二、彼は誰と名。




 薄くまぶたを開く。柔らかに波うつ畳が、黄ばんだふすままで続いている。

 ぼんやりと視点を上げてみる。寝床から眺めると、古ぼけた箪笥たんすがやたら高くそびえているように感じられた。徐々に意識が輪郭りんかくを帯び、自分が何処に居るのかを思い出す。

「……う……。」

 随分ずいぶんと深く眠った気がする。のそのそと布団かい出て、窓を開けた。

 朝の空は青白く、微風そよかぜもまだ冷たい。その光と空気は、まるで生まれたてのような質感と匂いを含んでいる気がする。海が近い事と、関係しているのだろうか。

 新鮮さに満たされた、悪くない目覚めだった。枕元に置いていた携帯電話を拾う。アラームを設定していた午前六時の、ほんの三分前だった。

 祖父はもう出掛けた後だろうか。布団もそのままに、とりあえず部屋を出て一階へ下りる。

 玉暖簾たまのれんくぐって台所へ入ると、コンロに土鍋とアルミの手鍋が置かれていた。ふたを開けてみると、それぞれご飯と味噌汁が、朝の光の中で湯気を立ち昇らせて妙に神々こうごうしい。

 居間の掃出窓はきだしまどに顔を寄せて外をうかがうが、祖父の軽トラックは見当たらなかった。

 その時、解除し忘れていた携帯のアラームが鳴った。慌てふためき、今度はきちんと解除の操作を行う。

 とりあえず洗面所で顔を洗い、ジャン・レノを思い出しながら髪を整えた後、台所へ戻ってご飯と味噌汁をわんよそう。居間の卓上には、昨日食べきれなかった惣菜のフライ類と、漬物や佃煮の小鉢と、味付け海苔のパックが置かれていた。

 そこにぎこちなく座り、誰にともなく会釈して、箸を取る。

「……。」

 時計の秒針と、自分の咀嚼そしゃくする音が、やけに大きく聞こえた。

 昨日やってきた祖父の家で一人食事をするのは、やはり落ち着かないというかたまれない。とりあえずテレビの電源を入れてみると、少しだけ気がまぎれた。

 ブラウン管に映るアナウンサーは神妙な表情と声色で朝のニュースを読み上げた直後、満面の笑みを浮かべ十代のスポーツ選手を親しに呼び、その活躍を褒めたたえた。

 それらを聞き流しながら朝食をる。焼き目のついた豆腐と、ネギの匂いも青々しい味噌汁は、それだけで主菜の役も担うように白米と合う。祖父の味付けが僕には少し濃い為かも知れない。

 起き抜けに揚げ物は流石さすがに受け付けないので避けて、小鉢の佃煮や漬物の方を少し頂いてみる。梅干しが想定外の辛さだったので軽くご飯をお代わりし、食事を終えた。

 それなりに気が重い一日の朝に、これだけ無造作な温かさの手料理でお腹を満たせると、今日という日を上手く過ごせそうな気さえしてしまう。

(今までだって、不自由なく食事は与えられていた筈なのに。)

 何か違うものだろうかと考えながら食器を洗い、食べ切れなかった物は冷蔵庫に仕舞しまって、布巾でテーブルを拭いておく。

 流したままのテレビが、午前七時を報せる。元々ペースの遅い食事と不慣れな家事に、思いのほか時間を使っていたらしい。二階へ上がって制服に着替え、かばんの中身も確かめる。

 教科書は、前の学校で使っていた全ての物を持っていく事になっていた。重複するタイトルの照合だけでなく、どのような内容の本でどこまで理解していたかも確認したいらしい。

 試しに持ち上げてみると、結構な重さだった。これを担いで三〇分歩くことになる訳か。

 げんなりする間もなく、チャイムが鳴った。昨日会った二従妹ふたいとこだろう。まだ布団が敷きっ放しだけれど仕方ない。靴下で滑らないよう気を付けながら、階段を下りる。




 玄関の硝子ガラスに、昨日と同じシルエットが映っている。

柚季ゆずきちゃん?」

「あーい。」

 返事と共に戸を開く。「おはよ。」

 昨夜に会った時、やはり彼女は風呂上りだったらしい。別れた時と同じ服装で、ただ胸元には名札なふだがぶら下がっていた。鮮やかなランドセルとすっかり乾いたショートの髪で、より活発な印象を受ける。

