」と座ったまま振り返るその表情は、全く悪びれていない。

 思えば昨日の下校時に立ち寄った際にも鳴らしていなかった。随分と慣れた様子で祖父と接しているから、おそらく二人の間では省かれた過程なのだろう。

 越してきたばかりの僕が居るから意図的にチャイムを押していたのなら、あまりとやかく言えないか。

「まあいいんだけど……でも、どうしたの柚季。」

「〝どうした〟とか。もう一〇分だよ。」

「え? ……あ、」

 昨日と同じ時間に訪ねてくれたのだと気づき、頭を押さえる。

「そうか、ごめん……実は昨日だけ早く行かなきゃいけない用事があって、今日からはもっと遅くていいんだ。」

「まじでか。」

「うん、言い忘れてたよ。ごめんね。」

「そうなんだ。ふうーーん。」

「だからまだ朝食の途中でさ……、先に行っててよ。」

「んー、いい。どうせ時間早いし、待っとく。」

「いや、でも、」

「だからはよ食べろー。」

 柚季は床板へ置いた両手を支えに背中を反らせ、れったそうに見上げてきた。四の五の言っている時間こそ勿体ないという事か。了承して卓へ戻り、途中だった食事を再開する。

 やがて案の定、「まだあ? 食べるのおそいね。」と小言を継ぎ足された。

「昨日、伯郎さんにも言われたよ。〝お前に合わせてると、食ってる間に腹が減る〟だってさ。」

 けらけらと笑い声が返る。見れば、あの姿勢のままり切ったらしい柚季が廊下に寝転んでいた。ランドセルをクッションにして、ストレッチするように両腕を伸ばしている。

「……柚季、折角だから何か食べない?」

「うん?」

 退屈している様子だし、少し不行儀ふぎょうぎだけれどそれも僕の所為せいなので見かねて声を掛けた。彼女は靴を履いたままらしく、立て膝でこちらへ身を乗り出してくる。

「昨日のえび、まだある?」

「……いや、それはもう無いんだけど。」

 昨夜の夕食後、調理した祖父本人が酒肴しゅこうとして食べ切ってしまった。

「あれ、すみそと食べるとおいしいのに。」

「確かに、かなり美味しかった。」

「むう。」

 不機嫌そうな様子に、少し慌てる。

「あ、梅干しならあるよ。昨日気にしてたよね。」

「……もらう。」

 靴を脱いで立ち上がり、すたすたと台所を突っ切った柚季は、卓の向かい側に座り込んだ。

「これ?」

「そう。どうぞ。」

 差し出した箸を受け取り、彼女は小鉢の梅干しを一つ口に含んだ。途端に丸っこい眉を顰める。

「大丈夫? かなり塩辛いよね。」

「らいじょぶ。この辺のは大体こんなだよ。薄味だとくさっちゃうから。」

「ああ、そういう理由なんだ。はいお茶。」

「あいがと。」

 柚季は湯呑から一口だけすすって、もごもごと口を動かしながら室内を見回した。

「なんか、いまの時間にこの家いるのってへんな感じ。」

「どうして?」

「あたしいつも帰りによってたから、夕方とかのイメージが強くて。朝は伯じい出かけてて、誰もいなかったし。」

「へえ。いつも寄ってたの?」

「うん、学校ある日はだいたい。」

 ならば二人のりも、打ち解け合って完成された形なのだろう。やけに堂に入っているとは思ったけれど。

「……諒兄ごめん、ご飯ひとくちちょうだい。からいこれ。」




 二人で家を出て、通学路を辿る。昨日と比べれば遅い時間であるためか、登校する児童の姿が多く目についた。

「……あのさ、」

「うん?」

 その間も特に言及せず飄々ひょうひょうと隣を歩く柚季に、問いただしてみる。

「どうしてわざわざ、今日も迎えに来てくれたんだろう。」

「……やっぱそれきく?」

「訊くよ。」

 親戚の道案内を頼まれたとは言え、当日の登下校どころか翌朝まで自発的に担ってくれるのを、親切な子だなあとぼんやり享受していられるほど僕も無頓着むとんちゃくではない。

「勿論感謝してるし、正直助かってもいるよ。でも君も友達とか別の付き合いがあるだろうし、あまり僕の世話ばかり焼かなくて大丈夫だよ。」

「んー……うん。」

 ぎこちない表情に、何やら歯切れの悪い返事。昨日の今頃、歩道橋の別れ際で見せたものと同じだった。

 まとまらない思考を振り払いたいのか彼女は徐々に歩調を速めたが、やがて赤信号で引っ掛かって立ち止まる事になった。

 すぐに追いつきその隣で返事を待っていると、漸く口を開いてくれる。

「友達も、いるけど。なんていうか最近、周りの子がみんなコドモっぽく見えちゃってさ。」

「……と言うと?」

「たとえば、どのアイドルがいいとか、キャラがかわいいとか。いつも誰かがくっついてきて、たまにつかれるっていうか。そのくせちょっと男子と話しただけで、へんなウワサになったりするし。なんなのって。」

