八、潮合いの道。



 月曜日の放課後。僕は一人で美術室に入った。

 今日は部活を行う日ではないので誰も集まらず、ひどく静かだ。

 朝、隣席の加島かしまさんからは顔を合わせるなり、「週末で持ち直したみたいだね。安心したよ。」と言われた。土曜日の別れ際、僕はよっぽどひどい状態だったのだろう。

 目の前の大机にはかばんと、この部屋の鍵が置いてある。少々雑に放ってしまったので、その際の躍動感が余韻を残している。

 片隅に佇むアップライトピアノを、どうしても意識してしまう。歩み寄って鍵盤蓋を持ち上げ、その白鍵に触れようとして、不思議な背徳感に苛まれた。

 何故だか今井繭浬いまいまゆりけがしてしまうような気がして、すぐに鍵盤蓋を閉じる。足早に美術準備室へ入り、真っ直ぐに最奥の棚へ向かった。その最下段は、いつの間にか美術部のスペースになっている。敷かれた新聞紙の上に流木が横たわり、乾燥を待つ粘土細工と、植物図鑑などの資料も並んでいる。

 僕は流木と数冊の本を抱え、慎重に大机まで運んだ。席に着き、設計図のノートを開く。

 米塚よねづか部長の助言で流木、つまりコスモスのくき部分にも装飾を施す事になった。図鑑などで見てみると、実際のコスモスの茎はその花と比べれば頼りなく、ひょろひょろと所在なさに空へ伸びている。

 流木に絵具で緑色の線を塗るのもいいけれど、その上さらに貝殻やシーグラスで飾るとなると、今度は花以外の主張が強くなり過ぎてしまうだろう。

 昨日は殆ど眠っていたので中々寝つけず、夜更よふかししながら思案していたが結局、茎を象徴したデザインを彫り入れる事にした。そうすれば全体のバランスを崩さず、足を止めて眺めてくれた人にだけ気づいて貰える仕掛けを残せるだろう。

 鉛筆でアタリを記し、彫る場所をおおよそ決めておく。ただ花へ続くだけの線では面白味が無いので、流木の枝に巻き付くような軌道を加えたり、緩急や点線を織り交ぜたりしてみた。

 いざ持参の彫刻刀を取り出したが、流木を彫るのは思いのほか大変だった。細く円筒形なので刃先が逃げやすいし、その度に角度を変えたり押さえ込む必要があるけれど、あまり負荷を加えると簡単に枝が折れてしまいそうだ。不自然な体勢で、慎重に彫り進めていく。

 彫刻は、少しでも美しいようにと削り、磨き、整える作業だ。何も考えずに没頭していられる。作業を終える頃には一時間以上が経っていた。

 考えてみれば、こんなに長い時間この部屋に一人で居るのは初めての事だった。あまりに静かで、もう生徒も教員も全員下校してしまい校門も閉ざされ、僕だけが取り残されてしまったような錯覚に陥る。

 今朝方も柚季ゆずきは水着のバッグを小脇に抱えていて、今日は学校のクラブではなく正式な水泳教室の日だから嬉しいと語っていた。だから正門付近を探しても、僕を待ってくれる彼女の姿は見当たらない。気兼ね無く美術室ここに入り浸って居られるというものだが、同時にどこかへ引き返す為の道標を見失っているような気もする。

 取り留めも無い。そろそろ彫刻刀を仕舞おうとしたけれど、随分と切れ味が落ちている事が気になった。流木の砂埃や木屑が付着したのだろう。準備室で砥石とぎいしを探すが見当たらない。止むを得ずサンドペーパーを大机に敷いて、その上に擦り付けてみた。あまりよくない方法かも知れないけれど、理論的にはこれでも研げる筈だ。

 乾いた音を立てながら無心で繰り返す。と、滑らせる角度を誤ったのか、あるいは机表面の凹凸に引っ掛かったのかは分からないが、ともかく刃先が跳ねてあらぬ方向へれた。

 サンドペーパーを押さえていた左手人差し指の側面にぶつかる。あ、と思う頃には血が滲み、すぐに滴った。木屑や埃を吸い、大机にも零れ落ちる。消えない染みになるだろうが、絵具の跡と判別できない気もする。

 窓際の水道で傷を洗う。埃や錆で不衛生な筈だ。冷たい水が血をすすぎ、きりきりと痛む。

 不意に、感情が乱れた。彫刻に逃げ込んでいる間目を逸らしていた憤りや口惜しさが、一斉にこちらへ振り返ったのか、その小さな傷口から溢れ出す。

 水道の蛇口も閉めず、手も拭わずにピアノへ歩み寄る。音を立てて鍵盤蓋を開き、赤いフェルトのカバーをぎ取って、椅子に座り十指を置く。

 一瞬の間が空く。激情に身をゆだね慣れていない証拠だ。こういう時に小難しい旋律は頭に浮かばない。

 荒れた呼吸で無意識のままに鍵盤を叩いた。少し遅れて、その旋律がたき廉太郎れんたろう*²²の〝うらみ〟であると気づく。

 彼は明治の日本と西洋とを交互に見つめ、その狭間で藻掻もがき続けた。周囲から将来を渇望され、その何倍もの希望と責任を自らに課し、漸く開けた世界へ身を乗り出した途端に肺結核を患い、一挙に絶望へ転じた荷を独り抱えて夭折ようせつ*²³した。

 結核は当時治療法の無い感染症で、誰にも看取られぬ病床で血を吐きながら創られたのが、この曲だという。遺された譜面の余白には、医師を呼ぶ言葉が記されていたらしい。

 曲そのものは、複雑ではない。けれど主題の旋律を繰り返していく度に、もう浮かび上がれないような深層へ沈んでいくように感じられる。

 罹患者によると、結核は身体こそ衰弱するものの精神は覚醒してゆくケースも多いらしい。例えば同時代の正岡子規*²⁴なども、やはり結核に侵されて以降その作品はより深く稠密ちゅうみつに紡がれるようになったと聞く。

 瀧廉太郎も正岡子規も、自分に負わされた才能や義務の大きさを知っていたのだろう。だからこそ、あまりに早い死の訪れに打ちひしがれ、想像も出来ない苦しみを味わった筈だ。

 それに比べて、僕はどうなのだろう。自分の為すべき事と出逢えたところで、そこに行き着く道筋が見当たらない。あるいは、わざと少しだけ吸い込んだ空気で溺れる気分だけを味わって、必死に生きる振りをしているだけじゃないだろうか。

 将来や希望を最初から抱けない事さえ利用し、身をかがめ息をひそめて、僕はどこに行けるのだろう。何とか健常者に紛れ込めるように身体と精神を引き摺り回して、一体どこに居られるのだろう。

 終盤の数小節。旋律と呼ぶのも手緩てぬい、血の池でのたうち回るような音を畳み掛ける。断末魔すら上げられず、ただ引き千切ちぎる如く途絶えた最後の符を鳴らす。Dの単音。これは何を示すのだろう。題名から察するに終止符ピリオドだろうか。そこには彼の無念さが、あまりにも表れている。ここまで積み上げた演奏を、その生涯ごと全て否定するように、左端の鍵盤をはじく。

