九、水揺りの籠。




 水曜日の朝。出掛ける際に、柚季ゆずきが「今日カサ持ってったほうがいいと思う。」と忠告してくれたので従う事にした。外に雨の様子はうかがえないけれど、彼女の勘には実績がある。例の商店で購入した折畳傘おりたたみがさを鞄に入れた。

 何事も無く午前の授業を終えた昼休み。ふと美術室の様子を見に行こうかと考えた。明日は貝殻やシーグラスを、そしておそらく今後は鉱物も加工するだろう。その為の工具の有無や、透明粘土の乾燥具合なども確認しておきたかった。

 ちょうど給食係の当番で一階に下りる用事があったので、そのまま職員室へ向かう。が、再び美術室の鍵は出払っていた。

 今井繭浬いまいまゆりかも知れない。そう思うと胸が高鳴り、三階までの階段も妙に軽く感じられた。

 ピアノの音は聴こえない。軽くノックして扉を開けると、大机に書類を並べた勢良せら先生が一人椅子に座っていた。こちらを振り返り、人当たりの好い笑顔を浮かべている。

「おや、まこサン。どうかしたかい。」

 落胆しつつも会釈し、間近で挨拶しようと入室して歩み寄るが、その途中で彼は手を挙げて合図した。

「ちょっと今、三年生の個人情報も書いてあるやつを広げててね。あまり見えないように頼むよ。」

 受験生の担任すると懸念も多いのだろう。更に彼は学年主任も兼ねていると聞いたので、随分と多忙な筈だ。僕は頷いて立ち止まり、少し距離を空けたまま訊く。

「今後の部活で小型ミニルーターを使いたいのですが、美術室の備品に在りますか?」

「穴を開けたりするルーターかい? 例の制作で要るのかな、本格的になってきたね。」

 そう言って彼はあごに手を遣り、白いひげさする。

「確か前任の先生が置いて行った物が在った筈だよ。ちょうどよねさんが居るから、彼女に訊いてみてくれるかな。」

 その言葉に、準備室の方を振り返る。腰高窓こしだかまどの向こうで、本来教員が使う筈の事務机に米塚よねづか部長が座り、こちらに手を振っていた。

 勢良先生に頭を下げ、準備室へ入る。彼女はそれまで読んでいたらしい本を閉じた。

「やあ舘原たちはら部員。昼休みまでご苦労だねー。」

「部長、どうして美術室ここに?」

「うん、昨日書き置きしてったでしょ。私のクラス今日は美術の授業無かったからちょっと気になってね。あと粘土の様子も心配だったし。」

 飄々ひょうひょうとしているようでも責任感は確かで、頭が下がる思いだ。

「そうなんだ。米塚部長みたいに快活な人なら、昼休みなんて大勢の友達に囲まれて過ごしてるものだとばかり。」

「あはは。昨日も言ったけど、ずっと群れてると疲れんの。ここなら静かに過ごせるからね。で、舘原部員こそどうしたの?」

「僕は、これから必要になりそうな工具が在るかどうか確かめたくて。勢良先生が、米塚部長に訊いたら分かるって言ってたんだけれど……、」

 小型ルーターの用途や外見を説明するが、彼女は首を捻った。

「そんなの見た覚え無いけどなあ……まあとりあえず探してみよっか。」

 二人で引き出しを開けたり、棚の上に重なっている箱などを確認してゆく。

「……そういえば、昨日は有難う。海床路かいしょうろは興味深かったし、柚季の事も喜ばせてくれて。」

「ん? んーん、私も喜ばせて貰ったよ。特に二人乗りの時の、あのつぼみみたいな感触とかさ、」

「それより、水泳の練習についても約束してくれたんだよね。帰りのバスで柚季、ずっとはしゃいで居たよ。」

 戸棚を覗き込んでいた彼女の横顔が、少し恥ずかしそうに笑った。

「ま、私のリハビリに付き合って貰おうと思って。プールなんかだと周りの目がうるさいし、一人で海ってのもちょっとね。だから柚季ユズちゃんの練習と、誰かさんのカナヅチ改善にかこつけただけだよ……ねえ、これはその〝ルーター〟ってやつじゃないよね?」

 米塚部長が差し出したケースにはピンバイスが一式揃っていた。用途は同じだが手動なので、精々貝殻にしか使えないだろう。僕が否定すると、彼女は溜息をく。

「本当に在るのかな、それ。もし卒業生が残してった作品なんかに紛れてたりしたら、正直お手上げだよ。」

 その時、ポケットの携帯電話が短く振動した。取り出して画面を確かめると、メールが一件届いている。開くと送信者は今井繭浬で、ただ一言〝今日は体調が良いようですので〟と書いてあった。

 放課後、モデルに付き合ってくれるという意味だろう。携帯電話を取り落としそうなほど昂揚していると、背後から声が掛かった。

「精が出るね、お二人サン。」

 慌てて振り返ると、準備室の入り口に勢良先生が立っていた。米塚部長が早速ただす。

「先生、そのルーターってやつ本当に準備室ここに置いたの? 私見た事無いんですけど。」

「それが、さっき思い出したんだけど……どうせ美術の授業だと使わないからって、技術室の方に寄付しちゃった気がするんだよね。」

「ちょっと。そんなだから〝ラッセン〟なんて呼ばれちゃうんだ。」

「割と光栄なアダ名だけどなあ……。とにかくそういう事なんで、ルーターはボクの方で受け取りに行って来るよ。明日の部活までに使えたらいいんだよね? バッテリーも充電して準備室ここに置いとくから、それで勘弁して貰えないかな。」

 米塚部長は不承不承、僕は喜んで頷く。何せルーターが在るというだけで充分だし、最早それどころでは無いメールを受け取ったばかりだ。

 教室に戻っても退屈なだけなので、僕はそのまま準備室で残りの休み時間を過ごす事にする。ただでさえ狭い部屋なのに物が山積している為、軽く整頓しておきたかった。

 米塚部長が手伝おうとしてくれたが、暇潰しみたいなものだからと遠慮すると、彼女は事務机で読書を再開した。何の本を読んでいるのか興味は有ったが、集中している様子なので干渉しない事にする。きっと加島かしまさんや豊水とよみさんも、思い思いの昼休みを過ごしている筈だ。

 今井繭浬はどうなのだろう。整頓の合間、詳細を求めた僕の返信にすぐさまメールを返してくれる。教室で公然と携帯電話を操作する訳にはいかないし、当然美術室ここにも居ない。保健室のベッドならカーテンや布団の中で隠せるが、今日は体調が良いという話だ。となると図書室の片隅にでも、死角となる場所が在るのかも知れない。

 ともかく彼女のメールを確認する。たった一言、待ち合わせの情報らしい内容が書かれていた。

〝16時に××公園駐車場前のバス停で〟



   #



 放課後。僕は邪魔な教科書類は机に残し、昼休みに勢良先生から貰ったF4サイズの画帳スケッチブックと筆記具だけを鞄に入れた。急に画材が必要になったと彼に相談すると、持て余している備品だからと簡単に譲ってくれた物だ。

