六、刻列ねの座。

 放課後、加島かしまさんの案内で図書室へ向かい、今回制作のモチーフとなるコスモスの資料を二人で探す。

 ただ手頃な部屋に校内の本棚を寄せ集めたように質素な設備だったけれど、植物図鑑など写真が載っている本が数冊見つかった。

 加島さんがカウンターに手をつき、身を乗り出して図書委員へ訊く。

「ねえ。これ部活で使うから借りたいんだけど、持ち歩くの大変だから美術室に置きっぱしていいかな?」

 図書委員の男子生徒は一年生らしく、戸惑った様子で貸出かしだしカードを抜き取った。

「規則を守って貰えるんなら、たぶん大丈夫ですけど。」

「ありがと。来週ちゃんと返すからね。」

 加島さんはそう応えながら、受け取ったカードの半数以上を自然な動作で僕の前に置いた。カウンターの上でグラスを滑らせるバーテンダーのように。

 苦笑しつつ、胸ポケットから取ったペンでそれに記入する。氏名欄には〝美術部〟とも書き添えておいた。

「……もし僕らが借りてる間に他の閲覧希望者が居るようだったら、美術室にあると言ってくれて大丈夫なので。」カードを図書委員に渡す際、念の為そう付け加える。

「あー、そうだね。美術室まで来てくれたら、いつでも読ませてあげるからって言っといてよ。」

 彼は僕らの顔を順に見て、そしてカウンターに積まれた植物図鑑などの表紙をちらりと確認し、「はあ。」と頷いた。




 重厚な本たちを抱え、美術室へ向かう。

「ちゃんと借りられてよかったねえ。」

 加島さんの言葉に、実感を込めて同意する。部活の度にこれらを持って校内や通学路を往復するよりは、一週間美術室に据え置き出来た方がずっと楽だ。

「……で、本当ほんと大丈夫だいじょぶ? やっぱりうちも持とうか。」

「何て事ないよ、これくらい。」

 僕なりに男の矜持きょうじのようなものを発揮し一人で担ってみたが、腕は痺れるし階段は足元も見えにくくて、なかなか辛かった。

 何より昨日の今日なので、美術室へ近づくほどに緊張してしまう。ピアノの音は聴こえないけれど、今井繭浬が居るかも知れないと思うと気が気じゃない。

 色々と表情には出さぬまま美術室を目前にして、そっと呼吸を整える。ただ意を決する間も無くあっさりと加島さんが扉を開けてくれた。少々複雑な心持ちで礼を言い、本を抱え直して入室する。

「お、やっと来た。」

「遅いよ。」

 一昨日と同様に米塚よねづか部長は大机に腰掛けていて、その傍らの席に豊水とよみさんが座っていた。カーテンと窓は開かれており、明るく風通しもいい室内に居るのは、その二人だけだった。

 どこか肩透かしに感じながら、抱えていた本を大机に置く。二人は早速それを覗き込んだ。

「何これ。植物図鑑に……野外観察帳・秋冬の草花編?」

「あとは花言葉と誕生花の辞典に……花占いの本。」

「そっかあ。タチハラくん、もう美術部に飽きちゃったんだね。」

「乙女チック部に路線変更かな。」

「それまずくない。うちら三人がかりでも勝てる気しないよ?」

 一緒に本を探してくれた筈の加島さんさえ、いつの間にか乗っかっている。

「……作品づくりの資料だよ。今はコスモスが咲く季節じゃないから、参考になりそうな本を借りてきたんだ。」

「なるほどねー。あ、私もいいもの持ってきたんだよ。」

 そう言って米塚部長は、かばんから植木鉢のようなケースを取り出した。今度は僕がそれを読み上げる。

透明粘土とうめいねんど?」

「そ。弟が図工の授業で使ったやつの残りなんだけどね。」

 加島さんが隣席に座り、その裏側の説明書きを覗き込んだ。

「……へえ、乾くと透明になる粘土だって。今時の小学生は洒落しゃれたもん使ってんだねえ。うちらの頃はただの紙粘土とかだったのに。」

 米塚部長は机に座ったまま脚を組み替える。

「ほら、コスモスって花びらの部分が平べったいじゃん。それを流木だけで再現するのって限界あるよなって思ってたんだ。そしたら弟が昨日これで遊んでたから、丁度よくてゴネて貰ってきたんよ。」

「なるほど……。」

 彼女の言う通り、花弁の部分は難題だった。デザイン的に花の命なので手を抜けない。しかし色んな流木の欠片と組み合わせたり綿密に削ったりと、あの薄く滑らかな曲線を表現する為の労力と時間は懸念していた。

 そこを透明粘土で代用すれば、随分と手間暇を省略できるだろう。もしもミスや損傷があっても融通が利く筈だ。とても柔軟だし、完成を急ぎたい身としても助かる提案だった。

「それにコスモスってさ、下から見ると空に透けたりするでしょ? だからその辺も合うかなと思うんだけど……どうよ。」

 黙り込んで深く納得している僕の様子を誤解してか、米塚部長はそう頼り無げに補足する。

「凄くいいと思う。ぜひ使わせて欲しい。」

「あ、本当ほんと? よかった。」

 大袈裟おおげさに胸を撫で下ろす彼女に、すかさず部員二人が茶々を入れる。

「さすが部長ぶちょー!」

「コスモス見つけるたび空にかざしてるのかな部長!」

「そこ! あまり的確につつかないように。」

「はーい。」

「怒られた。」

 たしなめたかと思えば、すぐに米塚部長はこちらに顔を向けてニカりと笑った。

「そういえばタチハラくん、昨日は大変だったでしょ。お疲れさま。」

「え……、」

 ここで今井繭浬と逢った事を示唆しさされたのかと、何故だか狼狽してしまう。が、彼女は傍らに置かれたくだんの流木(準備室から出しておいてくれたらしい)に目を向けた。

流木これ、ちゃんと回収できたんだね。押しつけちゃってたからさ、安心したよ。」

「ああ、ううん。」

 かえって僕の方が後ろめたい気がして、曖昧に頷く。米塚部長のんで細めても大きな瞳は、どこか悪戯いたずらっぽくこちらを見透かしているようにも感じられた。

「……部ー長ーう。はしたないからしなって。」

「そうだよ。もう女子だけの部じゃないんだから。」

 部員二人の指摘で気づくが、彼女は机に座ったまま片膝を立て、それを抱え込むような姿勢を取っていた。自然スカートが肌蹴はだけて、筋肉で流線形に膨らんだ太腿が覗いている。

「んー? あぁそっか失礼。今日暖かくって、眠くてさ。」米塚部長は面倒そうにスカートを押さえ、頬を乗せていた膝を渋々下ろす。けれどその座り心地を気に入っているのか、古い木製の大机には腰掛けたままだった。

 随分と不行儀だけれど不快でないのは、その瞳も、しなやかな体つきも、愛嬌も、どこか猫を思わせるからかも知れない。きっと彼女なら、塀の上で寝そべっても違和感が無い気がする。