 余韻は不要な気がして、その音は伸ばさずに切った。指先がじんじんと痛む。彫刻刀の傷は、ただ熱いばかりで気にならなかった。呼吸は乱れきっていて、肩で息をする。

もう一度アンコール。」

 微かな声に顔を上げ、室内を見渡す。

 先ほどまで僕が座っていた大机の椅子に、今井繭浬が腰掛けていた。

「……どうして。」

 何とか、それだけを呟く。

「〝どうして〟とは?」

「だって、そこに君が。

 ……現実的じゃない。」

「夢だとでも?」

 頷くと、彼女は優雅に小首を傾げた。

「確かめてみますか?」

「……。」

 無残に攪拌かくはんされていた認識と思考が、少しずつ平静を取り戻す。僕は感情の奔流を鍵盤へぶつけるあまり、今井繭浬が美術室ここに入ってきた事に気づけなかったのだろう。彼女としてはピアノの席が埋まっていた為に、順番待ちあるいは仕返しのつもりで僕の椅子に座ったらしい。

 〝確かめる〟の意味は分からないけど、とりあえず僕はかぶりを振った。彼女は肩をすくめて、僕が描き込んでいた設計図のノートを興味に眺める。

「米塚先輩から聞いてはいましたが……随分と涙ぐましい事をされているのですね。」

「……君にそれを言われると、感慨も一入ひとしおだよ。」

「あら。何故でしょう。」

 心外そうに今井繭浬は笑い、やがて僕の手元へ視点を落とした。

「お怪我けがされていますよ、その指に。」

「ああ、うん。」

 ろくに処置せず衝動的にピアノを弾いたので、血が止まらず傷も塞がらなかったみたいだ。そういえば背後の蛇口も水が流れっ放しで、騒がしい。

 彼女は席を離れ、ふらふらとこちらに歩いてきた。そして僕のすぐ右手、つまり鍵盤の高音域辺りで立ち止まる。先ほど払い落としたフェルト製の鍵盤カバーが、蹴り退けられたレッドカーペットのようにその足元で這いつくばっている。

 今井繭浬と、ここまで間近に接したのは初めてだ。かさついた白い肌に、あおい血管が走っているのが見える。

 そのかおを茫然と仰いでいると、彼女は両手で僕の左手首を取り、自身の方へ引き寄せた。昨夕に神社の参道で中央を歩いてしまった際、柚季から同様の動作で引っ張られた事を思い出す。明らかに違うのは少女二人の体温の差と、柚季は僕を重心ごと動かそうとしたけれど、今井繭浬はあくまで僕が怪我した左手だけを持ち上げた事だ。

 つまり、実力行使でピアノから引き剥がされるのかと思ったけれど、そうでは無いらしい。ともかく意外な行動に驚いていると、彼女は僕の手を自身の口元まで持っていき、人差し指の傷を舌でなぞり始めた。

「……。」

 心身共に硬直する。指の側面を、まるで蝸牛かたつむりが這っているような感触だった。

 今井繭浬の表情には何の含みも感じられない。ただ溶けた氷菓の雫を舐めるように無造作な仕草だった。

 やがて視線が合い、そこで漸く彼女の瞳に意思が宿る。僕の指を薄い唇で挟み、舌先で傷口を広げるような動きを始めた。繋がりかけた組織が再度めりめりと引き離される感触が伝わってくる。

「……痛みますか。」

「とても。」

 正直に答える。

「何か、私に言いたい事でも?」

 頷くと、彼女は〝どうぞ〟と言わんばかりに目元を和らげた。

「君の髪は、秒針のように黒く細く艶めいていて正しくて、とても美しい。その瞳も、精巧な硝子細工みたいだ。どの角度から見たって美しい。」

 彼女は顔を傾け、僕の手の角度も少し調整して、再び傷に口を寄せた。

「続けて下さい。」

「その頬は綿毛のように無垢で清らかで美しい。今僕の指が触れてしまっているけれど、不可抗力だから許して欲しい。その耳は隻羽の蝶を並べたように静かで、その鼻梁は弦楽器の曲線のように優雅で、その鼻腔はf字孔ホール*²⁵のように上品で、その唇は……、」

「あら、もうお終いですか?」

「いや、一生たたえていられるけれど、不正確だと気づいただけ。君が何かに似て美しいんじゃなくて、世界中の美しいもの全てが、まるで君のように美しいんだ。だから例えが成立しない……歯痒い事だけれど。」

「……ふ。もう結構です。相変わらず、おかしな人。」

 今井繭浬は急に興味を失くしたように、指を放した。唐突だったので僕の手は彼女の顎と制服のリボンを掠め、鍵盤の上に落下して変な音を奏でた。

「そんなに、私の事がお気に召しました?」

「……他の何よりも。」

 先ほどまでと違い、まるで甘美さを伴わない痛みに耐える僕を見下ろし、今井繭浬は告げる。

「では、構いませんよ。」

「え?」

「私をモデルにして頂くという件。。」

 暫く前からそうだったけれど、いよいよ目の前の現実というものが信じ難い。

「……どうして。」

「〝どうして〟とは? 貴方が仰った事ですよ。」

「そうだけれど……何だか、現実とは思えなくて。」

「夢だとでも?」

 僕の血で汚れた唇が、赤くわらう。

「確かめた筈でしょう?」

 背後では、流したままの水道水がシンクに跳ねる音が続いている。それはまるで、僕を引き留めようとする呼び掛けにも聞こえた。

 この潮に触れてしまえば、もう温かな浅瀬には戻れなくなるのだと諭すような。



   #



 火曜日の朝。やはり玄関へ迎えに来てくれた柚季と、いつも通り坂を下って登校する。

 今日の放課後は、部活で〝カイショウロ〟という海辺へ向かう予定だ。そこに加わる事になった柚季はそれなりに緊張した面持ちで、けれど楽しみにしている様子でもあった。

「ねえ。部長ちさとさん、他になにか言ってなかった?」

 と、片想い乙女のように(実際そうなのかも知れない)彼女は米塚部長の情報を強請ねだるので、僕は記憶を探った。

「うーん……柚季に関係のありそうな事は全部話したと思うよ。」

「じゃあ他に。なんでもいいから。」

「何でも? それなら、土曜日の部活で印象的だったんだけれど……。」

 皆で昼食を取った際の、米塚部長のちょっとした幼児帰りについて伝える。途中で、これは彼女のイメージを落とすのではと不安にもなったけれど、柚季は真剣な表情で聴いていた。

