五、偶さかの瀬。




 階段を上る歩調が、少しいている。息切れしてしまわないよう踊り場で呼吸を調える最中さなか、そのかすかな音に気づいた。

 吹奏楽部の誰かが練習しているのかとも思ったが、どうやらピアノの独奏らしい。そしてその旋律は、同じ三階でも音楽室の方ではなく美術室へ近づくにつれ輪郭りんかくを象ってゆく。

 何よりこの楽曲は、中学校で演奏されるような課題曲として相応しいとは思えない。

「……。」

 当の美術室の眼前まで辿り着いたが、扉を開く事を躊躇ためらってしまう。防音を想定した設計では無い筈なので、そこから零れる旋律はいよいよ鮮明だった。

 プロコフィエフ*¹⁰のピアノソナタで、おそらく七番の第一楽章。僕も練習した事があるので耳に馴染なじんだ楽曲ではある。一種の狂気をここまで丁寧に研ぎ澄ませてしまう作曲者が、どれくらい居るものだろうと改めて思う。

 ただ、ずっと廊下ここで立ち聴きしている訳にもいかない。かばん流木りゅうぼくを抱えている状態でノックは難しいので、仕方なく背中を扉に当てて静かに押し開けた。ピアノの音が、更に鋭く響く。

「っ……、」

 木と紙の匂いが立ち込めている美術室は、分厚いカーテンを引かれていて薄暗い。昨日は木立こだちに迷い込んだような錯覚を感じたけれど今日はより深く、まるで霧雨の降る森のように重く密やかな空気だった。

 ただ窓は開かれたままらしく、風がカーテンの裾を揺らす度にこぼれた斜陽が、さざなみのように床の上を行き来していた。

 その反射光は、石膏像せっこうぞうたちと共に片隅へ寄せられた古いアップライトピアノと、それを弾く一人の女子生徒の姿を浮かび上がらせている。

 僕が押し開けた扉が、反動で思いのほか勢いよく閉まった。その気配に、彼女は振り返る。




 昨日と今日とでようやく手に入れた彫刻の素材を、危うく落としてしまいそうになった。

 その女子生徒は、突然入ってきた僕と、そして僕が慌てて抱え直した流木の束を見比べて、怪訝けげんそうに首をかしげる。

 六月だというのに未だ長袖の中間服ちゅうかんふくを着ている彼女は、その手元の白鍵はっけんのような生成きなり色の肌と、そして黒鍵こっけんのような濡羽ぬれば色の髪をまとって、そこに居た。

 プロコフィエフのソナタが紡がれてゆく。

 古びたピアノと石膏像と、色素に乏しい制服と少女。美術室の一角でそれらはモノクロームの世界を陣取っていて、けれど僕の目には何よりも鮮やかに映った。

 鳥肌が治まらない。ずっと探し続けていた、しかし自分でも明文化できずにいた理想のモデル像を、目の前で全て的確に体現された感覚だった。

「……?」

 彼女は再びピアノへ振り返る寸前、わずかに表情をやわらげた。入室するなり呆然と突っ立っている僕の姿が、滑稽こっけいだったのかも知れない。やがてペダルを踏み替えて音を緩め、背中を向けたまま尋ねてくる。

「何か?」

 第二楽章の冒頭は静かなので聞き取れたけれど、それは必要最小限というか、とても控えめな声だった。

「……あの。もしかして、」

 僕の脳裏では数多あまたの思考が飛び交い、すっかり混乱していた。

 おそらく彼女が、昨日話に聞いた一年生の美術部員なのだろう。確か今井いまい繭浬まゆりという名前だった。昔から身体が丈夫でなく、部内で唯一絵を描いて、イメージも面白く、たまに来てはピアノを弾いて。