 ついでに例のバス停についても訊くと、少し遠いが県営のバスなら乗り換えずに辿り着ける筈だと教えてくれた。

「大きな橋が海を渡ってて、それを眺められる公園だね。昔は観光地として賑わってたみたいだけど、そういう質素な風景が受ける時代じゃないからすっかり寂れてるよ。しかし若いのに、随分と渋い場所に行くもんだなあ……。」

 と、彼は不思議そうだった。僕も待ち合わせ場所の理由や詳細くらいは知りたかったけれど、あまり今井繭浬に訊き返すと彼女の嫌う〝野暮やぼ〟に該当するだろうから、とりあえず指示に従い現地へ向かう事にした。

 校舎を出て、最寄りのバス停へ向かう。上りの路線に乗る為、道路の反対側に渡る必要があった。昨日と同様に、海床路へと向かうようなルートだ。

 歩道橋の階段を上り切る頃、当の今井繭浬が少し前を歩いている事に気づいた。手摺てすりを頼りに、ゆっくりと歩を進めている。僕には、彼女が呼吸を乱さないようにしている事が分かった。虚弱な人間はちょっとした疲労さえ回復が遅いので、普段から疲れないように立ち回る場合が多い。

 歩道橋の真ん中辺りで、その細い背中に追いついた。静かに通り過ぎてバス停へ向かった方がスマートなのだろうけれど、放っておけなくてつい声を掛ける。

「……あの。鞄、持とうか。」

 今井繭浬が振り返る。僕の姿を認めると、小さく頷いた。野暮だと睨まれ無視される事も覚悟していたので、少し意外な態度だった。周囲に人の姿が無かった為かも知れない。

「メール、読んで頂けたようですね。」

 彼女の鞄を受け取りながら頷く。

「今日は有難う。こんなに早く君を描けるなんて夢みたいだ。」

如何どう致しまして。しかし貴方の琴線に触れるシチュエーションかは、まだ分かりませんよ。」

「君さえ居れば美しい事と想うけれど。一応、これから向かう場所の事を訊いてもいいかな。」

 隣に並び、ゆっくりと歩く。大型の車が足元を通る度、歩道橋に振動が伝わる。それが落ち着く頃、「私なりに考えてはみたのですが、」と彼女は呟いた。

「モデルの経験など有りませんから、ただ私が好きな場所へ貴方を案内する事にしました。そこで自由に振る舞いますので、何を描くかはお任せします。」

「なるほど……。静止して欲しい時も在ると思うけれど、」

「協力はしますが、私が気紛れである事はお忘れ無く。」

 それは忘れようも無い事実だろう。頷いておく。

 歩道橋の上は風に煽られやすい。今井繭浬は髪や裾が踊らないように押さえたが、その長い髪は隣を歩く僕の肩や頬をくすぐった。胸中の戦慄を揶揄からかうような、ひどく甘ったるい感触だった。

「……諒兄まこにい?」

 進行方向へ意識を戻すと、反対側から階段を上ってきたらしい柚季が立っていた。無防備に笑ってこちらへ駆け寄ろうとしたが、僕が今井繭浬と並んでいる事に気づいて足を止める。固い表情で、ぺこりと頭を下げた。

 今井繭浬は微笑びしょうを返してはくれたが、それは路上で目が合った野良猫に向けるような不偏さを感じさせた。

「なんでこっち来てるの?」

 不可解そうな顔で、柚季は僕を見る。祖父の家に戻るのなら小学校側に渡る必要は無いので、当然の疑問だ。

「うん。部活の用事で、また出掛ける所なんだ。」

「今日はりゅう……ビジュツ部、ないって言ってたじゃん。」

「そうなんだけど……今井繭浬まゆりさんの事は知ってるよね。彼女は体調が難しくて、動ける日が限られているから。」

 彼女たちは互いに視線を合わせる。考えてみると性格から思想、髪の長さや肌の色に至るまで、全て正反対の二人だ。

「何だったら、一緒に来ない? ××公園の方面に行くんだ。僕も詳しくは聞いてないけど……、」

 そう誘うが、柚季は不審そうな表情のままかぶりを振った。

「やめとく。またバス代はらわせるの悪いし。じゃあね、まこすけべ。」と言い、彼女はさっさと歩道橋を渡ってゆく。また僕の学校まで迎えに来てくれるつもりだったのだろうし、何だか申し訳ない気持ちになった。しかし昨日は米塚部長との件であれだけ上機嫌だったし、さほど気にしていないかも知れない。

「……可愛らしい妹さんですね。」

 ついさっき柚季が上ったであろう階段を下りてゆく途中で、今井繭浬が言う。その割に先ほどは一言も発してくれなかった為、少し意地悪くも聞こえてしまう。

二従妹ふたいとこなんだ。」

「そうでしたか。道理であまり似ていないと。」

 どうやら彼女は、柚季の事を認識していないらしい。去年まで同じ学校に通っていた筈だが、やはり一方的に知られるばかりの存在だったのだろう。

 歩道橋から少し歩き、上り線のバス停に並ぶ。

「ところで、〝まこすけべ〟とは?」

「……気にしないで。」

 乗り込んだ県営バスは、少し混んでいた。今井繭浬を優先席に座らせ、僕はその付近で吊革を掴む。

 今井繭浬は無言で僕から鞄を受け取ると、それを抱えるように膝へ置いた。俯いた彼女の黒髪から旋毛つむじが、セーラー服の襟からは平らかな胸元が覗いている。どちらも透明に錯覚するほど白く、薄い皮膚だった。

 やがて彼女は睨むような目で僕を見上げた。眠たいのか、何か誤解したのかも知れないが、その眼差しにさえつい魅入ってしまう。

「……何か?」

「ううん。また延々とたたえたいけれど、周りに人が多いから思いとどまった所だよ。」

「賢明でしたね。そうなれば防犯ブザーを鳴らして次のバス停で降りて頂いてました。」

「君はヴァイオリンも弾くの?」

「何故でしょう。」

「左の鎖骨に赤いあざが見えたから、ひょっとしてと思って。」

「……。」

 彼女は長い髪を押さえて顔を傾け、左側の輪郭を見せてくれた。下顎骨かがくこつ辺りにも同様の痣が浮かんでおり、青白い肌の中で際立って赤く痛々しく美しい。

 返答としては充分だった。ヴァイオリンを弾くと、その二ヶ所に痕が残ってしまう事が多い。練習に力が入ってしまったか、あるいは皮膚が強くないのだろう。

「よければ、いつか聴かせて欲しい。その姿も描きたいんだ。」

「そうですね、機会が在れば。」

 彼女が指先を放すと、黒い髪がしなやかに流れ落ちた。そして眠ったように再び俯いてしまう。単純に疲れたのか、僕とのコミュニケーションはもう充分だという事かも知れない。