「……部長さん、お料理ニガテなんだね。」やがて噛み締めるように呟く。

「何だって出来そうなのに意外だよね。それでも僕よりは上手だろうし、ただ億劫なだけかも知れないけど。」

「ふうん……。」

 何か考えている様子だった彼女が、ふと勢いよくこちらへ振り返った。

「ねえ、また学校にお弁当べんと持ってくことあるよね?」

「え、そうだね。第一か第三の土曜日で、何か急ぐ作業があれば多分。」

「それがきまったら、あたしにも教えて。」

「構わないけど、どうして?」

 そこで柚季は俯き、暫く黙ってしまった。見慣れない表情を横から眺めていて漸く、どうやら彼女が恥ずかしがっているらしい事に気づく。何だか珍しい。

「……あたしが、部長さんのお弁当、作ってあげたいと思って。」

 思わず笑ってしまった僕を、柚季はすみやかににらんだ。健康的に日焼けした顔が、更に赤く染まっているように見える。

「なんだよ。」

「いや、ごめん。何も可笑おかしかった訳じゃないんだ。素敵なアイデアだと思う。」

「うそだ。じゃあなんで笑ってんの。」

「心が和んで、つい。例えば、そうだな……小さな猫がお母さんって、ライオンの赤ちゃんを世話してる所を想像してみてよ。何だか微笑ましくない?」

「なるほどね。それはたしかに、なごんじゃうかも。」

 柚季はそのシーンを想い描いたらしく、ほころばせた顔を正面へ戻した。

 そして何かに気づいた様子で、改めて僕を睨み直した。




「おはよう。」

「おはよ。」

 教室へ入り、自分の机に鞄を下ろす。隣席で頬杖をついている加島さんは、何かを点検するような目で僕を眺めていた。

「……どうかした?」

「んーん。ただ、お隣が舘原たちはらくんだと退屈しないなと思って。」

「と言うと……、」

「毎朝、違う顔でやってくるからさ。」

 言葉の意図を図り兼ねて、つい自分の頬に手を遣る。

「ま、昨日より吹っ切れた顔してるから、安心したって事だよ。ほら、お座り?」

 とりあえず頷いて席に着き、鞄の中身を机へ移す。

「今日の部活は先週と同じく、柚季ユズちゃんと海で漂着物たから探しか。楽しみだねえ……あ、そっか。舘原くんが転校して来てちょうど一週間だね。」

「うん。加島さんが助けてくれたから、いち早く美術部に滑り込めたし、教室でも問題なく過ごせてるよ。」

「優等生な答えだなあ。」と、当人はどこか不満そうに笑う。しかし昨日今井繭浬にモデルを受諾して貰えた事だって、彼女が導いてくれた結果だ。下手すれば僕は、担任の思惑通り卓球部に放り込まれていた事だろう。

 勿論、そこに馴染なじめた可能性も無くは無い。あるいは保健室や図書室を訪れた際、また別のかたちで今井繭浬とも逢えはしただろう。しかし卓球部員としてでは、彼女を描く手段も経緯も随分と限られていた筈だ。そう考えると空恐ろしく、加島さんにはどれほど感謝しても、しきれない。

「……本当に思ってる事だよ。今は自分でも怖くなるくらい順調で、充実してるんだ。」

 ただ。薄氷を踏むような思いで辿り着いた現状でも、もしかすると僕が向かおうとしているのは、凍て付いた水底よりも深く冷たい場所なのかも知れないけれど。

「ふーん……。」

 安易に揶揄われるかと思ったが、意外と彼女は腑に落ちた様子で頷いている。

「ま、つまんない学校とこだけどさ。舘原くんが楽しんでくれてるなら、隣人としては嬉しい限りだよ。

 でさ、今井繭浬まゆのどこが好きなの?」

「……え?」

「まあ性格ちょっとアレだけど、美人だもんねあの子。お人形みたいに色白で、髪も長くてサラサラだし。やっぱりそういうとこ?」

「……。」

 虚を突かれたあまり茫然と見つめ返していると、加島さんは頬杖を解いた。

「ありゃ。違うの? てっきり二人、付き合い始めたのかと思った。」

 更に突き直され、今度は貫通された心地だった。いよいよ彼女は首を傾げる。

「……本当ほんとに違うみたいだね。部長ちさとめ、いい加減なカン言いやがって。」

「部長に何を言われたのかは分からないけど……好意だとかはお互いに皆無だと思うよ。」

 色恋なんて知らないけれど、少なくとも僕はそんな生温い感情を彼女に抱いていない。言動から察するに彼女もまた、僕の事など欠片ほども慕ってくれてはいないだろう。

「好意で言えば、僕は加島さんや米塚部長、豊水とよみさんとか柚季の方が、よっぽど好……痛っ、」

 机の下で、くるぶしの辺りを横合いから蹴られた。急いで隣席に目を向けるが、彼女は涼しい顔で頬杖を組み直している。

「蹴ったのは一応ごめんね。でもそろそろ覚えなよ。純粋なのも結構だけど、周りは本当の意味になんて興味ないんだから。誤解されるような事を大声で言わないの。分かった?」

「分かった……。」

「しかし、そっか付き合ってないんだね。……まゆで何か、えっちな事考えたりとかもしないの?」

「……そういう話はいいんだ?」

「小声だし、誤解されてもうちは困らないからね。」

「なるほど……。でも実際、えっちな事って何? いつか柚季にも訊いたけど、教えてくれなかったんだ。」

「……小学生に何教わろうとしてんの。」




 放課後、美術部は二年教室の廊下で合流したけれど、一度美術室前に向かう事になった。米塚部長曰く、誰も使っていないのに扉が施錠されていない場合が間々ままあるらしい。もしそのまま放課後も勢良先生や今井繭浬が訪れず開けっ放しだと不用心だし、戸締り未処理と鍵未返却で職員室での心証を悪くしてしまうそうだ。

 もしも何か起きた場合は責任問題だし、最も立場の危うい僕に累が及ばない筈が無いので喜んで同行した。きちんと施錠されていれば安心して無駄足だったねと嘆けばいいし、施錠されていなければきちんと戸締りしなくてはならない。

 先頭を歩いた米塚部長が三階最奥、いつもの古い扉を念の為ノックする。僕ら三人も扉に近づいて耳を澄ませたが、返事もピアノの音も聞こえない。

 引手ひきてを握る。施錠されていれば問題は無かったが、開いてしまった。全員で顔を見合わせ、室内へ入る。窓もカーテンも開けっ放しで、しかし誰の姿も見当たらない。そして鍵は教卓に置かれていた。

 米塚部長が呆れた様子で美術準備室へ向かうので後に続く。彼女は机に置かれた珈琲カップを見つけ、「ああもう、だらしない。」と呟いてそれを水道で洗い始めた。

「どういう事だろう、誰も居ないのに。」

「ああ、予感的中だったね。単純に勢良先生ラッセンの閉め忘れだよ、全く。」

 大雑把に洗い終えたカップを棚に置き、「忙しいのか後で閉めるつもりなのか知らないけどさ。」とぼやく。

 二人で美術室に戻ると、豊水さんが教卓にノートを置き、そこから一頁を丁寧に破っていた。すぐ隣でその作業を見守っている加島さんに、何をしているのかと訊く。

「ん、念の為の書き置きだよ。もし勢良先生ラッセン美術部うちらの不在に気づいても心配しなくて済むように、行く先を書いとくの。」

「あと、もしも今井繭浬まゆが来て、仲間外れにされたって思わなくて済むようにね。」

 その周到さに感心しつつ、米塚部長は「ま、どっちもあり得ないだろうけどな。」と苦笑した。

「それでもいいの。要は他の先生に〝美術部は火曜日なのに活動していない〟って思われない為の保険だから……よし綺麗に破れた。はい部長ちさと、何か書いて。」

「はいはい。」

 教卓へ置かれた紙片にペンを走らせながら、米塚部長が言う。

「ところでさ、タチハラ部員。」

「何?」

今井繭浬まゆとは、どこまでいってんの?」

「……。」

 豊水さんは「おっさんか。」と呆れ、加島さんは口を挟んでくれた。

「それがさ、うちも今朝訊いたんだけど、どうもそういう感じじゃないみたいだよ。」

「そうなの? 何だ、せっかく不思議ちゃんカップル成立で、これから面白くなると思ってたのに。」

「……部内の事だから正確に伝えておくけど、今井繭浬さんとは先週の水曜日に逢ったんだ。回収した流木を準備室に置こうとしたら、ここで彼女がピアノを弾いていたから。」

「あー、あの日ね。」

「ふんふん。」

 全員、興味ありに耳を傾ける。

「その姿が琴線に触れて、作品のモデルになって欲しいと頼んだんだ。そして昨日またここで逢えたから、その時に了承して貰えたってだけ。

 だから僕は今後、彼女をモチーフに制作を始めようと思ってる。勿論、約束通り皆の作業もバックアップさせて貰うつもりで居るよ。」

「……え、それだけ? じゃあ本当に付き合ってないじゃん二人。」

 妙に憤った様子の米塚部長はそれでも書き置きを完成させたらしく、「はい、後は順番ね。」と告げて教卓から退いた。残る三人で覗き込むと、何故か紙面には〝ラッセンとまゆへ。美術部二年一同より〟と寄せ書きのような枠組みテンプレートもうけられ、四人分の記入欄が用意されていた。つまり空欄は、あと三つだ。