 そんな多くの手がかりを与えられていたのに、僕は何故だかこう口走っていた。

「アリス?」

 その瞬間、抑えた音のままで正確に旋律を辿っていた演奏が、見当違いな不協和音を鳴らして途絶えた。

「……あ、いや。ええと、」

 僕が口籠くちごもっている間に、彼女の横顔がゆっくりと微笑んでゆく。僅かに跳ねた目尻が、釉薬うわぐすりを遊ばせた磁器のように冷ややかで上品だった。

 ちらりと僕の足元を見て(上靴うわぐつの色で学年を確かめたのだろう)、再度視線を持ち上げる。

「先輩は何方様どちらさま? ああ、お急ぎでしたらお構いなく。白うさぎさん。」

「……いや、急いでない。僕は舘原たちはらまことって、昨日転校してきた者なんだけれど……、」

「転校生。」

 彼女はどこか得心した様子で呟く。

「もしかして君は、今井さん?」

「名前を知っているのに愛称のほうで呼んでくださるなんて、先輩は随分とフランクなのですね。」

「……。」

 言葉に詰まっていると、再び彼女は微笑んだ。それは先ほどよりは無邪気に感じられるものだった。

悪巫山戯わるふざけが過ぎましたね。ええ、私が今井です。下の名は繭浬と申します。」

 彼女はピアノに身体を向けたまま、不自然なお辞儀をする。長い髪が揺れて、骨のように白く細いうなじが垣間見えた。

 やはりくだんの美術部員だったらしい。ただ、彼女は確かに整った容姿だけれど、格別な美貌の持ち主という訳でもない。なのにどうして僕は、息を呑む思いをしているのだろう。

「……先輩は、面白いかたのようですね。」

「どうして?」

「今、色んな事を考えているのでしょう。それが顔に出ていて、おまけに一つ一つがとても分かりやすいので。」

 思わず、自分の顔に触れてみる。

「そう、かな。」

「ええ。たとえば、」

 彼女はふわりと両手を持ち上げ、先ほど途切れた独奏の続きを数小節だけ弾いてみせた。

「この曲、ご存知なのですよね。」

「ああ……、」

 確かに順序を正せば、僕はずそれを言いたかった気がする。

「プロコフィエフのソナタ七番……いわゆる、〝戦争ソナタ〟。」

「それ、苦手な呼び方です。」

「作曲者以外が勝手につけた俗称タイトルは、好きじゃないんだ?」

「はい。」

「つまり、ベートーヴェンのソナタ一四番を〝月光〟と呼ぶような。」

「そういう事です。」

「分かる、と思う。」

「気が合いそうですね。」

 今井繭浬は譜面ふめんを眺めながら、少しもそうは思っていない口振りで応える。

 言葉を交わす内に感じ取れたのは、どうやら彼女の面持ちや言動に不思議な品性があり、それがいつも絵になってしまうという事だった。

 つまりは雰囲気という事になる。僕は彫刻という、一瞬の情景をより完璧な造形の永遠へと磨き抜く芸術に傾倒しているのに、そんな抽象的で偶発的なものを求めていたのだろうか?

「……それ、何を持ってらっしゃるんですか。」

 ピアノの上前板うわまえいたを鏡代わりに経由した視線で、今井繭浬が訊いてくる。

「ああ、さっき裏の海辺で拾った流木。これで彫刻を作るのが、僕の美術部での……っ。」

 がこん、と勢いよくペダルを戻すくぐもった音に遮られた。

「お構いくださって光栄ですが。おかしな大荷物をいつまで重たげに抱えたままでいらっしゃるのか、おせっかいなアリスは心配でなりません。という意味ですよ。」

「……うん、これを置きに来たんだった。」

 僕は何か弁明するように呟き、鞄を手近な大机に置いて美術準備室へ入る。

 そこは立ち並ぶ棚と一つの事務机でひしめき合う、狭く細長い部屋だった。古い絵具えのぐと乾いた画用紙の匂いが、より深く立ち込めている。

 棚の一角にスケッチブックが並んでいて、ふと昨日見た黒ウサギの絵を思い出した。

 何でも「アリス」のあだ名に辟易へきえきした今井繭浬が憤るままに描いたという事だったが、それは他のデッサンよりも緻密で落ち着いた画風タッチだった。つまり機嫌が悪い時ほど静かで、先ほど発していた猫なで声のように柔らかく苛立つのだろう。

(……あんなに快活で友好的な部員たちが敬遠するのも、仕方ない気がする。)