 やがて目的地の停留所に着いたけれど、降車するのは僕ら二人だけだった。だだっ広い海と駐車場が見える寂れたバス停で、周囲には公衆電話とトイレと、ここ数年は営業した気配のない売店などが設えられている。

 改めて鞄を預かると今井繭浬は歩き始めたので、再び後を追う。その方向には大型のリゾートホテルがそびえているが、こちらも暫く前に閉鎖してしまったらしく人気ひとけが一切感じられない。その敷地に沿って歩きながら、外観を眺める。

 敢えてゴシック調のデザインに拵えたのだろうけれど、管理されないまますっかり古びており、今の曇天と相俟あいまってホラー映画の舞台が務まりそうな雰囲気だった。

 そのホテルを迂回すると、裏手に小さな駐車場が在った。従業員や、資材搬入の為のスペースだったのだろう。膝ほどの高さでチェーンが張られているが、今井繭浬は躊躇ちゅうちょなくそこを踏み越えたので止むを得ず僕も従った。駐車場の片隅から、林へ分け入ってゆく小径こみちを進む。

 景観を誇るホテルは大抵、こうした自然の中へ唐突に建てられている。木々に覆われた小径はすぐに下り坂となった。どこへ続くのだろう。目の粗いコンクリートの上を落葉で覆われた悪路は、柚季と戦争遺跡トーチカへ向かった際の道程を思わせる。

 更に途中で雨が降り始めた。今朝方の彼女の助言はやはり正しかった訳だ。僕は鞄から折畳傘を取り出し、今井繭浬へとかざす。

「……用意がいいですね。」

 それだけ呟き、彼女は歩を進める。坂道を下り終えると、木々に代わり海が広がっていた。それに沿うコンクリートの路を歩く。潮水で傷んだのか状態が悪く、所々鉄筋が露出していた。

 やがて、同様に荒れたコンクリートの施設が現れる。傍目にも朽ち果てている上、規模も大きくは無い。遠からぬ未来、背後に負っている森の斜面へ覆われるか、眼前に迫っている海の水面へ呑み込まれてしまいそうな頼りない風情だった。

 遠景へ視線を転じる。対岸の陸へ伸びてゆく大型のアーチ橋とその上を渡る自動車たちが、遥か彼方過ぎて玩具のように見えた。自然と人智の共演と言えるのだろうが、勢良先生の言っていた通り玄人くろうと好みな眺めだ。

 先ほどのバスもさっさとその橋を通り過ぎてしまったのだろうけれど、僕らは辺鄙へんぴな停留所で降車し、更に辺鄙な坂道を下り、わざわざ雨の中を辺鄙な海辺に立っている。

 コンクリート施設の脇にも、池のようにささやかな海が続いていた。これは入り江を利用したのかも知れないけれど少々不自然な形に思えた。正面に広がる海との境界に桟橋のような枠が走っており、かつては柵などで海中を区切っていた形跡が窺える。まるでか、養殖場の残骸にも見える。となると、この施設はそれを管理するものだったのだろうか。

 今井繭浬は無言でそのコンクリート施設へ入ってゆくので、とりあえず従う。入口は自動ドアだったのだろうけれど殆ど硝子ガラス片として床に散っており、僕らの靴に踏まれて硬質な音を立てた。

 外観からの予測通り内部もひどく荒れ果てているが、雨はしのげるようだ。僕は傘を閉じ、濡れてしまった左腕をハンカチで拭った。外を眺めると、先ほどの小分けされた海の水面を雨粒が細かく揺らしているのが見えた。世界は灰色に染まっている。

「……置いて行きますよ。」

 背後からの呼び掛けに、少し驚いて振り返る。咄嗟とっさの雨宿りでこの建物に避難したものと思い込んでいたけれど、どうやら彼女にとっては順路らしい。

 薄暗い屋内に改めて目を凝らす。おそらくエントランスなのだろうけれどフロアもカウンターも廃材で散らかっており、ただの廃墟にしか見えない。その中央辺りで今井繭浬が立ち止まっていた。埃だらけの床に、濡れた靴の足跡が続いている。

「この先に、君の好きな場所が?」

「はい。鞄は荷物になるので、カウンターの裏にでも。」

 指示通り傘と二人分の鞄をそこに隠し、画材のみ取り出して彼女の背を追う。

「ここは一体、何の建物だったんだろう?」

 今井繭浬は何も答えずに歩き始めた。すぐにエントランスは終わり、隧道トンネルのような短い廊下をくぐる。雨音が遠退とおのいて、視界は開けた。漸く理解する。

「……水族館。」

 そのフロアには見渡す限り、巨大な水槽が並んでいた。無論空っぽで、かつて閉じ込められていたらしい生き物の名前と生態を記したプレートが添えられている。

 清算すべきチケットも持たず、それを渡す案内人スタッフも居らず、見るべき生き物の姿も無い。ひどく歪で前衛的なギャラリーのようにも思える。

「その跡地です。」

 彼女の背中が、静かに補足する。




 雨の音は、まだ微かに聴こえている。柚季とトーチカへ訪れた時にも思ったけれど、人間が去ったまま残された場所というのは耳に痛いほど静かだ。かつての活気や喧騒を、つい想像してしまう為だろうか。

 その中で僕たちの息遣いや靴音は、周囲の水槽で逆様さかさまに反響するように、どこか不適当なものとして還される。

 古びて曇った硝子が続いている。その一つを覗き込んで見ても、ただ色彩を失くした自身が薄く写り込むだけだった。

(……この光景には、既視感が有ったけれど。)

 それは単純に別の水族館の記憶という事では無く、美術室に残された今井繭浬の画帳へと思い当たった。あの空虚な水槽を並べられた鉛筆画は、きっとここで写生スケッチされたのだ。

 つまり、彼女はこの場所でそれなりに長い時間を過ごしてきたという事になる。延々と連なる濁った鏡たちを通して、一体何を見ているのだろう。例えば柚季のように、一人の居場所を散発的に求めているイメージを彼女にはあまり感じない。細い背中に目を遣る。

 水槽の前を通り過ぎる度、今井繭浬はその一つ一つに腕を伸ばして触れてゆく。暗い廊下を壁伝いに歩くように、あるいは境界をわか分厚ぶあつい硝子の存在を確かめるように。

 それは彼女にとっての儀式なのかも知れない。僕は画帳を抱えたまま等間隔の距離を保ち、そのゆっくりとした足取りを追う。彼女の後ろ姿と、彼女が眺めた筈の視界とを数秒遅れで見比べながら。

 やがて一際大型の水槽が現れる。かつてはこの水族館の目玉となる生き物たちが鷹揚に行き交っていたのだろうけれど、今は少しの土砂と草木を展示するだけの瓶詰め標本テラリウムだった。