「おはよう。あ、少し待って貰える? 戸締りしてくる。」

「うん。」

 掃出窓と、勝手口の施錠を確認する(どちらも開いていた)。

 改めて玄関に戻り、靴をく。立ち上がると柚季が、

「はいこれ。たぶん持ってったほうがいいよ。」と、無造作に傘立てから一本を引っこ抜いて、僕へ渡してきた。反射的に受け取る。

「……有難う。今日は雨が降るの?」

「さあ。」

「え?」

「なんとなく。このへんは今くらいの時期でも夕立とかふるよ。あたしもほら。」

 彼女は身体をひねって、背にするランドセルを示した。その側面のホルダーに、折畳傘おりたたみがさらしい防水カバーの袋がぶら下がっている。

「べつにいらないんだけどね。ぬれて帰ると怒られるから持ってる。」

「なるほど……じゃあ僕も持って行くよ。」

 玄関を出て施錠し、鍵は言われた通りに脇の植木鉢の下へ隠す。それを見ていた柚季は、「ばればれだねえ。」と呟いた。

「そうだよね……。」

「ま、このへんはカギかけない家のが多いから平気でしょ。行こ。」

 昨夜とは逆の、県道に下る方向へ二人で歩き出す。

「……。」

 こうして改めて明るい場所で並ぶと、やはり彼女は身長が高いように感じる。ランドセルのベルトを握って歩く様は小学生そのものだが、体格は僕とそう変わらないだろう。

「ん?」

 なに、と顔を向けられる。

「いや、柚季ちゃんは背が高いなと思って。」

まことくんが小さいんじゃないかな。」

「……否定できないけどさ。」

「あはは。」

 彼女は悪戯いたずらっぽく笑い、ふと不満気に漏らす。

「名前、呼びすてがいい。」

「え?」

「だって二年しか変わんないのに“ちゃん”づけとか。あたしばっかり子供みたい。」

「……なるほど。」

 言われてみればそうかも知れない。

「かわりにあたしも、諒兄まこにいって呼ぶから。」

「まこに……。」それなりに虚を突かれる。

 祖父の事も〝はくじい〟と呼んでいたし、それが彼女の綽名あだなのフォーマットなのだろうか。

「〝にい〟って響きは正直、少し恥ずかしいけど……分かった。僕も柚季って呼ばせて貰うね。」

「じゃ、決定。」

 どこか不安そうにこちらの反応を待っていた柚季が、ほっとした様子で笑う。小学生から笑顔を奪うべきでないとは、ほんの中学生の僕でも思う。

「では諒兄、今日の朝ご飯はなに食べた?」

 昨夜も夕食の献立こんだてを訊かれた気がするけれど、この子は他所よその食生活に関心が強いのだろうか。

「ご飯と味噌汁と、鹿尾菜ひじきの佃煮と…あとは茄子なすの漬物と、梅干しだったかな。」

「足りたあ?」

「とても。何なら食べ切れなかったよ。」

「やせてるんだからもっと食べなよ。……お、赤。」

 順調に歩き続けて、ようやく信号が現れた。横断歩道の前で立ち止まり、重い鞄を担ぎ直す。

 周囲を確かめるが、今のところ低学年らしい小学生しか見当たらない。柚季の母親が昨夜に言っていた通り、この辺りは彼女より年下の子供が多いようだ。

「タチハラの梅干しってどんなの?」

 信号待ちの間、柚季はそう質問を続ける。

「ん、そんな伝統的に作ってるものなのかは知らないけど……結構しょっぱくて、身が固く締まってたかな。」

「ふうん。」

「あ、青だよ。……僕は今まで、梅干しっていうと大玉で柔らかいのしか食べた事なかったんだ。だから正直びっくりした。」

「あー、はちみつ味の甘いやつでしょ。あたしも好き。」

 横断歩道を渡り終え、山陰やまかげと民家の隙間を縫うような細い下り坂に入る。道幅は狭く整備もされていないので、ただの私有地なのではと不安になるが、柚季や他の小学生たちも躊躇ためらいなく歩いていく様子を見るに、心配はいらないらしい。