「……ふあぁ。」次いで背を反らし、大きな欠伸あくびをする。一応は口元を隠しているけれど、のりの残る夏用セーラー服の隙間から、今度は脇と横腹が覗いていた。殆ど目の前なので、視線の遣り場に困ってしまう。

「まあ分かるけどさ。今日はお昼寝日和びよりだもんねえ。」

「あと部長のあくびって、うつるんだよね……。」

 そして加島さんと豊水さんは手の甲を枕にして、気持ちよさそうに机へ顔を伏せてしまった。

「おーい、男子の前なんだろ。君らがその調子だと、大机ここベッドに本気で寝ちゃうぞ私。」

「……。」

 僕はと言えば、不思議な感覚でその光景を眺めていた。明け透けで健康的な部員たちが午睡ごすい揺蕩たゆた美術室ここは、本当に昨日と同じ空間なのだろうか。

 あの時の空気は深海のように暗く重々しく、挙句その片隅で今井繭浬がピアノを弾いていた。それは水底で息を潜め兼ねた貝の慟哭どうこくを思わせた。

 禁じられた祈りを密かに捧ぐ場をおかしたような、いっそ聖母の秘め事を知ってしまったような。ひどく甘美で痛々しいタブーに触れた背徳感で満たされていた。

 ところが今、この部屋では穏やかな午後の陽と潮風が行き交い、時折りとんびの鳴き声さえ聞こえている。どこまでも健全な分、僕にはどこか不確かだった。

(まるで、胡蝶の夢*¹³だ。)

 ぼんやりと、アップライトピアノを見遣る。昨日あれだけ狂おしい音色を奏でていた筈なのに、今は素知らぬ顔で鎮座し、ただ黒い鏡として僕らの姿を映している。

「……今日ちょいちょいピアノのほう見てるけど、どうかした?」

 先ほどの欠伸で涙さえ滲んだらしい米塚部長が、それを拭いながら尋ねてきた。

「ううん、何でもないよ。」応じつつ自分の鞄からノートを取り出し、モチーフである流木を様々な角度から観察する。

「お、今度は何始めんの?」

「ちょっとした図面ずめんを描くだけだから、もうしばらくゆっくりしてて。」

「図面ってー?」

 隣席でうつぶせに沈んでいる加島さんが、半分眠っているような声で問う。

「大袈裟に言えば、作品の設計図みたいなものかな。癖で、最初にこういうの描いておかないと落ち着かないんだ。」

 殆どの芸術に言える事だけれど、大体において完成を見極めるタイミングが難しい。一彫でも一筆でも多く重ねればいいという訳では無いので、大まかな終点くらいは定めておきたい。

「特に今回は皆で一つの物を作る訳だから、イメージを共有しないと……あと流木っていう替えの利かない素材だから、失敗しない為にもね。」

「そうなんだー。描けたら起こしてねぇ。」

「ただのラフだから、もう描けたよ。」

「はや。」

 部員たちは身体を起こし、すぐに僕の素描を確認してくれる。

「本当だ、こんなにすぐ描けるもんなんだねー。」

「しかも上手いし。」

「タチハラくん、美術部にでも入った方がいいんじゃない?」

 どこまで本気か分からないので、一応指摘しておく。

「……ここだよ。」


 眠気覚ましにと珈琲をれた部員たちと、改めて大机を囲む。一人遠慮はしづらくて僕も頂いたけれど、相変わらず酷い味だった。ある意味頭は冴えるので、気付薬きつけぐすり*¹⁴として服用すべきなのだろう。

「こっちは準備いいよー。で、何してほしいの?」

 彼女たちには、先ほど借りてきた本を分配してある。

「僕が書記になるから、そこに載ってるコスモスの情報を読み上げて貰えるかな。色形でも何でも、制作に役立ちそうな事を探して教えてくれたら。」

「そういう事ね。じゃあ皆、始めー。」

 米塚部長の号令で、全員が各々おのおのの手元に集中する。僕はペンを握って待機し、彼女たちはコスモスの情報を求めてページめくった。

「コスモス、コスモス……。」

「あった。えーと、漢字では秋桜って書くんだって。」

「あ、それ知ってたのに。」

「キク科で、原産はメキシコらしいよ。日本に来たのは明治時代。」

「花の大きさは直径5から10センチくらい。名前の由来はギリシャ語のkosmosで、意味は〝装飾、秩序、美しい〟……ず。」

「主に9、10月頃から花が咲くって。色は白とピンクと赤と紫、あと黄色とオレンジに……嘘、黒とか茶色もあるんだって。」

「えー、見た事ない。」

「おっ、花束ブーケに向いてるってよ、部長。」

「……何で私に言う?」

「道端のコスモスを空に透かしておめめ輝かしてるようなメルヘンっ子なら、知りたいかなって。」

「……。」

「ちょっと、察してあげなよ。部長は花束を作るより、贈って欲しい側なんだよ。夢見る少女だから。」

「そっかあ、ごめんね気が利かなくて。」

「……。それで、コスモスの花言葉だけど、」

「えー花言葉だってー。」

部長ちさとちゃん、かーわーいーいー。」

「お前らそろそろ図鑑のかどすねなぐるぞ。」

「普通に痛そう。」

「てか難しそう。」

「……じゃあ読むよ、コスモスの花言葉。〝純潔、ありのままの美、乙女の愛、恋の終わり、変わらぬ思い〟。」

「きゃあ初心うぶー。まるで部長の……ごめんなさい。その図鑑を下ろしてください。」

「もう言いません。それで脛やられたら、お嫁に行けなくなっちゃう。」

「……という事で、コスモスの情報は以上だね。タチハラくん、ちゃんと書き留めた?」

「え?」

 妙に勢いよく振り返ってきた米塚部長と、目が合う。

(……ああ、また今井繭浬の事を考えていた。)

 気を取り直して、白紙のノートにペン先を置く。

「ごめん、ぼうっとしてた。もう一度最初からいいかな。」



   #



 脛をさすりながらも、コスモスの概要をまとめ終えた。

 その隣の頁に描いた設計図と実際の流木を見比べながら、祖父ののこぎりで余計な枝を切り落としていく。何となく、盆栽のような作業だなと思う。

「それっぽいの見つけたよ。」と、部員たちが準備室から戻ってきた。やすりやサンドペーパー*¹⁵など、頼んだ物を大机に置いてくれる。

「これで合ってる?」

「ばっちりだよ、有難う。」

 鑢は古そうだけれど、平型と丸型と半丸型の三種、サンドペーパーも粗目あらめから細目ほそめまで揃っていた。

 それぞれの用途と使い方を簡単に説明して、早速だけれど実践を提案する。一つずつ道具を受け取った部員たちは、目を丸くした。

「いいの? 私ら素人だよ。」

「きっと実際にやってみた方が楽しいよ。」全員で輪になって作業できるよう、流木を大机から床に下ろしながら答える。

「でも、失敗したらどうしよう。」

「僕が全体を見ておくから大丈夫。ただ怪我と、残した枝を折らないようにだけ注意して欲しい。」

 彼女たちは不安げに視線を交したが、やはり好奇心が勝るようで作業に取り組んでくれた。鋸による断面や腐食の汚れ、表面のささくれなど、野暮やぼったい部分を削ってゆく。粗目のサンドペーパーは、先ほど切り落とした枝に巻きつけて使う。

