七、産土と結び。




 土曜日の朝。約束通りいつもより三〇分ほど早く起きて、一階へ下りた。

「……おはようございます。」

「ん。」

 台所で、祖父と朝の挨拶を交す(考えてみたら初めての事だ)。調理も朝食も済ませたらしい彼は早速、竹の皮の扱いを教えてくれた。

 まず予め湿らせておいた竹の皮を広げ、その端の部分に数ミリの切れ目を入れて細く引き裂く。最後に封をする際の紐として使うらしい。

 そして、そこに包むおにぎりを用意する。竹の皮は密閉できる訳では無いので、入れられる副食物おかずは限られている。その為、単体では零れやすかったり汁気の多いものなどは具材としておにぎりに閉じ込めるのが有効という事だった。

 既に昆布の佃煮や魚肉の素朧そぼろなどを準備していてくれたので、それを具におにぎりを作る。上手く三角形に出来ず苦戦していると、祖父は「丸やたわらの形でもいいぞ。」と、土鍋からすくったご飯で無造作に見本を作ってくれた。手際が良く造形も綺麗で、そのふっくらとした佇まいは、僕がべたべたとり回し力ずくで固めたものより遥かに美味しそうだ。

 有難いけれど折角なので、と僕が意固地に三角形を目指すのを、彼は感心したように(あるいは呆れたように)お手本の俵握りを齧りながら眺めていた。

 結局凹凸おうとつだらけの歪な形にしか仕上がらなかったけれど、これ以上手古摺てこずっていると祖父が仕事に遅刻してしまうかも知れないので弁える。また改めて再挑戦しよう。

 祖父は隣で自分のおにぎりを竹の皮に二つ置き、更に沢庵たくあん漬け、大玉の梅干し、分厚い玉子焼きなどを隙間が生じないように並べた。僕も見比べながら真似していく。

 内容のかさに目算を合わせ、竹の皮に癖をつける。この辺りの機微は一種の勘で、慣れると掴めるものらしい。僕は無難に大きめの折り目を入れてみた。

 細長い皮を左右の順にたたみ、側面から零れないように巻き込んだ上で、先ほどの切れ端を紐にして全体を縛る。

「……どうでしょうか。」

 僕なりに再現したものの、不安なので祖父にチェックを頼む。彼は僕のを覗き、少し触れて確かめている。妙に緊張した。

「ちと緩い。」と、祖父は自分の包みを解いてもう一度手本を見せてくれた。その工程を、より忠実にコピーする。今度は問題なかったようで、静かに頷かれた。

 最後に一玉ひとたまのリンゴを真ん中から割り、二人で半分ずつ分けて食品用ラップフィルムで覆う。デザート代わりという事らしい。

「残りは朝飯に食うといい。」そう言い残して出掛ける彼を、玄関まで見送る。すぐに軽トラックのドアの開け閉めと、エンジンの音が聞こえた。

 静かになった家で一人、指示通りの朝食を取る。相変わらず質素だけれど、起き抜けにお腹いっぱいの食事を摂れるという事が大切という気もする。そして玉子焼きが非常に美味しい。

 ふと、卓上の巾着袋が目に入る。竹の皮を直接かばんに入れる訳にはと、祖父が僕に用意してくれた物だ。ただし彼自身は、自分の昼食を新聞紙で包んでいた。

 そちらの方が無造作で格好よく見えた為、僕も真似させて貰った。よってその巾着袋は空っぽのままだ。そして僕一人では食べ切れない量の朝食が揃っている。

(……練習がてらだ。)

 幾つかの符合を得て、再び台所に立つ。




「今日がんばったら、もう日曜だよー!」

「……一旦、挨拶もしようよ。」

 無断で玄関に入るなりそう宣言する柚季ゆずきを、出迎えながらたしなめる。

「そっか、おはよ。」

「おはよう。あとこれ、よかったらどうぞ。」

 早速彼女に巾着袋を差し出す。中には、先ほど新たに作った竹の皮の包みが入っている。

「お。なにこれ?」

「おにぎりだよ。さっき伯郎はくろうさんと作ったんだ。」

「いいの?」柚季は丸くしていた瞳を輝かせる。

「うん。初めて握ったから見た目は不格好だけど、食べてくれると嬉しい。」

「食べる食べる! 入れて?」

 そう言って勢いよく背中を向けるので、そのランドセルを開けて巾着袋を入れる。

 彼女は待ち切れない様子で身体を細かく揺らしている。中で転がったり潰れたりしないように配置を調整し、またカバーを下ろした。

「やった、ありがと。なんのおにぎりだろうなー。」

「昆布と、白身魚の素朧だよ。」

 靴を履きながら教えると、柚季はつまらなさそうに膨れてしまった。

「すぐ言うなよー。考えたり当てっこするのが楽しいんじゃん。」

「あ、ごめん。苦手な物が入ってるとまずいかなと思って。」

「心配してくれてうれしいけどさ、ほんと遊び心ないんだから。」

(遊び心。)

 少し動揺した。確かに、自分にそれが備わっているようには思えない。

「……諒兄まこにい、どしたの。おこった?」

「いや、怒ってないよ。本当に、そうだなと思って。」

「なんか、まためんどいこと考えてる?」

 手酷い上に的確な言い草で、つい苦笑する。

「ううん。とりあえず行こうよ。」

 ずっと玄関で立ち話している訳にもいかないので一緒に家を出て、坂道を下る。柚季はその背に加わった荷物の重みを、それなりに喜んでいる様子だった。

 僕も先ほど、自分の鞄に昼食の包みを入れる際笑みが零れてしまった。中身も分かり切っているし、何なら朝食と同じメニューにも関わらず、自ら準備しただけで妙に昼が楽しみだった。

「これどうしよ。ひさびさにトーチカで食べようかな。」

「……またとんびに狙われるよ。というか、もう一人では行かないって話じゃなかった?」

 昨日彼女に案内して貰った戦争遺跡トーチカだけれど、やはり足場が悪く人気も無くて心配なので、なるべく二人で訪れようと口約束を交していた。

「だって一人で行くしかないじゃん。諒兄は今日も流木プレゼントする日でしょ?」

「〝美術部の活動がある日〟だよ。まあ確かに、今日は美術室に籠ると思うけど……。」

 しかし柚季を一人であの森へ登らせて、もし何かあれば冗談にもならない。

「……僕だってあの場所を気に入ってるし、秘密にする約束もちゃんと守るよ。だから君ばっかり一人占めするのはずるいと思うな。行く時は一緒に行こうよ。」

 少し不貞腐ふてくされたようにそう言ってみると、彼女は呆れたように笑った。

「すぐ子供みたいなことう。わかった今日は行かないよ。また今度つれてってあげるから。ね?」

「うん……よかった。」僕にしては、上手く誘導できたのかも知れない。

 柚季は一方的に子供扱いされる事に反発を覚え始めているし、同時に年上の人間に頼られたがっているように見える。それは例えば、僕のような中学生に対し〝お姉さんる〟事でも、多少は満たされるのだろう。

 少し入り組んだ心理なので想像は難しいけれど、この町に越してきて最も対話しているのが彼女なので、そういった傾向も段々と感じ取れ始めている。

「柚季はいつも、土曜日のお昼はどうしてるの?」

「んー、たまに友達んとかもあるけど、だいたいうちで食べるよ。」

「そうなんだ。じゃあどうして今日はトーチカで食べようと思ったんだろう。」

 また遊び心の点を指摘されそうだけれど訊いてみる。

「だって家で食べたって、どうせ留守番で一人だもん。」

「そういう事か。」

 確か夕立の降った帰り道にタオルをあげた時「勝手に物を貰ったら叱られる。」と言っていたので、もし先ほど渡した食事を両親に隠れて済ませる為だとしたら、僕が間接的にトーチカへ追いる所だったのではと心配したのだけれど。

「だから土曜のお昼って、けっこうつまんないだよね。帰りにはくじいの家よっても仕事でいないし、家でチンするご飯おいしくないし。ほんとは友達と遊び行って食べるのが一番楽しいけど……そんなことしてたら、すぐおこづかい足りなくなるしね。」

「……なるほど。」

 さっきあんなに喜んでくれたのは、おにぎりが大好物というより土曜日である今日に持ち歩ける食事を得られた事が嬉しかったのだろう。

(僕が柚季の年齢の頃は……、)