 昨日僕が県道から祖父の家まで歩いた時には通らなかったから、近隣の人間だけで共有しているような、つまり地図には載らない近道なのだろう。

「……蜂蜜で思い出したんだけど、柚季は随分と日焼けしてるよね。」

「ん? うん。」

 彼女は自身の腕を見下ろす。黒く反射する肌と幼い筋肉の陰影は、日光の下でとても健全に映る。

「皆それくらい焼けてるのかな。」

「どうかな。まあ女子の中だと、けっこう黒いほうかも。でもなんで、はちみつで思い出すの?」

 いぶかしげに首を傾げる。もっともな疑問だろう。

「うん、ラズベリーを漬けた蜂蜜が好きで、よく取り寄せてたんだ。何というか、その色と似てて。」

「なにそれ。ラズベリーって木いちごだっけ野いちごだっけ。どっちにしても、そのはちみつ見たことないからわかんないけど。」

「こう、赤朽葉あかくちば色と赤銅しゃくどう色の中間というか、」

「あかくち……しゃくどう? さっきよりわからんし。」

 確かにそうかも知れない。色の名前を、噛み砕いて例えるべきなのだろう。

「つまり枯葉と、錆びた十円玉を混ぜたような色だよ。」

「……。」

「今のは割りと分かりやすくない? ……痛っ。」



   #



 県道まで出ると、僕らの他にも登校している生徒たちの数が増えた。その中には同じ制服の姿もあり、やはり少し緊張してしまう。

 柚季は、反対側の歩道にいる小学生(同級生なのだろう)へ、車道越しに手を振っていた。その頭には、さっきまで無かった筈の黄色い通学帽をかぶっている。

「その帽子って、」

「ん、いちおう決まりだからね。」鬱陶うっとうしそうに指先で触れる。

「どうして今まで被らなかったの?」

「だってださいじゃん……みんな学校近づかないと、かぶんないよ。」

 反射材を貼られた蛍光色の帽子は、確かにお洒落しゃれではないだろう。

「諒兄、かわりにかぶる?」

「遠慮しとくよ。」

 笑って断ると、柚季は舌を出してつばを横に向けた。自棄やけを起こしたのかも知れないが、それも随分しっくり来ている。

「そっちの方が似合うよ。悪戯盛いたずらざかりの男の子みたいで。」

「うれしくないし。」

 揶揄からかっているつもりも無いのだけれど、あまり機嫌を損ねると腰を蹴られそうなので、そう。

「……あ、あそこで別れるよ。あたし向こうに渡るから。」

 そう言われ前方を見渡すと、ベージュ塗りの歩道橋が数十メートル先で道路をまたいでいた。学校に間近な為か、スロープもしつらえられている。

「ああ、うん。ここまで来れたら大丈夫だよ。」

「ついてかなくてだいじょうぶ? まよわん?」

 僕はそんなに危なっかしく見えるのだろうか……まあ体格も似たようなものだし、仕方ないのだろう。

「同じ制服について行くから大丈夫だよ。学校自体も、前に手続きで来た事あるから。」

「そっか。」

「でも、早い時間にわざわざ有難う。通学路も大体覚えたから、下校する時は確かめながら歩いてみるよ。」

「んー……うん。」目をらし、何やら歯切れ悪く応える。それは彼女らしからぬ挙動に思えた。

 ただ年上からの感謝に含羞はにかんでいるのか、何か胸中で留めている事があるのか。それを確かめる時間も機会もなく、くだんの歩道橋へ差し掛かった。

「じゃ。」柚季は小さく手を振る。

「うん、今日は本当に助かったよ。気を付けて。」

 こくんと頷き、彼女は階段を駆け上っていく。それに合わせてランドセルの固定具がガチャガチャと鳴った。

 自分の進行方向へ視線を戻して、漸く鞄の重さを思い出す。ずっと持ち歩いていたにも関わらずそれを忘れていられたのは、柚季のお陰だ。

 また、中学の校舎が近づいても然程さほどには緊張していないのも、彼女が気軽に接してくれていた為だろう。祖父とだと、こうはいかなかった筈だ。

むしろ、余計に緊張していたかも知れない。)

 つい浮かびかけた苦笑をそっと抑え、県道から脇道へ折れる。車道の喧騒が遠ざかり、代わりに潮の香りが漂っていた。

 海辺の町なのだという静かな実感と、その新鮮さにかまけている内に、目的地である中学校へ着いた。携帯電話で時刻を確認し、校門をくぐる。

 ここに来るのは二回目だ。それなりに古い校舎で外観もあちこち黒ずんではいるが、その直線的な造りには武骨な頑強さがうかがえた。

 正面玄関から校内へ入る。ここまで警備員どころか監視カメラすら見当たらない。受付を兼ねる中年女性の事務員は、声を掛けて漸く僕に気づく有様で、この町の長閑のどかさを改めて感じさせられた。

 素性を述べようとしたが、彼女は僕を認知していたらしい。すぐに内線を繋ぎつつ、ここまで迷わずに来られたかなどを心配してくれた。

 靴を脱ぎ、とりあえず前回同様に外来用の下駄箱へ入れる。傘も段に引っ掛けて、持参した新品の上靴うわぐつを履く。前の学校ではスリッパを使っていたので慣れないけれど、こちらの方が不意に脱げにくくて安心かも知れない。