 見上げれば割れた天窓から光と雨が、水槽へと降り注いでいる。おそらく台風の際、裏の斜面から落石でも受けて硝子を砕かれ、徐々に自然物の侵食を許したのだろう。まるで古びた中庭の明かりを頼りに、それへ沿う回廊を歩いているようだった。

 やはり一歩ごとに硝子へ手を触れていた今井繭浬も、やがて貌を上げて天窓を仰ぐ。雨雲と水槽越しの光はひどく淡く、ただでさえ白い彼女の肌に一切の色相も与えずにいる。

 降り込んだ雨の滴が、硝子の表面を伝い幾筋にも流れ落ちてゆく。その半透明の影が彼女の頬にも映っている。まるで泣いているようだけれど、実際の彼女はそうも真っ直ぐに涙を落とせないのではと想えてしまう。

 か細い雨が、木漏れ日のように降り続いている。いつか再び、この水槽が満たされる事はあるのだろうか。

「こういう場所を訪れた事は?」

 彼女は振り返らず、空の水槽を見つめたまま問う。こういう場所とは、つまり朽ち果てた廃墟という事だろうか。

「一度だけ。さっき擦れ違った二従妹に、近所の戦争遺跡を案内して貰った事があるよ。こことは趣が違ったけれど。」

「そうでしたか。」

「……君は、よくここに来るんだろうか。」美術室の画帳には、一旦触れずに訊いてみる。

「体調が良い日には。」

 こんな場所で過ごしていては寧ろ体調を悪化させてしまう気がするけれど、きっと今更の心配なのだろう。

 一階の徘徊を終え、階段を上る。二階は劣化が酷いらしく床の軋む箇所が在って怖ろしかったが、今井繭浬は全く意に介さずに平然と歩いてゆく。

 ここで床が崩れて大怪我を負っても誰にも気づかれない事は明らかなので、彼女は自身に執着していないのだと解る。あれだけ美しい器を持って生まれてきたというのに、とんでもない話だ。いっそ換わって欲しいとさえ想うが、あるいは彼女の美しさとはそういう精神にこそ基づいているのかも知れない。

 先ほどの大きな水槽は吹き抜けの要領でフロアを貫いている為、二階からも眺められた。やはり片手で硝子の感触を確かめながら、彼女は歩いてゆく。まるでそこに回遊する魚たちを見ているかのように、そして自らも回遊しているように。

「どうして君は、モデルを引き受けてくれたんだろう。」

 無意識の内に、その問いが零れていた。今井繭浬は立ち止まったが、やはり振り返ってはくれない。

「……どうしてでしょうね。自分でもよく解りません。

 私は、私を美しく残して下さる方を探してはいました。ただ、それが貴方である確信は有りません。ただ、」

 彼女は水槽の天井を仰ぐ。割れた硝子窓からの例の光は、何か啓示の含みを帯びているようにも見えた。

「あの日、貴方はうらみを弾いていましたね。その音は、まるで泣いているように聞こえました。何かを恨む事も出来ずにうずくまって、それでも潜め兼ねた慟哭どうこくのように。

 その時、〝ああこの人は私よりも不幸なのかも知れない〟と思ったんです。……理由としては、そんなものでしょうか。」

 告げ終えると、彼女は歩みを再開した。僕もその背に従う。

 二階は更に小規模だったようで、すぐにフロアを巡り終えた。三階は無く、コンパクトな水族館だった事が分かる。非常口のランプだったのだろう緑色のプラスチック片が散らばる出口から、バルコニーへ出た。

 雨は降り続いている。今井繭浬は海景へ興味を持たないらしく、立ち止まらずに細長いバルコニーを歩き、屋外用の階段を下りた。手摺てすりも設えられているが赤黒く錆びついていて、あまり使う気になれない。

 階段を終え、水族館脇の海辺へ下りる。これで一巡した事になるだろう。屋根もそこで途切れているので終点かと思ったが、彼女は折り返さずに雨の中を歩き続けた。その先には木々か海しか見当たらないが、まだ何か在るのだろうか? 仕方なく後を追い、まだ白紙の画帳を傘代わりに彼女へ翳す。

 水族館の裏手、茂みで死角になっていたけれど、そこに一基の普通索道ロープウェイが残されていた。ただの水路と電線にも見えたが索道と分かったのは、ケーブルカーも一台ぶら下がったまま廃棄されていた為だ。子供が喜ぶようにか派手なカラーリングで塗装されたらしいものの、今はすっかり色褪せている。

 森の斜面を下って水族館の敷地へ入り、そのまま海へ飛び込む寸前に設けられた終点でき止められたような造りの索道だった。その車両のサイズに合わせて地面を穿うがち舗装されたルートも植物に覆われ、ただ雨水を静かに海へ流している。

 一体どこと繋がっていたのかを知りたくて、斜面の方へ目を凝らす。ルートとケーブルが登ってゆく向こうには、先ほど通ったリゾートホテルらしい壁面が垣間見えた。なるほど、かつては二つの施設を行き交う設備として往復していたのだろう。

 今井繭浬は、驚いた事にそのケーブルカーへ乗り込んでしまった。当然動く筈は無いし、動いたとしても水族館のカウンターに鞄を置いているのでこの経路で帰る訳にはいかない。今度こそ雨宿りか、あるいは彼女の通例行事ルーティーンか、単に遊び心なのかも知れない。

 後に続くべきか迷う。こういったケーブルは多少の劣化で千切れたりはしないだろうけれど、万が一という事もある。コンクリートの上に車両ごと叩きつけられるだけならまだいいが、弾みで海へ転がり落ちてしまうかも知れない。

 意を決して僕も足を踏み入れた。車体が大きく揺れて怖ろしかったが、動揺を見せたくなくて平然を装う。

 車内は狭く、一度に十人ほどしか運べない小さなケーブルカーだった。片隅の座席に今井繭浬が座っているので、僕は通路を挟んだ反対側に腰掛けた。当然動き出す気配は無く、のちょっとした挙動でもゆらゆらと揺れる。ひどく不安定で不思議な浮遊感だった。

 雨は降り続いている。その囁きと車体の軋みだけを聴くような時間が流れてゆく。目の前には大きな車窓が在るけれど、経年と僕らの吐息で曇っていて景観は良くない。解像度の低い海が、ぼんやりと横たわっている。

 まるで水族館みたいだ、と思う。硝子のどちら側がそうなのかは判らないけれど。

「……これって、二人乗っても大丈夫なのですね。知りませんでした。」

 やがて今井繭浬がそんな事を呟く。呆れたくもなるけれど、それは僕を心中相手に選んでくれたという意味も伴う筈だ。だったら、このまま海へ落ちてしまっても構わないと想う。