 強請ねだれば幾らでもお小遣いを貰えたけれど、共に食事する友達など一人も居なかったので無心する事も無かった。中々、上手くいかないものらしい。

「トーチカがダメなら、今日どうしよっかな。おにぎりあるから帰る必要ないもんね。友達と集まってもいいし、プールのロビーで食べて練習してもいいなぁ。」

 楽しそうに午後の予定を考える柚季の横顔を見ていると、何だかくすぐったくなる。ただ綺麗に三角形のおにぎりを作る練習の副産物だったのだ。

「よければ、また作るよ。」

「ほんと?」

「うん。今日初めて関わってみたけど、これを毎朝続けてるのは大変だって分かったから。土曜日くらいは僕が伯郎さんの分まで作れるようになりたいと思ったんだ。」

 僕は食が細いし、その余剰よじょうから柚季の分も作ったって叱られはしないだろう。

「ふうん、リッパじゃん。」

「ちなみに君は料理出来るの?」

「お弁当べんとくらいは作れるよ。あと最近オムライス覚えた。あれオクが深いんだ。」

「……すごいね。」

 内心、舌を巻く。時折り感じてはいたが、いよいよ僕より大人という気がする。

「さっきも言ったけど、一人で留守番してること多いからね。めたのあっためなおすより、自分で作れたほうがおいしいもん。」

「なるほど。」

「でもお料理めんどいからね。手伝うなんて諒兄えらいよ。いいこいいこしたげよっか?」

 それは流石にと遠慮したのに、柚季は軽く背伸びして僕の頭頂部を軽く撫でた。だいぶ恥ずかしいけれど、妙に機嫌の良さそうな彼女の様子に何も言えず、甘んじておく。

 その際、柚季の腹部が僕の肘に触れた。子供服の薄い生地越しに、健康的な体温が伝わる。そして、僕の筋張った身体を揶揄からかうような柔らかさも。

「……また、やらしいこと考えてる顔だ。」

 気づけば柚季が、心底呆れた顔で僕の頭から腕を下ろしている。

「考えてないよ。」

「どうだかー。これだからまこスケベは。」

「その誤解と綽名あだなは、流石に不本意と言うか……。」

「だって、どうせ今井繭浬いまいさんのことでしょ?」

「……。」

「ほうらね。」

 相手の傾向を解り始めているのは、柚季にしても同じだったらしい。

 断固として、いやらしくは無い……と思うのだけれど。



   #



 土曜日の登校というものは始めてだったけれど、その日の校内は授業中も休み時間も普段より騒がしく、少し不思議な雰囲気だった。

 今まで週末とは当日の朝に目覚めた折りに実感するものだったけれど、この土曜日に関しては四時間目の授業が終わった瞬間、明確に週末が始まる事になる。皆その時を待ち兼ねて、どこか浮足立っているように見えた。

 この後再び集まって遊ぶとか、日曜日の予定だとか、そういった話が教室のあちこちで突発的に交わされていく。

 感心してそれらを眺めていると、僕の所にも数人の男子生徒が話しかけてきた。安くて美味しいお好み焼き屋があるので、これから一緒に行かないかという誘いだった。

(……お好み焼き。)

 僕はそれを食べた事が無かったので興味は有ったけれど、今日は部活だから行けないと正直に告げると、色々と驚かれてしまった。

 その喧騒の中で不意に気づく。寧ろ、この暇な同級生たちを美術部へ引き込むのはどうだろう。男子部員が増えれば僕一人が美術部を追い出される事は無くなるだろうし、最悪〝男子美術部〟というあまり魅力的でないサークルを発足できるかも知れない。あの狭い準備室に押し込まれそうだけれど。

 そう思って逆に美術部に入らないかと勧誘してみるが、彼らは途端に威勢を失くし、全く承知してくれなかった。

 理由としては、この時期に部活を変えるのは余程の事情が必要になるという点と、その場合に受ける風当たりが恐ろしいという点と、あとは男がやる部活じゃないという、まるで要領を得ない事柄だった。

 そうなれば彼らに用は無い。日曜日に改めてお好み焼き云々と提案してくれたけれど、今週は疲れたので休養させて貰う予定だと言って断った。

 全ての授業とホームルームを終え、無邪気な熱気に浮かされた校内を加島かしまさんと歩く。三階の最奥へ近づくほどに喧騒は薄れ、静かになっていく。

 美術室の鍵は開いていたけれど、室内に誰の姿も見当たらなかった。準備室の方を覗くと、豊水とよみさんが一人、電気ポットを操作している。加島さんが鞄を大机に置きながら訊く。

「お湯はー?」

「いま沸かしてる。」

「さすが。」

 軽く見回して、僕も尋ねる。

米塚よねづか部長は……、」

「まだ。休み時間に〝今日カギ頼むわ〟って言ってきたから、何か用事で遅れるんじゃないかな。」

「ふーん、何だろ。」

「にたにたしてたから、悪い事じゃないと思うけど。」

 そう話している間に美術室の扉が開き、当人が顔を覗かせた。

「皆そろってる?」相変わらず猫のような彼女の瞳が、今日は輪を掛けて悪戯っぽい光をたたえている。

「そろってるよ。相変わらず今井繭浬まゆはいないけどね。」

部長ちさとこそ、もう用事済んだの?」

 部員二人も何かを察したらしく、扉に身を隠したまま意味ありに笑っている米塚部長に入室を催促した。

「ふっふっふー、どうしよっかな。このままらしちゃおっかな。」

「……さっさとおいで。手洗って座りなさい。」

「皆お腹空いてるんだから。部長抜きで食べちゃうよ。」

「そんな事言っていいのかなー。」と勿体もったい振りながら米塚部長は美術室に入り、後ろ手に隠していたビニール袋を大机に置いた。紙製の白い箱が入っているのが見える。

「ケーキだっ?」

 部員たちから悲鳴に近い声が上がり、米塚部長は得意気に頷く。

「実はね、今日の午後に部活やるって一応ラッセンに話しといたんだ。」

「〝ラッセン〟?」

「ああ、美術の勢良せら先生の事。」

 と僕に補足してくれる。例によって教師への略称あだならしい。確かに〝セラセンセイ〟は少し発音しづらいし、あるいはクリスチャン・ラッセン*¹⁹と掛かっているのかも知れない。

「そしたら自分は顔出せないからって、差し入れに買ってくれたみたい。〝給湯室の冷蔵庫に隠しといたから、隙を見て持ち出して皆で食べなよ〟って、今朝言われてさ。ま、サボりの罪滅ぼしだね。」

「じゃあエンリョは要らないね。真面目に部活やると、こういう事あるのか。」

舘原たちはらくんのお陰だぁ。もう土曜、毎回部活やっちゃう?」

 一挙に華やいだ美術室の扉が、再び開いた。馴染みの面々は既に揃っているので今井繭浬いまいまゆりが来てくれたのかと期待したけれど、そこに顔を出したのは担任の田角たすみ先生だった。

「おお、やってるね。」

 その瞬間、米塚部長は大机に腰掛けてケーキを隠し、豊水さんは準備室に入って湯気を上げる電気ポットを停め(やはり勝手に生徒が使ってはいけないのだろう)、加島さんは足止めすべく扉へ近づき、彼に応対した。

「あれー、珍しい。どうしたの先生。」

「ちょっとまこっちゃんに話があってな。本当はさっきのホームルーム終わりで職員室に呼ぼうと思ってたんだけど、凄ぇ勢いで教室出てったから捕まえらんなくてさ。」

「……僕ですか。」

 にわかに緊張する。〝やっぱり男子は入部させられない〟なんて結論でも聞かされるのだろうか。

「うん、今ちょっとだけいいかな。」

「はい。」

 加島さんが横合いから、間延びした口調で咎める。

「えー、先生。うちら、今からご飯なんですけど。」

「まあまあ、すぐ終わるから。」

「本当にすぐ? もうぺこぺこなのにー。」

 その問答の隙に、豊水さんが準備室から持ってきた流木を大机へ置く。そして下敷きにしていた新聞紙を丸めて回収する動作にまぎれてケーキの箱をも包み、それを準備室へと運んだ。

「こらーチサト、机に座んなよー。」

「はーい。」

 田角先生が入室する頃には一連の処置が済んでいた。ブラインド役を終えた部長は呑気な注意を受けて、平然と机から下りる。その後ろにケーキを隠していた気配などまるで無い。息の合った連携だ。

 ただ一人ぼうっとしていた僕の前に、彼は座った。

「悪いね突然。……ふーん、頑張ってるみたいだな。俺にはよく解らんけど。」

 たった今運ばれた流木を見て、そう呟く。込み入った話になりそうだと踏んだのか、部員たちは席を外して準備室へ入ってくれた。

「お話というのは。」

「うん。火曜日からの登校だったけど、もう今週も終わるだろ。だいぶ環境も変わった筈だから、大丈夫かなと思ってね。」

 少し拍子抜けするが、まだ油断は出来ない。

「お陰様で何とかやれてます。美術部を始め、クラスメイトの皆にも親切にして貰ってるので。」

「そっか。何か困った事とか、悩みとかは無い?」

 親切ではあるのだろうけれど、それらを打ち明けられるような訊き方ではない。もっとも、僕の悩みなんて最早〝今井繭浬と中々逢えないんです〟という一点だ。

「今のところ、大丈夫です。何かあれば相談させて下さい。」

「勿論、いつでもいいよ。あと、ちょっと話変わるんだけどね……、」

 いよいよかと身構えるが、彼はペンと手帳を取り出して大机に置いた。

「実は転入生って、保護者にとっても結構なニュースなんだ。学級通信に諒っちゃんの事を書きたいから、幾つか質問させて貰えるかな。」

「……はい。」またもや肩透かしだ。

 ちなみに僕からの視点だと、田角先生の背後に準備室の窓があり、その向こうで部員たちが何かを覗き込み、声を抑えてはしゃいでいる様子が見える。きっとどんなケーキが入っているか確認したくなって、箱を開けたのだろう。ずるい。

