長編#03

蒔村 令佑

一、誰そ彼の路。


 乗り過ごさないよう書き留めておいたバス停の名が、車内アナウンスで読み上げられる。僕は降車ボタンを押し、料金を支払って歩道に降り立った。

 そこからも手元のメモを頼りに、祖父の家へ向かう。通りかられて、細く入り組んだ坂道に進んだ。

 続いてゆく勾配こうばいは山と呼ぶべき規模でもなく、ただ整地が行き渡っていない丘のようにも見える。畑や林の合間に住宅が点在していて、コンクリートより土が多く残された、不慣れな光景だった。

 電信柱に記されてある町名と番地を確認しながら歩き、やがて目的地へ辿り着く。

 小ぢんまりとした一軒家の門前に、肌着姿の老人が一人立っていた。つい先日の顔合わせで初めて会った、けれど戸籍上では紛れもない、僕の祖父だった。

 頭髪はほとんどが白く、身長は僕とあまり変わらない。顔に刻まれた深いしわは、笑って過ごす内に出来たものでは無さそうだった。

「あの。この度は、お世話になります。」

 まるで馴染なじみのない祖父に、ぎこちなく頭を下げる。

「……。」

「……。」

 沈黙に耐えかねて顔を上げると、祖父と目が合った。

 その眼差しは今まで向けられた事のない、他の誰とも違うものだった。それがどんな違いであるかを悟る前に、彼は口を開く。

「え?」

 聞き取れずに尋ね返すと、再度しわがれた声で言い直される。

「散歩に、行こうかね。」

「……散歩ですか。」

 なぜ今、散歩なのだろう。

 彼は、咄嗟とっさに返答できずにいる僕の脇を通り抜け、迷いなく歩き始めた。慌てて振り返り、その後を追う。




 祖父の足取りは、速くはないがしっかりとしたものだった。僕は周囲の、木造の民家がまばらに建つ質素な町並みを見回しつつ、数歩遅れて続く。

「……。」

 どこか不思議な散歩だった。祖父は僕がついて来ているかを時折り確認するだけで、何かを説明するどころか一言も発さなかった。僕は道中で訪ねたい事が浮かんだりもしたが、どうやら今は何かを言うべきじゃないのだと思い、ただ後に従った。

 長い坂道を上り切る頃、祖父は初めて立ち止まった。そして脇へ退き、僅かに振り返る。

 その向こうに、僕は海を見た。

 展望台などではなく、ただ小高いだけの路肩の向こうに、古ぼけたカーブミラーの向こうに、海が広がっていた。雲が帰路を急ぐような夕暮れの中、傾いた太陽は滲みながら水平線へ溶けてゆく。

 太陽というものが、その動きを目で追える程に鮮明で近しいものなのだと、僕はその時初めて知った。

 やがて祖父が、ぼそりと呟く。

「どうな。」

「え。あ、海が、ですか?」

「ああ。」

「……綺麗、です。今まであまり、きちんと見た事がありませんでした。」

「海をか。」

「はい。」

 彼の隣に並び、ふと視点を落とす。

 眼下の斜面は蜜柑みかん畑となっており、段々と磯辺まで続いていた。波の音が、何かを呼びかけるような静けさで繰り返されていた事に気付く。

 緋色の世界に青紫の陰影が縁取ふちどられていく海の夕景を、呆けたように眺めた。

 再び、祖父が問う。

「海は、どうな。」

「……よく、分かりません。何だか、大きくて。」

 自分で言いながら、その不用意な返事に笑ってしまう。目に見える全てが、僕自身さえ含め何て無防備なのだろう。

 祖父の妙に厳かな表情の中で、その瞳だけが僅かに和らいだようにも見えた。



   #



 夕陽を見届けると、空は急速に色相を変えた。

「帰ろうかね。」

 やがてそう言い、歩き始めた祖父を再び追う。

 来た時と同様に無言で道を引き返しながら、見慣れぬ祖父の背中を見つめながら、〝帰る〟という言葉について考えてしまう。

 まだ真面まともに訪れてもいない家に、帰るという事。そんな僕に対して、帰ろうと言ってくれる祖父の事。そもそも、帰る場所を今から創れるのだろうかという事。

 思案に暮れる内、当の祖父の家へ辿り着いた。古びた木造の一戸建てを、改めて見上げる。雨曝あまざらしの駐車場には軽トラックが一台収まっていて、残りの敷地を庭と呼ぶべきなのか迷うようなささやかさだった。