 視界の端で彼女が頬杖をつき、それだけでこの車体は揺れる。原理は解らないけれど、妙に素直に言葉を紡いでしまう。

「美術室では、どうしてあんな事を?」

「心当たりが多過ぎますね。どの〝あんな事〟でしょう。」

「僕の怪我を……ほら。」

 すっかり塞がった人差し指の傷を遠慮がちに示すと、「ああ。」と彼女は頷いた。

「あの時は失礼しました。男性の血液はどんな味がするのかと、不意に興味が湧いてしまって。」

「……余計に解らなくなった気がする。女性の味なら知っているという事?」

 今井繭浬は袖のボタンを外し、露わになった腕を僕へ差し向ける。

 手首から肘関節近くまで、白い皮膚の上に幾つもの傷が赤く重なっていた。殆ど治りかけた傷跡も、つい先日刻まれたとおぼしいものも在る。自傷行為らしい。

「こういう事ですので、お気になさらず。」

 淀みなく袖を戻す今井繭浬の傍らの車窓で、雨粒がまとまっては流れ落ちてゆく。先ほど水槽でも見ていた光景で、その時僕は、きっと彼女は涙を真っ直ぐに落とせないのではと思った。そして彼女は、僕のピアノを泣いているようだったと言った。

 雨は降り続いている。僕らは身を寄せ合うでもなく、このケーブルカーの片隅にそれぞれ逃げ込んでいた。小さな車体は、潮風と雨粒とで遠慮がちに揺れている。まるで、ひどく気を遣った上であやしてくれているみたいだ。

 目の前の海は湖のように静かで、僕らはケーブルカーの進行方向に背を向け、ろくに見えもしない水面ばかりを眺めていた。

 白い肌に赤く繰り返された傷痕が、網膜へ焼きついている。僕は今井繭浬が臨む深淵を知りたいと、そこで立ち尽くす彼女の姿を描きたいと想った。



   #



 雨は小休止を挟みながら、翌日の木曜日にも続いていた。

 放課後の美術室。無事に乾燥した透明粘土を加えると、流木は一挙にコスモスらしくなった。あとは一昨日おととい拾った漂着物で装飾すれば完成だ。

 米塚部長と加島さんは一旦、植物図鑑などを図書室へ運んでくれた。もう資料の役目を果たしたし、今日が返却期限日だ。

 僕は豊水さんと美術室に残り、設計図のノートを挟んで向かい合った。貝殻やシーグラスも大机の上に並べ、どの漂着物をどこに配置するか話し合っておく。

 図書室へ向かった二人が戻って来ないまま、デザイン案は《おおよ》凡そ決まってしまった。勢良先生が用意してくれた小型ルーターも準備が出来ているので、そのまま制作を進める事にする。

 漂着物にルーターで穴を開ける作業だけれど、貝殻はスムーズに終えられたもののシーグラスが難儀だった。先端ドリルビットで貫く過程で全体にひびが入り、割れてしまうのだ。

 豊水さんと試行錯誤した結果、彫り進める内に生じる摩擦熱を時折り水で冷却すると、割らずに穴を開けられる事が判った。

 後はそれらを、海辺で回収した釣り糸で結んで流木から吊り下げるだけだ。当然釣り糸は複雑に絡み合っているため、幾つかに切り分けてから豊水さんと分担してほどいてゆく。

「何だか、今日は特にぼんやりしてるみたいだね。」

 そう言う豊水さんの視線は、自身の手元を見下ろしたままだ。

 彼女は米塚部長や加島さん、あるいは柚季たちと違い、僕とのコミュニケーションに消極的だ。あまり干渉するのもされるのも得意でない僕にとっては正直、有難い距離感だったりもする。

「うん。少し……考える事があって。」

 そういった返事も、先ほど挙げた三人ならすぐに詳しく聞きたがるだろうけれど、彼女は「そうなんだ。」で済ませてくれる。

 実際、僕は昨日の時間をひたすらに反芻はんすうしていた。今井繭浬と歩道橋で逢って同じバスで移動し、立ち入り禁止の駐車場から海辺へ下り、水族館を徘徊しつつ言葉を交わして、揺れるケーブルカーの残骸で雨の夕方を過ごした。その記憶を何度も繰り返していて、気づけば今日の放課後になっていたという感覚だった。

「……それにしても部長たち、遅いね。」

 何か言うべきな気がしてそう呟く。豊水さんはちらりと時計を見た。

「どこで油売ってんだか……本当はあの二人を組ませたくなかったんだけどね。まことくんは現場に必要だし、部長ちさとも〝図書室なら私が行く〟なんて妙に言い張るもんだから。

 ……今頃は図書室で騒いだ罰で、棚の整理でも押しつけられてるんじゃないかな。」

 苦笑してしまう。確かに彼女たちの組み合わせだと、ブレーキ役が居ない事になるだろう。

「豊水さんは、二人とは長いの?」

「うん。小梅うめことは幼稚園の頃から。千慧ちさととも長いけど、話すようになったのは最近だよ。あの子は畑が違ったから、接点が無くてね。」

「そうなんだ。」

 考えてみると、この美術部メンバーにはよく分からない点が多い。水泳部のエースだった米塚部長と、アナログ絵には興味が無いらしい豊水さんと、学校に居る間ずっと眠たそうな加島さん。彼女たちは、どういった経緯でこの部に集まったのだろう。

 その辺りを訊いてみようかと思った直後、美術室の扉が勢いよく開かれた。今井繭浬はこんなに派手な音を立てないので案の定、姿を見せたのは件の二人だ。

「……お帰り、遅かったね。で、どういう事かな。」

 豊水さんの静かで的確な詰問に、僕も頷く。彼女らは本を返しに図書室へ向かった筈なのに、それぞれ本を抱えている。何なら増えているように見える。

 大机に置かれたそれらのタイトルを確認すると、石や鉱物に関する図鑑の類らしかった。加島さんが息巻く。

「借りてきたの。こないだ拾った石に宝石が無いか、調べようと思って!」

「……部長ちさとは?」

「私はこれだよ。」

 運ぶ量を分担しただけで、米塚部長が選んだのは二冊ほどらしい。石の加工や研磨に関する専門的な本だった。

「遅れたのは部長ちさとのせいだよ。こーんなマニアックな本探してるから。」

「どの道必要になるだろ。石拾いが目的じゃないんだから。」

「……二人とも、気持ちは分かるけどまず流木コスモスが先でしょ。諒くん、何か言ってやって。」

「うん、彫刻に興味を持ってくれたみたいで嬉しいよ。」

「……こういう時、相方バディが天然だと困るんだよね。」

 豊水さんは深刻そうに額を押さえた。外は雨だし、もしかすると偏頭痛へんずつう持ちなのかも知れない。心配だ。

 し崩しに四人での制作を再開する。下準備は豊水さんと済ませたので、あとは時間の掛かる作業ではない。解いた釣り糸で、漂着物を流木の枝に結び付けていく。

 風や振動に揺れ動く立体作品、所謂いわゆるキネティック・アート*²⁹と呼べるのだろう。ただ大袈裟な物では無いので、中学生が小学生へプレゼントする装飾玩具モビールくらいの認識が丁度良さそうだ。