「じゃあ、まず趣味とかある?」

「絵画と彫刻とピアノで、観賞するのも好きです。」

「ふうん、何だか難しそうだねぇ。じゃあ次に……、」

 そんな風に当たり障りの無いよう、そしてあまり話題が広がらないように、他愛のない質問へ受け答えていく。

「で、最後だけど。この学校に来て、何か驚いた事ってあるかな。」

「……。」

 怖ろしく偏狭で因循なシステム群でしょうか。文化部を、いっそ芸術を、花嫁修業の準備運動とでも思っていそうな姿勢は全方位に失礼で、それを生徒たちに疑問さえ抱かせず日常として送らせている事に、今なお驚いています。……などの本心は、正直に打ち明けるべきでは無いのだろう。

「そうですね、前の学校と比べて気づいた事ですが……女子と男子の仲が良いように思います。」

 なるべく好意的にお茶を濁したつもりだったけれど、それなりに意外な返答だったらしい。田角先生は「ほう。」と関心を示した。

「それって、具体的には?」

「ええと……こっちに転校してきて、皆が下の名前で呼び合っているのを目の当たりにしました。僕の居た学校でも同性同士では珍しくありませんでしたが、異性間でナチュラルに呼び捨てに出来るのは少し驚いたので……とても仲が良いんだなと。」

「なるほどね。」

 田角先生は嬉しそうにペンを動かしている。どうやら使えそうな内容だったらしい。「まあうちの校区は皆小っちゃい頃から顔馴染みだから、その辺も関係するのかもなぁ。」

 その隙に視線を彼の背後に遣る。窓の向こうの準備室で、部員たちが僕にジェスチャーを送っていた。三人三様だけれど、きっと「早くケーキ食べたいからもう追い払え。」という意味だろう。

 それを背景に、田角先生は呑気に呟く。

「しかし羨ましいなぁ、男一人の部なんて。俺も今から弁当ここに持って来ちゃおうかな。」

 僕を笑わせる軽口のつもりなのだろうけれど、よくもまあと思う。

「歓迎しますが、実は今から粘土を使うんです。結構独特な匂いがするので、食欲は止んでしまうかも知れませんよ。」

「そっか、そりゃ厳しそうだな。残念。」

 そう言って彼は手帳を閉じ、席を立つ。

「いや、いきなり押しかけて悪かったね。とりあえず馴染んでくれそうで安心したよ。とは言っても最初の週だから、だいぶ疲れてると思う。部活も程々にして今日は早めに休みなよ。」

 そして準備室の部員たちにも呼び掛ける。

「もう出て来ていいよー諒っちゃん返すから。昼前にごめんなー。」

 窓ガラス越しに、部員たちは満面の笑みで手を振って応える。それはおそらく、無事にケーキにありつけるという根拠にるものなのだろう。

 無邪気に手を振り返す田角先生の背中を見て、何だか胸が痛んだ。




「……びびったあ。田角先生タッセン、いきなりんだもん。」

 彼が退室するなり、部員たちは安堵した様子で準備室から出てきた。

「うん、久々にヒヤッとしたな。」

「浮かれて油断してたね。だって田角先生あいつ美術室ここ来るなんて、年一ねんいちくらいじゃないの。」

「もー、舘原くんのせいだよ。」

「えっと……、」

 さっきは僕のお陰だと言ってくれていた気がするけれど。

「それは言えてる。だってタチハラ君に用があって来た訳だからね。」

「……でも今のは、不可抗力ってやつじゃないかな。」

「そうかもだけど。舘原くんのお陰でケーキ貰えたのに、舘原くんのせいでケーキ没収されたら、もう何が何だか分かんなくなりそう。」

「確かに。その時は君の事、どうにかしちゃうと思うよ私たち。」

「どうにかって何……?」

「さあ。とち狂って、やり場の無い気持ちを三人がかりでぶつけるんじゃないかな。」

「……まあ結果的にケーキは無事だった訳で。それを頂く為にも、まずお昼にしない?」

 あまり冗談っぽくない雰囲気に怯えながら提案すると、彼女たちも納得してくれた。席について、それぞれの昼食を広げる。

「……また、えらい変わったもん持って来たねぇ?」

 僕が竹の皮の包みを取り出すと、案の定それに言及された。

「うん。祖父の昼食を真似して、今朝作ったんだ。」

「シブ過ぎんでしょ。」

飛脚ひきゃくが食べてそう……。」

 そう呟く加島さんと豊水さんの昼食は手製らしい弁当で、米塚部長はただ市販のパンと紙パックのオレンジジュースを前に並べただけだった。

「で、部長ちさとはテキトー過ぎ。」

「や、だって面倒でさ。」

「慣れれば簡単なのに。」

「それは作れるやつの理屈だろ。私だと、たっぷり時間をかけた丁寧な失敗作しか出来ないって。」

 何でもこなせそうな彼女だけれど、どうやら料理は不得手らしい。少し意外だ。豊水さんは呆れた様子で、自分の弁当を示す。

「そんな事だろうと思って多めに作ってきたから、つまみなよ。」

「助かる。持つべきは家庭的な部員だね。」

「最初からアテにしてたくせに。……タチハラくんも、それだけじゃ足りないでしょ。よかったらどうぞ。」

「え、あ、有難う。」

「それにしても、この後ケーキがあると思うと……にやけちゃうな。」

「確かに。ゆっくり食べたいし、その時だけドアの鍵かけよっか。」

「……それって大丈夫なの? 前の学校だと、生徒だけで部屋を施錠するのって結構な問題になったんだけど。」

「さすがに一日で二人も来客は無いと思うな。もし誰か来ても〝着替えてた〟って言えば済むでしょ。」

「……なるほど。」

 女子ならではと言うか、目から鱗の発想だ。

「はい、じゃあ皆手を合わせて。〝頂きます〟。」

 部長リーダーの音頭を全員で復唱し(この風習はどこの学校でも同じらしい)、昼食を取る。

 早速、今朝作ったおにぎりを頬張ってみた。竹の皮の香りが染みていて食欲を誘うし、水分も丁度いい均整で保たれている気がする。抗菌作用だとかの実益もあるのだろうけれど、単純に美味しい。

 添えていた梅干しや沢庵漬けも合間に齧るが、何だか自分が随分と腕白わんぱくに振る舞っているように思える。例えばサンドウィッチとピクルスなどは手掴みで平気なのに、どうして和食だと背徳感を覚えてしまうのだろう。

 ふと大机しょくたくを見渡す。米塚部長は自分のパンを早々に食べ終え、豊水さんの弁当をつついていた。

「んー、相変わらずの料理上手だわ。嫁にしてくれ。」

「そんな嫁いらんし。」

「振られちゃった。タチハラくん、私傷ついたからお嫁にきてくれる?」

「ええと……、」

 よくない癖だけれど、学校内で困った事があるとつい隣席の加島さんの方を見てしまう。彼女は持参のお茶をすすりながら、「無視していいから。」と呟いた。

「うう、最近うちの部員たちが冷たいな。給湯室からケーキ密輸みつゆするの大変だったのに……あ、その春巻おいしそ。いただき。」

「……タチハラくんも摘んだら。放っとくと部長こいつ、全部食べちゃうよ。」と、豊水さんは僕の方にも勧めてくれた。

「有難う。じゃあその椎茸の肉詰めが気になるから、玉子焼きと交換しない?」

「いいよそんな、なけなしの惣菜おかずを。」

「ううん、僕これで充分お腹いっぱいだから、取り替えて貰えないと食べ切れないんだ。」

「ふーん、小食なんだね。そういう事ならトレードしよっか。」

 と、お互いの昼食を差し出しながら箸を伸ばす(僕は素手だけれど)。何だか気心の知れた友達のようで照れ臭いし、女の子の手料理なんて初めてで、味がよく分からなかった。

「……不思議な玉子焼き。めっちゃ完熟なのに、めっちゃ美味しい。」

「祖父が作ってくれて、僕も今朝食べた時そう思った。てっきり、この地域の玉子焼きは皆こういう質感なのかなと思ったんだけれど。」

「そんな事ないよ。少なくとも私はしっとりが好きだから、半熟が残るくらいで火止めるもん。……お祖父さん山の仕事って言ってたっけ。たぶん冷房とか無い現場でも食べるから、長持ちするようにしっかり焼き込んであるんだろうね。」

「……なるほど。」言われてみれば、保存性や携帯性に富んだものばかりだ。

「私のお祖父ちゃんも、釣りに行く時なんかは竹の皮それ使ってたよ。夏場でも痛みにくいんだって。料理も栄養補給だけ考えたやつ包んでたけど、そういう武骨なのって変に美味しかったりするよね。」

「そうかも知れない。昔の人の知恵って合理的だよね。だからこそ、古びるほど長く残っているんだろうし。」

「……ちょっと、二人で盛り上がんないでよ。」加島さんが、たまり兼ねたように口を挟む。

「そんな言われたら気になるじゃん、舘原くんの玉子焼き。ねえ、うちとも替えっこしよう。冷凍の唐揚げだけどいい?」

「あ、勿論。……でもこれ最後の玉子焼きだから、よければその、部長にも。」

 米塚部長は先ほどから、「いいなぁ、私も食べてみたいなぁ。でも交換できるもの持ってないしな。また仲間ハズレかぁ。部長なのになぁ。」と、いじけた様子で呟いている。

「ああ、はいはい半分こしたげるから。ほら部長ちさと、あーんしな。」

「んあ。」

 ……幼いころ、会食とは相手を理解する場でもあると教えられた。確かに普段あれだけ頼もしく飄々ひょうひょうと僕らを率いてくれる米塚部長が、こんな子供っぽい一面を持っているなんて知らなかった。まるで親鳥と雛だ。