 そんな事を考えながら、米塚よねづか部長に昨日言われた通り、最奥で窓を塞ぐように置かれた棚の下段を覗き込む。

 確かに一ヵ所だけが空いていて、そこに新聞紙が敷かれていた。紙面には赤色のマジックで、〝on the タチハラくん〟と書かれている。ここを使っていいという意味だろう。気になる事は多いけれど、とりあえず抱えていた流木たちを慎重に下ろす。ついでに祖父から借りた鋸も、隣に置いておく。

 準備室から出ると、今井繭浬はピアノの前に座ったまま、ぱらぱらと楽譜をめくっていた。どうやら出版社が製本したものではなく、自分で印刷したページだけをファイルにじて使っているらしい。楽譜はほんの数冊でも持ち歩くと結構な重さなので、僕もそうやってお気に入りや課題曲だけをまとめていた。

「……何か?」

 歩み寄り勝手に共感していると、彼女は視線をこちらへ向けた。

 近くで見ると、驚くほど体躯たいくが細い。それは柚季のように運動を重ねて引き締まった様子ではなく、僕と似た不健康な痩せ方に見えた。

「いや、話すのならとりあえず荷物を置いたらって、君が言ってくれたから。」

「言いましたけれど。先輩は変わってますね。私の態度を知れば、大抵の人はもう関わってこないのに。」

「グノシエンヌだった。」

「はい?」

「君の事。何も知らないけれど一つ分かったんだ。グノシエンヌなんだよ。」

「……。」あからさまに、眉をひそめられる。

 彼女は、不審そうな表情が妙に似合う気がする。むしろ笑顔に違和感があるという方が、失礼だけれど正確な印象だろうか。

「……私の記憶違いでなければ。グノシエンヌとは、それを作曲したエリック・サティ*¹⁰の造語です。なので、この場合は楽曲そのものへの比喩なのでしょう。」

 ピアノに映る自分をじっとにらむ彼女は、唐突に向けられた表現を少しでも理解しようと努めてくれているようにも、あるいは言葉遊びだろうとついていけないのはしゃくなので、忌々しげに頭を働かせているようにも見えた。僕はただ頷く。

「もちろん素敵なクラシックですが、ただ異性にたとえられて喜べるような甘美な曲ではありませんね。」

「そうかも知れない。不穏で、単調なのに明快じゃなくて。執拗で、冗長で。まるで延々と続く不協和音にさえ聴こえてしまう。」

「……。」

「だけど聴いていく中で、その不安定さこそ必要なのだと分かるし、揺らぎ方に安らげるアンバランスというものが在るのだと気づける。それは多分、壊れたメトロノームに価値を見出すような事なんだろうけれど。」