 祖父が一瞬腕を持ち上げ、家の中へ入った。手招いたのだろう。開かれたままの戸へ、僕も続く。

 デザインという訳でも無さそうな木目調の内装が目に入る。古びた家屋の匂いと、真新しい消臭剤の香り。

 とりあえず、祖父が履いていた草履ぞうりの隣に靴を脱ぎ、玄関に上がった。

「お邪魔、します。」

「そこが便所。風呂場があっち。」

 順にドアを指差し、玉暖簾たまのれんをくぐっていく祖父に、またならう。

 その先は台所だった。旧式の冷蔵庫の上に、もはや骨董品アンティークと呼べそうなラジオが乗っていて、ノイズ交じりの音声でニュースが流れている。先程の散歩中も、無人の台所でそれを読み上げ続けていたのだろう。

 ここ数年は閉じた気配のないガラス戸の向こうに、居間らしい和室が見える。

めしにしよかね。腹はいとるか。」

「あ、はい。」

 なかば呆然としつつ答える。実際さっきの散歩で疲弊ひへいしてはいた。

「荷物も届いとるから、部屋を見とれな。二階の右側。」

「分かりました。有難うございます。」

 また玉暖簾をくぐり、玄関先の階段を。こんなに小さな家もだけれど、こんなに急な階段も見た事がない。手摺てすりしつらえられていないので、もはや梯子はしごとさえ呼べそうな気がする。

 側桁がわげた*¹を掴んで恐る恐る歩を進め、踊れそうもない踊り場を経て二階に上がる。正面の壁に腰窓*²と、左右にそれぞれ和室らしいふすまがあった。

 言われた通りに右側の部屋へ入ると、確かに僕の荷物らしい段ボールが数箱運び込まれていた。室内をざっと見回す。

 南側にベランダへ繋がる掃出窓はきだしまど*²と、東側にも一窓いっそう。西側は布団の積まれた押し入れで、家具は洋服箪笥だんすと本棚と、勉強机くらいのもの。

 おそらくは六畳間なのだろうが、古く大振りな家具に囲まれているためかもっと狭く感じられた。室内灯とカーテンのデザインだけが洋風で浮いている。もしかするとここは昔、母の部屋だったのかも知れない。

 ほんの数歩で室内を横切り窓をのぞくと、さっき通った坂道や畑が続いていた。その合間に見える民家は二軒ほどで、ひどく静かな眺望だった。

(海までは、見えないか。)

 そしてこの町は、道を照らす街灯が極端に少ないらしい。風景は夕闇へ抗わず、従順に寒色で染め上げられている。

 カーテンを閉め、段ボールに詰められた荷物をほどく。私物は殆ど処分してしまったので、大した量ではない。

 教材や制服を除けば、小説や図鑑などの本類と、着替え程度の衣類。あとは画材と、趣味で集めた標本くらいだ。

 それらを簡単に片づけていく。空になった段ボールは折りたたみ、とりあえず廊下に立てかけておく。と、階下からラジオの音声とともに届く匂いに気づいた。

 復路ふくろもまた恐ろしい階段を注意深く下り、台所へと入る。

 途端に、凄まじく生臭い。

「う。」思わず声が出てしまった。祖父は一瞬こちらへ振り返り、また包丁を走らせる。その手元は真っ赤で、シンクには魚の頭部や尾鰭おひれ、内臓などが散乱していた。

 猟奇的な光景に息を呑みつつ、ふと祖父が包丁を拭っている隙に尋ねてみる。

「あの、何か手伝えますか。」

「魚、さばけるかね。」

「魚……いいえ。」

「包丁は、扱い慣れとるか。」

「その、まだ触ったことがありません。」

 祖父の口許が、可笑おかしそうに歪んだ。

「見て覚ゆるといい。」

「はい。」

 そして、彼が魚を捌く過程を見学する。

 寝かせた包丁の背で鱗を剥がし、腹を裂いて内臓を引きずり出す。勢いよく頭部を落とし(怖かった)、血を洗い流し、大骨を除きながら切り分けていく。瞬く間にその魚は、大皿へ均一に並べられている刺身の一部と化した。

 台所の古ぼけた蛍光灯の下で奮われる、祖父の洗練された動作を茫然と目で追う。

「……覚えたかね。」

 作業を終えたらしい祖父が、木製の俎板まないたを洗いながら問う。

「大まかな流れは、何とか。でも実践するとなると、到底真似まねできない気がします。」

 祖父は大皿を手に、僕の返答なかばで居間の方へ行ってしまった。ひょっとすると、返事の否応以前に、長ったらしい言葉にあまり興味が無いのかも知れない。ほとんど一言しか発さない彼にとっては。