 前の学校でも感じていた事だけれど、女子の発想というものには驚かされる。ただの書き置きでここまで遊べる諧謔ユーモアなど僕は持ち合わせていない。

 豊水さんが淀みなくペンを握って教卓へ顔を伏せた。自由の身になった米塚部長は、やはり気に入っているのか大机に腰掛け、悪戯っぽく笑う。

「そっかあ、作品のモデルなんだね。とはいえ今井繭浬まゆ美術部うちの可愛い末っ子なんだから、変な事したら許さないよ?」

「変な事って……?」

 寧ろ昨日は、僕が彼女から変な事をされた気がする。

「え、何だろ。ヌードって名目で脱がしたり、変なポーズさせたりとか?」

「大丈夫だと思うよ。その辺も朝話したけど彼、そういう発想ないみたいだから。」

 同じく手持ち無沙汰らしい加島さんの言葉に、米塚部長は納得した様子で頷く。そしてまじまじと僕を眺めた。

「確かにアヤしい気配、皆無だもんね。でもそうなると、タチハラ部員はいよいよ不思議な子だよ。うちの男子なんて、誰々のおっぱいがどうとかしょっちゅう言ってるのに。……さては、まゆにはおっぱい無いから、それで正気を保ってるな?」

「……。」

 一体、何と応えたらいいのだろう。

「まゆにだって一応あるでしょ。だいぶ控えめだけど。」自分の欄を書き終えたらしい豊水さんが、加島さんと入れ替わりながら風向きの分からないフォローを入れる。

「ま、あの子は細くて華奢なのが売りだもんな。それと比べたら私の方が、曲線美オトナで描き応えがあると思うけど。どうよタチハラ部員?」

 と、米塚部長がしなを作って見せる。確かに彼女の肢体も健康的で趣深いのだけれど、明らかに揶揄からかっているだけなので再び反応に困った。

部長あんたの膨らみは筋肉でしょ。」と、室内の窓を閉めながら豊水さんが指摘する。米塚部長は肩をすくめた。

「ま、冗談はさておき。……もし付き合い始めたんなら、これを機に二人とも社交的になってくれたらって思ったんだけどね。」

 窓閉めを手伝おうとした僕は、その言葉に足を止めた。

「まゆは言わずもがな、あんなだし。タチハラ部員も聞くところによると、美術部うちら以外とは交流してないみたいじゃん?」

「ええと……、」

 ふと目を遣ると、加島さんはペンを動かしながら決まりが悪そうに笑っていた。

「あ、誤解しないでね。私が〝タチハラ部員の教室での様子教えて〟って頼んだだけだから。」

「それは構わないけど……。」寧ろ、そんな心配までさせていた事が申し訳ないくらいだ。

 加島さんが手元の紙面を見つめたまま、気遣わしに口を開く。

「何か隣で見てるとさ、舘原くんって友達作るつもり無さそうだから。だって男子が遊びとかに誘っても、全部断ってるよね。その辺も部長ちさとに話しちゃったんだ。

 うちはたまたま隣の席だったから、慣れてくれるまでお世話しないとって思ってたんだよ。そのうち男子同士で仲よくなったら離れてくだろうなって。でもこの調子だと舘原くん、席替えした後でも何か分かんない事あったら、クラスメイト掻き分けて私の所まで来て訊いてきそうな感じだからね。」

 だいぶ的確な予見に黙っていると、加島さんは曖昧な笑みを深めた。

「別にそれが嫌とか迷惑って訳じゃないよ、全然。ただ、仲いい男子とかいなくて寂しくないのかなーとかも、こっちは思っちゃうからさ。」

 友人というものが居た事が無いので、考えもしなかった。おそらく僕の課題はこういう、友人が居ない事よりも〝居なくていい〟と思っている辺りなのだろう。

「なるほど……そう言って貰えるまで気づかなかったくらい、ずっと平気だったよ。」

 僕の答えに、三人は呆れた様子で笑ってくれる。

「ま、本人が納得してるんなら構わないよ。私も群れたい方じゃないし、同性ならではの息苦しさみたいなのも分かるからね。何よりタチハラ部員は人当たり柔らかいから深刻って程じゃないんだ。本命の問題はやっぱり……まゆの方なんだよな。」

 米塚部長は脚の左右を組み替えながら溜息をいた。

「確かにあの子は、もうちょっと明るくなってくれないと。うちらが卒業した後が心配だね……書けた。はい舘原くんの番だよ。最後キメちゃって。」

 加島さんに告げられ、立ち位置を入れ替わって教卓に敷かれた紙を見下ろす。連絡事項なので内容が重複しないようにと部員全員のメッセージに目を通すが、〝卒業しても友達でいようね〟とか〝みんなと過ごした時間は大切な宝物だよ〟など、重複しそうにない内容ばかりだった。寄せ書きを如実に再現してある。

 気づいた点としては、今日の目的地であるカイショウロは、漢字で〝海床路〟と書くらしいという事。同様に米塚部長の名前は千慧ちさとと表記するらしい事。何となく彼女のイメージと合う気がする。

 そして加島さんの名前だが、美術室ここでも教室でも、皆に〝うめこ〟と呼ばれていたので、てっきり加島ウメ子さんなのだと思っていた。実際は小梅こうめさんだったらしい。

 何より驚いたのは、豊水さんの名前だった。メッセージの後に添えられたフルネームは、〝秋永豊水〟と書かれている。

「……豊水さんって、下の名前だったんだ。」

 窓を閉め終えて戻ってきた当人が頷く。

「うん。ちょっと前に苗字が変わった時、色々面倒だったから自己紹介は名前で済ませる癖がついてるの。……名札してるから気づいてるかと思ってた。」

 その胸元の名札には、確かに秋永と打刻されている。迂闊うかつだった。

「まあしょうがないよ。豊水の胸元はとびきり主張が激しいからね。初心うぶなタチハラ部員じゃ直視できないって。」米塚部長がけらけらと笑いながら茶々を入れる。

「……。」

「ヘンタイ部長め……。」

「とにかく、気づけなくて……と言うか、馴れ馴れしく呼んでてごめん。」

「いいよそんな、豊水って名乗ったの私だし。……じゃあタチハラ君は、下の名前何だったっけ。」

まことだけれど。」

「じゃあ私もマコトくんって呼ぶから。これでお相子あいこでしょ?」

「そうだね、分かった……。」

 不可抗力とはいえ、同い年の女の子と名前で呼び合うなんて初めてで、何だか照れてしまう。

「……こいつら、放っとくとすぐイチャつき始めるな?」

「妬けちゃうねえ。まゆに告げ口しちゃおっか。」

 米塚部長と加島さんが軽口を交す。この二人の組み合わせだと話題が無尽蔵なので、下手に構うと先に進まなくなるだろう。柚季との合流や部活時間の事もあるので、とりあえず書き置きに集中する。