「ご気分を悪くしないで欲しいのですが、ひょっとして今、褒めているつもりだったりしますか?」

「勿論。僕なりに、最大限の賛辞を贈っているつもり。」

「……変な先輩。まして私は、全く別の曲を弾いていたのに。」

「放課後の美術室でカーテンを閉め切って、一人うっとりとプロコフィエフのソナタ七番を弾いている時点で、君はグノシエンヌだと思う。」

 彼女は俯いた。薄い肩を震わせて、やがて呟く。

「やめてください。もう沢山たくさん。おかしな人。」

「……笑ってるの?」

「笑いますよ。だって、どんな口説き文句ですか。」

「よく口説かれる?」

「そういう事じゃないでしょう。でも、これ以上おかしなアプローチは今後も無いでしょうね。どうしてくれるんですか、それこそ初めてだったのに。

 ところで私って今、口説かれてるんですよね?」

「多分。」

「はっきりしてください。」

「僕だって初めてだし、口説くって事もよく分かっていないんだ。ただ、君を切実に必要としてるのは確かだよ。」

 無我夢中で次の言葉を探すけれど、上手く見つけられない。今井繭浬は、続きを促すような表情で微笑している。その心にも無いに、より深い確信を得る。

「どうか、絵や彫刻のモデルになって欲しい。どうしても、君の美しさをかたどりたいんだ。幾ら心血を注いでも、きっと本人ほど美しくはできないと思うけれど。それでも。」

「ふ。……漸く、口説かれてる気分になってきました。一時はどうなる事かと。」

 彼女は平らかな胸元を押さえ、如何いかにも安心したように息を吐いた。

「……どうだろう。モデル、引き受けてくれないかな。」

「つまり、先輩から私へのお願いという事ですね?」

「そう、だね。」

「何が何でも、して欲しいんですか?」

「はい。」

「ちゃんと。」

「……何が何でも、して欲しい。」

「私じゃないと駄目?」

「君じゃないと、駄目。」

「そう。じゃあ考えておきます。」

「……。」

 そこで背後から扉が開く気配がして、僕らは同時に振り返った。




 カジュアルシャツのそでを肘まで捲った男性が姿を現し、こちらと目が合うと「おや。」と大袈裟おおげさに驚きつつ、どこか微笑ましげに笑った。

 確か、勢良せらという名の教師だ。昨朝教科書の確認で一通りの教師と会った際、美術の担当だったので記憶に残っている。

 年齢は五〇代前半くらいだろうか。髪もひげも灰色で、不思議と愛嬌あいきょうを感じさせる人だった(今井繭浬と話した直後だからかも知れない)。

「やあ、入部の話は田角たすみ先生から聞いたよ。よろしくね。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 頭を下げる僕に穏やかな頷きを返し、彼はそのまま今井繭浬へも目を向ける。

まゆサン。彼は新入部員だよ。男子だけど転校してきたばかりだから、仲良くしてやってね。」

「心配いりません。今ちょうど熱く愛を語り終えたところです。」

「……ちょっと、」

 僕の弁明が、今度はピアノの鍵盤蓋を閉じる重い音で遮られた。

 妙な語弊を否定したくて勢良先生へ目を向けるが、彼は「そう。若い二人を邪魔せずに済んだようで、安心したよ。」と、呑気に笑っていた。

「だけどこれから、三年役員の説明会をする事になってね。急なもんだから咄嗟とっさ美術室ここでって言っちゃったんだよ。悪いけど、」

「ええ、おいとまします。」

「申し訳ないね。あと、まこサン。」

「……あ、はい。」

 僕の事らしい。

「下でお迎えの車が繭サンを待ってるから、そこまで彼女と一緒に帰ってあげてくれないかな。体調が変わりやすい子だから。」

「分かり、ました。」

 彼は今井繭浬から美術室の鍵を受け取ると、僕にだけ見えるようウインクした。「逢瀬おうせの続きは、別の場所でね。」とでも言いたげで、それにはただ首を振って応えた。



  #



「……。」

「……。」

 誰かの背を追う。この町に来てから、妙に見慣れてしまった光景ではある。

 今井繭浬と共に美術室を出て、廊下を通り、階段を下りる。たまに他の生徒と擦れ違う事があるけれど、その際彼らは連れ立つ者同士で目配せを交し合っている。本人たちは隠しているつもりなのだろうけれど、大抵そういうものは読み取れてしまう。

「……。」

「……。」

 ゆずられるというより避けられる形で開いてゆく道筋を、当の今井繭浬は涼しげに髪を揺らして歩く。その細い背中は、些事など全く意に介していないようにも、民たちを約束の地へ導きながら自らは立ち入れなかった預言者モーセのように物悲しくも見える。

「……。」

「……。」

 先ほど勢い込んでまくし立てたぶん、今となっては何を話せばいいのか見当がつかない。誰かに聞かれる場所で再開できる内容でも無いし、何より彼女は僕の存在など忘れたかのように、全く振り返らずに歩を進めていく。

 やがて昇降口に着いてしまう。今井繭浬は淀みなく自分のクラスの靴箱に向かうので、僕も倣った。

 慌てて靴を引っ掛けて彼女に合流するが、少し急ぎ過ぎたらしく今井繭浬は未だ靴を履く途中だった。靴箱のかどに片手をってバランスを保ち、爪先つまさきを床にトントンと当て、かかとを押し込む。反対の靴も同様に終えて、顔を上げた。長い髪がしなって、目が合う。