おかね。」

 やはり短く呼ばれ、僕も居間に入った。とこも設えられた和室で、長方形の重厚な座卓と、ブラウン管のテレビが置いてある。

 卓上に並んでいるのは、くだんの刺身と、貝汁かいじると、市販の惣菜らしい様々な揚げ物と、山菜か何かの胡麻和ごまあえと、土鍋で炊いた白米。

 とりあえず祖父の向かいに座ると、陶器の茶碗を手渡された。

「腹いっぱい食わな。」

 ぼそぼそと言って彼は、自分の茶碗へ豪快にご飯を盛った。腕白わんぱくを演じるべきなのかと、僕も自分の食べられる限界量をよそう。

 二人分にしては豪勢な食事を前にし、妙な間が空く。そして再度「食おかね。」と呟き、祖父は食べ始めた。

「……頂きます。」

 一礼して、箸を取る。彼は僅かに頷き、すぐにまた咀嚼そしゃくした。

 こうした会食の際、僕はず自分の主食と汁物に一口ずつ手を付けるのが習慣で、それは食卓中央の大皿への遠慮だとか、あまり頑丈でない消化器系をあらかじめノックしておく程度のつもりだった。

 しかしこの食卓には、そんな細かい気遣いや習慣を少しもいず、またとがめもしない無造作さを感じた。

 湯気を立てる白米や貝汁、メインディッシュであろう刺身を口にしてみても、その食感や匂いは、手間暇かけたものばかりを食べて育った僕には不思議なくらい鮮明で、直接的だった。

(今日の食事は、どうせ緊張や戸惑いで味なんて分からないだろうと思っていた。)

 けれど、ただ捌かれた新鮮な魚の一切れを、妙に甘ったるい醤油につけて、市販のチューブ山葵わさびを乗せて、何も考えずに頬張ほおばるだけでよかった。あっけらかんと、美味しかった。