 ともあれ、美術部での最初の制作は無事に終わった。「乾杯しようよ!」という加島さんの無邪気な提案にって、また例の不味い珈琲を四人で囲む。そろそろ遠慮したい味なのだけれどこのタイミングで断るのは無粋だし、予定通りに流木コスモスを完成させられたのは彼女たちのお陰なので、喜んで付き合うべきだろう。

 大量の砂糖とミルクを投入して騙し騙し喫する。誤魔化す為の甘さだけれど今は有難かった。豊水さんが再び振る舞ってくれたクッキーと完成したばかりの作品を肴に、心地よい疲労を味わう。晩酌する祖父も、こういった心境なのだろうか。

 部員たちは残りの漂着物を大机に引っ繰り返し、石の一つ一つを図鑑と見比べながら議論していた。その賑やかなお茶会の中、ふと窓を眺める。

 今日は雨が降っている為、天井の電灯を点けている。美術室ここは三方向に窓が設置されているので普段はかなり明るく、その光を灯すのは珍しい。慣れ始めた場所なだけに、少し不思議な雰囲気だった。

 隣の加島さんが大机へ身を乗り出した振動で、流木に結びつけた漂着物たちが揺れた。玉暖簾たまのれんのように連ねられた、小さなシーグラスに目が留まる。それは水色から青色へのグラデーションを点々と描いていて、まるで雨粒や涙を可愛らしく象徴しているようでもあった。

「……よく降るね。」

 向かいの席の米塚部長が、窓を眺めつつ呟く。僕が思考に耽っているのを見兼ねたのかも知れないし、あるいは単にはしゃぎ疲れただけかも知れない。

 ただ頷く。暗い窓には僕らの姿が写っているので、そんな返事でも伝える事が出来た。彼女は珈琲で喉を潤して言葉を続ける。

「昨日が梅雨入りだったってさ。これから当分は雨だよ。私髪がハネやすいからさ、この季節って憂鬱なんだよね。」

「……そうだったんだ。」

 昨日の、いつ頃の雨が境目だったのだろう。あの割れた天窓を仰いでいる時、あるいは壊れたケーブルカーに揺られている時に、境界線となる雨雲が僕らの上を通り過ぎていたのだろうか。

 窓に囲まれたこの部屋も、いっそ事在るごとに四角く区切られるこの学校さえ、水槽のようなものじゃないかと思えてしまう。けれど、ここの足元は只管ひたすらに頑丈で揺らぎはしない。居場所の無いはぐれ者を宥めてはくれないのだ。

 今井繭浬は、どうしているのだろう。この雨を聴いているだろうか。メールが届かないという事は保健室で休んでいるのか、自宅で過ごしているのか。彼女の事だから、今日も水族館に赴いて一人、あの揺り籠に座り込んでいても不思議ではない。

 僕は画帳を取り出した。昨日は結局何も描かずに雨で濡らしてしまったので頁の状態も悪いけれど、構わない。

 脳裏に焼き付いた視界を辿るように、鉛筆を動かした。



   #



 翌日金曜日の放課後に、完成した作品を小学校へ寄贈した。

 米塚部長は先生に話を通してくれたけれど同行は辞退し、加島さんも習い事があるそうで、豊水さんと僕で勢良先生の貨物自動車バン流木コスモスごと乗り込んだ。

 小学校には前もって連絡されていたようで、校長室まで招かれて譲渡する様子を教員に撮影された。校内の広報に載せる為らしいが、米塚部長はこの辺りの恥ずかしさを予見して敬遠したのかも知れない。

 寄贈を終え、勢良先生の車で小学校を後にする。児童たちの無邪気な見送りを受けて、面映おもはゆかった。

 勢良先生はそのまま僕らを家まで送り届けてくれると言う。豊水さんは彼女の自宅前で降りたが、僕は美術室に置いてある画帳が気になった。あれには水族館で見た今井繭浬のイメージを素描デッサンしてある。もう週末なので、出来れば持ち帰って自室でも触れたかった。

「あの、頂いた画帳を美術室に忘れたので、僕も学校までお願い出来ますか。」

 後部座席からそう申し出ると、彼は頷いてくれた。

 校舎に戻り、再び三階へ上る。勢良先生も仕事を残しているらしく、同行してくれた。美術室を開錠し、僕は準備室に置いておいた画帳を回収する。これで充実した休日を過ごせるだろう。

 悦に浸っていると、勢良先生も準備室へ入ってきた。目尻に寄ったしわが、仏像のように彼の人相を和らげている。

まこサン、折角だから珈琲でも飲んで行きなよ。安物のインスタントしか無いけど。」

「……珈琲、ですか。」

 よく頂いてます、それ不味いですよねと白状する訳にもいかないし、何か僕に話がある様子だ。とりあえず頷くと、彼は「皆には内緒だよ。」と気の毒なほど無邪気に二杯の珈琲をれてくれた。

 窓に面した大机の椅子に並んで座る。美術部の顧問と部員ではあるけれど、こうして二人で話すのは初めての事だ。

「しかし、喜んでくれたみたいで好かったねえ。よねサンから経過報告は聞いていたけど、面白い作品だったよ。」

 彼の横顔が、珈琲を啜りながら言う。確かに、その場に居合わせたらしい小学生たちが興味津々の様子で流木コスモスに群がってくれた光景は、思い出すだけでくすぐったくなる。

「部員の皆のお陰です。初日から、随分と協力して貰いました。」

 感慨深げに頷く彼からは、少し煙草の匂いがした。

まこサンも含めて、今時珍しいくらい好い子たちだからね。皆とは、ゆっくり話せたかい?」

 少し抽象的な質問なので言葉を選んでいる内に、彼がそういう話をしてくれるつもりなのだと気づく。

「作業と雑談ばかりで、話という話は中々。米塚部長が水泳で活躍していたという事は聞きましたが……それにしても二年生は皆、美術に興味の無い部員ばかりで驚きました。」

 少し無遠慮な内容なので慎重にそう言うと、彼は相変わらず仏のように目を細めて微笑んでいる。

「もう聞いたと思うけど、この学校では部活は強制参加なんだ。それ自体は珍しくないんだけどね。活動日は週に二回だけだし、受験生は免除だから配慮もされてるしね。」

 確かに、システム自体に問題は無いだろう。

「ただ、選択肢が少ないと言うか……やや極端にも見えてしまうのですが。」

「そうだね、同意見だよ。必ずどこかに参加しないといけないのなら、間口を広げておくべきなんだけど……この学校の部活や姿勢は、ちょっと限定的だからね。」

 それなりに言い難そうだが、彼が生徒の意見に耳を傾けてくれる教員である事が分かる。つまりは苦労も多いのだろうと想像してしまう。

よねサンは、小学生の頃から水泳で注目されてた子でね。中学うちに入学する前にも騒がれていたし、去年の時点で色んな高校からスポーツ特待の話が出ていたみたいだよ。」

 柚季の話を軽んじる訳では無いけれど、改めて教師の口から聞くと重みの違う内容だった。米塚部長の普段(特に食事中)の姿からは想像できないと思ってしまうが、しかしそれは傍観者の視点なのだろう。彼女の言動や人格は、水泳の成績云々とは無関係な筈だ。