「まあ実際、人の呼び方ってちょっと微妙なとこあるよな。〝ヨネヅカ部長〟なんて呼んでくれるの、この子だけだもん。私もつい反射で〝タチハラ部員〟とか呼んじゃって。段々それに慣れてきちゃったよ。」

「分かる。一旦慣れた呼び方を変えるのって何か恥ずかしいし、勇気要るよね。」

 そんな会話を聞き流しながら記入を終える。海床路カイショウロに居る旨は既に書いてあるので、僕は〝六月一八日時点での内容です。期日を過ぎている場合は無効なので、この紙の処分をお願いします。二年二組 舘原諒〟とだけ書いた。これで今井繭浬も勢良先生も来ないまま日付をまたいだ場合でも、情報が混乱せずに済むだろう。

 その用紙をガムテープで扉へ貼り、戸締りを確かめて美術室を出た。「まゆと入れ違ったら可哀想だから。」という部長の配慮で、保健室の前を通るルートで一階へ下りたけれど、彼女とは出逢えなかった。鍵を職員室で返却し、校舎を出る。

 職員室で勢良先生の姿が見当たらなかったので、「ひょっとしてトイレだとかで席を外しただけだったのでは。」という疑念も浮かんだけれど、あまり気にしない事にした。




 小学校の正門付近で、柚季と落ち合う。少し待たせてしまった筈なので機嫌を損ねていないかと心配したが、米塚部長と会う喜びや緊張が勝るのだろう。色んな思いが入り混じった瑞々しい表情で僕らを迎えてくれた。

 とりあえず遅くなった事を謝るが、案の定部員たちに撫で回されていて暫くはそれどころでは無さそうだった。

「……で、移動どうすんの部長ちさとうち今日くらいバスで来たってよかったのに、自転車通学チャリつうのままでいいって言ったのあんただからね。」

 場が治まった頃に、加島さんが傍らの自転車を示して問う。米塚部長は余裕の笑みで応じた。

「心配いらんよ。私が今まで、考え無しに行動してるとこ見た事あるかい?」

「わりと。」

「という事で、その自転車チャリ借りるよ小梅うめこ。」

 受け取った自転車に早速またがり、部長は柚季を手招く。

「ユズちゃん、荷台うしろに乗りな。海床路かいしょうろまで一緒に行こう。で、残りの三人はバス移動ね。」

 唐突な提案に全員、特に柚季は驚いていた。つい僕も口を挟む。

「二人乗りって事? それって大丈夫なのかな……。」

「平気平気。ちゃんと裏道走るし、慣れてるから。」

 慣れている方が不味い気もするのだけれど。柚季は一層緊張した様子で、おずおずと進み出る。

「あの、いいんですか……?」

「ユズちゃんがよければ、お喋りしながら散走さんそう*²⁶しようよ。ランドセルは舘原部員にでも預けちゃってさ。」

 その言葉に、はっとする。米塚部長は柚季からの希望を覚えていて、それを叶えようとしてくれているのだろう。僕が無理に頼み込んだ形にならないよう、一台だけの自転車というシチュエーションの解決策と絡めてくれたのだ。

 先ほど美術室で〝群れるのは好きじゃない〟と言っていたけれど、これだけ相手を慮れる以上は、きっと嫌でも周りに人が集まってしまう事だろう。

「……柚季。ああ言ってくれてるし、乗せて貰ったら。ランドセルは僕が預かるから。」

「わ、わかった。じゃああの……部長ちさとさん、お願いします。」

 顔を真っ赤にする彼女が微笑ましくて、つい「そういえば柚季の敬語、初めて聞いた。」と漏らしてしまった。結果として、結構な勢いを込められたランドセルを腹部で受け取る形になった。

 柚季を乗せた自転車を僕らの前に滑らせて、米塚部長は挑発的にベルを鳴らす。

「どうだ羨ましいだろ。君たちも、もっと素直に私を慕えばここに座れたんだぞ。」

「いや、羨ましいのは部長あんたと乗るポジションじゃなくて、ユズちゃんと乗れるポジションだから。」

「部員が冷たいからって、とうとう小学生に甘えるようになったか……。」

「……えっと、二人とも気をつけて。」

 流石の脚力というか、二人乗りと感じさせない軽やかさで自転車は走り出し、彼女たちの姿はすぐに見えなくなった。海床路までの距離は分からないけれど、僕らの徒歩移動やバスを待つ時間の事を考えると、さほどハンデは無いのかも知れない。

 そろそろ僕たちもバス停に移動しようか、と言いかけたところで、加島さんが身をかがめてこちらへ振り返っている事に気づく。

「じゃあ舘原くんは私が乗せてってあげる。しっかり掴まりなよ、飛ばすからね!」

「……気持ちだけ頂いておくよ。」



  #



 真っ赤なランドセルを抱えているのは何だか恥ずかしかったけれど、ともかく僕らはバスに乗り込み、とある漁協組合前の停留所で降車した。

 加島さんと豊水さんの先導でその広い駐車場を横切り、自販機や簡易トイレの脇を通り過ぎる。

 見渡すとすぐ目の前に海が広がっているが、それは最近目に馴染み始めた海景かいけいとは趣が異なっていた。

 今僕らが立っているコンクリート舗装の地面が、そのまま道路のていで細く狭まり、緩やかにくだって沖の方へ続いていた。堤防のようにも見えるが、今は水位が低い為にその姿を現しているだけで、あと数時間後には潮が満ちて海へ呑み込まれてしまう筈だ。現に道の先端は、既に波間へ隠れている。

 橋脚を持たない沈下橋ちんかきょう*²⁷、あるいは海底を渡る道路という風情だった。その道幅は狭く、何とか車両が擦れ違える程度だろうか。現に今、祖父が乗っているような軽トラックが先端近くに停めてある。ガードレールなど設えられていないので、脱輪すれば大変だ。

 道の端には街灯付きの電柱が等間隔に立っており、電線がそれらを結んでいる。その両脇と行き先が海である事を除けば、何の違和感も無い一本道に見える。

「不思議な眺めでしょ?」

「……とても。こんなの初めて見た。」

 茫然と呟くと、加島さんと豊水さんは満足そうに笑った。当然の疑問を尋ねてみる。

「どうして海の中を、道路が走ってるんだろう。」

「うん。元々ここはね、海の流れが二つ、ちょうど両側からぶつかる場所なんだ。それで勝手に砂なんかが運ばれてきて、海底が道みたいに盛り上がっちゃうんだよ。」

「で、そのままだと船底がぶつかったりするし、いちいち平らにするのも大変だから、盛り上げて整地して、コンクリートで固めたらしいよ。」

「わざわざ舗装を……?」

「そ。街灯も付けたから、ぶつからないどころか沖からの目印になるし、見てごらん。今ちょうど停まってるトラックに船が並んだでしょ? ああやって燃料なんかも簡単に補給できるんだよ。」

「へえ……。」

 海とはただ眺めるものだとばかり思っていたけれど、ああやって自らり生活の糧を得る人々も居るのだと実感する。そのお陰で僕なども、あの美味しい海産物を頂く事が出来るのだろう。