「……口に合わんかね。」

 不意にそう問われ、顔を上げる。

「こっちもあるが。」と、祖父は惣菜のフライ類が乗った皿を示してくれる。

 咀嚼しながら俯き黙り込んでいたので、心配されてしまったのだろう。僕は首を振った。

「いえ、とても美味しくて……夢中で、噛み締めてしまいました。」

「……。」

 まじまじと僕の顔を見る祖父に、訊いてみる。

「これは、何のお魚なんですか?」

「レンコとマアジと、アゴ。あとはマグロ。」

「ちょっとマグロしか分かりませんが……でも、お刺身をこんなに美味しいと思ったのは初めてです。」

「……。」

 祖父は何も言わず、刺身の大皿を僕の方へ押してくれた。軽く頭を下げる。

 そして彼はどこか歯痒はがゆそうに、「仰山ぎょうさん食って、たくましゅうなれ。さっきも、今日来る孫は女子おなごだったろうかと思ったぞ。」

 冗談だとしたら、笑うべきなのだろうか。とりあえずは頷く。

「大体、そういう髪の毛が流行っとるのか。」

「髪の毛。ええと、」

「ジャン・レノの真似だろう。」

「……ジャン・レノ、ですか?」

「目ぇも隠れとるが、前は見えとるのか。」

 今までになく矢継ぎ早だ。頭の中で整理し、訊かれた順に答えてゆく。

「べつだん流行ってはいないかと……切る暇が無かったので、確かに少し伸び過ぎたかも知れません。

 あと、ひょっとするとジャン・レノでなくジョン・レノンではないでしょうか。多分そちらの方が近いと思います。真似ているつもりも無いのですが……。

 あ、前はちゃんと見えてますので、大丈夫です。」

 案の定というか祖父は長い返事に興味が続かないようで、アサリの殻に残った貝柱を丁寧にこそいでいた。

 そして思い出したように、聞いていなかっただろうに言う。

「そうかね。」



   #



 ラジオに替りけられたブラウン管の小型テレビが、淡々とニュースを伝えている。

 僕はいつになく食べ過ぎてしまい、テーブルの下でこっそり足を伸ばし、息を吐いた。

 祖父は向かいで、深緑色の酒瓶を取り出した。日本酒らしいが、専用の酒器などでなく先程まで麦茶を飲んでいたコップに注いでいる。

「あの、ご馳走様ちそうさまでした。」

 続けて感想を述べようとすると、彼は僕にも酒瓶を向けた。

「飲むかね。」

「え。いえ、未成年なので。」

「刺身に慣れとらんのなら、一杯入れた方がいい。消毒になる。」

 後づけのアルコールで生物なまものの食中毒を予防できるものだろうかと思案している間に、手元のコップに少量を注がれてしまった。

「明日から学校なら、あたるとまずかろう。」

「そういうものでしょうか……。」

 まだ麦茶が残っていたせいで少し色が混ざっているそれを眺め、慎重に舐めてみる。

「う。」

 ほんの舌先を湿らせた程度にも関わらず、独特な渋さと酸っぱさで顔中が満たされた。

 刺身と違って、全く美味しくない。咳き込みそうだ。

「どうな。」

 祖父の問いに、顔をしかめないよう努力しつつ答える。

「あまり、得意な味では……。大人になれば、美味しくなるのでしょうか?」

「……苦手な味では、ないがね。」

 笑っているつもりなのか、彼は片方の口角だけを上げて答えた。




 何とかコップの中身を飲みして、僕は食器の後片付けを買って出た。

 祖父はまだ残った刺身をお酒と共につついているので、とりあえず現状で空いた茶碗類からシンクへ運ぶ。

 食洗器が見当たらないので腕まくりし、スポンジで手洗いしていく。蛇口から出る水は勢いが良過ぎる上にひどく冷たいけれど、アルコールを摂取した身体には不思議と心地よかった。

「……そういう事は、出来まいと思うとったが。」

 と、祖父の言葉が聞こえた。居間を振り返ると、やはり彼はあの、誰とも違う眼差しで僕を見ている。

「あ、いえ……はい。」

 戸惑い、おかしな返答をしてしまう。

 それに食器洗いなど、言われた通り全く不慣れではある。ただ調理と比べればずっと簡単そうだし、せめて出来そうな事くらいはと勢い込んで申し出てみただけだった。

「飯も、もっと上等な物ばかり食うとったのだろう。」

「……そうなのかも知れません。けれど今日の食事は、本当に格別でした。」

「……。」

 殆どの人は、誤解などを避けるためにも視線を外しながら話す事が多いと思う。僕などはむしろ、視線を合わせる事の方が少ないくらいだ。

 しかし祖父はどうやら、何かを伝えたい時には相手から目を逸らさないらしい。肩越しながら、彼がじっと僕を見つめているのが分かる。

「……マコト君。」

「っ、」

 名を呼ばれ、反射的に蛇口の栓を捻ってしまった。当然、シンクを叩く流水の音が止む。

「……はい。」

 僕は少し、驚き過ぎてしまったのかも知れない。祖父もかえって躊躇ためらいの気配を垣間見せたが、すぐに言葉を継いだ。

「母さんの事は、悪かった。」

「……え、」

「任せきりだった家内かないが死んでから、構い方も分からんでな。まともに話す事が、ずっと出来んままだった。」

「……。」

 今は絶対に黙るべきでないと分かっているのに、何を言っても安易すぎる気がして、僕には何の返答も思い浮かばなかった。

 そしてようやく、祖父の眼差しを知った気がした。




 今まで、誰もが奥行きのない目で僕を見た。

 何の情緒も込められていなかった両親の目。業務上見ない訳にはいかないからという、ただ過失や厄介事を避ける為だけに向けられた職員たちの目。そんな大人たちの様子から何かを察した同級生らの、異物を面白がる目。

 きっと、僕の出自や経歴にもたらされたものだったのだと思う。

 彼らは僕に対して、各々おのおのの日常でんでいく安っぽい欲望や本性を吐き捨てる余地としての価値しか、見い出してはくれなかった。おそらくは他所よそで、もっと真っ当に生きていく姿勢を保つ為に。

 ただ祖父の目だけが、何かを通して僕を見たり、僕を通して何かを見ようとはしていなかった。焦点の合った、ひどく対等で、切実な眼差しだった。

「僕、は……、」

 祖父は娘に、つまり僕の母に対して、きっとどうする事も出来なかったのだろう。それを開き直る事なく、許しを得ようともせずにただ悔いて、謝っている。そこには、数十年に及ぶ自分の生き方が正しくなかったと認める響きさえ在った。