「……何か、想像してたのと違うな。」

 逆手さかてに持ち替えた鑢を扱いながら、米塚部長が呟く。

「うちも思った。もっとこう……ハンマーとかでカンカンやってく感じかなって。」

「そうそう、職人顔でね。」

 つい苦笑する。

「彫刻と言うと、皆そういうイメージみたいだね。中学生だと素材も設備も限られるから、慎ましくなりがちだよ。でもこの磨きの作業は、どういう規模でも必要だったりする。」

「そういうもんなんだねぇ。」

「私は細かい作業好きだから、これはこれで楽しいかな。」

「マジかー。」

「うん。綺麗になっていくの気持ちいいし、磨いた後の木の手触りとかちょっと好き。」

「本当? 分かって貰えて嬉しい。」

 豊水さんの言葉に、頬が緩む。

「なになにー、急に仲よくなっちゃってさ。」

「妬けちゃうねえ、お二人。」

 そして加島さんと米塚部長は、既に集中が途切れ始めている様子だった。

「じゃあ、そんなタチハラくんに質問。ずばり彫刻の魅力って?」

「何が〝じゃあそんな〟なのか分からないけど……彫刻の魅力か。」

 初めて向けられる問いじゃないが、やはり説明は難しい。結局は豊水さんの言う通り〝気持ちいい〟や〝好き〟という言葉に終始してしまう気がする。

 何より今井繭浬と逢ってしまった以上は彫刻も手段の一つに過ぎないので、それ自体の魅力へと僕のピントは向かわない。

 勿論そんな事を打ち明けても仕方ないので、現状と絡めて話し始める。

「基本的に、やり直せない事が多い。それは芸術全般そうなんだけれど、この流木なんて顕著だよね。もし失敗すれば、画用紙みたいに準備室にストックしてある訳じゃないから、また海辺を探し回る事になる。そして同じ物はもう見つからない。とてもシビアだけれど、そこが浪漫ろまんとも考えられる……気がする。」

「ふんふん。」

「あとは、彫ったり磨いたりすると、こんな風にちりが出るんだけど……、」

 流木の下に予め敷いておいた新聞紙を示す。そこには破片や木屑がまばらに積もっていた。

「自分が想い描く美しさへ近づく度に、こうして無が生まれていく訳で。それは創造にも破壊にも加担しているような、不思議な感覚になる。そしてこの流木は替えが利かないのと同時に、海辺に何千何万と落ちていた内の一つだから、元々ただの無だったのかも知れない。そう考えると一層、感慨深いと言うか。」

「なるほど、そういう事だったか……。」

「……部長、今の話本当に分かったん?」

「失敬な。私もこないだ子供会こどもかいの仕切り任されてさ、近所のお寺に小学生たち連れてったんだ。お説法せっぽう聞いたら茶菓子とか貰えるから。」

「うん? うん。」

「そこのお坊さんがね、何か似たような事言ってたわ。」

「……うん……。」

 最初の鑢がけを終え、適当な絵筆を刷毛はけ代わりに使って細かい木屑を払い落とす。これで下地は出来た。

「じゃあ改めて、今後の工程を決めていこう。」

 大机に戻り、冷めた珈琲を飲みながら四人で再びノートを囲む。

「まず、乾燥に五日ほど必要な透明粘土の作業を最優先で進めておきたい。ただ、今回の制作で花の部分と言えば文字通り花形はながただから、纏まった時間に集中して取り組んだ方がいいと思う。」

「異議なーし。」

「まあ今から慌てて始めても、半端な所で終わるだろうし。」

「何せ今日はお昼寝日和だったからねぇ。」

「うん。だから次の部活日はちょっとした佳境かも知れない。あと、花は一人一輪の担当にしたいから、好きな色を決めておいて欲しい。」

「えー、選んでいいんだ。」

「うち何色にしようかな。」

「……あー、ちょっと待って。」

 先ほどから指を折って何か数えていた様子の米塚部長が、やんわりと場を制止する。

「どしたの。」

「心配しなくても、ちゃんと乙女色ピンクは部長に譲るよ?」

「そうじゃねぇよ。〝次の部活日〟について提案。これ運動部の発想なんだけどさ、土曜に部活やるってのはどう?」

「……土曜日って、つまり明後日に?」

「そう。確かタチハラくん私立から来たって言ってたよね。うちの学校の半ドン*¹⁶については知ってる?」

「一応、転校の手続きの時に聞いたよ。」

 割と驚いたのだけれど、この地域の公立小中学校では第一・第三土曜日に午前のみの授業を行っているらしい。週五日制の登校に慣れた身としては正直、窮屈で変則的な印象を持ってしまう。

「じゃあ話は早いや。で、活動の盛んな部は土曜の授業が終わった後にも練習したりするんだ。試合とか大会が近かったりしたら特にね。

 つまり美術部うちも、明後日学校に残って部活してても怒られないって事。そしたら普通の放課後より、ずっと長い作業時間を確保できるよ。もちろん給食はないから、自分たちでお弁当とか用意しないと駄目だけど。」

「なるほど……。」

「あと、このままいくと次の部活日は来週の火曜だよね。乾燥に五日必要って事は、また週末を挟むから出来上がりは再来週になっちゃう。でも明後日に粘土を終わらせれば、来週の木曜には乾いてる事になるから完成週を早められるんじゃない?」

 相変わらずというか、米塚部長は広い視野と深い視点を織り交ぜて発案してくれる。この極めて小規模なコミュニティをひきいていて貰うには、つくづく勿体ない気がしてしまうほど。

「それは、僕としてはとても助かる案だけど。でも迷惑ではない? 皆も予定があるだろうし……。」

 更に、ただでさえ授業のある土曜日に部活までれれば、休養できるのは日曜日だけという事になる。そもそも僕が勝手に始めた制作で、僕が勝手に完成を急いでいるだけなのに、それを部員たちに分担させてしまうのはかなり気が引ける。

「土曜無理って子いるー?」

「うち大丈夫。」

「私も。お弁当だって、父親のやつ毎日作ってるから平気。」

 だとさ、と米塚部長はこちらに視線を戻す。

「もちろん私としても、それぐらいは付き合うよ。今のとこ興味深いし、タチハラくん手伝ってたら面白い経験できそうだしね。」

「……。」

「ちょっと、何か泣きそうになってない? 言っとくけどこれって、別に大袈裟な話じゃないからね。この町に暮らしてると皆、暇なんだよ。遊び行くにも買い物するにも、同じ相手と同じ場所ばっかりでさ。だから少しでも退屈しない事を探してたってだけ。だよね?」