 きっと今までにも三人で食事する機会を重ねていて、その度に料理が出来ない彼女を二人でフォローしていたのだろう。

 考え過ぎかも知れないけれど、それは競技選手アスリートだったにも関わらず不摂生な米塚部長が、いつ本来の分野に戻ってもいいように栄養面をケアしているようにも見えた。

「ほんとら、これんまいよタヒハラくん。」

「ああーもう、食べながら喋んなし。」

「ん……いつもすまないねぇ。」

 口元をティッシュで拭われる彼女の姿を見ていて、本当に考え過ぎかも知れないと思った。



   #



 食後のケーキと珈琲を喫し、部員たちは至福の表情で大机にもたれていた。

 土曜日午後の美術室は、静まり始めた校内でもとりわけ森閑としている。時折り長い廊下の向こうから、楽器の音が聞こえてくる程度だ。

 気の早い吹奏楽部の誰かが、食休みも程々に練習を始めたのだろう。見習わないといけない。

「あの、そろそろ本題に入ろうと思うんだけれど。」

「お昼寝大会だね? よーし負けないぞ。」

「……部活だよ。」

「舘原くんは真面目だねぇ。」

 大机の上で殆ど液体のようにとろけていた三人は、ゆるゆると身体を起こした。まだ少し夢見心地のような表情だ。

 とりあえず手に粘土が付着する前に、設計図を描いたノートや植物図鑑を開いておく。そして米塚部長が持ってきてくれた透明粘土を軽く練り込む。最初に空気を抜いておかないと、いざ乾燥させた時にひび割れたりしてしまうので、ここは僕が熟しておくべきだろう。

 粘土に触るのは久々だ。彫刻と同様に造形の分類だけれど、正直あまり得意ではない。匂いが独特だし、特に透明粘土は質感も油っぽくて抵抗がある。ただ、一度手が汚れてしまえば腹も据わり、とことんまでやってしまおうという気持ちになる。和食系を手掴みにした時と似ていなくも無い……かも知れない。

 次は着色だが、その頃になると部員たちは興味を持った目で僕の作業を見ていた。好奇心のスイッチが入ってきたらしい。

「やってみる?」

「いいの?」

「勿論。じゃあ自分が作りたい花の色を分担しようよ。」

 練り終えた粘土の塊を千切って全員に渡し、四人の中央にパレットを置いた。その上に幾つか水彩絵具を落とす。米塚部長が黄色、豊水さんがピンク、加島さんが白、僕が赤紫の担当だ。

 まずは手本を見せる。赤紫に混ぜた絵具を一筋ひとすじ粘土へ乗せて、あとはそれが全体に行き渡るように混ぜ込んで練る。

「透明粘土は乾燥させると少し縮むから、完成する頃には色が濃ゆくなるんだ。だから想定よりも大きく造形して、想定よりも薄く着色する事を意識して欲しい。」

 注意点はそれくらいなので、早速部員たちに実践して貰う。作業に勤しむ中、米塚部長が苦笑した。

「タチハラくんが見ててくれないと不安だけど……じっと見られてたら、それはそれで緊張するな。」

「何だか申し訳ない。でも、もし絵具を付け過ぎても粘土を足せば薄められるから大丈夫だよ。塑造そぞうに関しては大体やり直しが利くから、あまり硬くならないで。」

「そうなんだ、ちょっと楽になった。……ソゾウって何?」

「塑造は、つまりこういう粘土細工の事かな。」

「ふうん……よし、均等に混ざったよ。」

 全員の着色が終わったので、次の工程に移る。いよいよ花弁の造形だ。

 まずは八枚あるコスモスの花弁*²⁰だけれど、これは植物図鑑と見比べながら一枚ずつ象っていく。僕が担当する赤紫色はグラデーションが顕著なので、その濃淡は未着色の粘土を部分的に加える事で表現する。細かな花脈かみゃくも、名札のピンでえがいた。

「はー、器用だね。」

「ほんとに花びらみたい。」

「絵も上手だったけど、こういう事も出来るんだ?」

「一応は、美術予備校で習ってたんだ。全部のカリキュラムは終えられなかったけど……一枚目、完成。この感じで、皆も八枚作って欲しい。」

 不安がりながらも部員たちは取り組んでくれる。おにぎりを三角に握るよりは簡単な作業なので、あまり心配は要らないだろう。

 細かい作業が好きだと言っていた豊水さんは、やはり精巧に僕の工程をコピーしていた。料理も得意みたいだし、元々手先が器用らしい。

 米塚部長と加島さんはすぐに飽きてしまうのではという不安こそ有ったけれど、意外な集中力で臨んでくれている。豊水さんほどスムーズではないにしても、僕がパレットに置いた見本の花弁と手元を見比べ、そして植物図鑑で色合いなども確認しながら、根気よく調整している。

 やがて彼女たちが呟いた。

「……何か、和菓子作ってるみたいだな。」

「それ思った。ケーキ食べた後でよかったよね。絶対甘いの欲しくなってたよ。」

「私のこれ黄色いからさ、パイナップルに見えてくるんだ。」

うちの白は、大福とか綿菓子に……。」

「やめなさい。今からでも食べたくなる。」

 今日も珈琲に砂糖を四本、ミルクを三個加えていた筈の豊水さんが、二人を制止する。

「……でも、言い得て妙かも知れないよ。透明粘土でフルーツやお菓子を作る人って多いから。」

「そうなの?」

「うん。薄切りのキウイとかシロップ漬けの蜜柑とか、ゼリーとか。そういう半透明の物を作るには最適の素材だからね。上手な人のだと、本物より美味しそうに見えたりもするよ。」

「……ねえ、お腹空かない?」

「ジャンケンで負けた人が、こっそりお菓子の買い出しとか……。」

「駄目に決まってるでしょ、リスクとカロリー高過ぎ。」

「うう……。」

「だって舘原くんが、何か美味しそうなこと言うから……。」

「え、あれ。僕としては、二人をフォローしたつもりだったんだけど。」

「……こんな時まで天然発揮しないでよ……。」

 全員が八枚の花弁を作り終えたので、次の工程に移る。それらを繋ぐ花の中央部で、いわゆる雄蕊おしべ雌蕊めしべと呼ばれる箇所。コスモスの場合は集葯雄蕊しゅうやくゆうずいと呼ばれるらしい部分だ。

「ここはどの色の花でも黄色だから、米塚部長の粘土を少し分けて貰って作ろう。」

「それで私の粘土だけ大きかったのか。どれくらいあげらいいの?」

「ええと、白玉くらいで。」

「白玉食べたいなぁ……。」

 受け取った粘土を球体に丸め、指先で表面を摘み凹凸を作る。

「真ん中はこれで完成。」

「え、そんな適当でいいの?」

「うん。ここは複雑な構造だから大変だし、あまりリアルに作っても生々しい部分なので敢えて省略です。何より最終的には花の中心を流木に突き刺して固定するだろうから、頑張って再現しても完成と同時に崩れる可能性があるので。」

 その球体に、先ほど作った八枚の花弁を透明性の接着剤で付着させていく。とりあえず一輪の花に仕上がった。

「そして手を抜いた分、ここで工夫を。」

 僕が鞄のポケットからプラスチック製のケースを取り出すと、皆はそれを覗き込んだ。中には、黄色く細かな粉末が入っている。

「何それ、カレースパイス?」

「ううん。雲母*²¹っていう鉱石の粉で、いわゆる粉末絵具だよ。よく日本画に使われたりするんだけど、これを……。」

 慎重に蓋を開け、吸い込まないように注意しながら花の中心部に振り掛ける。

「そっか、花粉だね?」

「なるほど。これでリアルになるし、手を抜いた箇所も隠せるって訳か。」

「そう。乾燥する頃には粘土に定着してくれるだろうし、これなら流木に取り付ける時に多少形が歪んでも問題ないと思って。」

「確かに。何か一気にコスモスらしくなった気がする。」

 とりあえず僕の分は完成だ。また見本として四人の中央に置き、「接着剤や粉末絵具を粘膜に近づけないように。」という点だけ注意して、あとは彼女たちの作業を見守らせて貰う。

「何だか、ますます和菓子に見えてきたなぁ。」

「今はまるで落雁らくがんだけど、これが透明になるんだね。」

「そういえば通りの甘味屋さん、水ようかんの看板出してたな。」

「……この話やめよう? お腹空くし、帰りに寄っちゃいそう。」

「そうしよ。ねえタチハラくん。この黄色い粉、鞄から出してたけど私物?」

「うん。流石に美術室ここには置いてなかったから。」

「そんなの、言ってくれたら先生の予算で買って貰えたかも知れないのに。」

「どうだろう。中学校で必須の画材では無いし、人によっては炎症を起こしたりもするから、授業で使うには少し難しいかも知れない。」

「ありゃ。そうなんだ。」

「まあ高価なものでも無いから気にしないで。見てのとおりコンパクトで、わざわざ処分しなくても嵩張かさばらないって理由で持ってただけだから。」

「ふうん……前から訊こうと思ってたんだけど。舘原くんの感覚だと〝高価〟っていくらくらいからなの?」

「あ、私もそれちょっと気になってた。」

「確かに。何かフンイキ違うしね。」

「ま、その辺は今井繭浬まゆも一緒だけどさ。」

「……思い出した。部長ちさとあんた、まゆへの連絡わざと舘原くんに頼んだでしょ。」

「うん。それが何かー?」

「何かーじゃないよ。彼、一年の教室に直接乗り込むところだったんだからね。」

「ひゃー、大胆ーん。」

「ぜったい分かってたでしょ。あと少しで大変な事になってたよ。」

「でも実際は、なってないだろ?」

うちが止めたからだよ。」

「うん。だからそれを信じた上で、からかったんじゃん。」

「あんたね、本当そういうとこ直さないと……、」

 僕は感心してしまう点なのだけれど、彼女たちはお喋りしながらでも作業に集中できるらしい。軽快に会話をジャグリングしながら、手元も全くおろそかにはしていない。寧ろ、集中する為に雑談を交しているようにさえ思う。