「僕は、ただ、」

 込み上げる感情を吐露とろしそうになって、何とか押し留めた。

 自分でも整理が出来ていない胸中を本音のままに発してしまえば、祖父が僕をどうとらえるか分からない。

 何よりそれは、今まで自分がされてきた事を祖父にり返す行為なのかも知れない。そうしてしまうのが、恐ろしい。

 だとすると、僕が選ぶべき言葉は限られてくる。

「……それでも、感謝しています。血縁もない僕を引き取って下さって。」

 濡れた手から洗剤の泡が床に落ちないよう配慮した、中途半端な姿勢のまま頭を下げる。「有難うございます。」

 祖父の表情は相変わらず静かで、何を考えているか読み取れない。いだような瞳が僅かに揺らいでも見えたけれど、酔いの所為せいかも知れない。

 そして微かに呟く。「そうかね。」



   #



 シャワーは壊れているのか、明後日の方にばかり温水を散らした。仕方なく、慣れない洗面器を用いて入浴を済ませた。

 髪を拭きつつ、居間に向かう。

「お風呂、頂きました。」

 テレビで大相撲のダイジェストを眺めていた祖父が、「ん。」と頷く。

「湯の塩梅あんばいは、どうな。」

「あ、湯加減ですか。丁度よかったです。」

 再度、「ん。」

 しかし、すぐに自室へ引き上げるのも何だか不愛想な気がする。それに相撲なら、僕も少しは分かる。

 そう考えテーブルの向かいへ座る僕を、祖父はちらりと見た。

「今日は疲れたろう。はように休め。」

 テレビは立合たちあいのシーンをスロウで流しており、カメラマンのくフラッシュが、祖父の厳かな横顔に反射した。

「はい。あ、この一番だけ見たいです。」

 祖父が再び、僕に目をる。

贔屓ひいきか。」

「まあ、はい。」

 たまにブログをチェックしている程度だと言っても、彼に上手く伝わるだろうか。

「どっちな?」

 劣勢の白人力士の方だと答えると、祖父は頷いた。

「前は、よう目立ったな。しかしこれは、顔つきが優し過ぎはせんか。」

「そうですね……精神が細いみたいで、好不調の波も激しいようです。取組とりくみ中も、相手を無闇に怪我させないよう気遣ったりして……だからこそ、応援したくなります。」

 つい長い返事をしてしまい、祖父が聞いてくれたか心配にもなったけれど、彼はそれなりに納得した様子で頷いていた。

 そこから特に会話もなく、けれど結局は結びの一番まで見た。

 アジア人の横綱は相手を向こう正面じょうめんに突き飛ばし、得意気に懸賞を掠め取って土俵から去り、祖父は着替えを手に風呂場へ向かい、僕は手ぶらで二階に上がった。




 自室に入り、襖を閉める。

 今までなら一度ベッドに倒れ込むタイミングだが、ここでそうするにはまず布団を敷かなければならないので、とりあえず勉強机の椅子へ深く座り込んだ。小さな机上を見渡し、息を吐く。

 自然、これまでの半生はんせい近くを過ごした家の事を思い出してしまう。

 あの場所は、どうなるのだろう。僕が居なくなっただけで、何も変わらないのだろうか。父が毎晩流していたアナログレコードのほこりっぽいジャズが、ここにまで聞こえてきそうな錯覚さえ抱く。

 しかしこの場所は、窓から漏れる虫の声だけで満たされている。それは何かを主張する歌ではなく、「ちなみに自分はここにいるが、お構いなく。」というような、深刻な響きのないスキャット*⁴だった。

 そんな気安い輪唱りんしょうに耳を傾けていると、不意に無機質なチャイムの音が混ざった。閉じかけていた目を開く。

(来客……。)

 にわかに緊張する。祖父は長風呂ではなさそうだが、さすがにまだしばらくは出て来ないだろう。急ぎつつも転ばないよう階段を下りる。

 応答する為にインターフォンを探そうとしたが、「こんばんはー。」と外からの呼び掛けが聞こえた。木造の小さな家だと、こうもダイレクトに済むらしい。

 声からして、少女のようだった。おそらく僕より年下だろう。

「……。」

 一度浴室の方を振り返る。

 ためらうが、やはり出るべきだろうと玄関に立った。電灯を点けると、りガラスにぼやけた人影が浮かぶ。

けるよー。」

 そのシルエットが無造作に引き戸へ手を伸ばしたので、慌てて呼び掛ける。

「あ、どちら様でしょうか。」

 シルエットの動きが止まり、一瞬つぐむ気配がして、「ユズキです、けど。」と、先程より控えめな口調で応える。

「えーと。ハクロウさん、いますか?」

 伯郎はくろうは、祖父の名だ。

「居ますが、今ちょっと入浴中で……、」

「ひょっとして、マコトくん?」

「え、はい。そうですが、」

「入るね。」

 呆気なく戸を引き、一人の少女が姿を見せた。物怖じした様子は無く、この家を訪れる事にも慣れているような面持おももちだった。

「こんばんは。」

「……こんばんは。」

 とりあえず復唱する。初対面だけれど、誰だろう。

 短めの髪は僕と同様に風呂上りなのか濡れていて、頬や首へ疎らに貼りついている。生地の薄そうなシャツにデニムのショートパンツという軽装で、肩には水玉模様のタオルを掛けていた。