「そうそ。気にしなくていいよー。」

「じゃあ土曜日で決まりだね。お弁当どんなの作ろうかな。」

「……有難う。」

 目を逸らすように、頭を下げる。感謝と後ろめたさにって。




 土曜日の部活は長時間に及ぶかも知れないので、今日は早めの解散という事になった。

 身長を比べたところ僕よりも加島さんのほうが高いと判明し、彼女と豊水さんの二人で戸締り、米塚部長と僕で食器洗いという分担になった。

 準備室に入り、小さく簡素な流し台を使う。僕は米塚部長が洗ったカップを一つずつ受け取ってクロスで拭き、キッチンペーパーを敷いた棚に伏せて置いていく。

「土曜楽しみだねぇ。」

「うん……あと、部長にはとてもお世話になってる気がする。」

「どしたの急に。てか一昨日始めて会ったばっかりじゃん。」

「そうなんだけれど。」

 初回の部活からずっと、彼女の提案に助けられていると思う。流木や透明粘土を使う事も、最短での完成を目指す日程の段取りさえも。

「……さっき言った通りだからね、タチハラ部員。あまり蒸し返さないように。」

 わざと部長然とした口調で注意して、彼女は笑う。その横顔に掛かる茶色っぽい髪の乾いた質感に、ふと柚季ゆずきの話を思い出した。

 確か米塚部長は、数々の結果を残した有望な水泳の選手だという内容だった。プールの水に使われる塩素は髪を痛めたり脱色してしまうと聞くし、その肌も薄らぎつつあるとは言え日焼けが残っている。また、先ほど大机の上で垣間見かいまみえた脚の、弾性に優れていそうな起伏も符合しているように思えた。

(きっと彼女は、沢山の陽光と喝采を素肌で浴びて、輝いていたんだろう。)

 それはつまり米塚部長は、僕では想像すら難しいくらい遠く健全な世界の住人だという事だ。

 しかしそんな彼女が、今は狭く薄暗い美術準備室で珈琲カップを静かに洗っている。その姿には、どこか不思議な情感が漂っていた。

「……そういえば。昨日柚季が、」

 触れてしまうべき話かは判らないけれど、部長と二人で話せるタイミングは少なそうなので、おずおずと切り出してみる。

「ん、ユズキって?」

「火曜日にほら、一緒に流木を拾った。」

「ああー、あの可愛い従妹いとこちゃんか。そうそう居たね。元気してる?」

 正確には二従妹ふたいとこだけれど、頷いておく。

「その柚季が、実は部長の事を知ってたみたいなんだ。憧れていて、ファンだって言ってたよ。」

 言葉を選んだつもりだったけれど、米塚部長は力が抜けたような笑顔を浮かべた。

「あー……もしかしてユズちゃんって、競泳やってたりする子?」

「うん、そうみたい。」

「だよねぇ……うーん、そっか。」

 恩人と呼ぶべき相手を困らせたようで、僕としても慌ててしまう。

「あとは、えっと、肩の具合を心配してるみたいだったよ。」

「うん。まあちょっと色々あってね。日常生活では平気だけど、今は泳いでないんだ。その辺は、あの子らにも気ぃ遣わせちゃってて……悪いと思ってるんだけど。」

 そう言って彼女は顔を上げ、視線を手元から目の前の窓へ移す。その向こうの美術室では、加島さんと豊水さんが戯れながらも殆どの窓を閉め終えていた。

「柚季がまた会いたがってたから、その時は何か話してあげてくれると嬉しいんだけど……。」

「そんなの全然いいけどさ。私が言える事なんて何も無いと思うな。」

 全てのカップを洗い終えて蛇口を閉め、彼女はポケットから取り出したハンカチで手を拭く。

「……ごめんてば、そんな顔しないでよ。私の個人的な問題ってやつなんだ。自分一人でクリアしたくてね。

 そうだ、また部活で外に出る時にでも、ユズちゃん連れておいでよ。仲良くなりたいからさ。ね?」

 上手く配慮できず悄然とする僕に、米塚部長は困ったように笑ってそんな事まで言ってくれる。その人徳には、一生追いつけない気がする。

「土足で立ち入ってしまって、ごめん。柚季に頼まれてたのと、僕も少し気になってたものだから……。」

「いいっていいって。じゃあ折角せっかくだから、私からも一つ訊いちゃおうかな。」

「うん。何だって答えるよ。」半ば本気で言う。

「そんな大した事じゃないよ。ただ自分の勘を試したいだけ。」

 そして米塚部長は、こちらを覗き込むように身を乗り出す。

「タチハラ君さ、昨日ここで今井繭浬まゆと会ったんじゃない?」

 故意か偶然かは判らないけれどその時、加島さんと豊水さんが美術室のカーテンを勢いよく閉じた。ただでさえ薄暗かった準備室は、目の前の米塚部長の悪戯っぽい笑顔さえ見えなくなった。




 美術室の鍵を返却し、学校を出た。そして県道をまたぐ歩道橋で部員たちと別れる。

 柚季も居ない一人での下校は初めてだった。ぼんやりと考え事に耽りながら歩を進める。まず今井繭浬の事で、あとは流木の彫塑ちょうそ*¹⁷。そして米塚部長の経緯や人格と、それに比べまるで気遣いの出来ない自分への落胆など。

 議題に事欠かぬ脳裏をなだめるように、やたらと長く感じる帰路を歩く。やがて家に辿り着くと、庭先で祖父が屈み込み何か作業をしていた。

「あの、戻りました。」

 その背に声を掛けると、彼は僅かに振り返る。僕が一人で居るのを見て、「ゆずは水泳だったな。」と呟きながら立ち上がった。

 彼が取り組んでいたのは、一台の自転車だった。中々古いようだが表面の錆は殆ど落とされ、チェーンにもオイルがされたばかりらしい。

「物置で見つけてな。修繕したから使うといい。」

「あ、有難うございます。……甘えついでに、一つ頼みがあるんですが。」

 土曜日に弁当が必要になった旨を伝えると、祖父はあっさり頷いてくれた。

「一人分も二人分も手間は変わらん。ぃ。」

 その先導に従い玄関をくぐり、手を洗ってダイニングに入る。祖父は食器棚から、また年代がかった弁当箱を取り出した。大切に仕舞われていたらしく、状態は良さそうだった。

「これで構わんかね。」

「勿論ですが、それって……。」

 祖父が使っている弁当箱なのではと問うと、彼は「俺はいつも、竹の皮で握り飯を包んどる。」と、引き出しからそれらしい物を数枚、無造作に抜き取って見せてくれた。

「それが、竹の皮……。」時代劇でしか拝んだ事の無い斑模様まだらもようの代物に、つい面食らう。

「だから気兼ねせず、弁当箱これを使うといい。」

「……あの、僕も竹の皮の方を使ってみたいです。」

 好奇心を抑えられずに頼むと、祖父は少し驚いたようだった。「そうかね。」と、どこか腑に落ちない様子で手元の竹の皮を眺めている。

「興味があって、一度試してみたいのですが……何かまずいでしょうか。すごく高価だとか……?」

「いや、幾らでも手に入るから構わんが。……母さんはな、こういう物を使うのを、随分と嫌がっとったよ。」

「……そうでしたか。」

 それはおそらく、時代に因るものでもあったのだろう。古い物を〝逆に新しい〟と言っていられる今と違い、母の頃は世の中が大きく動いた余波も切実で生々しかった筈だ。

 あるいは目の前に在り続ける質素な伝統を嫌がるのも、思春期に起こる一つの過剰反応アレルギーだったのかも知れない。

「僕は、竹の皮を使う理由とか、その味を知ってみたいと思いました。あとは単純に……武者修行中の剣客みたいで、格好いいなと。」

 祖父が口の端を曲げる。笑ったのだろう。

コツを覚えれば簡単ぞ。土曜は早起きしてみるか?」

 使い方を教えてくれるという事だろう。僕は子供らしく、大きく頷いてみた。



   #



 金曜日の朝、やはり迎えに来てくれた柚季と家を出る。

 昨日は水泳教室と聞いていたので相当疲弊しているのではと思っていたが、全くの杞憂だったらしい。相変わらず涼しい顔で、軽やかに歩を進めていく。体力が無尽蔵なのだろうか。

