五、偶さかの瀬。
階段を上る歩調が、少し
吹奏楽部の誰かが練習しているのかとも思ったが、どうやらピアノの独奏らしい。そしてその旋律は、同じ三階でも音楽室の方ではなく美術室へ近づくにつれ
何よりこの楽曲は、中学校で演奏されるような課題曲として相応しいとは思えない。
「……。」
当の美術室の眼前まで辿り着いたが、扉を開く事を
プロコフィエフ*¹⁰のピアノソナタで、おそらく七番の第一楽章。僕も練習した事があるので耳に
ただ、ずっと
「っ……、」
木と紙の匂いが立ち込めている美術室は、分厚いカーテンを引かれていて薄暗い。昨日は
ただ窓は開かれたままらしく、風がカーテンの裾を揺らす度に
その反射光は、
僕が押し開けた扉が、反動で思いのほか勢いよく閉まった。その気配に、彼女は振り返る。
昨日と今日とで
その女子生徒は、突然入ってきた僕と、そして僕が慌てて抱え直した流木の束を見比べて、
六月だというのに未だ長袖の
プロコフィエフのソナタが紡がれてゆく。
古びたピアノと石膏像と、色素に乏しい制服と少女。美術室の一角でそれらはモノクロームの世界を陣取っていて、けれど僕の目には何よりも鮮やかに映った。
鳥肌が治まらない。ずっと探し続けていた、しかし自分でも明文化できずにいた理想のモデル像を、目の前で全て的確に体現された感覚だった。
「……?」
彼女は再びピアノへ振り返る寸前、
「何か?」
第二楽章の冒頭は静かなので聞き取れたけれど、それは必要最小限というか、とても控えめな声だった。
「……あの。もしかして、」
僕の脳裏では
おそらく彼女が、昨日話に聞いた一年生の美術部員なのだろう。確か
そんな多くの手がかりを与えられていたのに、僕は何故だかこう口走っていた。
「アリス?」
その瞬間、抑えた音のままで正確に旋律を辿っていた演奏が、見当違いな不協和音を鳴らして途絶えた。
「……あ、いや。ええと、」
僕が
ちらりと僕の足元を見て(
「先輩は
「……いや、急いでない。僕は
「転校生。」
彼女はどこか得心した様子で呟く。
「もしかして君は、今井さん?」
「名前を知っているのに愛称の
「……。」
言葉に詰まっていると、再び彼女は微笑んだ。それは先ほどよりは無邪気に感じられるものだった。
「
彼女はピアノに身体を向けたまま、不自然なお辞儀をする。長い髪が揺れて、骨のように白く細い
やはり
「……先輩は、面白い
「どうして?」
「今、色んな事を考えているのでしょう。それが顔に出ていて、おまけに一つ一つがとても分かりやすいので。」
思わず、自分の顔に触れてみる。
「そう、かな。」
「ええ。たとえば、」
彼女はふわりと両手を持ち上げ、先ほど途切れた独奏の続きを数小節だけ弾いてみせた。
「この曲、ご存知なのですよね。」
「ああ……、」
確かに順序を正せば、僕は
「プロコフィエフのソナタ七番……いわゆる、〝戦争ソナタ〟。」
「それ、苦手な呼び方です。」
「作曲者以外が勝手につけた
「はい。」
「つまり、ベートーヴェンのソナタ一四番を〝月光〟と呼ぶような。」
「そういう事です。」
「分かる、と思う。」
「気が合いそうですね。」
今井繭浬は
言葉を交わす内に感じ取れたのは、どうやら彼女の面持ちや言動に不思議な品性があり、それがいつも絵になってしまうという事だった。
つまりは雰囲気という事になる。僕は彫刻という、一瞬の情景をより完璧な造形の永遠へと磨き抜く芸術に傾倒しているのに、そんな抽象的で偶発的なものを求めていたのだろうか?