 子供っぽい所作を気恥ずかしがるような、そしてそれを見つめていた僕を咎めるような、ひどく美しい眼差まなざしだった。

 こちらを一瞥した彼女は、昇降口をくぐって外へ出た。それを追って、斜め後ろくらいの位置で付き添う。裏手の駐車場ではなく、正面玄関の方へ向かうらしい。

「……あの、今井さん。」

「その苗字、嫌いなんです。」

 何か話すなら今しか無いと思ったのだけれど、出鼻をくじかれた。

「だったら、何て呼べばいいかな。」

「何なりと。」

「……。」

「怒るくせに、と思ってますね。」

「思ってないよ。」

「嘘仰い。」

 どう呼ぶべきか思案する。ここで再度アリス呼ばわりするのが僕の精一杯のユーモアだけれど、刺されかねない。

「じゃあ、繭浬さん。」

「馴れ馴れしい上にひねりがありませんね。」

「……くどいと思うけれど、モデルの件は考えておいて欲しい。切実に、君にお願いしたいんだ。」

「ええ、前向きに検討してみます。」

 そう言ってはくれるものの、彼女の横顔はどこまでも無表情なので真意が読み取れない。

 そして唐突に立ち止まる。不審に思い周囲を見回すと、校門付近で停まっていた一台の自動車がこちらへ徐行してきた。どうやらくだんの〝お迎え〟らしい。

 小振りな軽自動車で、肥満気味の中年女性がハンドルを握っている。その車体には家事代行サービスの企業ロゴが貼られていたので、ハウスキーパーか何かだろう。どこか庶民的で、意外だった。

「……何か?」

 相変わらず背中を向けたまま、彼女が問う。そういう気配にも敏感らしい。

「何も言ってないけど。」

「〝お迎え〟と聞いて、執事とリムジンが待っているとでも想像していたのでは?」

「そこまで古典的なイメージもどうかと思うけれど……確かに君には、その方が似合いそうだね。」

「……。」

 漸く、今井繭浬はこちらを見た。それは妙に挑戦的で、弾んだ瞳だった。

「では失礼します。ご縁があれば、また美術室で。」そう言って彼女は車に乗り込む。何か応じる間も無くドアは閉められた。

 軽く掌を持ち上げて別れの合図を示したけれど、運転手の女性が会釈しただけで本人は気づきもしなかった。そのまま校門を出てゆく軽自動車の後ろ姿を、恍惚こうこつと見送る。

(……何て事だろう。)

 僕は今日、ずっと探し続けていた少女と出逢ってしまった。そんな夢見心地のまま立ち尽くしていると背後から、

っせぇよ!」

 腰に覚えのある蹴りを受けた。




 すっかり不機嫌になってしまった柚季をなだめながら帰路にく。その間も、僕の意識はどこかフワフワと宙に浮いていた。それほど、今井繭浬との邂逅かいこうは深刻だった。

「すぐもどるって言ってたくせにさ。ここんところ、ずっと待たされっぱなしだよ。」

 そう膨れる彼女に一頻ひとしきり謝り、小言が収まってきた辺りで訊いてみる。

「ところでさ、今井繭浬って子を知ってる?」

「……。」

 途端に、柚季の顔から表情が消えた。

「さっきのひと、やっぱりそうだったんだ。」

「え?」

「もちろん知ってるよ。去年まで同じ学校だったんだし。」

 言われてみれば、そういう事になるのか。今井繭浬がランドセルを背負い通学帽つうがくぼうを被る姿は、あまり想像できないけれど。

「どんな子だった?」

「どんなって言われても、本人と話したんでしょ。あんなだよ。」

 苦笑を抑えつつ、もう少し詳しく教えて欲しいと頼む。

「ヘンなこと知りたがるなあ。うーん……何かむずかしい病気だから、近くにいる時は静かにするようにって言われてた。行事とかでも気ぃつかうし、とくに同じ学年のひとは大変だったらみたいだよ。」

 そういえば米塚部長も、似たような事を言っていたか。

「べつにそんなの、みんなと一言ずつ話しとけばいいだけじゃん。なのにだまってて何考えてるかわからんし、たまにしゃべっても周りをバカにしてる感じだから、苦手って言うひと多かったみたい。

 あとはウワサだけど、だれかえらいひとのカクシゴとかで、だから先生たちも怒れなくてワガママし放題とか。ようするに、あんま近づかないほうがいいって言われてたかな。」

「……なるほど。」

 小学生のコミュニティも中々シビアだと感じる一方で、どこか腑に落ちる。

 先ほどの唐突な〝執事とリムジン〟云々の仮令たとえも、素性や憶測が一人歩きしている彼女の、先回りの皮肉だったらしい。僕は何も知らなくて、成立させてあげられなかったけれど。