 見える限り丹念に日焼けした肌が、蛍光灯の光をどこか不自然な色合いに反射している。

「えと。さっきも言ったけど、ユズキです。二従妹ふたいとこの。」

 すぐには思い当らない続柄つづきがらだ。

「初めまして、まことです。フタイトコって確か、親がイトコ同士って事だったかな。」

「そ。つまりマコトくんのお祖母ちゃんと、あたしのお祖父ちゃんが兄妹だったんだよ。」

 もうどっちも死んじゃってるけどね。けろりとそう付け加える。

「で、はくじい、まだおフロ? 今日は長いんだ。」

 ハクジイ……祖父の事らしいけれど。

「長い、のかな。さっきまで相撲を観ていて。」

「あーおすもうね、そっかそっか。」

 納得したように頷く。呼び方といい、ずいぶん親しげだ。

「伯じいにね、あしたマコトくんを学校の途中まで送ってくようにって、頼まれてたんだよ。」

「え、あ……そうだったんだ。有難う。」

 言われてみれば確かに、ここから学校まで歩く道順は地図上でしか知らない。けれど明日は、保護者である祖父が送ってくれるものと思い込んでいたので、少し面食らう。

「〝途中まで〟っていうのは?」

「ん、あたしは小六しょうろくだから学校ちがうよ。近いけど。」

「そういう事か。背が高いから、同級生くらいかと思ったよ。」

 逆にその面持ちは、どこか心配になるほど無防備で、あどけない。今もピンと来ない様子で微笑し、小首を傾げている。そして「おっ。」と口を丸くした。

「伯じいー。」

 表情の豊かさに感心する僕の背後へ向かって、彼女はハイタッチを求めるよう腕を掲げる。

 振り返ると、真新しい肌着姿の祖父が洗面所から現れた。相変わらず目が笑っていないし、間近に居る僕にすら聞き取れないほど小さな「おぅ。」という返事だったが、彼女は満足そうに頷いた。

「ユズ、どうしたな。」

「え。いや、〝どうした〟とか。」

「頼んだのは明日の朝ぞ。」

「だからって、その日に初対面てわけいかんでしょ。アイサツしとかんと……って、あたしも言われて来たんけどさ。」

 祖父は「そうかね。」と事もなげに頷き、次いで僕を見る。

「近所に住んどる、親戚のユズキだ。俺は朝が早いから、明日はこれが学校まで送る。」

「……はい。じゃあユズキ、さん。明日はよろしく頼みます。」

 できれば事前に、言っておいて欲しかったけれど。

「あい。で、何時なんじにむかえ来たらいい?」

「えっと、中学校までどれくらい掛かるのかな。」

「んーあたしの学校のちょっと先だから……たぶん三〇分くらい。」

 かな?と彼女に視線を向けられると、隣の祖父も頷いた。

 確か七時五〇分に職員室へ来るよう言われていたが、少し余裕を持った方がいいかも知れない。

「七時一〇分とか、大丈夫かな……。」

 それなりに早い時間帯なので遠慮がちに訊くが、「一〇分ね、わかった。」とあっさり頷かれた。

「じゃ、またあしたね。おやすみなさーい、伯じいも。」

 きびすを返すユズキを、祖父は上がりかまち*⁵で平然と見送る様子なので、僕は慌てて靴を履いた。

「ちょっと、送ってきます。」

 その反応を確かめる間もなく、彼女を追って玄関をくぐる。

「待って、ユズキさん。家まで送るよ。」

 既に道路へ下りた彼女は、きょとんとした顔でこちらへ振り返った。

「なんで?」

「何でって、もう夜だし。」

 深夜ではないが、小学生の女の子が一人で歩き回る時間でもないだろう。

「べつに、フツウに帰れるよ?」

「かも知れないけど。ほら僕も、挨拶に行かないとだから。」

 本来はこちらが出向くべきだったのだろうし。

「そういうもんなの?」

「そういうものだよ。多分。」

 彼女は相変わらずピンと来ない様子で、「ふうん。」と呟く。幼い喉は良く鳴るのか、そんな些細な声すらクリアに聞き取れてしまう。……単に、今日の殆どを祖父と過ごしたからかも知れないが。