「……それ、何を持ってらっしゃるんですか。」
ピアノの
「ああ、さっき裏の海辺で拾った流木。これで彫刻を作るのが、僕の美術部での……っ。」
がこん、と勢いよくペダルを戻す
「お構いくださって光栄ですが。おかしな大荷物をいつまで重たげに抱えたままでいらっしゃるのか、おせっかいなアリスは心配でなりません。という意味ですよ。」
「……うん、これを置きに来たんだった。」
僕は何か弁明するように呟き、鞄を手近な大机に置いて美術準備室へ入る。
そこは立ち並ぶ棚と一つの事務机で
棚の一角にスケッチブックが並んでいて、ふと昨日見た黒ウサギの絵を思い出した。
何でも「アリス」のあだ名に
(……あんなに快活で友好的な部員たちが敬遠するのも、仕方ない気がする。)
そんな事を考えながら、
確かに一ヵ所だけが空いていて、そこに新聞紙が敷かれていた。紙面には赤色のマジックで、〝on the タチハラくん〟と書かれている。ここを使っていいという意味だろう。気になる事は多いけれど、とりあえず抱えていた流木たちを慎重に下ろす。ついでに祖父から借りた鋸も、隣に置いておく。
準備室から出ると、今井繭浬はピアノの前に座ったまま、ぱらぱらと楽譜を
「……何か?」
歩み寄り勝手に共感していると、彼女は視線をこちらへ向けた。
近くで見ると、驚くほど
「いや、話すのならとりあえず荷物を置いたらって、君が言ってくれたから。」
「言いましたけれど。先輩は変わってますね。私の態度を知れば、大抵の人はもう関わってこないのに。」
「グノシエンヌだった。」
「はい?」
「君の事。何も知らないけれど一つ分かったんだ。グノシエンヌなんだよ。」
「……。」あからさまに、眉を
彼女は、不審そうな表情が妙に似合う気がする。
「……私の記憶違いでなければ。グノシエンヌとは、それを作曲したエリック・サティ*¹⁰の造語です。なので、この場合は楽曲そのものへの比喩なのでしょう。」
ピアノに映る自分をじっと
「もちろん素敵なクラシックですが、ただ異性に
「そうかも知れない。不穏で、単調なのに明快じゃなくて。執拗で、冗長で。まるで延々と続く不協和音にさえ聴こえてしまう。」
「……。」
「だけど聴いていく中で、その不安定さこそ必要なのだと分かるし、揺らぎ方に安らげるアンバランスというものが在るのだと気づける。それは多分、壊れたメトロノームに価値を見出すような事なんだろうけれど。」
「ご気分を悪くしないで欲しいのですが、ひょっとして今、褒めているつもりだったりしますか?」
「勿論。僕なりに、最大限の賛辞を贈っているつもり。」
「……変な先輩。まして私は、全く別の曲を弾いていたのに。」
「放課後の美術室でカーテンを閉め切って、一人うっとりとプロコフィエフのソナタ七番を弾いている時点で、君はグノシエンヌだと思う。」
彼女は俯いた。薄い肩を震わせて、やがて呟く。
「やめてください。もう
「……笑ってるの?」
「笑いますよ。だって、どんな口説き文句ですか。」
「よく口説かれる?」
「そういう事じゃないでしょう。でも、これ以上おかしなアプローチは今後も無いでしょうね。どうしてくれるんですか、それこそ初めてだったのに。
ところで私って今、口説かれてるんですよね?」
「多分。」
「はっきりしてください。」
「僕だって初めてだし、口説くって事もよく分かっていないんだ。ただ、君を切実に必要としてるのは確かだよ。」
無我夢中で次の言葉を探すけれど、上手く見つけられない。今井繭浬は、続きを促すような表情で微笑している。その心にも無いひどい美しさに、より深い確信を得る。
「どうか、絵や彫刻のモデルになって欲しい。どうしても、君の美しさを
「ふ。……漸く、口説かれてる気分になってきました。一時はどうなる事かと。」