 そして有力者の婚外子こんがいしという噂も、全く信じられない話では無い。あの言動は、あまりにも浮世離れしつつ冷笑的だった。

 それこそ憶測だけれど、彼女は自分を取り巻く世界を心底憎んでいるように見えた。

「で、なんであんな目立つひとと話してたの?」

「ああ、その今井さんも部員の一人だったらしくて。」

「……ふうん。なんか流木プレゼント部って、その名のとおりヘンなひとばっかだね。」

「美術部だってば。あと、さすがに失礼だよ。否定こそ出来ないけれど。」

「だって今井のひとがいて、諒兄まこにいがいて、チサトさんが部長なんでしょ。もうわけわかんないよ。」

「……。ちさと?」

 そういえば昨日の流木探しの際、柚季が米塚部長の後ろ姿を見つめ、何か疑問を呟いていた事を思い出した。

「米塚部長ってそんな名前なんだ。どうして知ってるの?」

「だってあのひとこそ有名だよ。ここらの水泳教室でぶっちぎりのタイム持ってて、中学でも大会記録出してたし。」

「……そうなんだ。」

「うん。だから昨日は、水泳部のエースのはずなのに何してるんだろって思った。肩のジンタイ痛めたとは聞いたけどさ……だからって、流木とかプレゼントしてる場合じゃなくない?」

 知らなかった。意外な事実に、ただ頷き返す。

 そして自分でも昨日の海辺で、米塚部長はもっと大人数の部活を仕切るべきではと感じていた事を思い出した。あの統率力は、おそらく実際にそうしていて身に着いたものだったのだろう。

「あちこちで期待されてるし、あたしも目標にしてて、正直あこがれてる。だから今井のひとなんかより、チサトさんと仲よくなってくんない? で泳ぎのコツとか聞き出して、こっそり教えてよ。」

 あまりに素直で直接的な打算に、つい笑ってしまう。

「水泳が分からない僕を挟んでも情報がブレるだろうから、自分で訊きなよ。また部活で校外に出る事もあると思う。素材探しとかスケッチとか……その時は前もって柚季にも伝えるからさ。」

「うーん。うれしいけど、いざ目の前にするとカタくなるんだよね。」

「まあ、僕も次に会う事を考えるだけで緊張する人が居るから、気持ちは分かるよ。」

「お、チサトさんのこと?」

「いや、今井繭浬さんの事。あんなに美しい人と逢えるなんて、夢みたいだ。」

「……シュミわる……。」




 家に着くと、また調理中の祖父が玉暖簾たまのれん越しに迎えてくれた。日課なのか柚季は一口分ひとくちぶんだけつまみ食いしてから「じゃ、また明日。」と軽快に玄関を出てゆく。

 昨日ほど遅い時刻でも無いので、夕食の準備を手伝いたいと申し出てみた。海老の殻剥きと背ワタを取り除く、下処理の作業を任される。初めてなので上手く出来なくて祖父は呆れていたけれど、かされはしなかった。

 海老は特別好物でも無いのに、調理中その香りや身の弾力に触れていると、早く食べたくなるので不思議だった。

 小振りな海老と白身魚(きすらしい)に衣を付け、油で揚げていく。その工程を祖父の脇から覗き込み、鍋から跳ねた油を顔に受けて一騒動しつつも、無事に天麩羅てんぷらは出来上がった。

 畳んだ新聞紙にキッチンペーパーを敷いただけの即席皿へ盛って食卓に並べ、祖父と相撲中継を観ながら夕食を取る。特に鱚が素晴らしく美味だったけれど、流石に日本酒は遠慮する事にした。