(僕なんて少しの雑音さえ気になってしまうし、ただの会話でさえ苦手なのに。)

 と軽く落ち込んでいる間に、全員が花を完成させた。少し歪なところはあるけれど、殆ど初めての塑造だから充分の出来だろう。今日の課題は想像よりスムーズに終えられた。

 あとの作業は乾燥を経てからになる。僕は設計図を煮詰める為、再びノートに取り組んだ。どの色の花をどの枝に配置するかも考えておかないといけない。

 余った粘土は好きに使って大丈夫だと告げると、彼女たちは早速自由に遊び始める。豊水さんは自分のピンクと僕の赤紫の粘土を混ぜ、鮮やかな苺を作り始めた。表面の粒も細かく再現していく。

 加島さんは細部より全体の質感を求めているのか、白の粘土を練り込んでは膨らませていた。後で漏れ聞いたところによると、二人で分担して苺大福を作っていたらしい。

 米塚部長は植物図鑑などの資料を引き寄せ、全員の粘土を少しずつ貰って作業を始めた。よくよく見てみると、どうやら再びコスモスを象っている。

「……部長、それって。」

 彼女だけ遊んでいる訳では無さそうなので、つい尋ねる。

「ん、花もう一個作ろうと思って。上手く出来たら使って欲しいんだけど、いいかな?」

「勿論だけど、色が。」

「うん。コスモスは花びらが八枚で、今ある粘土は四色でしょ。だから全員の分で花びら二枚ずつ作れば、カラフルな花が出来て面白いかなって。」

「……なるほど。」

 シンプルだけど、僕には浮かばない発想だ。実際には勿論、バラバラの色合いを持ったコスモスなど実在しないだろう。でも、そもそも創作とはそういうものじゃないかという気もする。

「まゆが居ないから、その枠も余ってるだろうし。あとは何ていうか……、」

「何?」

「いや、うーん。これ誤解されそうだけど、何かもう一つ地味だなって思ったんだ。」

 とても核心的な言葉だという気がして続きを促すと、彼女は困ったような表情で粘土を捏ねている。

「上手く言えないんだけど……今作った粘土の花が乾燥して、予定通りこの流木の先端にそれぞれ咲いてるのを想像しても私、〝で?〟って思っちゃうんだ。

 勿論、こんなちゃんとした作品に出来るのはタチハラくんの指導のお陰だし、別にケチつける訳じゃ無いんだけど。ただ、良くも悪くも引っかからないっていうか、もっと面白味みたいなのが欲しいっていうか……。」

 今朝、柚季に言われた言葉を思い出す。

「……〝遊び心〟?」

「あ、それだ。そんな感じ。今のままだと、まとまってるけど、ただ上手で大人しいっていうか。自分が小学生だったら、まず何だこれーって面白がれるやつの方が嬉しいかもと思って。」

 絶句し、ただ茫然と米塚部長の姿を目で、言葉を脳裏で追う。きっと、全て彼女の言う通りだ。

 僕は自分が満足できるように、そして誰にも咎められないように、ひたすら目先の造形を小綺麗に磨くばかりで。贈る相手の小学生がどう感じるか、ましてや喜んでくれるかなんて考えてもいなかった。

 言い訳にもならないけれど、僕が傾倒したのは古典的クラシカルな彫刻だ。ひたすら不正解を削り落とし正解へと整えていく作業の中で、そこに新たな異物を足してしまおうという発想にはなりにくい。

 そんな引き算の芸術だとしても、自分の感性なりイメージなりをゼロから顕現させるという気概が必要なのかも知れない。あるいはそうして初めて、創作と呼べるのだろう。

「……や、ゴメンね。素人なのに、何か偉そうに言っちゃってさ。」

「ううん。部長は、やっぱり凄い人だと思う……。」

「何だそれ?」

 彼女は粘土を弄りながら苦笑する。

「僕にも手伝わせて。一人でまた八枚作るのは大変だよ。」

「お、助かる。じゃあ半分お願いしよっかな。」

 二人で分担しながら、更に彼女の意見を求めてみる。

「部長、他に何が足りないと思う?」

「うーん?」

 米塚部長は首を伸ばし、ノートの完成図を覗き込んだ。

「そうだなーゲイジュツの事は分からんけど……何か、流木の辺りが寂しい気はする。」

 視線を手元に戻し、言葉を続けてくれる。

「まあ、茎の方が目立つ花なんて実際は無いんだろうけど、これ作りものだしね。せっかくだから、もうちょっと流木でも遊んでいいんじゃない?」

「……なるほど。」

 その言葉で更に気づいたのは、この茎が流木であると分かる人には分かるだろうけれど、ただの木にしか見えない人も居るだろうという点だ。

 だったら、これは流木で作った物なのだと一目で伝えられた方が、じっくり見てくれるんじゃないだろうか。

「……部長、最初に素材の提案をしてくれたよね。流木と、貝殻と、シーグラスって。」

「だっけ?」

「うん。〝自然の彫刻〟だって言って、」

「恥ずかしいから止めてそれ。」

「そう? とにかく、その残りの二つを使って、流木の部分も飾るのはどうだろう。」

「あー、可愛くなりそうだね。でもいいの? 自分で言っといてなんだけど、今の路線でも渋くて味わい深いと思うよ。」

「ううん。少し見えてきた。まず、当の小学生たちを喜ばせないと、僕も思惑も成就しないんだ。その為なら自己満足なんて捨てて、ここは大衆性と迎合すべきなんだ。」

「えっと……、」

 部長が珍しく言葉に詰まっている間に、加島さんと豊水さんが口を挟んでくる。

「どしたの? 珍しくテンション上がってるみたいけど。」

「何が見えてきたの?」

「うん、部長のお陰で目が覚めた。つまり僕には、盆栽でクリスマス・ツリーを作るような覚悟が必要なんだよ。」

「……。」

「……。」

 二人は僕から視線を外し、顔を見合わせ、次に米塚部長へ向けた。

「ちょっとうちらが苺大福作ってる間に、何でこんな事になってんの?」

部長おまえ一体、何を吹き込んだ?」

「何も吹き込んでない。この子が勝手にスイッチ入ったんだよ。私もびっくりしてんの。」

「……ま、部長ちさとと話してたんなら、仕方ないか。ほら舘原くん、これ見て!」

「合作したんだよ。」

 二人に差し出されたのは、苺大福を模した粘土作品だった。牛皮の大きな裂け目からは色鮮やかな苺の実と、小豆らしい暗色の餡(赤紫の粘土に黒絵具を足したらしい)が覗いている。乾燥して透明になれば、夏の和菓子のように涼やかな仕上がりになるだろう。

「……うん。コスモスがかすみそうなくらい、よく出来てるね。気合の入り方が違うっていうか。」

「でしょ? これも小学校に寄付しようよ!」

「コスモスみたいに、枝の先っぽに刺してあげてさ。」

「有難う。でも一旦それは大丈夫。」

「大丈夫って何。」

「どういう意味。」

「ちょっと違うかなって。」

「違うのかよ。」

「意外と冷静かよ。」

「……全員、一回落ち着きな。」

 粘土に触れた手で汚れないよう、器用に小指だけで珈琲カップを傾けながら、米塚部長が場を窘めてくれる。

「とりあえずタチハラ部員は何か覚醒したみたいで、より小学生受けポップを意識した方向に舵を切りたいんだって。だから次の部活日の火曜に、もう一度皆で素材探しに出かけようか。」

「要は可愛くするって事ね。異議なし。」

粘土これの乾燥待ちで、どうせ火曜はやれる事ないもんね。」

「有難う。また学校ここの裏の海に行くの?」

「それなんだけど、カイショウロはどうかな。」

(……かいしょうろ?)