彼女は平らかな胸元を押さえ、
「……どうだろう。モデル、引き受けてくれないかな。」
「つまり、先輩から私へのお願いという事ですね?」
「そう、だね。」
「何が何でも、して欲しいんですか?」
「はい。」
「ちゃんと。」
「……何が何でも、して欲しい。」
「私じゃないと駄目?」
「君じゃないと、駄目。」
「そう。じゃあ考えておきます。」
「……。」
そこで背後から扉が開く気配がして、僕らは同時に振り返った。
カジュアルシャツの
確か、
年齢は五〇代前半くらいだろうか。髪も
「やあ、入部の話は
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
頭を下げる僕に穏やかな頷きを返し、彼はそのまま今井繭浬へも目を向ける。
「
「心配いりません。今ちょうど熱く愛を語り終えたところです。」
「……ちょっと、」
僕の弁明が、今度はピアノの鍵盤蓋を閉じる重い音で遮られた。
妙な語弊を否定したくて勢良先生へ目を向けるが、彼は「そう。若い二人を邪魔せずに済んだようで、安心したよ。」と、呑気に笑っていた。
「だけどこれから、三年役員の説明会をする事になってね。急なもんだから
「ええ、お
「申し訳ないね。あと、
「……あ、はい。」
僕の事らしい。
「下でお迎えの車が繭サンを待ってるから、そこまで彼女と一緒に帰ってあげてくれないかな。体調が変わりやすい子だから。」
「分かり、ました。」
彼は今井繭浬から美術室の鍵を受け取ると、僕にだけ見えるようウインクした。「
#
「……。」
「……。」
誰かの背を追う。この町に来てから、妙に見慣れてしまった光景ではある。
今井繭浬と共に美術室を出て、廊下を通り、階段を下りる。
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
先ほど勢い込んで
やがて昇降口に着いてしまう。今井繭浬は淀みなく自分のクラスの靴箱に向かうので、僕も倣った。
慌てて靴を引っ掛けて彼女に合流するが、少し急ぎ過ぎたらしく今井繭浬は未だ靴を履く途中だった。靴箱の
子供っぽい所作を気恥ずかしがるような、そしてそれを見つめていた僕を咎めるような、ひどく美しい
こちらを一瞥した彼女は、昇降口を
「……あの、今井さん。」
「その苗字、嫌いなんです。」
何か話すなら今しか無いと思ったのだけれど、出鼻を
「だったら、何て呼べばいいかな。」
「何なりと。」
「……。」
「怒るくせに、と思ってますね。」
「思ってないよ。」
「嘘仰い。」
どう呼ぶべきか思案する。ここで再度アリス呼ばわりするのが僕の精一杯のユーモアだけれど、刺されかねない。
「じゃあ、繭浬さん。」
「馴れ馴れしい上に
「……
「ええ、前向きに検討してみます。」
そう言ってはくれるものの、彼女の横顔はどこまでも無表情なので真意が読み取れない。
そして唐突に立ち止まる。不審に思い周囲を見回すと、校門付近で停まっていた一台の自動車がこちらへ徐行してきた。どうやら
小振りな軽自動車で、肥満気味の中年女性がハンドルを握っている。その車体には家事代行サービスの企業ロゴが貼られていたので、ハウスキーパーか何かだろう。どこか庶民的で、意外だった。
「……何か?」
相変わらず背中を向けたまま、彼女が問う。そういう気配にも敏感らしい。
「何も言ってないけど。」
「〝お迎え〟と聞いて、執事とリムジンが待っているとでも想像していたのでは?」
「そこまで古典的なイメージもどうかと思うけれど……確かに君には、その方が似合いそうだね。」
「……。」
漸く、今井繭浬はこちらを見た。それは妙に挑戦的で、弾んだ瞳だった。
「では失礼します。ご縁があれば、また美術室で。」そう言って彼女は車に乗り込む。何か応じる間も無くドアは閉められた。