「……なるほど。」

 今度は僕の方がぎこちなく頷いた。どうやら思ったよりも深刻な理由だったらしい。

 前の学校でもこちらでも、女子生徒たちがトイレにさえ連れ立って行動しているのを見かけた。おそらく柚季にはそういった慣習も肌に合わないのだろう。となると、彼女の苦労は中学でも続く事になる。

「そもそもこっちの地区は低学年ばっかりだから、一緒に登校できる同級生はいないんだけどね。」

 語気の強さで僕が黙り込んだと思ったのか、柚季は弁解するようにそう付け加えた。

「でも確かに、べたべた馴れ合いたがらない君が近所の小学生を引き連れて登下校するのって、想像しづらいな。」

「でしょ。」

 その感想を気に入ったのか、信号が変わり再び歩き出す中、彼女は勢いよく振り返ってきた。

「大体、生意気じゃん年下って。男の子とか特に、けったりしてくるし。」

「うん、その気持ちも分かる。やるせないよね。まあ僕の場合は女の子に蹴られたんだけど。」

「でもさ、中学生の諒兄といれば、ちょっかい出されないでしょ?」

「そういう思惑おもわくもあったのか。なるほど。」

 ふと周囲を見回してみる。ちょうど昨夕に訪れた雑貨屋の辺りだ。

 ランドセルを背負った子が数人、一定の距離を保ってこちらを楽し気に観察してはいるが、確かに今のところ柚季に干渉する者はいない。

「……周りが子供に見える、か。」

 彼女の言葉は思いのほか印象深かったらしく、気づけば復唱していた。

 そういった感覚は僕にも覚えが有るけれど、おそらく他人がどうこう言える話でも無いのだろう。

「じゃあ例えば、柚季が今興味を持ってるものって何だろう。」

 若干角度を変えてそう訊いてみると、彼女の横顔は視点を上げた。

「んー……一番楽しいのは、やっぱり競泳かなあ。」

「昨日も言ってたね。なるほど、スポーツか。」

 そうなると、また僕には想像できない世界だ。

「諒兄は何に夢中? あ、わかった流木プレゼント部だ。」

「……美術部だってば。」

「そんな名前だっけ。で、それ?」

「まあ、そうだね。もう少し正確に言えば、美術そのものかも知れないけど。」

「てことは、図工ずこうか。ふうん。」

 そう言われると途端に幼稚なものにも聞こえるけれど、反論も出来ない。未熟な芸術などは往々にして、何とでも呼ばれるものだろうし。

「で、らせておいて話を戻すけど。意外と皆、そう思っているみたいだよ。」

「〝そう〟って?」

「さっきの話。自分だけが周りと違っていて、自分だけが思いわずらっていて、それが誰にも理解して貰えないんじゃないかっていう。」

 現に僕も、未だに抱えている問題ではある。少しおもむきは変わってしまうだろうけれど。

「……ふうん。そうなのかなあ。」

 それから柚季は、指先まで日に焼けた手で側頭部あたりを押さえ、少しの間うーんと唸っていた。見かねてしまい、

「まあ、お互いに……難しい年頃だよね。」と結局お茶を濁す。彼女も、

「ほんとだよね。」と、そう他人事のようにまとめ合った。



   #



「お、舘原たちはらくんおはよ。」

「おはよう。あ、昨日は有難う。」

「んあ?」

 教室へ入り、顔を合わすなり礼を言う僕に、机で眠た気に頬杖をついていた加島さんは目と口を丸くした。

「なにが? なんで?」

「いや、部活の事とか教えてくれて、初日から色々と協力して貰ったし。昨日ちゃんとお礼を言えてなかったから、と思って。」

「……あー、」

 かえって戸惑いながらそう伝えると、ぽかんとしていた彼女は緩々ゆるゆると笑って頷いた。

「やっぱ紳士だねえ。」

「どうなんだろう……そんなに驚かれるとは思ってなかった。」

「で、ノコギリは持って来れたんだ?」

「うん。古いけど、割りと大きい物を貸して貰えたよ。」

「そりゃよかった。でも今日もし抜き打ちの持ち物検査でもあったら、今度の転校生は相当やばい奴だって噂が立つねえ。」

「……それは避けたいな。」

「あはは。まあお座りよ。」

 彼女は左隣にある僕の机を、指先でノックして示した。頷いてそこへかばんを下ろし、椅子を引いて座る。

 左手の窓からは、微風そよかぜが吹いている。それには、やはり潮の香りが含まれていた。

「どうしたん、ぼーっとして。」

「……ああ、」

 気づくと前席の、柚季に負けず劣らず日に焼けた男子生徒ウォルナットがこちらへ身を乗り出していた。先ほどまで教室をたむろしていたが、登校してきた僕を見掛けて席に戻ってきたらしい。