「そういえば、米塚部長の事だけど。」

「お! なに?」

 その名前を挙げた途端、柚季は勢いよくこちらを振り返る。きっと彼女の事なら何でも知りたいのだろう。弾んだ瞳に朝陽が映り、眩しいほど煌いて見えた。

「うん。昨日話したら、また部活に柚季を連れておいでって。仲良くなりたいって言ってくれてたよ。」

「ほんとにっ?」

 一瞬、天にも昇りそうな表情を浮かべた柚季だったが、ふと「……うん?」と首を傾げた。

「なんか、おかしいな。あたしのこと覚えてる感じじゃなかったのに、いきなりそんなふうに言わんくね?」

 そしてこちらを覗き込む。

諒兄まこにいその時、ヘンな言い方しなかった?」

「しなかっ、たよ。多分。」

「あやしすぎ。チサトさんとどんな会話したか、ぜんぶ教えて。」

 追及されるまま、昨日の美術準備室で部長と交わした遣り取りを、思い出せる限り正確に伝える。聞き終える頃、柚季はこれ以上ないほど呆れた目で僕を見ていた。

「それって、ただ気ぃつかわせただけじゃん。」

「う……。」

「その感じでチサトさんとあたしが会ったって、ぜったい気まずくなるよね。そのへん、ちゃんと考えてくれた?」

「……そこまで、気が回らなかった。」

「人間関係へたっぴか?」

「返す言葉も無いよ。」

 はー、と柚季は肩を落とした。

「いいよ、諒兄はあたしが言ったことを実行してくれたんだもんね。中学生だからきっとうまく話すだろうなって、まさか聞いたまんまを本人にぜーんぶブツけないよなって、勝手に信じてたあたしが悪いんだ。」

「反省してるよ……。」なかなか傷つく。

「んーん。チサトさんと話すきっかけは作ってもらえたし、それで十分じゅーぶんだよ。……あと、なーんかフンイキで忘れてたけど、諒兄もけっきょく男子なんだなって思った。」

「……それって、どういう?」

 柚季は意地悪そうな表情を、不慣れそうに作って見せた。

「へこむだろうから、言わないどいてあげる。」

「その方が、じわじわ効くんだけど……。」

「くひひ。あ、そうだ。昨日一人でさびしかっただろうから、今日はつきあってあげるよ。学校終わったら、より道しよ?」

「唐突だね……構わないけど、どこに寄るの?」

「ひみつ。今日は流木プレゼント部、休みだよね?」

「美術部だよ。確かに今日は休みだけど、美術室は少し覗くと思う。」

「えー、おそくならないでよ。……もしかして今井さん?」

 動揺は隠したつもりだったけれど見透かされたらしく、また柚季にしらけた半眼を向けられる。

「やらし。」

「……いやらしくないってば。」

まこスケベ。」

「新しい綽名あだなやめて……それにとても不名誉。」

 実際のところ今井繭浬との接触も、昨日の美術準備室で米塚部長と話した内容だった。〝面識があるのなら、土曜日に部活を行う件を今井繭浬まゆにも伝えておいて欲しい〟と。

 正しい理屈だと思う。殆ど顔を出さない幽霊部員であっても、変則的な活動や共同制作に関する連絡くらいはしておかないと、蚊帳かやの外という印象を抱いてしまうかも知れない。

 今井繭浬が、それでへそを曲げるような素直な部員かどうかはさておき。




 教室に入り、目の合ったクラスメイトと挨拶を交す。隣席の加島さんは、相変わらず眠たそうに頬杖をついていた。

「おはよう。」

「はよー。……あれ、何か今朝は血色がいいっていうか、ラスボス直前みたいな顔してるね。どうかしたの?」

「〝らすぼす〟って何?」

「黒幕っていうか、つまり宿敵との最終決戦! みたいな。」

「……なるほど。」自分がどんな顔をしているのか一層ピンと来ないけれど、高揚が表情に出ていたのかも知れない。

 自分の席に座り、鞄の中身を机へ移しながら、米塚部長から今井繭浬への伝言を頼まれた事を話す。すると加島さんはあからさまに眉をひそめた。

部長ちさとめ、まーた厄介な事を。それを舘原くんに頼む辺り、絶対に面白がってるな。」

 厄介事だろうか。僕としては、今井繭浬と話す口実を得られて嬉しかったのだけれど。

「彼女のクラス、確か1-1だったよね。」

「うん。……ん? ちょい待った。どうするつもり?」

「え。普通に、休み時間にでも逢いに行こうかと。」

「……いったん落ち着こっか。ちょっとそこに座んなさい。」

「あ、はい。もう座ってるけど。」

「あんねぇ、昨日部長も言ってたと思うけど。ここの町は大人も子供も、みーんな退屈なんだよ。何か話題になる事は無いかって、常に探してるの。」

「うん、言ってたね。」

「……。二年の男子が一年の女子を訪ねるってだけでもちょっとした事件だよ。しかもその組み合わせが、ほやほやの転校生と今井繭浬まゆなんて、当分持ち切りの噂になっちゃうって。」

「そうなんだ……。そんな気にする事なのかな、お互いに。」

 あまり本質的だと思えないというか、噂する側にこちらが合わせてあげる必要性も感じないのだけれど。

「相変わらず美術部関連だと無敵だね……。言っとくけど、うちもそっち派だよ。放っとけよって話だし、どんだけ暇なんだよって思う。

 ただ、まゆはそういう野暮ったさとか無邪気さって、ものすごーく嫌うよ。で、あの子にとっては、そんな空気に気づかないで堂々と関わってくる無頓着タイプも同罪なんだ。

 例えば天然まる出し舘原くんが、一年の教室に乗り込んで大きい声で今井さんいますかって訊いて、皆が見てるなか本人の机までのこのこ歩いてって、〝土曜日に部活やるからお弁当持っておいでよ。流木と粘土でコスモス作るんだ。君は何色のお花にしたい?〟なんて能天気に尋ねてごらん。間違いなく一生、口きいてくれないよ。」