軽く掌を持ち上げて別れの合図を示したけれど、運転手の女性が会釈しただけで本人は気づきもしなかった。そのまま校門を出てゆく軽自動車の後ろ姿を、
(……何て事だろう。)
僕は今日、ずっと探し続けていた少女と出逢ってしまった。そんな夢見心地のまま立ち尽くしていると背後から、
「
腰に覚えのある蹴りを受けた。
すっかり不機嫌になってしまった柚季を
「すぐもどるって言ってたくせにさ。ここんところ、ずっと待たされっぱなしだよ。」
そう膨れる彼女に
「ところでさ、今井繭浬って子を知ってる?」
「……。」
途端に、柚季の顔から表情が消えた。
「さっきのひと、やっぱりそうだったんだ。」
「え?」
「もちろん知ってるよ。去年まで同じ学校だったんだし。」
言われてみれば、そういう事になるのか。今井繭浬がランドセルを背負い
「どんな子だった?」
「どんなって言われても、本人と話したんでしょ。あんなだよ。」
苦笑を抑えつつ、もう少し詳しく教えて欲しいと頼む。
「ヘンなこと知りたがるなあ。うーん……何かむずかしい病気だから、近くにいる時は静かにするようにって言われてた。行事とかでも気ぃつかうし、とくに同じ学年のひとは大変だったらみたいだよ。」
そういえば米塚部長も、似たような事を言っていたか。
「べつにそんなの、みんなと一言ずつ話しとけばいいだけじゃん。なのにだまってて何考えてるかわからんし、たまにしゃべっても周りをバカにしてる感じだから、苦手って言うひと多かったみたい。
あとはウワサだけど、だれかえらいひとのカクシゴとかで、だから先生たちも怒れなくてワガママし放題とか。ようするに、あんま近づかないほうがいいって言われてたかな。」
「……なるほど。」
小学生のコミュニティも中々シビアだと感じる一方で、どこか腑に落ちる。
先ほどの唐突な〝執事とリムジン〟云々の
そして有力者の
それこそ憶測だけれど、彼女は自分を取り巻く世界を心底憎んでいるように見えた。
「で、なんであんな目立つひとと話してたの?」
「ああ、その今井さんも部員の一人だったらしくて。」
「……ふうん。なんか流木プレゼント部って、その名のとおりヘンなひとばっかだね。」
「美術部だってば。あと、さすがに失礼だよ。否定こそ出来ないけれど。」
「だって今井のひとがいて、
「……。ちさと?」
そういえば昨日の流木探しの際、柚季が米塚部長の後ろ姿を見つめ、何か疑問を呟いていた事を思い出した。
「米塚部長ってそんな名前なんだ。どうして知ってるの?」
「だってあのひとこそ有名だよ。ここらの水泳教室でぶっちぎりのタイム持ってて、中学でも大会記録出してたし。」
「……そうなんだ。」
「うん。だから昨日は、水泳部のエースのはずなのに何してるんだろって思った。肩のジンタイ痛めたとは聞いたけどさ……だからって、流木とかプレゼントしてる場合じゃなくない?」
知らなかった。意外な事実に、ただ頷き返す。
そして自分でも昨日の海辺で、米塚部長はもっと大人数の部活を仕切るべきではと感じていた事を思い出した。あの統率力は、おそらく実際にそうしていて身に着いたものだったのだろう。
「あちこちで期待されてるし、あたしも目標にしてて、正直あこがれてる。だから今井のひとなんかより、チサトさんと仲よくなってくんない? で泳ぎのコツとか聞き出して、こっそり教えてよ。」
あまりに素直で直接的な打算に、つい笑ってしまう。
「水泳が分からない僕を挟んでも情報がブレるだろうから、自分で訊きなよ。また部活で校外に出る事もあると思う。素材探しとかスケッチとか……その時は前もって柚季にも伝えるからさ。」
「うーん。うれしいけど、いざ目の前にするとカタくなるんだよね。」