「まあいっか。じゃあ行こ?」

 こっちだよ、と示す方へ僕も続く。



   #



 民家の前を通り掛かると、光と生活音がこぼれてくる。

 自室の窓から眺めた通り、街灯が極端に少ない地域だ。結構な暗さの道だと思うのだけれど、ユズキは慣れたものらしく快調に先を歩いてゆく。緊張を和らげてくれるような、気の抜けたサンダルの音をペタペタと鳴らしながら。

 しかし、お互いの保護者が動かずに子供だけが挨拶へ行き交うというのは、少し不思議な気がする。そう感じるのは僕自身が、今まで殆ど全ての事を大人たちに決められてきた為なのだろうか。

「……そういえば、ユズキって名前さ、漢字はどう書くの?」

「ん? フツウだよ。くだものの柚子に、季節の季で、ゆずき。」

「ユズキ……柚季か。なるほど。」

「そ。」

 一応は年上なので、率先して何か会話しなくてはと思ったのだが、あっさり途切れてしまった。

「……夕ご飯、なんだった?」

 逆に気を遣ってくれたのか、そう柚季も尋ねてくる。

「貝汁と、お刺身。マグロと、アゴ?と……あとは名前、何だったかな。でも、どれも美味しくてびっくりした。」

 うんうん、と彼女は満足そうに頷く。

「祖父は林業をしてるって聞いてたけど、魚を捌く姿は漁師にしか見えなかったよ。」

「あは。まあこの辺は、みんなお魚食べて育ってるからね。」

「君も?」

「もちろん。ほんとはお肉のが好きぃけどね。」

 そこで振り返り、可笑おかしそうにこちらを見る。

「〝きみ〟だって。あたしのことなんだよね?」

「……勿論。」

「くくっ。」

 妙に気恥ずかしくなり、つい問いただす。

「こっちだと、あまり言わないのかな。」

「たぶん。ボクとかキミとかって言うのは、よそから来た先生くらいかな。」

「そうなんだ……。」

「あれ? お母さんだ。」

「え。」

 意外な言葉に顔を上げ、彼女の視線を追う。二〇メートルほど前方の民家で、ちょうど外出しようとアルミ製の門扉もんぴを閉じている女性の姿があった。

 駆け寄り、「やあ。」と声をかける柚季を見て、その母親らしい女性は呆れ顔を作る。

「柚季、また勝手して。」

「だって二人の話しあい、ぜんぜん決まんないんだもん。お風呂あがってもまだ終わってなかったから、まどろっこしくて。」

「だからって、あなた一人で行かせられるような……、」

 そこで彼女は、遠慮がちに追いついた僕に気づいた。

「あ、うわさのマコトくんだよ。ここまで送ってくれたんだ。」

「あら……こんばんは。」

 彼女の複雑そうな微笑みを見て、おおよそを察する。

 柚季の奔放ほんぽうさに、つい気を緩めていた。考えてみれば親族なのだから、僕の経緯を知っていて当然だったのだ。小学生の娘に伝えられるような内容では無かったのだろうけれど。

「初めまして、諒です。舘原たちはら伯郎さんの所で、お世話になる事に……なりました。」

 そこまで言って、頭を下げる。

「ご迷惑をかけるかも知れませんが、よろしくお願いします。」

 彼女は目を丸くし、すぐに「いえいえこちらこそ。」と、また曖昧に笑った。そして隣の柚季に目を遣る。

「うちの娘も一人っ子で、近所には年下の子ばかりだったから、お兄さんが出来たみたいに喜んでるんですよ。」

 上辺うわべを取り繕うその言葉に、僕も曖昧な笑みを返した。〝本当にそう思うのなら〟だとかは、考えるべきじゃないのだろう。

「そういうの言わんでいいし……。」と、柚季だけが居心地の悪さを隠そうとせず、素直に戸惑っていた。

 どうやら、あまり関わりを持たない方がいいらしい。彼女の母親は気の毒そうに、つまり距離を置きたそうに笑うばかりだし、先程の柚季との会話から察せられる事も少なくは無い。