 食後も祖父は残りの天麩羅で晩酌を続けると言うので、風呂の準備を買って出た。洗剤の注意書きを熟読し、ぎこちなく風呂場を掃除する。

 何とか支度を終えてお湯を張り始めるけれど、自動で停まる気配が無いので隣の洗面所にとどまって満ちるのを待つ事にした。

 蛇口から注がれたお湯がステンレスの浴槽を叩く音が聞こえる。洗濯機にもたれ掛かると、小さな窓から赤紫の空とクリーム色の夕月が見えた。

 その間も、ずっと今井繭浬の事を考えていた。




 自ら掃除した風呂場での入浴は、妙に感慨深く心地好いものだった。髪を拭きながら二階へ上がり、物置のふすまを開けて、電子ピアノの電源を入れる。

 うろ覚えのままプロコフィエフの旋律を辿る。楽譜が無いので、一度つまずくと続きを思い出せなかった。

 身体の奥から経験した事の無い感情が込み上げて、その熱さに戸惑う。心臓を内側から引っ掻かれるようで、ひどくもどかしい。

 そして衝動的にグノシエンヌを弾く。作曲者サティから拍子も小節も書き添えられなかった音の並びが、継ぎ目も無く流れ落ちてゆく。絡み合う飴細工あめざいくを一筋へ解くように生々しく。

 あの白い指先が楽譜を捲る度、大袈裟に反射した光が彼女の貌と、美術室の壁を横切っていく様を想い出す。微かに聞こえたページの音さえ。

 我ながら、重症だと思う。

 今朝に聞いた柚季の悩みや、米塚部長の功績と現状など、考えるべき事は少なくない筈だ。きっと明日も柚季と登校するだろうし、部活日なので米塚部長とも顔を合わせるだろう。

 なのに僕は、今井繭浬の面影や言動を想い起こす事しか出来ない。水底へ深く沈むように、反芻はんすうに耽っている。

 グノシエンヌと譬えた。その旋律に相応しい、あの不穏な少女の危うい美しさを。



   #



 携帯のアラームで意識を取り戻す。昨夜物置から自室に戻った記憶も朧気おぼろげで、どうやらたたんだままの布団に倒れ込むように寝入っていたらしい。

 あちこち痛む身体をさすりながら一階に下りると、例によって祖父は出掛けた後だった。

 台所には昨日の天麩羅を玉子で閉じて甘く煮た創作料理が残されており、不行儀だけれどご飯に乗せて食べると美味だった。祖父に知られると叱られるだろうかと危惧するが、シンクに残された彼の茶碗も僕と同様に汚れていたので安堵し、まとめて洗って片付けておく。

 自室で登校の準備を終え改めて一階に戻ると、案の定というか柚季が玄関に立っていた。

「おはよ。」

「おはよう……。」

「うわ、ねむそう。けど今日はちゃんと制服着てるじゃん。えらいえらい。」と土間で背伸びし、上りかまちに立つ僕の頭を撫でる振りをする。

「昨日の事は反省してるよ。」

 苦笑交じりに弁解し、二人で玄関を出る。

 昨日の朝に待たせてしまったし、その後に聞いた話の内容も内容だったので、今朝も迎えに来てくれた事には言及しづらい。彼女の悩みに具体案を告げられる訳では無いし、その為の思索すら努めずに今井繭浬の事ばかり考えていたという後ろめたさも抱えている。

 隣に目を遣ると、当の柚季は相変わらず軽やかに歩を進めていた。朝陽の中、彼女の服にちりばめられたスパンコール風のビーズ飾りが、無邪気にきらめいている。

「……ほんと、ねむそうだね。」

 気づけば、寧ろ彼女の方から心配されてしまった。

「ちゃんと夜ねた?」

「寝た……と思う。覚えてないけど。」

「なにそれ。てか昨日の帰りから、ずっとぼーっとしてない? どうしたの。」

「うん……。」

「今井さんのこと考えてたとか?」

 どこまで正直に話すべきだろうと考えていると、あっさり言い当てられた。寝惚けた頭のまま、「まあ、そうだね。」と曖昧に頷く。

「やらし。」

「……そんな事ないよ。多分。」

「たぶんじゃん。」

 いやらしいとは、例えば今井繭浬の裸体を想像する、だとかを指すのだろうか。しかし彼女の肢体は宗教画の女神のように荘厳でも、官能的な裸婦像のように艶めかしくも無い気がする。おそらく衣服をまとって成立するたぐいの美しさなので、ヌードが魅力的な空想だとはあまり思えない。