「まあ、僕も次に会う事を考えるだけで緊張する人が居るから、気持ちは分かるよ。」
「お、チサトさんのこと?」
「いや、今井繭浬さんの事。あんなに美しい人と逢えるなんて、夢みたいだ。」
「……シュミわる……。」
家に着くと、また調理中の祖父が
昨日ほど遅い時刻でも無いので、夕食の準備を手伝いたいと申し出てみた。海老の殻剥きと背ワタを取り除く、下処理の作業を任される。初めてなので上手く出来なくて祖父は呆れていたけれど、
海老は特別好物でも無いのに、調理中その香りや身の弾力に触れていると、早く食べたくなるので不思議だった。
小振りな海老と白身魚(
畳んだ新聞紙にキッチンペーパーを敷いただけの即席皿へ盛って食卓に並べ、祖父と相撲中継を観ながら夕食を取る。特に鱚が素晴らしく美味だったけれど、流石に日本酒は遠慮する事にした。
食後も祖父は残りの天麩羅で晩酌を続けると言うので、風呂の準備を買って出た。洗剤の注意書きを熟読し、ぎこちなく風呂場を掃除する。
何とか支度を終えてお湯を張り始めるけれど、自動で停まる気配が無いので隣の洗面所に
蛇口から注がれたお湯がステンレスの浴槽を叩く音が聞こえる。洗濯機に
その間も、ずっと今井繭浬の事を考えていた。
自ら掃除した風呂場での入浴は、妙に感慨深く心地好いものだった。髪を拭きながら二階へ上がり、物置の
うろ覚えのままプロコフィエフの旋律を辿る。楽譜が無いので、一度
身体の奥から経験した事の無い感情が込み上げて、その熱さに戸惑う。心臓を内側から引っ掻かれるようで、ひどく
そして衝動的にグノシエンヌを弾く。
あの白い指先が楽譜を捲る度、大袈裟に反射した光が彼女の貌と、美術室の壁を横切っていく様を想い出す。微かに聞こえた
我ながら、重症だと思う。
今朝に聞いた柚季の悩みや、米塚部長の功績と現状など、考えるべき事は少なくない筈だ。きっと明日も柚季と登校するだろうし、部活日なので米塚部長とも顔を合わせるだろう。
なのに僕は、今井繭浬の面影や言動を想い起こす事しか出来ない。水底へ深く沈むように、
グノシエンヌと譬えた。その旋律に相応しい、あの不穏な少女の危うい美しさを。
#
携帯のアラームで意識を取り戻す。昨夜物置から自室に戻った記憶も
あちこち痛む身体を
台所には昨日の天麩羅を玉子で閉じて甘く煮た創作料理が残されており、不行儀だけれどご飯に乗せて食べると美味だった。祖父に知られると叱られるだろうかと危惧するが、シンクに残された彼の茶碗も僕と同様に汚れていたので安堵し、まとめて洗って片付けておく。
自室で登校の準備を終え改めて一階に戻ると、案の定というか柚季が玄関に立っていた。
「おはよ。」
「おはよう……。」
「うわ、ねむそう。けど今日はちゃんと制服着てるじゃん。えらいえらい。」と土間で背伸びし、上り
「昨日の事は反省してるよ。」
苦笑交じりに弁解し、二人で玄関を出る。
昨日の朝に待たせてしまったし、その後に聞いた話の内容も内容だったので、今朝も迎えに来てくれた事には言及しづらい。彼女の悩みに具体案を告げられる訳では無いし、その為の思索すら努めずに今井繭浬の事ばかり考えていたという後ろめたさも抱えている。
隣に目を遣ると、当の柚季は相変わらず軽やかに歩を進めていた。朝陽の中、彼女の服に
「……ほんと、ねむそうだね。」
気づけば、寧ろ彼女の方から心配されてしまった。
「ちゃんと夜ねた?」
「寝た……と思う。覚えてないけど。」
「なにそれ。てか昨日の帰りから、ずっとぼーっとしてない? どうしたの。」
「うん……。」
「今井さんのこと考えてたとか?」
どこまで正直に話すべきだろうと考えていると、あっさり言い当てられた。寝惚けた頭のまま、「まあ、そうだね。」と曖昧に頷く。
「やらし。」
「……そんな事ないよ。多分。」
「たぶんじゃん。」