「いいんじゃない、最近行ってないし。」

「タチハラくん好きそうだしね。」

 聞き慣れない単語に首を傾げるが、部員二人は賛同していた。何か好意的な思惑があるらしい。ここで訊き出すのも野暮なので、とりあえず了承する。

「じゃあ決定だね。詳細は伏せるけど、それなりに面白いと思うよ。あと、よかったらさ……、」

 そこで、美術室の扉が音を立てた。全員がそちらに目を向ける。閉まったままの扉が、がこん、と軋んで再び鳴る。誰かが開けようとしているのだろう。

「あ、やば。カギ掛けたままだった。」

「また先生かな。」

「じゃあタチハラくん、頼んだ。」

「え、うん。」

 慌てて水道で手を洗う。油っぽい透明粘土は、石鹸を使っても中々流れ落ちてくれない。

「女子が着替えてるって言い訳するんだよ。一応カモフラで私たちは隠れてるから。」

 そう言い残し、部員たちは準備室に入った。その間にも、扉は五度、六度と音を立てている。相当気の短い来客らしい。充分に手を洗えていないけれど仕方ない。ハンカチを取り出しながら呼び掛ける。

「今開けます。すみません、女子部員たちが着替えていたもので。」

「……だったら、どうして男子あなた室内そこに居るのですか。」

 扉越しに聴こえたその声に、息を呑む。駆け寄って鍵を外し、扉を引いて開けた。

 長く続いていく廊下を背景に、今井繭浬が立っていた。




 あれだけ待ち焦がれていた再会だったのに、いざその時になってみれば何の言葉も浮かばなかった。

 今井繭浬は実在していた。ただその事だけで、胸も頭も一杯になってしまった。

「……。」

 相変わらず長袖の中間服を着て、痩せた肩で重たに鞄を提げている。長く艶やかな髪は少し乱れていて、その瞳もひどく不機嫌そうに僕を見つめてくれている。殆ど睨んでいるように攻撃的な眼差しだけれど、不思議と無防備にも映った。

「……。」

 心臓が破裂してしまいそうな動悸を抑え兼ねていると、やがて彼女は口を開いた。

「邪魔なんですけど。」

 どうやら僕が入口から退くのを待っていたようだ。勿論進路を塞いではいなかったが、彼女の感覚だと距離が近すぎて通りたくないのだろう。

 僕が扉を持ったまま下がると、今井繭浬は細い躰を室内へ滑らせた。

「あー、今井繭浬まゆだ。」

 準備室のドアから様子を窺っていたらしい部員たちが、彼女に気づく。その病状を気遣ってか大声を発したり駆け寄ったりはしないが、歓迎している様子だった。

本当ほんとだ。やっと顔出したな。」

「まゆぅ。なーんか、うちらがいない時ばっかり来てるらしいじゃん。」

「具合どう?」

 今井繭浬は、「どうも。」「体調次第なので。」「まあまあです。」などと、素っ気なくも律義に応じていた。

「先輩方こそ、土曜日にどうしたんですか。もうすぐ一六時ですよ。」

「もちろん部活だよ。ほら見て、これうちらで作ったんだ。」

 大机に横たわる流木と、並べられたコスモスと苺大福を順に一瞥し、彼女は「そうですか。」と呟く。

「あれ、今日のこと知らなかったの? おかしいな。タチハラ部員に頼んだのに。」

「……ええと、ちゃんと昨日、担任の先生に連絡をお願いしたんだけれど。」

 声が上擦うわずってしまう。今井繭浬はこちらを振り返りもせずに、「聞いたかも知れませんが、忘れました。」と鰾膠にべも無い。ツカツカと室内を横切り、手近な大机に鞄を下ろす。

「部活のつもりじゃないなら、まゆこそどうしたの? こんな時間に。」

「今日は保健室で横になっていたんです。お昼に迎えの車が来て、先生も食事と職員会議に行くからって起こしてくれたんですが、そのまま二度寝してしまいました。さっき先生が戻ってきて、また起こしてくれたんです。」

「つまり、ずっと寝てたんだ。」

「それで今日、ぼーっとしてんのか。」

「お手伝いさんは?」

「一旦家の仕事に戻ってしまったので、さっき電話で改めてお願いした所です。」

「そういう事か。で、お迎え待ってる間退屈だしもう寝飽きたから、ピアノでも弾こうと美術室ここに来たんだね。」

「はい。少し弾いたら帰りますので、お気になさらず。」

 下ろした鞄から楽譜のファイルを取り出し、隅のピアノへ向かいながら言う。

「だったらお腹空いてるだろ。勢良先生ラッセンが買って来てくれたお菓子あるよ。もうシュークリームしか残ってないけど、まゆの分だから。」

「遠慮します。起き抜けにそんなもの、食べられません。」

「ったく、この眠り姫め。シュークリームが食べらんないタイミングなんて、一日のどこにあんだよ。勝手に入れとくから、後で食べな。」

 米塚部長は彼女の鞄を無許可で開き、そこに白い箱を押し込んだ。随分と怒るのではと心配したが、今井繭浬は気にする素振りも無くピアノの鍵盤蓋を上げ、譜面台にファイルを置く。そして直近のカーテンを少しだけ閉じてから椅子に腰かけた。

 豊水さんと加島さんも声を掛ける。

「だったらコーヒーは? 丁度お湯沸いてるよ。」

「粘土もあるよー。お嬢ちゃん、こっちで遊ばない?」

「結構です。お構いなく。」

 三人は顔を見合わせ、慣れた様子で苦笑を交す。そして米塚部長は僕の方に振り返った。

「タチハラ部員。そんなとこ突っ立ってないで、早く花びら仕上げようよ。」

 茫然と応えて先ほどの席に戻るが、粘土の作業などに集中できるものでは無い。同じ部屋の片隅で、この世の何よりも美しい少女がピアノに触れているのだ。眠た音階スケールを辿り、和音を確かめ、バッハを弾き始める。午睡の限りをむさぼった指先で。

 そんな今井繭浬に、僕はよほど話しかけようかと思った。自分が気づく事の出来た彼女の美しさを一つ一つ伝えたかったし、モデルの件は考えてくれたかを訊きたかった。ピアノで曲を弾く直前に指を慣らす、人それぞれのちょっとした儀式についても語り合いたかった。

 しかし何とかこらえた。加島さんが「あの子は野暮を嫌う。」と教えてくれたからだ。きっと部員たちの前であれこれ洗い浚いに吐き出されたくないのだろうし、彼女が何も言ってこないとはつまり、そういう事なのだろう。

 やがて今井繭浬はバッハを弾き終える。部員たちが作業しつつ拍手をするが、彼女は反応せずに次の曲を弾き始めた。それも終える頃にはまた拍手が起こり、そして次の序曲が始まる。きっと、これが全員集まった日の美術室の風景なのだろう。

 僕はと言えば、もし次にグノシエンヌを弾いてくれたらという、あまりに甘美な期待で気が気では無かった。何せ、それは彼女からの返事に違いないのだ。

 僕は、あの薄暗い美術室での時間を憶えている。何度も反芻した。きっと今ここでのグノシエンヌは、共に美しい放課後を過ごした記憶への答え合わせだろう。

 しかし、今井繭浬は最後までその曲を弾いてはくれなかった。サティどころか、プロコフィエフも、ベートーヴェンさえ一曲も弾かなかった。

 彼女はラヴェルの途中で鳴った携帯電話を確認し、そして楽譜を手に取って鍵盤蓋を閉じた。大机こちらへ歩いてくる。

「お迎え、着いたって?」

 僕の次にそれへ気づいた米塚部長が問う。

「ええ、お邪魔しました。それでは。」

「またねーまゆ。」

「気をつけて帰りなよ。」

 今井繭浬は鞄を肩に掛け、部員たち三人にだけ目礼して扉へ向かう。僕は咄嗟に席を立った。

「今井さん、」

「その苗字は嫌いだと申し上げた筈ですが。」

 二の句を継げずにいると、彼女は止めた脚を再び動かした。

「あ、待って。車まで送るよ。この前も勢良先生が言っていたし、」

「結構です。」

 有無を言わせぬ口調だった。そのまま、振り返りもせずに美術室を出て行ってしまう。

「……。」

 扉が閉まると、僕は殆どくずおれて座り直した。

「……ねえ、部長ちさと。」

「うん?」

「さっき叱っちゃったけど、訂正する。これは、からかいたくもなるわ。」

「だろ。まあ私も、ここまで露骨だとは思ってなかったけどね。」

 そんな会話を茫然と聞き流しながら、無意識に頬杖をつく。透明粘土に触れた手でそんな事をしたものだから、後々あとあと顔がひどい事になってしまった。



   #



 部活を終えての下校中、何度かクラクションの音を聞いた気がするけれど、よく覚えていない。ともかく祖父の家に戻るなり、僕は体調を崩して寝込んでしまった。

 それは田角先生の心配通り、環境の変化で疲労が蓄積していたのかも知れないし、今井繭浬の態度が素っ気なかった事にも因るのかも知れない。

 いずれにせよ土曜日の夜に発熱してしまい、うなされ続けて漸く意識を取り戻した頃には日曜日の午後だった。熱は治まったようだけれど、ひどく気怠けだるい。

 襖の向こうから何か声が聞こえて布団から顔を出すと、漆塗りのトレイを持った祖父が姿を見せた。慌てて起き上がろうとしたけれど、「寝とれ。」と短く制された。

「具合はどうかね。」

「お陰さまで、熱も下がったようです。」

「ん。食えたら食え。」

 と、彼はトレイを僕の枕元へ置く。大きな丼に満たされた饂飩うどんと、お茶の入った湯呑が乗っている。

 僕は礼と、週末にも関わらず何も家事を手伝えない事と、ただでさえ世話になっているのに迷惑まで掛けてしまった事を詫びようとしたが、祖父はだいぶ前半の時点で「静かにせい。」と一蹴し、襖を閉めた。彼が階段を下りていく音が、ぎしぎしと聞こえる。