「そうなの……?」

 しかし割りと目に浮かぶ仮定で、現実性は高そうだった。……正直、止められなければ実演していた気もする。

「うん。だから休み時間に教室訪問は絶対NGだよ。狙うならクラスメイトが揃ってないシチュエーションだね。昼休みとか放課後とか。で、大抵まゆは保健室か美術室か図書室に居るから、その時つかまえた方がいいよ。」

「なるほど……。」

 頷く僕の横顔を見て、加島さんは脱力したように机へ突っ伏した。

「ああ心配。ついてってあげたいけど、今日うち昼休みは委員会で、放課後は習い事あるからダメなんだ。」

「大丈夫だよ、ちゃんと一人でこなすから。有難う。」

「……うん。心配。」

 彼女の目に僕は、随分と危なっかしく映っているらしい。無理もないけれど、さすがに少し心外でもある。

「後輩に連絡事項を伝えるくらい、平気だよ。」やや意地になって言う。

「頼むよー? あんだけ愚弛ぐうたらな美術部が見逃されてるのは、まゆのお陰なんだからね。」

「……そうなんだ?」

「そ。まゆも困るだろうから部自体は無くならないにしても、一番危ないのは男子で新入りの舘原くんだよ。下手にあの子怒らせたら、心配してた事が現実になっちゃうかも。」

「……それってつまり、」

「小学校に流木プレゼントしたくらいじゃ、美術部に居られなくなるって事。」

 本当にラスボスじゃないか、と思う。




 その日の昼休みに、朝ほどの夢見心地ではないけれど今井繭浬を探して校内を彷徨さまよった。僕としては彼女の美しさをもう一度目に焼き付けたかったし、モデルの話を考えてくれたかどうかも確かめたかった。

 加島さんの助言通り保健室と美術室と図書室を回ったが、その何処にも彼女の姿は見当たらなかった。もし教室に居るのなら、そこに近づく事を禁じられている僕には万事休すだ。

 昼休みの時間も残り少なくなり、やむを得ず職員室に向かった。田角先生を経由して1-1の担任に訊ねると、今井繭浬なら欠席だと呆気なく伝えられた。

 休んだ生徒には電話やプリントなどで連絡するだろうから、そこに美術部の事項も付け足して欲しいと頼んで、この件は終わった。

 肩を落とし、渡り廊下を歩く。窓からぼんやりと外を眺めると、中庭で三年生らしい生徒たちがボール遊びに興じているのが見えた。

 徒労だった訳だけれど、それ自体は最初から解っていた。そもそも彼女が部活に参加し、粘土で花を象る作業を手伝ってくれるとは思えない。この連絡を受けても、きっと鼻で笑い聞き流すだけだろう。

 ただ、今井繭浬の美しさを再び目の当たりに出来なかった事が哀しくて、午後の授業も憂鬱に過ごした。加島さんは僕の報告を聞いて、随分と安心した様子だったけれど。



   #



 放課後、すぐに荷物を纏めて教室から出た。柚季との約束もあるし、何より今井繭浬も美術部も休みなら学校に長居しても仕方ない。

 足早に校門を過ぎた辺りで、反対側から歩いてきた柚季と鉢合わせた。

「お、思ったより早かったねー。えらいえらい。」

「用事は昼休みに済ませたから。柚季こそ、ここまで歩かせて悪かったよ。やっぱり歩道橋の所で待っててくれた方が。」

「あそこで待ってたら知り合いがいっぱい通るんだってば。それに、つっ立ってるより歩いてるほうが楽。」

 健康極まりない彼女らしい意見だ。ともかく合流し、連れ立って帰路に就く。

「……ねえ、なんかすごい元気なくなってない? 朝なんて、やっと今井さんと会えるんだーって、えっちぃ顔で張り切ってたじゃん。」

「僕を何だと思ってるのさ。」

「諒スケベ。」

「それめてってば……。」

 水曜日のあの邂逅が夢では無かったと確かめる為にも今井繭浬と逢いたかったのに、今日も叶わなかった。

 それどころか、もはや彼女の美しさをかたどる為に美術部へ残ろうとしているのに、下手すれば当の今井繭浬の意思で僕だけが除名される可能性がある、という凝った趣向の現実を示唆されたのだ。落ち込みもするだろう。

「そっか、会えなかったんだね。まあ元気出しなよ。ほら、こんなかわいい二従妹が一緒にいてあげてるじゃん。この幸せもの。」

 そう芝居がかった口調で言って、柚季はウインクして見せた(慣れていないらしく、片方の目だけをつぶる事に苦戦していたけれど)。

「……。そうだね。」

「うわ、ムカつく。あたしだって、あと何年かしたらかわいくなるし。」

「柚季は今でも充分に可愛いと思うよ。」

「ろりこん。きもちわる。」

「何て言えばよかったのさ……あ、でも米塚部長も、柚季の事は可愛いって言ってたよ。」

「まじでか。……そっか、ぇへへへ。」

「……僕の時と、随分反応が違うみたいだけど。」

「気のせい気のせい。」

 そんな調子で、歩を進めてゆく。彼女が居ると帰路も短く感じられて有難いけれど、段々いぶかしくなってきた。既にいつもの坂に差し掛かっているので、すぐに下校は終わってしまう。

「……寄り道するんじゃなかったの? もうじき家に着くよ。」

「せっかちだなあ。あと少しだってば。」

 そう説明を渋る柚季と、坂道を上り続ける。祖父の家の前も通り過ぎ(だったら荷物くらい置きたかった)、やがて木々に囲まれて人家じんかの気配は無くなった。足元の傾斜はコンクリートで舗装こそされているものの徐々に細まって、そしてひび割れたり落ちた枝葉で隠れたりと荒れ果てていく。

 ちょっとした山歩きのような風情になってきた。事実、もはや祖父や柚季の家が在るこの丘の、既に頂上付近に辿り着いているのだろう。上り坂は終わり、辺りは平坦で鬱蒼とした森が広がるばかりだ。

 道は合っているのか(もう道なんて無くてただの腐葉土を踏むばかりだけど)、そもそも一体何処に向かっているのか、など疑問は尽きないけれど、きっとうるさがられるので控えておく。

 そして木々の合間から唐突に、は姿を現した。

「お、見えた。」

「……。」

 漸く人工物が現れたと安心したのも束の間、その光景の不可思議さに足を止める。

 目の前に横たわるのは、丘へ水平に穿うがたれた大きな横穴だった。煉瓦れんがで覆われている上、同じ物が幾つも等間隔で並んでいる事から、それが自然な洞窟群ではない事が分かる。

 どの横穴も幅は五メートル、高さは三メートルくらいだろうか。煉瓦造りの壁で塞がれながらも、中央に出入口らしい長方形の穴と、その左右に一つずつ、腰窓のような隙間が開いていた。かつては扉や硝子をめられていたのかも知れないけれど、今は基礎の煉瓦しか残っていない。

 茫然と近づいて、その横穴を覗き込む。内部は蒲鉾かまぼこのような半円筒形の空間で、やはり一面煉瓦だが床だけはコンクリートでならしてあった。薄暗くてよく見えないけれど、奥行きは一〇メートル程度だろう。