いやらしいとは、例えば今井繭浬の裸体を想像する、だとかを指すのだろうか。しかし彼女の肢体は宗教画の女神のように荘厳でも、官能的な裸婦像のように艶めかしくも無い気がする。おそらく衣服を
それが健全なのか却って不健全なのかは判らないけれど、いずれにせよ彼女に対し礼を失している事は確かだろう。
「だいたい女の子のこと考えて夜ふかししてる時点で、えっちぃでしょ。」
「そういうものかな……えっちぃって何?」
「しらんし。自分で考えたら。」
と、柚季は忌々しげに目を逸らす。その不機嫌そうな横顔に今井繭浬の面影を想起してしまいそうで、小さく首を振った。流石に支障を
「……あ、そういえばさ。」
多少白々しくも、声のトーンを改める。
「今日は木曜で部活の日だから、僕は遅くなるよ。」
「うん。あたしも今日はクラブ活動あるから。」と、柚季は小脇に抱えていたバッグを示す。半透明のビニール製なので、中に水着やタオルを入れている様子が見て取れる。
「そうなんだ。例の水泳?」
「ちょっとちがう。ちゃんとした
「へえ。
「まあ今日のは学校のクラブだから楽だよ。夏には
「遠泳って、皆で並んで
いつか夕方のニュースなどでその光景を見た気がするけれど、何かの間違いだと思っていた。
「そらやるよ。あれ味わったら、プールで泳ぐのなんか天国だよ。」
「僕には想像できない世界だな……。」
「あとお正月には、寒中水泳なんかもやるよ。諒兄もくる?」
「遠慮しとくよ。」同様に、寒空の下で人々が震え大騒ぎしながら灰色の海に臨むシーンも報道されていたけれど、どうやらあれもファンタジーでは無いらしい。
柚季はけらけらと笑っている。少し機嫌を直してくれた様子だった。
「まあせっかくだから、諒兄も夏には泳ごうよ。海好きなんでしょ? だったら一回は入ってみたら。」
彼女の言葉に一理ある気がする。きっと眺めているよりも、言葉通り身を投じた方が感じ取れるものは多いだろう。
「そうだね。足の届く範囲なら。」
「うん。……うん?」
柚季はこちらに顔を向け、僕は正面に視線を戻す。
「……まこ兄ひょっとして、かなづち*¹²?」
僕らが下りてゆく長い坂道の向こうで、小さな町が広がっている。そしてそれに寄り添うように横たわる海。
「……ねえ、ちょっと?」
「おーい、聞いてる?」
それは、町が温かな浅瀬に満たされているようにも、海の上に蜃気楼の町が浮かんでいるようにも見えた。
「ちょっと、急にシカトとか
そんな視点から見渡せば、一人の人間が泳げるとか泳げないだとかは、この上なく些末な問題だと思わざるを得ない。
「……諒兄さ、もうすぐ中学でも水泳の授業始まるよ。今井さんに見られることもあるんじゃない?」
「……。」
「だから、それまでに練習しよ? バタ足から教えてあげるからさ。」
「……。」
「ね?」
「はい。」
「返事ちっちゃ。」
五、
※ 後注
*¹⁰プロコフィエフ
ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフ。
自身の作品を成す要素として、古典・近代・即興・叙情・グロテスクの5項を挙げる。
ちなみにピアノソナタ第7番はスターリン国家賞を受賞。
*¹¹エリック・サティ
音楽界の異端児と呼ばれるフランスの作曲家。楽曲が生活に溶け込む在り方として〝家具の音楽〟を提唱。
その作風や〝右や左に見えるもの 眼鏡無しで〟といったタイトルも独特だが、自ら作曲した楽譜に〝ひどくまごついて〟〝歯の痛いナイチンゲールのように〟など奇妙な演奏指示を書き込んだ事でも知られている。
*¹²かなづち
金属製の槌・ハンマー。ただそれのみを指す。
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