「何でもないよ、おはよう。」

「美術部どうだった?」

「うん。まあまあだったよ。」

「ふーん。飽きたら次はテニス部おいでよ。夏休みに他校と交流キャンプとかやって、楽しいから。」

 隣で聞いていた加島さんが、早速口を挟んでくる。

「悪いけど舘原くんはウチの監督だから、あげらんないよ。」

「カントク? 美術部で?」

 どういう意味だと目でこちらに問い掛けてくるが、僕も笑って首を振るしか無い。

「まあ、もう少し美術部の方で頑張ってみるよ。有難う。」

 彼も遮二無二しゃにむに誘う気は無いらしく、「そっか。」とすんなり頷いてくれた。

「でも加島、お前こっちの話に割り込んでくんなよ。昨日もずっと舘原くんに張り付いてただろ。」

「それは面倒見がいいっていうの。転校初日の子を放っとけないでしょ。」

「だからって、授業中まで後ろでヒソヒソ喋られると気が散るんだよ。」

「どんだけ杞憂よ。それ以上悪くなるような成績?」

 はたで聞いていて冷や冷やする会話だが、どうやらじゃれ合っているだけらしい。賑やかな応酬を、それこそテニスの試合観戦のごとく交互に見遣る。

 そうしていると田角先生が、やはり溌溂はつらつとした足取りで現れた。彼はちらりと僕を見ると意味あり気に頷いて、朝の号令を促した。




 無闇に話しかけてくる者が減って少し落ち着いたくらいで、昨日と似たような一日となった。

 休み時間などに誰かが唐突な質問を浴びせてきて、困惑に満ちた僕の返答を聞くとそれを自分の仲間内グループに持ち帰り、あれこれ議論する。一見すると輪の中心に居るようだけれど、何だか宙ぶらりんな位置に立たされているようだ。

 勿論誰にも悪意など無いのだろうが、あまり居心地がいいとは言えない。

(……柚季の今朝の話が、余計に分かる気がする。)

 僕らはただ丁度いい、そして都合のいい孤立ばかりを欲しがっているのだろうか。少なくとも、柚季へあれこれと助言できる立場では無さそうだ。おそらく僕は、より違和感に慣れているだけなのだから。

 もし今日も彼女が校門で待っていてくれたなら、今度はもう少し深く話を聞くべきだろうと思った。



   #



 数人のクラスメイトによる、今日こそは集まってゲームで遊ぼうという誘いを、部活の作業を理由に断った。するとそれにすら同行すると言い出したので、見ていてもつまらないからと丁重に断って校舎を出た。

 大袈裟に惜しんでくれる彼ら(あとそれを指差して笑う加島さん)と校門で別れる際、一応は見回してみたけれど付近に柚季の姿は無かった。

(まあ、これが当たり前か。)

 何も言わずに付き添ってくれていた彼女が居なくて、全く寂しくないと言えば嘘になる。しかし今朝の話で何か思うところがあり、自身の同級生へ意識が戻り始めているのだとしたら、それこそ健全で喜ぶべきなのだろう。