「で、さっきも言った通り二つの方向から波が集まる場所だから……、」

 そう言って加島さんは、の左側へ飛び降りた。そこは満潮時には海底なのだろうけれど、今は小さな砂浜だった。

「こんな風に、ほら。色んな物が流れ着くから、漂着物たから探しにはぴったりって訳。」

 早速見つけたシーグラスを一つ、拾い上げて示してくれる。

「収集の効率もだけど、部長ちさとは多分こういう珍しい眺めを諒くんに見せようと思ったんだろうね。」

「……なるほど。」つくづく、彼女の合理性と人格に感じ入ってしまう。

 ふと見渡すと、視界の端に当人の姿を見つけた。驚いた事に、バスより早くこの場所へ辿り着いていたらしい。海へ臨む石塀に柚季と並んで腰掛け、何やら談笑している。その緊張を和らげてくれたのか、どこか打ち解けた様子だった。

 向こうも僕らに気づき、軽く手を振る。二人とも髪が短く日焼けしている為、遠目にはまるで姉妹のようだ。

 米塚部長は自転車を押し、柚季は石塀の上を歩いてこちらに合流する。

「やっと来たかー、とろいんだから。」

部長あんたが健脚すぎんの。」

「それに、早く着いたんなら始めてたらいいじゃん。」

 米塚部長は自転車をスタンドで自立させ、部員二人の言い分を涼しい顔で聞き流した。

「どうよ舘原部員、面白い風景だろ?」

「うん。おおよそは二人に教えて貰ったけど、とても興味深いよ。」

「いい返事。気になる事も多いと思うけど、そろそろ潮が満ちてくるからまず部活しよっか。指示よろしく。」

 頷いて、米塚部長に代わり皆へ向き直る。

「ええと、これからコスモスの流木部分を飾る漂着物を探します。とはいえ今後の個人製作に使えそうな素材が見つかるかも知れません。人数分のビニール袋を用意してきたので、インスピレーションに触れた物はそれぞれで回収しておいて下さい。流木でも貝殻でもシーグラスでも、何だって構いません。

 そして僕の袋は共有用なので、今回のコスモスに使えそうな物や、自分では用途が浮かばないけれど綺麗な物などがあれば、こちらへ入れて下さい。」

「はい、舘原先生せんせー!」

「……何でしょう、米塚部長。」

「面白そうなのは見つけ次第先生の袋にブチ込めばいいって事は分かったけど、自分用に何を拾えばいいのかが分かりません!」

「……まあ、確かにそうだね。」

「言われてみれば。」

 案の定、部員たちはどこか不安に頷き合っている。

「はい、今回はその点の訓練も兼ねます。つまり、自分が何を作りたいのかを知る作業です。例えば、気になる物を拾ったら暫く色んな角度で見つめてみて下さい。そこから何か連想する物があるかも知れませんし、幾つかを組み合わせてから何かが見えてくる場合もあります。これによって、制作の起点となる感化力と想像力をつちかいましょう。

 ……難しく聞こえるかも知れませんが、要は自分が気になる物を探し、何故それが気になったのかを考える練習です。ただし拾った物で必ず何かを作らなくてはいけないという訳では無いし、もし何も見つからなければまた別の機会に、別の場所で素材を探したって大丈夫なので気負わずに。」

「……本当ほんとに難しく聞こえるなあ。部長ちさと、分かった?」

「うむ、さっぱりだ。何せ私、去年の美術の評価ずっと〝2〟だったからな。」

「つまり、〝好きにしなさい。だけどその好きの理由も考えながら動いてみなさい〟って事じゃない?」

「……有難う、豊水さん。大体そういう意味だよ。

 例えばそこに、絡まった釣り糸と平べったい貝殻が落ちてますね。僕はそれらを見て、小さな穴を空けた貝殻を何枚か釣り糸で結んで、流木の枝から吊るしてみたらどうだろうと想像しました。風が吹いたら揺れて見栄えが変わるし、きっと小さな音が鳴るから涼し気に存在を主張してくれそうだなって。そんな風に、自分が素敵だと思う方向に想像力を働かせて貰えたら。」

「あー……なるほどね。具体的に言われると、ちょっとは自分でもイメージ出来るかも。」

「よし、そのうち夕陽沈むし潮も満ちちゃうから、とりあえず動こっか。分かんない事あったらすぐ舘原先生に相談する事。では各員、作業開始。」

 米塚部長の号令で、全員が砂浜を散策する。僕はなるべく、部員たちの中間位置に居られるように立ち回った。彼女らが呼ぶ度、袋を広げて受け取りに向かう。

 またいつの間にか作業を手伝わされている柚季が、やがて身を寄せてきた。

「諒兄、今日ありがと。」

「まだ終わってないけど……そっか、部長と何か話せたんだ?」

「うん。帰りにまた教えるから。」

 傾いた夕陽に視界のコントラストが深まってゆく中、そっと耳打みみうちしてくる彼女は幸福そうに笑い、また米塚部長の傍らへ戻って行く。随分と緊張していたけれど、今は有意義に過ごせている様子で安心した。

 そして当の米塚部長が、大声で僕を呼ぶ。結果的に全員が彼女の元に集まる事になった。

「舘原部員、これ何だろ。石なのは分かるけど、他のとちがくない? ツヤツヤしてるよ。」

 彼女が掌に乗せているのは、白とオレンジで縞模様しまもようを描く石だった。

「……瑪瑙めのう*²⁸だね。ここで採れるんだ。近くに石英脈でも在るのかな。」

 しかしその石は、今すぐ観賞用の鉱物標本へ加えられそうに美しく整っている。おそらく波に研磨された上に海水で濡れている為だろうが、まるで人為的に磨き抜かれたかのようだ。