 それが健全なのか却って不健全なのかは判らないけれど、いずれにせよ彼女に対し礼を失している事は確かだろう。

「だいたい女の子のこと考えて夜ふかししてる時点で、えっちぃでしょ。」

「そういうものかな……えっちぃって何?」

「しらんし。自分で考えたら。」

 と、柚季は忌々しげに目を逸らす。その不機嫌そうな横顔に今井繭浬の面影を想起してしまいそうで、小さく首を振った。流石に支障をきたす。

「……あ、そういえばさ。」

 多少白々しくも、声のトーンを改める。

「今日は木曜で部活の日だから、僕は遅くなるよ。」

「うん。あたしも今日はクラブ活動あるから。」と、柚季は小脇に抱えていたバッグを示す。半透明のビニール製なので、中に水着やタオルを入れている様子が見て取れる。

「そうなんだ。例の水泳?」

「ちょっとちがう。ちゃんとした教室スクールのほうは、月曜にかよってるから。」

「へえ。週二しゅうにで水泳は大変そうだね。」

「まあ今日のは学校のクラブだから楽だよ。夏には遠泳えんえいとかあってきついけど、まだ海開き前だからね。低学年の子たちと水遊びして、たまに着衣水泳とか教えるくらい。」

「遠泳って、皆で並んで只管ひたすら海を泳ぐやつだよね。あれ実際にやってたんだ……。」

 いつか夕方のニュースなどでその光景を見た気がするけれど、何かの間違いだと思っていた。

「そらやるよ。あれ味わったら、プールで泳ぐのなんか天国だよ。」

「僕には想像できない世界だな……。」

「あとお正月には、寒中水泳なんかもやるよ。諒兄もくる?」

「遠慮しとくよ。」同様に、寒空の下で人々が震え大騒ぎしながら灰色の海に臨むシーンも報道されていたけれど、どうやらあれもファンタジーでは無いらしい。

 柚季はけらけらと笑っている。少し機嫌を直してくれた様子だった。

「まあせっかくだから、諒兄も夏には泳ごうよ。海好きなんでしょ? だったら一回は入ってみたら。」

 彼女の言葉に一理ある気がする。きっと眺めているよりも、言葉通り身を投じた方が感じ取れるものは多いだろう。

「そうだね。足の届く範囲なら。」

「うん。……うん?」

 柚季はこちらに顔を向け、僕は正面に視線を戻す。

「……まこ兄ひょっとして、かなづち*¹²?」

 僕らが下りてゆく長い坂道の向こうで、小さな町が広がっている。そしてそれに寄り添うように横たわる海。

「……ねえ、ちょっと?」

 かすむ町並みと海面の揺らめきは曖昧で、そこに境界など無いように思える。

「おーい、聞いてる?」

 それは、町が温かな浅瀬に満たされているようにも、海の上に蜃気楼の町が浮かんでいるようにも見えた。

「ちょっと、急にシカトとか大人気おとなげなくね?」

 そんな視点から見渡せば、一人の人間が泳げるとか泳げないだとかは、この上なく些末な問題だと思わざるを得ない。

「……諒兄さ、もうすぐ中学でも水泳の授業始まるよ。今井さんに見られることもあるんじゃない?」

「……。」

「だから、それまでに練習しよ? バタ足から教えてあげるからさ。」

「……。」

「ね?」

「はい。」

「返事ちっちゃ。」




   五、たまさかの




※ 後注


*¹⁰プロコフィエフ

ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフ。

自身の作品を成す要素として、古典・近代・即興・叙情・グロテスクの5項を挙げる。

ちなみにピアノソナタ第7番はスターリン国家賞を受賞。


*¹¹エリック・サティ

音楽界の異端児と呼ばれるフランスの作曲家。楽曲が生活に溶け込む在り方として〝家具の音楽〟を提唱。

その作風や〝右や左に見えるもの 眼鏡無しで〟といったタイトルも独特だが、自ら作曲した楽譜に〝ひどくまごついて〟〝歯の痛いナイチンゲールのように〟など奇妙な演奏指示を書き込んだ事でも知られている。


*¹²かなづち

金属製の槌・ハンマー。ただそれのみを指す。



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