 それに彼女の母は、あまり娘を僕と関わらせたくないようだった。となれば、これで良かったのだろう。

 少し複雑な心境を抑えつつ、昨日と同じ坂道を一人で辿り浜辺に降りる。すると当の柚季がそこでぼんやりと海を眺めていたので、拍子抜けしてしまった。

 砂に足を取られながら歩み寄り、髪や袖を潮風になびかせているその後ろ姿へ声を掛ける。

「わっ? ……あーびっくりしたあ。」

 振り返った彼女は僕を見て、非難がましく言う。

「諒兄、もうちょっと存在感を出しなよ。ふな虫じゃないんだから。いきなり細い声でよばれて、見たらのこぎり持った少年がふらふら近づいてきてんだもん。こわいよ。」

「……ええと、ごめん。」

 何だろう、全く謝りたくない。

「でも柚季、どうしてここにいるの。」

「〝どうして〟とか。だって中学の前はいづらいから、こっちに先回りしといたの。昨日もけっこう待ってたんだよ?」

 そういえば昨日の放課後は、渡り廊下で田角先生と、美術室で部員たちと話した後だったので、彼女にすれば結構な待ち時間だっただろう。

「そうだよね、悪かったよ。でも僕が訊きたいのは、」

「だから、うちの方面には同級生がいないんだってば。とにかくほら、はやく木ぃ切ろうよ。」

 僕の脇を通り過ぎて目当ての流木へ向かう彼女を、とりあえず追う。明るい内に作業を済ませた方がいいのは確かだ。

 昨日、目印にと突き立てておいた棒切れへ歩み寄る。流木はその隣で、変わりなく転がっていてくれた。

 かがみ込み、慎重に位置を見定めてから、決めた箇所にノコギリのあてがう。

 包丁は兎も角、こういった刃物の扱いには多少慣れている。ノコギリの場合は下手にりきまない方がスムーズに往復できるので、僕向きの作業だった。

 先ず軽くノコギリを前後させる。そうして僅かに開いた溝に刃を固定させたら、後はガリガリと断ち切るだけだ。

「柚季、こっち側においで。風下にいるとちりが飛ぶよ。」

 反対側から工程を覗こうとしていた彼女は、素直に僕の傍らでしゃがみ直した。それを確認し、手元を動かす。

 マスクを忘れたことに懸念けねんがあったが、水辺であるお陰か流木の性質なのか、木屑きくずはあまり飛び散らなかった。一度咳き込むと暫く止まらなくなる僕にすれば、かなり有難い。

 少し斜めにずれつつも、無事に切り終えた。何か用途があるかも知れないので、他の枝も数本切り取り、表面や断面を海水ですすぐ。

「……。」

 ふと手を止めて振り返り、顔を上げた。僅かに見える校舎の更に上空で、大きな鳥が鳴いている。

 カラスより巨躯きょくで、姿形にも気高さを感じさせるその鳥は、強靭きょうじんそうな翼で風を受け、凧のように鷹揚おうようと宙を漂っていた。

「ひょっとして、タカかな?」

「んー? ああ、とんびだね。」

 僕が洗い終えた流木を受け取る役の柚季が、同様に空を見上げて答える。

「あれがトンビなんだ。初めて見たけど、鳶色とびいろほど鮮やかじゃ無いんだな。」

「はやぶさのが、かっこいいよ。たまにしか見れないし、小っちゃいけど。」

「それも見てみたいな。……また鳴いた。本当にピーヒョロロって鳴くのか。」

 トンビ自身は獰猛なさがを持っているのだろうけれど、その鳴き声はどこか遠くから、穏やかな風情を伝えてくれているようにさえ聴こえる。

「……諒兄って、ヘンだよね。」

「え?」

 視線を下ろすと、柚季は不慣れそうに目を細めて僕を眺めていた。

「誰かと話してるより、海とか空とかとんび見てる時のほうが、ずっと楽しそう。」

「……そう見える?」

「うん、見える。」

「そっか。それは……まずいね。」

 笑って首を振る。柚季にそう見えるという事は、同級生たちも気づいているのだろうか。あるいは例によって、この子が特別に鋭いのだろうか。

 トンビが僕らを見下ろして、またのんびりと鳴く。




 調達した流木を美術室に置かせてもらうため、一旦学校へ引き返した。

 ランドセルを背負った柚季を勝手に校舎へ入れる訳にもいかないので、すぐに戻る事を請け合って再び校門で待って貰い、昇降口に回る。

 靴箱の最後尾、シールも真新しい〝舘原〟の段から取り出した上靴うわぐつに履き替え、職員室を目指す。正面玄関で来客用のスリッパを借りた方が絶対に早いだろうけれど、まだあまり悪目立ちしたくない。

「お、まこっちゃん。」

 廊下を曲がったところで、向かいの階段を下りていた田角先生から親し気に声を掛けられた。やはりキビキビと動く彼に会釈で応え、ちょうど職員室の前で鉢合はちあわせる形になる。

「どうした。忘れ物した?」

「いえ、美術室の鍵をお借りしたくて。」

「おお部活か。今日は水曜だけど……それ持ってるの何?」

「流木です。明日の部活の準備で。」

「張り切ってるな。ああ鍵だったね、ちょっと待ってな。」

 田角先生は職員室のドアを開き、一歩入って身体を伸ばした。壁に掛けてある鍵を取ろうとする影が、擦りガラス越しに映る。

 そして彼は半開きのドアの向こうで、僕に呼びかける。

「なあ、先に誰か行ってるんじゃないか? 鍵もう出てるぞ。」




   四、かえらじのかぎ



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