 せっかく平和な家庭を築いているのだから、仕方ないのだと思う。タブーを負う僕は、可哀想だがピントまでは合わせたくない対象なのだろう。

「今日は、夜に突然お邪魔して、すみませんでした。」

「いいえ。何か困った事があったら、いつでも頼って下さいね。」

「……有難うございます。それじゃ柚季ちゃん、明日は案内お願いするね。」

「あ、うん。はい。」

「では、僕はこれで。」

 気をつけて帰ってね、という母親の言葉に頭を下げる。

 彼女は門扉を開いて娘を促し、自身も玄関アプローチに入った。話している間に消えていた電灯が、人感センサーの反応で再び点灯する。

 その逆光で表情が分からないけれど、そっと振り返った柚季が小さく手を振るのが見えた。


 余計な事を考えてしまいそうで、僕は闇雲に歩を進める。

 やがて三叉路に辿り着き、顔を上げ、どの道も一様に薄暗いのを見て、

「……。」

 そもそも、祖父の家への道順すら分からない事を思い出した。




「遅かったな。」

「……親御さんに、挨拶してまして。」

「ん。」

 若干肩で息をしつつ、居間に入る。祖父はテレビを眺めながら、電気剃刀かみそりを頬に当てていた。

「明日だが、」

「はい。」

「俺はいつも六時には出かける。朝飯は作っておくから全部食うといい。」

 そこまで言って、太い指で顎をさする。しゅっ、と剃り残しのひげが音を立てた。

「鍵は玄関に置くが、どうせ泥棒など出らん。もし掛けた時は、表の植木鉢にでも隠すといい。」

「……まあ、戸締りはしっかりやっておきます。」

「ん。帰りは早い。」

「はい。」

「向こうは何てな。」

「はい? ……ああ、」

 柚季の親御さんの事だと思い当たる。

「困った時には頼りなさいと、言ってくれました。」

「そうかね。」

「……あちらにも連絡は、行ったんですよね。」

「だろな。」

 祖父は電気剃刀の電源を切り、こちらに目を向けた。

「ピアノを、弾くのだろう。」

「え? ……はい、少しだけ。」

 確かに暫く習ってはいたが、それにしても唐突だ。

うちにも一台ある。今日はもう遅いが、明るい時間は好きに弾くといい。」

「……有難うございます。」

 全く気づかなかった。二階の、左側の部屋だろうか。しかしこの家にピアノとは、少し意外に思える。

 そのピアノも、かつて母が弾いていたものかも知れない。だから僕も弾く筈だと思ったのだろうか。あるいは、僕が余程ピアノを弾きたそうな顔をしていたのだろうか。

「近所の迷惑にならん程度にな。」

「分かりました。」

 そろそろ休むむねを祖父に伝えると、彼は「それがよかろう。」と頷いてくれた。洗面所で歯を磨き、二階へ上がる。

 多少ピアノの事が気になるし確かめたいけれど、今日は早めに眠る事にした。流石に疲れたし、明日は登校初日だ。

 大人しく右側の自室へ入り、不慣れな手つきで布団を敷く。修学旅行みたいだな、と思う。

 電灯の消し方が分からず、結局もう一度壁のスイッチを押した。部屋は真っ暗になり、手探りで布団まで戻って、潜り込む。

「……。」

 この部屋から海は見えなかったけれど、波の音は聴こえるだろうか。目を閉じ耳を澄ませてみるが、届くのはやはり虫の声と、祖父が流している(おそらく観てはいないのだろう)テレビの、微かな音声だけであるようだった。

 寝返りをうつ。陽光の匂いと、押入おしいれの防虫剤のそれが、少しだけ残っている。

 両親に引き取られ、初めて自室を与えられた夜を、僕はどんな気持ちで過ごしたのだったろう。それを上手く思い出せないのは、今の気持ちとあまりにも違う為だろうか。それとも、あまりにも同じ為だろうか。

 混ざり合う事のない感情が胸中で渦巻く。やがて疲労と眠気がじわじわと滲み、まとまらない思案ごとゆっくり押し流してゆく。

(漂ってしまって、いいんだ。)

 このまま眠る事も、きっと僕の生涯も。耳うちのような息継ぎを波間で繰り返し、何とかり過ごそう。たとえ執拗で、冗長でも。あとは流れ着いた浅瀬で、目覚められたらいい。少なくとも今の僕は、そうしてゆくしかない気がする。

 先刻の夕陽を思い出す。ちぐはぐな散歩と、祖父の眼差し。今にも眠りに落ちそうな意識の中で、考えてしまう。いつか僕は、この場所に帰る事が出来るのだろうか。

 虫たちが相変わらず、口笛のような気楽さで鳴き続けている。




   一、がれみち




 ※ 後注


側桁がわげた

階段の側面部分。踏み板を左右から挟む構造に必要な部位で、上り下りの際に掴む為の物では無い。


*²腰窓

床と天井の中間位置に設える腰の高さの窓。主に採光や風通しを目的とする。


*³掃出窓

腰窓と違い、人が出入り可能な大型の窓。その先にテラスやベランダが設えられている場合が多い。


*⁴スキャット

歌詞を使わず、「ラララ」など無意味な言葉で即興的に歌う事。


*⁵上がりかまち

玄関の段差部分。

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