 その気配を何となく見送ってから、丼を覗き込む。太い麺の他に鰹節、蒲鉾かまぼこ、梅干し、ホウレン草、ポーチドエッグ、そして何故か薄切りのベーコンが乗っている。意表を突いたトッピングだ。きっと消化に良いようにと饂飩を茹でてくれたのだろうけれど、具材が充実し過ぎていて意義が薄らいでいる気がする。それも祖父らしいのかも知れない。

 とても食べ切れないと思いながら両手で丼を持ち上げ、スープを啜ってみる。ベーコンの油が浮いているので匂いも移っているのだろうと警戒したけれど、鰹節の香りのお陰か意外と気にならなかった。その温かさも強めの塩分も、熱で発汗した身体には心地よかった。

 箸を取り、麺を選ぶように一本一本口にしている内に食欲が湧いてきて、気づけば全て平らげていた。

 お茶を飲んでいると、再び祖父の声が聞こえた。応じると、静かに襖が開く。

「食えたか。」

「頂きました。美味しかったです。」

「足りたかね。握り飯もあるが。」と、手に持った皿を見せる。大きなおにぎりが二つ。流石に食べ切れないので、笑って遠慮する。

 祖父は頷き、暫く僕を眺めて、襖近くの畳に腰を下ろした。すぐに一階へ下りると思ったので、少し意外な行動だった。

 僕は食後すぐに寝転がると胸焼けを起こしてしまうので、再び横にはならず布団の上に座っていた。その姿が、体調を崩して弱気になっているように映ったのかも知れない。

 祖父は珍しく、特に内容の無い話をしてくれた。例えば、もう少し僕の引っ越しが早ければ美味しい筍を食べさせられたという話。今年は梅雨入りが遅れそうだという話。職場の若い後輩に子供が生まれ、それから毎日昼休みに赤ん坊の写真を大量に披露されていて、反応に困るものの元気そうに育っていて何よりだという話。

 語っている間に空腹を覚えたのか、祖父は持ってきてくれたおにぎりを自ら齧り始めた。そして残りの一つを僕にも勧める。

 さっきの饂飩で充分だったけれど、何となく断れなくて受け取った。おにぎりと沢庵漬けを、祖父と半分ずつ食べる。満腹にも関わらず美味しかった。

 僕は幼い頃から寝込む事が多かったけれど、大抵は薬とそれを飲む為の食事を与えられるだけで、雑談や食事を分け合おうとする大人は周りに居なかった。だから僕自身も望んだ事が無かったのだけれど、思いのほか気がまぎれるものだと知った。相槌を返すだけでも、活動や社交の意思が戻ってくるように感じられた。

 やがて、階下から声が聞こえた。元気な女の子の呼び掛け。柚季だろう。

 祖父は座ったまま階段の方に振り返り、「上にるぞ。」と告げる。床板と、次いで階段の軋む音がして、やはり柚季が開けっ放しの襖から顔を見せる。

「よ。伯じい、諒兄。」

 急な階段を梯子はしごのように登ったらしく、廊下の床に手をついた姿勢のまま身を乗り出している。まるで座敷猫が隣室の様子を窺っているようだった。

「どうしたの? こんな時間からおふとんしいて。」

「少し体調を崩してたんだ。もう大丈夫だよ。」

「ありゃ。せっかくの日曜なのに、かわいそうだったね。」

「柚季はどうしてたの?」

「友達と遊んでて、帰ってきたとこだよ。」

 彼女は帰路、必ずこの家に寄り道する習慣があるらしかった。水泳部の活動を終えた木曜日の夕方にも、僕は二階に居て気づかなかったけれど玄関先に顔を出し、やはり調理中の食事を一口無心して帰ったらしい。

「てか、やっぱり諒兄の部屋ここになったんだね。」

 そう言って軽く見回す。幼い親戚とはいえ、女の子に部屋を見られるのは恥ずかしい……と思いたかったけれど、殆ど私物を持ち込んでいないので、あまり羞恥を感じる要素が無い。

 何なら、昨日制服を脱いで横になったままの僕自身を見られた事が恥ずかしいくらいのものだ。

「熱とかは?」

 と、柚季は四つん這いのまま、祖父の胡坐あぐらした膝を越え、僕に顔を寄せる。シャツの襟から胸元が覗いていて、その日焼けが届いていない素肌の白さに驚いた。

 とにかく健康的な彼女の事だから、生まれた時点で小麦色の肌をしていたのではという憶測を無意識に抱いていたが、本来は寧ろ色白だったらしい。それも今井繭浬のような日陰に浸かり切った青白さではなく、日光さえ弾くような眩しい素肌だった。

 〝今井繭浬〟という自らの例えにふと気落ちしつつも、何とか平静を装って応える。

「少し微熱が出たけど、もう治ったよ。それより昨日お風呂に入ってないから、あまり近づかないで欲しいな。」

 きたないなぁ、と柚季は顔を顰めて見せながらも笑う。

「ん? じゃあ諒兄、今日はどこにも出かけてないの?」

「うん、さっきまで寝てたから。」

「伯じいは?」

 傍らの祖父は無言で頷く。それがどちらの意味なのか判らないけれど、柚季には通じたらしい。

「だめだよそんなの。なに二人で引きこもってんの。」

 呆れと憤りに首を振り、柚季は立ち上がった。狭い部屋に三人も居るので、僕と祖父はそれとなく身を退いて場所を空ける。

「一日一回は外に出かけないと、元気にならないよ。」

 それが彼女の持論であるらしい。僕としては元気じゃないから引き籠っているのだけれど、そんな理屈が通じるだろうか。

 何より、僕自身がその理屈に確信を持てなくなった。ついさっき他愛も無い話を聞かせてくれた祖父のお陰で心身が目覚めたし、柚季はたった今何やら息巻いているし、昨日の美術室でも、部員たちは今井繭浬に何かと構っていた。この町では、あまり病人を放っておかないものらしい。

「暗くなる前に、ちょっとだけでも出かけようよ。このへん、さんぽするだけでいいからさ。」

 彼女の申し出は唐突だったけれど、僕は了承した。何せもう夕方なので、少しでも運動しておかないと今夜は眠れないだろう。明日は月曜で、登校日だ。

 祖父は「俺もか……。」と億劫そうだったけれど、「あたしも付き合ったげるから。ほら早く。」と柚季に押し切られて渋々立ち上がった。空の食器を乗せたトレイを持って、階段を下りていく。




 布団から出て服を着て、僕も一階へ下りた。玄関で待っていた祖父と柚季と共に、家を出る。鍵は開いたままだけれど、二人が気にしている様子は皆無だ。

 軒先で柚季に訊いてみる。

「で、どこに行くの?」

「どこ行こっか。」

「考えてなかったんだ……。」

 彼女は口を尖らせた。

「あたしは付きそってあげてるだけだよ。もやしっこ二人にさ。」

「神社は、どうな。」

 祖父が呟く。

「そうしよっか。あたしの帰り道だし、諒兄まだお参りしてないだろうし。」

 目的地が決まったらしく、先に歩き出す二人に従う。何だか、初めてここに来た時のようだ。

 あの日の夕方に祖父と散歩をして、夜には柚季を送って歩いた。その二人の背中が、並んで僕を導いてくれている。時折り柚季の元気な声が聞こえるが、それに対する祖父の返事はやはり小さくて聞き取れない。それでも彼女は満足そうに笑っているようで、何だか趣深い光景だった。

 やがて柚季が僕へ振り返る。

「なんでそんな後ろにいんの。」

「え、僕は道が分からないし……、」

「わかんなくてもいいじゃん、並ぼうよ。」

 その言葉に戸惑いつつ、二人に追いついて歩く。本来歩行者が横に並ぶのはよくない筈だけれど、この道路は車など殆ど通らないのであまり問題は無さそうだった。

「……神社は、遠いんですか。」

 祖父に訊いてみると、彼は目を細めて坂の上を指差した。

「ここを上れば、すぐだ。」

 頂上に向かう途中に在るらしい。柚季に「だったら、トーチカの方面だね。」と危うく口を滑らそうとして、慌ててつぐむ。

 代わりに、「今日は何だかお洒落だね。」と言ってみた。ランドセルを背負っていないだけで、彼女は不思議と大人っぽく見える。エナメル加工された小さなバッグを肩に掛けており、足元のサンダルはヒールをあしらってあるらしく、いつもより少し背が高い。

「どうだろ。うかないようにはしてるけど、あたしは興味ないほうだよ。もうお化粧メイクとかしてる子もいるし。」

「へえ……。」

 美術部の面々も、休日には化粧などしているのだろうか。今井繭浬には、全く必要が無さそうだけれど。

「……そういえば、柚季に伝える事があったんだ。一緒に登校する時に言おうと思ってて、忘れてた。」

「うん?」

「昨日の部活で決まった事なんだけど、火曜日の放課後にまた学校の外に出る事になったんだ。」

「ああ、流木プレゼント部ね。」

「美術部だよ。それで、皆で海辺を散策するんだけれど、」

「ほら、流木プレゼントする気だ。」

「……米塚部長がね、」

「チサトさんが? なに?」

 途端に茶化すのを止めて、瞳を輝かせる。

「よかったら柚季も連れて来てってさ。」

「ほんとにっ? ……それって、また諒兄がヘンな頼み方したんじゃないよね。」

「僕は何も。向こうから言ってくれたんだ。」

「そっかあ……ぇへへ。あたしね、諒兄が引っこしてきてくれて、ほんとによかったと思ってるよ。」

「今まではそう思われてなかったって事が分かってそれなりにショックだけれど、君が喜んでくれて何よりだよ。」

 神社へと辿り着く。道路に面して鳥居が在り、その脇には町内の掲示板と、小さな屋台が設えられていた。胡瓜きゅうり莢豌豆さやえんどうが並べられて、値札も出ているものの、店員は見当たらない。