 その光沢に米塚部長も目を留めたのだろうし、僕だって一目でそうと気づけた。となると偶然ここへ流れ着いたか、あるいは鉱床が近いのかも知れない。

「もしかして宝石って事?」

玉髄ぎょくずいの変異だから呼び方は難しいけれど、宝石に数えられる物も多いよ。価値はともかく、浪漫があるよね。」

「どうしよう舘原くん。何かうち、急にやる気が出てきたみたい!」

「……無かったんだね、やる気。」

部長ちさと、それどの辺で拾ったの?」

 加島さんも豊水さんも柚季も意気込んで瑪瑙を探し始めたので、僕と米塚部長は隅に追い遣られるように慎ましく、貝殻やシーグラスを拾って歩いた。

「あーあー、目の色変わっちゃって。美術第一の舘原部員は、ああいうの呆れちゃうんじゃない?」

「まさか。瑪瑙は綺麗だし、地質や過程で幾らでも変化する天然の芸術品だよ。それを探す事だって美術の一環だと思う。」

「ふうん。じゃあこれも、流木の飾りに使ってみる?」

 米塚部長は拾った瑪瑙を、無造作にこちらへ差し出した。

「ううん。かなり硬い分類だから、美術室の備品で歯が立つかどうか……少なくとも、明後日が完成目標の流木には加工が間に合わないと思う。

 そもそも、せっかく拾ったんだから部長が自分の制作で使いなよ。瑪瑙なら単体で充分に美しいし、手でゆっくり磨いても楽しい筈だよ。」

「私でも磨けるの?」

「時間は掛かると思うけれど、勿論。穴を空けてアクセサリーにする人も居るから、色々試してみたら? 技術室の工具を使わせて貰うって手段もあるし。」

「ふーん……いいかもね。」

 彼女は瑪瑙をかざし、夕陽へ透かすように覗き込んでいる。

「舘原部員さ、さっきの提案とか仕切りとか、しっかりやってくれて頼もしかったよ。何か安心しちゃった。たぶん君は、美術に関する事だとスイッチ入るんだろうね。」

「……どうなのかな。僕の目標は米塚部長だから、少しでも追いつけるようにとは思ってるよ。」

「何だそれ?」と小さく笑う。

「柚季との事も、覚えていてくれて有難う。とても喜んでるみたいだ。」

「さて、何の話だか。私はただユズちゃんの若い肌を堪能したかっただけだよ。いい子だよね。素直に抱きついててくれたから、背中に未発達な感触とかがさ。」

「……。」

「ふふ、困ってる困ってる。どう? 私の評価、少しは下げられた?」

「何と言うか、少しフラットに落ち着いた気はするよ。」

「よかった。下手に君から惚れられたら、後々まゆが怖いからな。」

「色々と、そういう事じゃないってば……。」

部長ちさとー。」

 目を向けると、疲れ切った様子の加島さんが音を上げている。

「白とオレンジの縞々、全然見つかんないんだけど。何か探す時のコツとか無いの?」

「コツって言われても、あれー変な石が転がってんなって思っただけだからなぁ……。」

「そもそも瑪瑙は白とオレンジの縞に限らないよ。赤や黄色もあるし、模様もマーブルに見えたり、単色の種類でもカウントされたりするから。」

 助言のつもりで口を挟んだのだけれど、三人は不機嫌そうにこちらを見た。

「何でそれ早く言ってくれないの?」

「……ごめん、声を掛ける間も無く探し始めたから、知ってるんだと思ってた。」

「普通の中学生はそんな事知らないっての。」

「でも、そうなるとどれがメノウなのか私たちじゃ分かんないよ。」

「……諒兄が探してくれたらいいのに。」

「はい、ユズちゃんが今いい事言った。」

「そうして貰おうよ。ねえ、?」

「……僕も標本でしか知らないから、原石には詳しくないよ。模様が特徴的だったり、光沢や透明感のある石を拾っておいて、後日図書室の鉱石図鑑で調べた方が確実だと思う。」

 雲行きが怪しくなってきたのでそう提案すると、彼女らは納得してくれたらしく改めて砂浜を徘徊し始めた。




 収集が落ち着く頃には、陽も沈みかけていた。

 砂浜から上がると、石塀の傍らにスタンドで止めてある加島さんの自転車が目に入った。全員の荷物が満載で、かごと荷台だけでは当然足りずハンドルにまで学生鞄や拾得物のビニール袋がぶら下げられている。サドルには柚季のランドセルが絶妙なバランスで鎮座していた。

 僕とその知人の持ち物を一身に担ってくれているその自転車の姿は、何だか象徴的で感慨深かった。

 少し心苦しいけれど僕のビニール袋もそこに預け、改めて海を見渡した。水面には夕陽の反射が、道のように細長く浮かんできらめいており、その上を漁船が影絵のように横切って行く。

 視線を転じるともう一つ、こちらは人工物の海床路みちが海へ続いていた。潮が満ちてきた為、先ほど見えていた道程の半ばほどが呑み込まれている。

 こうして眺めていると部員たちの説明通り、二つの方向から波が発せられているように見える。静かな水面に二ヶ所から雫を落とせば、このような具合になるのだろうか。それぞれの水紋は丁度海床路の上で交わって重なり、少しずつこちらへにじり寄って来るようだった。

 ふと思い立ち、その道を歩いてみる。今は軽トラックなども見当たらないので、おそらく漁業の邪魔にはならないだろう。部員たちと柚季は砂浜で戯れていたけれど、やがて後を追って来てくれた。

「舘原くん、早まっちゃ駄目だよ!」

「……入水じゅすいしないよ。ただ、せっかく道の形だから歩いておきたいなと思って。」

「そういえば、海床路このみちの最後って知らないね。どこか繋がってるのかな?」

「流石に海の途中で終わってるでしょ。干潮の時間を狙えば分かるだろうけど、今の時季だと真っ昼間か真夜中だからね。」

「わざわざ休みの日にそんなの確認しないもんな。見た目的にも、ただの干潟を渡ってる道路だろうし……ま、潮干狩りには丁度いいか?」

 半ば愚痴のような議論を交しながらも、彼女たちは僕の好奇心に付き合ってくれる。最終的に200メートルほど歩いたところで、路面は海へ沈んでいた。そこから先は水面に覆われているが、電柱だけは点々と顔を出している為、道そのものはまだ続いているのだろう。

 両脇の海は、きっと足も届かないような深さの筈だ。船に乗っている訳でも無くそんな場所に立っていられるのは不思議な感覚だった。

 ふと振り返ると、今まで立っていた陸地が随分と遠くに在るよう見えた。夕陽と対極の青褪あおざめた空には白い夕月が浮かび、なだらかな小山がそびえるでもなくのんびりと横たわっている。その麓を電車が走っているらしいが、線路の軋む荒々しい音や警笛は、不思議と好意的な響きを伴いここまで届いてくる。

(野暮ったい喧騒も、海の上ではこんなに柔らかく聞こえるのか。)

 それに耳を澄ませていて、漸く気づく。が波に濡れ、その姿を海へ融かし始めていた。

「……あれ、部長。これって……、」

「あ、やば! 全員走れっ。」

 その号令で、慌てて道を引き返す。潮はこの道の先端から順に迫って来るのだろうと勝手に思っていたが、先に退路を寸断しそうな様相だった。海へ浸かり始めた路面に足を踏み出す度、飛沫しぶきと水紋が幾つも散った。

 何とか陸地へ戻れたけれど、その頃には全員足首まで海水に濡れていた。誰からともなく笑ってしまう。

「ひさびさ焦ったあ。うー靴下きもちわる。」

心中しんじゅうになるところだった……。」

「ま、私とユズちゃんに限っては泳いで帰れたと思うけど。これくらいの波なら、着衣水泳でも楽勝だよね。」

「はい、ヨユウです。」

 こんな時でも米塚部長の傍で瞳を輝かせている柚季が微笑ましいが、笑うと後で叱られそうなので堪えておく。

 濡れた靴下や裾を絞って水気を切る最中も、ついつい海に目を留める。とうとう夕陽は沈み、海床路の電柱に設えられた電灯がいていた。蛍光色の光は点々と海を渡り、その反射を青白い水面へと幾筋にも滲ませている。

 暫くの間、全員で石塀に並んで座り、裸足を投げ出してそれを眺めた。

「あーあ、結局メノウだってはっきり分かったのは、部長ちさとが最初に拾った一個だけかあ。」

「流木の時もだけど、この子は何か見つけ出すセンスを持ってるみだいね。」

「確かに……あの瑪瑙はかなり研磨されていたから、ひょっとすると随分遠くから辿り着いた一つを、たまたま米塚部長が見つけただけかも知れない。」

 当人は、まあまあと掌を振った。

「皆色んな石拾ったじゃん。流木コスモス作りが終わったら、ゆっくり図鑑で調べようよ。レアな石が見つかってるかも知れないし、そうじゃなかったとしても、自分が綺麗だと思ったんならそれが宝石でしょ?」

「……何か腹立つ言い方だな。」

「顔がね、余裕こいてて憎たらしいんだよね。」

 部員二人に両側からくすぐられた部長が悲鳴を上げて、また一頻ひとしきり賑やかな時間を過ごす。

 やがて豊水さんが、「もう暗いし、ユズちゃんはお家に電話しといた方がいいんじゃない。」と忠告してくれる。確かにその通りだろう。僕が携帯電話を貸すと、彼女は「だいじょうぶと思うけど……。」とぼやきながら少し距離を開けて連絡を取り始めた。その横顔を、ちらりと振り返る。