 隣の横穴も、その隣の横穴も同じ造りであるらしかった。まるですぐに行き止まりのトンネルを並列に揃え、それぞれに車両用でなく生身の人間の為の出入口と窓をあしらったかのようだ。

 ふと煉瓦の更に上部を見上げてみるが、隆起した土からは普通に樹木が生い茂っていた。つまり唐突に横穴をえぐられただけで、ここは飽くまでも森の中なのだと分かる。

「……すごいね、こんなの初めて見た。一体何の施設……だったんだろう。」

 疑問が過去形になったのは、道中と同様にこの構造物も随分と荒れ果てていて、長い間管理されていない事が明らかだったからだ。色褪せた煉瓦には植物のつたい、腰窓のふちには白く濁った鍾乳石さえ形成されている。

 いつか米塚部長が〝自然の彫刻〟と印象深い事を言っていたけれど、この場合はどちらになるのだろう。

「むかし、戦争の時つくられたんだって。このへんの海岸とか島とかに似たようなのがいくつかあって、ぜんぶ合わせて〝なんとか要塞ようさい〟って呼ばれてたらしいよ。で、ここは火薬なんかの倉庫だったみたい。」

 横穴を順に覗きながら説明してくれる柚季が、その内の一つに足を踏み入れた。自然、僕もその後を追う。

「戦時中の……そっか。まるで秘密基地だと思ったけど、実際にそうだったんだね。」

「子供みたいなこと言って。」

 呆れつつ満更でも無さそうな様子で、彼女は奥深くまで歩いていく。

「そっちは暗いよ、気をつけて。」

「へいき、何回も来てるから。」

 互いの声と足音が狭い空間で反響し、まるで耳元で囁かれているように聞こえる。つい立ち止まって周囲を見回してしまうほど不思議な感覚だった。

「諒兄、ケータイ持ってたよね。ちょっとここ照らしてみなよ。」

 薄暗くてその足元くらいしか見えないが、柚季が最奥でこちらを振り返っているのが分かる。言われた通り、携帯電話のライトをけた。

 彼女が示しているのは壁面で、その一角だけコンクリートで上塗りしてあるらしい。近づいて目を凝らすと、黒の塗料で字が書いてある事が分かった。旧字体だけれど、おそらく〝弾丸置場〟と読める。更にその数メートル隣には〝砲具置場〟とあった。

 戦時中の施設と言われてもピンと来なかったけれど、その手書きの文字を見て漸く、実感のようなものが湧いた。ここに確かに、人々が居たのだろう。

 自国の海峡に築いた要塞を用いる頃には大勢も決している筈だから、意気揚々と言うよりはきっと、戦々恐々と身を寄せ合って過ごしていたのではないだろうか。

 つい、その字の跡に指を伸ばす。ただ冷たく乾いたコンクリートの感触なのに、何か悲痛な生々しさに触れた気がした。

「諒兄、こういうの興味あると思って。」

「うん……〝感慨深い〟なんて、言っていいのか分からないけれど。」

 自分の暮らす家のすぐ近くに、こんな場所があるとは知らなかった。そして、おそらく一度は訪れておくべき場所で、一度は考えを巡らせておくべき事なのだと思う。この町で暮らすのなら尚更に。

 やがて柚季が出口へ向かうので、僕も携帯のライトを消して後に続いた。

 外に出ると丁度西日の差す角度で、暗闇に慣れた目に痛いほど眩しかった。

「そういえば気になったんだけど、ここによく来るの?」

「うーん、たまにかな。一人で考えごとしたい時とか、お母さんたちがケンカしてる時とか。」

「……そっか。でも、あまり一人では来ない方がいいと思うよ。崩れそうな箇所も在ったし、周りに人気ひとけも無いから、もし何かあったら大変だよ。」

「うん?」

 柚季は、きょとんとした顔でこちらを振り返った。彼女の傍らの壁には樹木の影が映っていて、それを縁取ふちどる斜陽は褪せた筈の煉瓦に再び色彩を与えていた。

「ああ、わざわざここに入って考えごととかしないよ。暗くてじめじめしてるし、コウモリとかいるし。諒兄じゃあるまいし。」

 コウモリが居たのか、と先ほどの横穴を振り返る。

「何だか、ひどい言われようだよ。」

「ここはいつも通りすぎるだけで、あたしがよく行くのはもう少し先のほう。ついといで。」

 全ての横穴の前を通り過ぎると、細い上り階段が設えられていた。「転ばんでよ。」という彼女の忠告どおり、湿った落葉が溜まっていて滑りやすかった。

 いずれにせよ、この不安定かつ不衛生な階段で足でもくじけば、携帯電話を持っていない柚季には一大事だ。慣れた様子で上ってゆく彼女の背を追いながら、やはり諫めるべきなのだろうと考えた。

 階段は、先ほどの横穴を穿たれた隆起の脇から背、そして頭部へ回り込むように上へ向かっている。木々の囲いで薄暗く、時折り大きな枝が進路を遮る不便な道程だった。

 上り終える頃に漸く視界は開け、久し振りの空が見えた。いよいよ頂上らしい。過去に伐採されたらしく周囲は広場のようになっていて、その中央にコンクリート製の武骨な建造物が在った。

 ドームのような半球形で、直径は五メートルくらいの小柄な物だけれど、随分と分厚く頑丈に造られている様子だった。出入口らしい穴がこちらに向いて開いているので、一応は正しい順路で来れたらしい。

「あたしのお気に入りは、ここだよ。」

 柚季の先導で、その内部へ入る。外観通り小ぢんまりとした空間で、頭をぶつけてしまいそうなくらい天井が低い。

 まず中央に小さな台座が一つ。それを軸に円形の小部屋になっていて、全てコンクリート製だった。奥の壁面には横に細長い窓が、円の半分ほどに渡り開かれている。つまり視界は一八〇度のパノラマで確保されていた。

「……すごい。」

 その向こうには海が広がっている。身を乗り出して臨めば遮る物が無く、まるで洋上を往く船の舳先へさきに立っているようだった。

「すごい眺めだね。」

 茫然と呟く。祖父との散歩の時と同様で、あまり壮大な景色を前にすると語彙など消え去ってしまう。

「でしょ。」

「……あ。あっちの岩場に建ってるの、灯台だよね。初めて見た。それに、あんな近くに島が在ったんだ。鳥居が在るけど、人が住んでるのかな。……よく見ると間を船が走ってる。漁船かな。何が獲れるんだろう。」

 一つの窓でも角度によって随分と景色が変わるので、つい歩き回って方々ほうぼうを観察してしまう。柚季は潮風に煽られる髪を押さえながら、保護者のような表情で「うんうん、そうだねぇ。」と相槌を打ってくれた。