「ただ、期待や重圧を受け過ぎたんだろうね。肩を故障した時、それ自体は大事おおごとじゃ無かったみたいだけど、彼女は水泳部から離れて美術部ここに来たんだよ。見ての通り緩い部だから、他より選びやすかったんだろうね。

 退部届も提出した後だから手続き上は問題なかった筈なんだけど、水泳部の先生は認めてくれなかったみたいでね。そんな中美術部ここへの入部届をボクがあっさり受理してしまったものだから、その先生からは随分と睨まれてしまったよ。」

 彼は破顔しているが、色々と笑いづらい話だ。

「もしかして、米塚部長が今日小学校に行かなかったのは……、」

「そうだね。ここは狭い地域だから、小さな記事でもどこまで広がるか分からない。彼女が水泳部でなく美術部として活動している事を写真や名前付きで報せられると、難しい兼ね合いが生まれるかも知れないから、その辺りを憂慮したんだと思うよ。」

(……そういう事だったのか。)

 勢良先生は、困ったように襟首を掻いた。

「込み入った話をしてしまっているね。迷惑では無いかい?」

「いいえ。彼女たちには本当に助けられていますので、少しでも知っておきたいです。あの、豊水さんと加島さんは……、」

「うん。とよサンは元々デジタル画をやりたい子だったんだけど、うちの学校には生徒にパソコンを扱わせる部活が無くてね。ボクも疎いものだから、今も技術の先生にPC部を作りたいって申請中なんだよ。もし人数が集まれば新しい部活として認められるかも知れないけど、早くても来年度だね。」

 そういった挙動までは知らなかった。しかし来年度となると受験生なので、あるいは豊水さんは今後の後輩たちの為に運動しているのかも知れない。

「そんな訳でとよサンはとりあえず美術部に居てくれてたんだけど、上級生が卒業して今年は部員一人になっちゃってね。同時によねサンも水泳部を辞めようとしていたから、共通の友達だったうめサンが二人の間を取り持ってくれたんだ。〝だったら私も付き合うから、皆で美術室に湿気込しけこもうよ〟ってね。」

 中々微妙な表現だと思うけれど、勢良先生はくすくすと笑っている。

「最近でこそ仲の良い二人だけど、あの頃は水と油だったからね。つまり顔の広いうめサンが間に入ってくれたお陰で、今日こんにちの美術部が守られたって訳だよ。

 まあ本人も習い事メインの子で、疲れる部活は避けたかったみたいだから、利害が一致したんだろうね。」

「……なるほど。」

 彼女が世話を焼いてくれる恩恵は身に染みているけれど、そこまで根深く部に携わっていたとは知らなかった。

「これは、個人的な考えなんだけどね……、」と、勢良先生は少し難しい表情になった。笑ってはいるけれど、どこまで言葉にすべきかを決め兼ねているようにも見える。

「ボクとしては、美術部うちみたいな部が一つくらい在ってもいいと思うんだ。学校側に用意された選択肢で本領を発揮できない子たちが集まる場所としてもね。

 ただ、中にはそれを許せない先生がたられてね。如何せんよねサンの存在が大きいものだから……〝下手に受け入れ先があるから甘えてしまうんだ〟とか、〝中学生はスポーツをやるべき時期なのに、あまり脇道に逸れるのは考え物だ〟ってね。……まこサン、そんなに怖い顔をしないでよ。」

「……失礼しました。」

 自分の視野や想定の内側に生徒を縛りつけておけばを教育が成立すると思い込んでいる教師は、どこの学校に居るものらしい。

「勿論スポーツは色んな事を学べるし、今の時期から運動しておく事はとても大切だよ。ただ、感性に心を傾ける事も同じくらい大切だとボクは思うんだけど……曖昧な話になってしまうから、説得力には欠けてしまうんだよね。

 ……少し、大人の事情を話し過ぎたみたいだ。愚痴ぐちのように聞こえてしまったなら謝るよ。君なら、自分の頭で物事を考えてくれると思ってね。何かの判断材料になれたら嬉しいし、重苦しければ全部忘れてくれても大丈夫だから。」

「いえ、お話を伺えて良かったです。」

 身の回りの状況を包み隠さず教えてくれる大人の存在は、有難いと思う。

「ただ……僕が今回、小学校に作品を寄贈した事は大丈夫だったのでしょうか。何か、余計な波風を立ててしまったのでは……?」

 僕が美術に入って活動する事が、勢良先生にも、あるいは担任の田角たすみ先生にも、火中の栗*³⁰を拾わせているのではと気掛りだった。何せ僕のような男子生徒はスポーツをやるべき存在なのだろうから。

 しかし勢良先生は目を丸くして、意外そうに笑った。

「まさか。この上なく真っ当な活動だし、そろそろ百人一首じゃなくて何か形を示してくれないかなと思ってたから、ボクの立場にしてみれば正直、助けられたくらいだよ。……そうか、君は〝自分が男子だから〟って心配もしていたみたいだものね。そんな事で退部なんてさせないから、安心していいよ。

 まこサン。思った通りに、物造りをやってごらん。つまらない問題は、極力ボクの方で引き受けるからさ。」

 そして彼はひげだらけの唇の前に指を立て、片目を閉じて見せる。

「だから今日の話は、他の先生とかにバラさないでね。」




 やがて勢良先生の携帯電話が鳴った。どうやら次の予定に干渉する時刻らしく、今日の談話はお開きとなってしまう。いよいよ肝心の今井繭浬について訊こうと思っていたのに、残念だった。

 家まで送れなくてゴメンね、と謝る彼に頭を下げて、学校を後にする。間を置かず再び雨が降り出した。どうも間が悪い。

 折畳傘を差して帰路を歩く。自分の所属する美術部について、漸く分かってきた。今井繭浬の存在にばかり気を取られていたので、あるいは腫れ物を一ヶ所に纏めたようなコミュニティなのだろうかとも考えてしまったけれど、そういう訳でも無かったらしい。