 引っ越した最初の晩に、柚季の母親が見せた戸惑いの様子を思い出す。忘れた訳では無かったけれど、あれから当の本人が殆ど毎日、当然のように僕へ構ってくれていて、少し慣れ始めていた気がする。

 そんな娘の動向を、ご両親は知っているのだろうか。あるいは柚季は伏せてしまっているのだろうか。いつか露見した時に、彼女に迷惑が掛からなければいいのだけれど。

 風景は明度を落としていく。左右からの波が行き交っていた海面も、今は電灯付近の部分でしかその様子を掴めない。

 靴が再び履ける程度には乾いた頃に、解散となった。加島さんの家はこの先らしいので自転車で、米塚部長と豊水さんは僕らと同じく学校へ引き返す方向だけれど、バスを使うまでも無い距離らしく徒歩で帰るとの事だった。

 僕と柚季だけがバス停に留まり、そこで挨拶を交して散り散りに別れた。

 手を振る米塚部長の影が見えなくなった瞬間、柚季は飛びついて来るような勢いで、真横に居る僕を呼んだ。

「びっくりした……どうしたの、バスまだだよ。」

「ちがう、今日ありがとってば。部長ちさとさんとね、たくさん話せたんだ。」

 辺りにはバス停と公衆電話の弱々しい照明しか無いけれど、柚季は真昼の太陽を思わせる笑顔を見せていた。先ほどの全力疾走で疲弊していた僕とは大違いだ。

「そうだったね、よかったよ。どんな事を話したの?」

「えっとね……色々ありすぎて、どれから言ったらいいかわかんない。順番に話すね。

 まず自転車の後ろに乗っけてもらって、それからずっと海ぞいを走ってくれたんだ。魚つるおじいちゃんしか通らないような、せまくて古い道路。とちゅうで、のらねこがいっぱい集まってるの見つけて、そこで止まってくれた。あたしカタくなってたんだけど、二人でねこなでてたらちょっと落ち着いたんだ。」

 僕の中では米塚部長と柚季こそ猫に近いイメージを持っていたので、それは想像するだけで心が和みそうな光景だった。

「それで、やっとあたしも話せるようになって。〝ずっとチサトさんにあこがれてて、目標なんです〟って勇気だして言ったら、はずかしそうに笑ってくれた。それで、〝いつかまた泳ぎ始めると思うから、その時はリハビリがてら練習に付き合ってよ〟って言ってくれたんだ。」

 その辺りでバスが来たので、興奮し切っている柚季を一旦なだめながら乗車した。僕がこの町に来る時に利用したものとは違う町営の旧式バスで、乗客も疎らだった。

 隣り合うシートに座り、バスが走り始めてから改めて、続きを促す。

「そっか、よかったね。僕はそういう話は全くしてなかったから、米塚部長が自分の意思で言ってくれたんだと思うよ。」

「そうなんだ! チサトさんと練習できるなんて、夢みたいだよ。さっき海で遊んでる間もずっと、これ夢なんじゃって何回もほっぺつねっちゃった。ここ赤くなってない?」

 柚季は首を傾げて見せる。バスの白い蛍光灯に照らされる彼女の頬は、確かに少し赤らんでいた。

「なってるみたいだよ。」

 苦笑しつつ頷くと、それでも柚季は頬を押さえて「へへへ。」と笑った。

「でね、いきなり二人で練習だとちょっとどきどきするから、諒兄も一緒でいいですかって言ったんだ。」

「……うん?」

「そしたら部長さん、もちろんいいけどあの子どれくらい泳げるんだろうねって言ってたから、かなづちみたいですってちゃんと言っといた。」

「……。」

 先ほど海床路で合流した際、僕の姿を見つけた二人が一瞬、笑顔を交し合ったように見えたのだけれど、そういう事だったのか。

「でね、部長さん的にもプールだと目立ってイヤだから、三人で海に行ってヒミツの練習しようかってことになったの。」

「……まあ、うん。」

 その界隈では名をせたらしい選手に指導して貰えるのなら、こんなに有難い話も無いのだろうけれど……この胸中は、何と形容すべきなのだろう。

 また興奮してきた様子なので、付近に乗客は居ないけれど一応そっとたしなめると、柚季は素直に声量を落としながらも、その喜びを伝えてくれた。彼女の快活さは疲れた身体にも心地よくて、相槌を返しつつ、別の意識も徐々に頭をもたげていた。

 擦れ違う車の音が、興っては掻き消えていく波の音を思わせる。今頃あの海床路みちはすっかり海に覆われ、概念の渦巻く水底に沈んでいるのだろう。

 車窓の外は暗く、偶に街灯や対向車のヘッドライトが過ぎ去ってゆく程度だ。誰も乗り込んで来ないバス停を一つ経る度に、デジタルの料金表が淡々と更新されてゆく。

 在るかどうかも判らないほどかぼそい道を、僕らは随分と小さな光を頼りに進んでいるような気がした。

 ふと、今なら引き返せるのかも知れないと思うし、帰り道などとっくに暗い水底へ隠されているようにも思う。何より、引き返した所で僕は何処に居られるのだろう。今までも、それを求めて何度だって振り返りながら、結局はここまで歩き着いた筈なのに。

 降り積るように重なる暗がりは、〝憾〟のメロディを想起させる。そして真横ではしゃぐ柚季とまるで違い、ひどく歪に哂っていたもう一人の少女の姿さえも。




   八、潮合しおあいのみち




※ 後注


*²²瀧廉太郎

明治の音楽家。西洋の歌曲を和訳したものばかりが歌われる時代に彼は自ら作曲したものを発表し、童謡として大いに取り上げられた。〝荒城の月〟は特に有名で、歌詞の無い楽曲は〝メヌエット〟と〝憾〟の二作品のみ。

日本人としては三人目となる欧州留学生に選ばれたが、その五か月後に留学地ドイツで肺結核を患う。翌年に帰国し郷里で静養するも、満23歳の若さで病死。


*²³夭折

若くして死亡する事。


*²⁴正岡子規

明治の文学者。俳句中興の祖とされ、俳論に留まらず小説や詩歌などでも知られる。随筆は〝病牀六尺〟〝墨汁一滴〟など。

前述の瀧廉太郎も含め、もしも彼らが存在しなければ(あるいは早世しなければ)日本の音楽や文学は現在と随分違う物になっていたと考えられる。


*²⁵f字孔

弦楽器に開けられるサウンドホールの一種。共鳴胴で響かせた音を効率よく外部へ伝える為の装置で、その形状は多岐に渡る。この場合はヴァイオリンなどに穿たれる〝f〟の字に見えるものを指す。


*²⁶散走

ポタリング。自転車で目的地までの道程を楽しみつつ移動する事。いわば自転車での散歩を指す。


*²⁷沈下橋

公式では潜水橋せんすいきょうで、他に流れ橋などとも呼ばれる。河川に架けられ、増水時にはその名の通り沈んでしまう橋。低予算で設えられるため過疎地などで多く見られたが、欄干が無く不便でもある為、その数は減りつつある。


*²⁸瑪瑙

玉髄ぎょくずいの一種。そのユニークなデザインは千差万別で、鉱石標本としての人気も高い。日本人との関りは古く、三種の神器に数えられる勾玉も、赤い瑪瑙であったと言われる。



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