 あれは一体何なのかを訊きたかったけれど、二人は鳥居をくぐって石段を上り始めたので後を追う。

 境内は木々に囲まれており、その中央に拝殿が見える。一際大きな銀杏の樹には注連縄しめなわが巻かれており、苔に覆われた石灯籠が点在していた。

 辺りを見回しながら、拝殿へ続く参道を歩く。すると不意に柚季が両手で僕の手首を掴み、脇の方へ引っ張った。

「何?」

「なにじゃないよ。道のまんなか歩いてるってば。」

「あ、いけないのか。」

 慌てて退くと、柚季は怪訝そうに眉を顰めた。

「神社、来たことないの?」

「うん。映画だとかで観た事はあるんだけど……。」

「ふうん。」

 先頭を歩く祖父が手水舎ちょうずやに立ち寄った。一応概念としては知っている。確か手と口を清める設備だ。

 大きな石を抉って造られた水槽には水が満ちていて、僅かに捻られた蛇口から永続的に雫が落ちている。木造の屋根にはハンガーが掛かっていて、そこにぶら下がる手拭いが風に揺れていた。

 ふと思い当って、石灯籠や狛犬こまいぬにも目を遣る。

(考えてみれば、これらも彫刻なのか。)

「……諒兄おいで、お手水ちょうず教えたげるから。」

 振り返ると、柚季が手招きしていた。唇が瑞々しく濡れている。

 手順を彼女に習う。右手で柄杓ひしゃくを取り、水を掬って左手を洗い、持ち替えて右手を洗い、また持ち替えて左手に受けた水で口を洗い、最後に柄杓の柄を洗って元に戻す。

 口を洗う際に本意気のうがいをしようとして柚季に腰を蹴られたけれど、それ以外はスムーズに済ませられた。

「あまったお水は砂利に流していいけど、とちゅうで注ぎ足したりしないようにね。」

「はい。」大人しく従う。「あと、お参りの作法も訊いておきたいんだけど……。」

「二礼、二拍手、一礼。つまり、〝ぺこぺこ・ぱんぱん・ぺこり〟だよ。」

「……なるほど。」

 お社の目前で慌てるのは流石に失礼だと思ったので、今の内に練習して柚季にチェックして貰う。その様子を眺めていた祖父が、「細かい作法など気にするな。」と呟いた。

「まーたそんなこと言う。」

「昔は決まりなど無かった。喧しくなったのは最近だ。」

「……そうなんですか?」

「ああ。敬う気持ちがあるならいい。」

「そうかもだけど、せっかくルールが出来たなら知ってたほうがいいじゃん。」

 どちらの言い分も、きっともっともなのだろう。とりあえず、形式に則ってお参りさせて貰おう。

「ええと、拍手の後に手を合わせて、何か願い事をすればいいんだよね。」

「……ほんと、ヘンなやつだな。訳わかんないことはくわしいくせに。」

「あれ。違った……?」

「ここは観光地とかじゃなくて、近所の神社なんだよ。諒兄は引っこしてきたばっかりなんだから、〝これからよろしくお願いします〟ってアイサツしないとだめじゃん。」

「なるほど、そういうものなのか……。じゃあ柚季は、どういう事を?」

「あたし? まず、〝今日はこういうことしてました。おかげで一日楽しかったです〟って、そういう報告とかお礼だよ。」

 目の前の少女が、途端に神々しく見えた。何て敬虔な子供なのだろう。

 そんな気配が伝わったのか、柚季は若干得意そうな表情で言葉を続ける。

「あと、ここは神さまがいるところなんだから。ご飯食べたり、さわいだりしたらだめだからね。」

「人を蹴るのはいいんだ……。」

「なに?」

「何でもありません。」

「……おい、早うぃ。」

 財布から三人分の賽銭を取り出した祖父が、拝殿の前で待ち兼ねたように僕らを呼ぶ。

「待って、鈴あたし鳴らしたい。」と、柚季はその隣に立ち、僕も反対側に並んだ。受け取った小銭を、賽銭箱に投じる。

 おほん、と咳払いした柚季が鈴へ繋がる綱に触れ、ふとこちらを見た。

「諒兄、初めてだったね。鳴らしたい?」

「え、じゃあ少し。」

「いいよ、ゆずったげる。」

「あ、でもいいよ。柚季が鳴らしなよ。」

 僕らの間に挟まれている祖父が「どっちでも構わんから早う。」と呟く。結局二人で一緒に鳴らす事にしたけれど、左右から引っ張っても上手く力が伝わらないのか、あるいは打ち消し合ってしまうらしい。少々難儀し、綱を振り回すように揺らすと、鈴は根負けしたかの如く鳴ってくれた。

 若干息切れしつつ、中央の祖父の動作に合わせて二礼、二拍手して目を閉じる。柚季に言われた通り、この町で暮らす事になった旨を伝え、何卒なにとぞよしなにと念じた。

(……あと、もしよろしければ、僕に今井繭浬を描く御縁を下さい。)

 ちゃっかりと願望も付け加え、目を開く。隣では祖父と柚季が、まだ静かに合掌していた。慌てて僕も倣う。

 二人の横顔には、生まれ育ったこの土地の神を自然に敬う無造作さが在った。それはとても堂に入っていて、理に適っていて、綺麗な佇まいだった。

 緊張の解ける気配がして再び目を開くと、二人は祈りを終えていた。最後に一礼し、お参りを終える。

 不思議な清々しさを感じた。この町に来てからもふわふわと彷徨っていた重心が一所に落ち着いたかのような、あるいは身体ばかり先行していたけれど漸く精神も追いついたような。何かが合致して納まったような心地よさだった。

 境内を出て石段を下り、再び道路に戻る。先ほど訊き損ねた屋台について尋ねると、野菜の無人販売所というものだと教えてくれたが、いまいちピンと来ない。

 祖父は屋台に近づき、小さな箱に小銭を入れて胡瓜を一袋取り、僕へ放った。慌てて受け取る。

「ユズも選べ。」

「いいの? じゃ、あたしもキュウリ。めんたいマヨで食べよっと。」

 と、彼女も幸福そうに一袋を手に取る。祖父が振り返り、こういう事だ、という表情で頷く。

 監視カメラなども見当たらないので、野菜もお金も持ち去られてしまうのではと心配になるが、この町では杞憂なのだろう。そもそも僕らは今、家に鍵も掛けず外を出歩いているのだ。

「まだ明るいし、二人はもうちょっと歩いたほうがいいね。ぐるっと遠回りして帰ろっか。」

 そう言って歩き出す柚季を、祖父と追う。

 陽は傾いていて、振り返ると三人分の影が道路の上を長く伸びている。それは、随分遠退とおのいてしまった何かを思い出させる光景だった。

 祖父と言葉を交わすべきだという気がして、口を開く。

「あの、昨日作って頂いた玉子焼き。部員の皆と食べたんですが、とても評判が良かったです。」

「……そうかね。」

「はい。それで、僕も料理を作れるようになりたいと思いました。とりあえず土曜日の朝食とお弁当くらいは、任せて頂けるようになろうかなと。」

「……無理せんでいい。」

 意外な言葉に驚くが、考えてみれば当然の返事かも知れない。当の土曜日に体調を崩した人間が、病み上がりの日曜日(それも終盤)にこんな事を言い出しても、不安でしか無いだろう。

 恥じ入っていると、祖父はぽつりと呟いた。

「まあ、たまに手伝ってくれ。」

「はい。色々と覚えたいと思っています。」

「少しずつでいい。」

「……はい。」

 柚季は、のんびりと鼻唄を口遊くちずさんでいる。彼女の事だから、あまり意識しなくていいように振る舞ってくれているのだろう。

 長い坂道を下る中で、急カーブに差し掛かる。少し遅れて、引っ越した最初の日に祖父が連れてきてくれた場所だと気づいた。古びたガードレールとカーブミラーの向こうに、やはり海が見える。つい足を止めると、二人も付き合ってくれた。

 強い潮風が吹く。祖父は顔を顰め、柚季は心地よさそうに身体を伸ばしている。

 再び、海の方へ視線を戻す。日没は未だ暫く先だろう。残り火のような夕陽が、柔らかく海へ滲み始めている。

 もうすぐ、この町に来て一週間が経つ。




   七、産土うぶすなむすび。




※ 後注


*¹⁹クリスチャン・ラッセン

アメリカ出身の画家・サーファー。海洋生物を劇的に描く〝マリンアート〟で知られる。


*²⁰コスモスの花弁

実際は中央の筒状花に在る五枚。外側の大きな八枚は舌状花で、正確には花弁ではない。


*²¹雲母

鉱物の一種。細かな粒子が光を反射する様からキラとも呼ばれ、その粉末はマイカパウダーという名称で化粧品などにも使われる。





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