 県道を曲がり、いつもの上り坂に差し掛かった。呼吸を整え、ゆっくりと歩く。すると背後から、水溜りを踏んで駆けるような足音が聞こえてきた。

 飛沫を受けたくないし邪魔にもなりたくないので、道を譲るつもりで脇に退く。するとその足音は真っ直ぐ僕の方へ駆け寄り、傘のふちから、ひょこりと顔を覗かせた。

「やっぱり諒兄だった。」

「柚季。びっくりするよ……。」

 そのまま傘を差し向けるけれど、もう彼女は全身びっしょりと濡れてしまっている。自身の傘はちゃんとランドセルにぶら下がっているので、例によって億劫なだけだらしい。

「今日は水泳教室じゃなかったと思うけど、随分遅かったんだね。」

「うん。帰りの会がめんどい日だったのと、流木プレゼント部から流木プレゼントされたみたいだから、それ見に行ってた。」

 長い距離を走ってきた様子の彼女だけれど、僕と話しながらも既に呼吸は整っている。つくづく羨ましくなる。

「あんな化石みたいな流木だったのに、かわいくなってたね。あたしが見つけたシーグラスとかも使われてたから、ちょっとうれしかった。みんなからの評判もよかったけど、あのいちご大福はどういう意味なの?」

 誇らしく聞いていたけれど、末尾で首を傾げざるを得ない。

「……苺大福?」

「うん。のぞきこまないと見えない場所に一個だけ、コスモスじゃなくていちご大福くっつけてたでしょ? あれだけやたらキレイだし、みんなで〝これどういうメッセージなんだろうねー〟って話してたよ。」

「……。」

 加島さんと豊水さんが、余った透明粘土で作っていた苺大福の存在を漸く思い出す。あれからすっかり忘れていたけれど、いつの間にそんなトラップを仕掛けておいたのだろう。部活中だと気づく筈なので、おそらく今日の昼休みだ。

 そういった悪戯を行う人間の心当たりは二名だが、加島さんは部活以外で美術室に近づくタイプではない。残る米塚部長は昨日の昼休み、流木の保管場所である準備室で読書をしていた。今日も同様に過ごした可能性は高いと言えるだろう。

 読書の合間、ご丁寧に透明ボンドを使ってこっそり苺大福を忍ばせ北叟笑ほくそえむ彼女の姿が、目に浮かぶようだ。

「……やられた。」

 つい笑ってしまう。柚季は顔いっぱいに疑問符を浮かべていた。

「どゆこと?」

「いつか、米塚部長と水泳の練習をするんだよね。その時に訊いてみて。」

 彼女は腑に落ちない様子のまま、しかしその事を思い出すだけで充分に幸福らしく、満面の笑みで頷いた。

 家に戻ると、やはり柚季は率先して玄関へ入り「はくじいー。」と呼ばわった。僕はとりあえず洗面所に向かい、そこから彼女のタオルを取る。

 玄関に引き返すと、やはり柚季は祖父から何か与えられたらしくもごもごと口を動かしていた。

「戻りました。」

「ん。」

 とりあえず祖父に挨拶してから、柚季にタオルを渡す。彼女はそれで全身を手早く拭いて僕に返し、「ありがと。じゃね。」と玄関から雨の中へ出て行った。傘を差す気配は無い。

(拭いた意味……。)

 湿ったタオルを手に見送りながらそう考えていると、祖父が「飯にしよかね。」と呟いて台所へ戻った。

 とりあえず頷いて洗面所に戻り、タオルを洗濯カゴに入れた。




 居間に入ると、いつもの食卓には店で買ってきたらしいパン類が並んでいた。

「……珍しいですね。」

 この家に来てから主食はずっと米だったので、つい呟く。

 食事中に祖父から聞き出してみると、どうやら彼は休肝日を設ける事にしたらしい。ただし和食だとどうしても日本酒を飲みたくなってしまうので、いっそ夕食をパンにしてみたという事だった。

 しかし彼は総菜パンを噛み千切ちぎりながらも「全く食った気がせんな……。」とブツブツ愚痴っていて、何だか可笑しかった。

 あまり買い慣れていないらしくパンは余り過ぎてしまい、残りは明日に食べる事になった。スープやサラダは無かったので、今日は食器洗いもすぐに済むだろう。

 食後、飲酒していない祖父はやはり物足りないのか台所に引っ込んだ。こっそりお酒を飲むのだろうかと居間から見守っていたが、彼はどこか得意気な様子で僕へ振り返った。

「珈琲でも飲むかね。」

「……珈琲、ですか。」

 祖父のイメージは緑茶と日本酒なので、少々意外な提案だった。とりあえず頷くと、やがて彼は僅かに気取ったような、そして気恥ずかしそうな面持ちで戻ってきた。その手の湯飲ゆのみには、珈琲らしい液体が満ちている。

「頂きます。」

 その頃ちょうどテレビでは大相撲五月場所のダイジェストが放送されていたので、僕はそれに目を奪われつつ湯飲をすすった。

「くぶふッ、」

 直後に咳き込んで噴き出した。

「……汚いぞ。あまり出すな。」

「失礼しました……。」

 呼吸を整えつつ、手元の湯飲を見下ろす。その水面には黒い粒が無数に浮かんでいた。これが僕の喉に干渉したらしい。

「あの、これは一体……。」

「珈琲だ。苦手だったかね。」

「いえ……、」

 辺りをティッシュで拭ってから、台所に向かう。そこに置かれた珈琲豆の説明書きを読んだ。どうやら祖父は粉をドリップせず、インスタントのようにお湯でかき混ぜて淹れたらしい。これでは雑味も酷いし、何より口当たりが悪過ぎる。

 僕が淹れ直す事を請け合い、台所を見回す。ドリップする為のネルやペーパーは無いようなので、キッチンペーパーで代用する事にした。湯飲の口に被せて粉を乗せ、たわませながらお湯を注ぐ。不器用なりに工夫し、何とか二杯分を作った。

 祖父に渡すと早速彼は啜ってみて、感心したように頷いた。

「今までは粉が口に入って難儀しとったが、これは飲みやすいな。」

 味も随分変化した筈なのだけどその点には頓着していない辺りが、祖父らしいと思ってしまう。

「明日は俺も休みだ。また朝からパンを食うだろうから、淹れ方を教えてくれるかね。」

「はい、勿論です。」

 僕も湯飲に口を付けた。インスタントより香りが高く、味も真面まともだった。

 考えてみると先ほど美術室でも珈琲を飲んだので、一日でカフェインを摂り過ぎたかも知れない。僕は耐性が弱いし、きっと今夜は上手く眠れないだろう。

 ただ、祖父の言葉通り明日は休みだし、大量のパンがあるので料理を手伝う必要も無い筈だ。少し夜更しして、今井繭浬の素描デッサンに耽っても構わないだろう。

 手元で揺らめくこのブラック珈琲さえ、甘く感じられた。




   九、水揺みずゆりのかご




※ 後注


*²⁹キネティック・アート

彫塑に限らず動きの有る立体作品を指す。例えば花火・噴水・風車かざぐるまなど多岐に渡る。


*³⁰火中の栗を拾う

イソップ寓話に因る諺で、他者の為に危険を冒す行為の例え。




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