「……でさ、諒兄。ジッサイが何か、わかる?」

「これって、この部屋の事?」

「うん。何回も来てるんだけど、何なのかよくわかんないんだ。似た形の建物とかほかに見たことないし。大人はみんな〝あすこには近づくなー〟としか言わないしさ。」

 僕もそう言おうとしていた事を思い出すけれど、ここからの景色は本当に得難いもので、僕自身も簡単には諦められなくなってしまった。

「何だろうね。あまり詳しくないけど……多分、特火点トーチカ*¹⁸ってやつじゃないかな。」

「とーちか?」

「うん。こういうコンクリートの軍事施設をそう呼ぶみたい。敵を見張ったり攻撃したりする為に、見晴らしのいい所に造られるんだって。」

「ふぅん。」

「この真ん中の台は、望遠鏡を設置したり……あるいは砲台として使ってたんじゃないかな。コンパスみたいに、角度を変えながら。」

「なるほどね。トーチカか……何てよべばいいか、やっとわかった。」

 その台に柚季は腰掛けて、ぱたぱたと足をぶらつかせている。

 かつてそこに取り付き、目を凝らして敵艦を待ち構えていた人々の事を思うと不謹慎な気がして、彼女に下りるよう促そうとしたけれど、

(……あるいは、この無邪気な光景こそ彼らの本懐かも知れない。)

 と思い直し、そのままにさせた。

 時折り、甲高い音を立てて風が吹く。コンクリートの塊であるこの部屋さえ、びりびりと揺らすような。

 その中に身を浸し、二人で耳を澄ませる。まるでこの小さな箱ごと、絶景の中に放り出されたみたいだ。広大な景色とは視覚に限らず、全身で感じ取るものなのだと知った。

「……柚季が気に入るのも分かるよ。ここは多分、何か特別な場所なんだと思う。」

「でしょ。まあ、たまにここで宿題とかしちゃうけどね。」

「何だか、急に現実的だね。机も無いのにどうやって?」

「そこらに座って、ランドセルを机にするだけ。」

「わざわざそんな不便な事……家でやった方がはかどるんじゃない?」

「これだから男子って。気分かえたい時もあるんだよ。」

 ぶらつかせていた足に勢いをつけて、柚季は台座から下りた。代わりにランドセルをそこに置く。本当に今から宿題を始めるのだろうかと思ったが、

「ここの上から見ると、もっとすごいんだよ。」と言い、彼女は窓の縁に足を掛け、そのまま身軽に屋根へと登った。

 慌てて安全かどうかを確認し、僕も倣う。制服を汚したくない運動音痴という事でそれなりに苦心しつつ、何とか後を追った。

 間違っても海まで転がり落ちる事は無さそうだが、あまりに開けた眺望と、意思を持つように覆い被さって来る潮風が恐ろしかった。大して広くない屋根の上を、慎重に一巡する。

 先ほどの部屋を改めて外から見ると、まるでうずくまった兵隊がヘルメットの隙間から目元だけを覗かせているようだった。二つの〝眼球〟だった僕らは、眼窩がんかから額を伝って頭部へ登り、やがて旋毛つむじ辺りに並んで座り込む。

「諒兄って、高い所だめなんだね。あー、おかしかった。ずっとのうみたいな動きしてんだもん。」

 柚季は隣で、未だにお腹を抱えている。さっきまで安全性と周囲の確認、そして自分の立ち位置を客観視する事の大切さを説いたのだけれど、その度に彼女の笑い声が調キーを上げていくので、もう諦めてしまった。

「それにしても、すごい解放感だね。ここに登ると海だけじゃなくて、空も広い。」

「ぶくっ。……さっきまでびびりまくってた人が、なんか言ってる……。」

「……そろそろ笑い終わってよ。」

「ごめんてば。そうそう、解放感きもちいよね。でも前に一回おやつ持って来たことあるんだけど、とんびにねらわれちゃってさ。大変だったよ。」

 その言葉に、空を見上げてみる。今は鳶はの姿は無く、無造作に千切って放られたような雲だけが浮かんでいた。比較対象が無い視界ではまるですぐ目の前を過るようで、つい手を伸ばしたくなる。

「……そういえば、反対側の町の方も意外も見渡せるんだね。屋根の上ここが、この辺りで一番高い場所なんだって改めて分かった。

 せっかく展望台にぴったりの立地なんだから、例えばあと少し木を伐採して、経路も手入れして、公園みたいに整備すれば、もっと賑わうんじゃないかな。夜景も見えるだろうし。」

 そう不用意に呟くと、柚季は冷めた目をこちらへ向けた。

「そしたら、あたしが一人で考えごととか宿題とか、できなくなるじゃん。」

「そっか、じゃあ却下だね。ただの思いつきだからそんなに怒らないでよ。……でも柚季、ここで誰とも会った事は無いの? 意味も価値も、随分深い遺構だと思うんだけど。」

「んー……会っては、ないかな。」

 珍しく曖昧な言い方だ。続きを促してみる。

「たまーにね、でっかいカメラ持ったおじさんなんかが来ることはあるよ。諒兄みたいにブツブツ言いながら、さっきのトンネルとか、このトーチカとか、いっぱい写真とってくの。何かこわいから、いなくなるまでかくれてるけど。だから、だれとも会ってはないって感じ。」

「ふうん……まあ、なるほど。」

 色んな分野に、愛好家マニアが居るものだなと感心する。

ったって、子供が一人になれる場所なんてそうそうないんだから。諒兄も、ここのことはぜったい内緒だよ。いい?」

「分かった、誰にも言わないよ。」

「ほんとに? まあ信用してあげるけどさ。はくじいにもだれにも、言っちゃダメだからね。」

 日焼けした指先を血色のいい唇の前に立てて、柚季は釘を刺す。おどしのつもりなのか怖い顔をして見せているけれど、目が笑ってしまっていて迫力に欠けていた。

「約束するよ。僕も、この場所は気に入ったから。」

 そう言いつつ、少し胸が痛んだ。

 ここは、本当に特別な場所なのだろう。眺望は素晴らしいし、その上に積み重なった時間や行き交った人々の思いも、ひどく切実で濃密なものだったに違いない。

 だからこそ僕は、木漏れ日を纏う煉瓦のトンネルや風の唸りに揺れるトーチカに佇むのが、もしも今井繭浬だったなら。どんなに美しい事だろうと、密かに想い描き続けていた。




   六、刻列ときつらねの




※ 後注


*¹³胡蝶の夢

春秋時代・宋の思想家荘子そうしによる説話。蝶として舞う夢を見た折り、「はたして自分は蝶となる夢を見たのか、あるいは今の自分こそ蝶が見ている夢なのか。」というもの。


*¹⁴気付薬

意識の低下あるいは失神した人間に用いる一種の興奮剤。よってこの場合は無礼千万。


*¹⁵サンドペーパー

いわゆる紙ヤスリ。番号で目の粗さを割り振られており、用途によって使い分ける。粗目は#40から、極細目に至っては#1000を超える物も。


*¹⁶半ドン

仕事や授業を午前中で終わる事。いわゆる午後半休。語源は諸説在る。


*¹⁷彫塑ちょうそ

彫刻と塑造そぞう。美術史家大村西崖が提唱したが、言葉としては定着せず。


*¹⁸トーチカ

掩体壕えんたいごうの一種で、敵軍の進行を阻む為の火点。

ちなみに本編で彼らが訪れたのは弾薬庫と観測所である為、この場合は誤用。より正確には堡塁ほうるいという総称を用いる方が望ましい。



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