「ちょっと待ってね。田角たすみ先生すぐ来るみたいだから。」

 事務員の女性に窓口からそう告げられ、礼を返す。と、

「一〇分前行動は素晴らしいね。」

 背後からの大声に、慌てて振り返る。三〇代後半ほどの男性が、大股でこちらへ歩いてきていた。

「あ、おはようございます。」本当にすぐ来たと思いつつ、頭を下げる。

 中肉中背で四角いフレームの眼鏡を掛けた彼が、担任となる教師だった。

「おはよう、早いねえ。」

 快活なようだけれど、眼鏡の奥で細めたその目は何処を見て笑っているのか分からない。まるで空元気からげんきそのものを体現しているような虚ろさを感じてしまう。

「まず先生たちに挨拶しようか。おいで。」

 ツカツカと歩く彼に先導され、職員室へと向かう。

「遠慮はいらないから、大きい声で挨拶しちゃってよ。」と、僕に伝えるその声がまず大きい。おそらく眼前の職員室内にも聞こえてしまっているだろう。

 ドアを開けると事務机の並ぶ空間が広がっており、案の定そこにいるほとんどの教員がこちらを見ていた。気圧けおされつつ入室し、中央へ促されて自己紹介を終えると、よく分からない拍手に包まれた。全員で一五人くらいだが、髪を金色にまでブリーチした女性もいるのには少し驚く。

「あれ、一人で来たの?」

 室内を見渡せる正面の席に座っていた男性(確か教頭先生だった)が、僕の背後に目を遣りつつ問う。

「はい。祖父は忙しいようで……、」

「それはもう、この子は一人前だから。なあ?」

 そう言って田角先生が、なぜか僕の背中をてのひらで叩いてくる。励ますような意味合いにも感じられるけれど、喘息ぜんそく持ちとしては冗談でもめて欲しい。

「は、はい……。」

「よし。じゃあ諒君、こっちおいで。」

 さらに彼の先導で職員室の奥へと進む。会釈しつつ室内を縦断すると、パーテーションや書類棚で隠すように、向かい合わせのソファが置かれていた。ちょっとした応接や休憩のブースとして使っているのだろう。

「そこ座ってね。ちゃんと教科書は持って来た?」

「あ、はい。」

「OK。じゃ国語から出してって。」

 田角先生が向かい側に座り、ぱちんと手を叩いた。




 全科目の教科書を、それぞれの担当教師と確認し合う作業をおこなっていく。

 同じ物を使っている場合は進行具合を確かめるだけで済んだが、異なる場合はどの項をどの程度理解しているかまで伝えなければならない。

 各科目の担当教師が入れ替わっては挨拶し合い、また同じ作業を繰り返していく。田角先生は隣に付き添い、担当教師と僕の遣り取りに大袈裟な感心を差し入れたり、たまに茶化したりと空虚に忙しかった。

 一〇科目すべて終える頃には、すっかり登校の刻限間近まで迫っていた。

「やあ、ご苦労だったね。」

 国語から一巡し、道徳について話し終えた田角先生が対面の席で笑う。

「きつかったろうけど、もうホームルームが始まるから、教室に行くよ。」

「はい。」

 登校したばかりとは思えない疲労を抱え、再び彼に付き従う。

 あまり中身のない会話を交わしながら、二階へ上って渡り廊下を歩き、反対側の校舎に辿り着いた。

「ここが君の教室だよ。大きい声で挨拶しちゃってね。」

 先程と同じ台詞に、内心苦笑しつつ頷き返す。

 驚いた事に二年生は三クラスだけらしく、僕が転入するのは二組だと聞かされていた。廊下側の窓から数人の生徒が顔を出していたが、担任のたしなめですぐに引っ込む。

 そっと吐いた息も、緊張で少し震えた。



   #



 田角先生に促され、僕も教壇きょうだんに立った。ぎぎ、と足下がきしむ。

 この教室の机は六×五に並んでいて、中央の二列だけ更に一席ずつ多く配置されている為、なだらかに"凸"の字を描いて見えた。

 ほぼ三〇人分の視線を向けられる。教師にとっては日常茶飯事でも、僕は狼狽うろたえてしまう。正面の壁や床にピントを彷徨さまよわせながら早口で名乗り、会釈する。

 どこか戸惑ったように一瞬の沈黙を挟んで、教室は拍手に包まれた。

「あそこ空いてるから、とりあえず使ってて。」という田角先生の指示で、中央最後列(六×五のパターンから突出した部分)の、空いているほうの席に座る。

 教科書をかばんから出して机に詰めていると、前の席の男子生徒がこちらへ振り返っててきた。ウォルナット*⁶材を連想させるほど日焼けしている彼は、照れ笑いながら挨拶してくれる。

「あ、よろしくお願いします。……?」

 そう返すが、何故だか周囲がくすくすと笑うので気恥ずかしくなる。僕の発音や抑揚が可笑おかしかったのだろうか。

 不思議なたまれなさで、左手の窓を見る。眺望は、向かいの校舎と、先ほど歩いてきた渡り廊下と、中庭に植えられた樹木くらい。

 〝海の見える学校〟という風情を結構楽しみにしていたのだが、さすがに教室からは臨めないらしい。残念だけれど、僕の場合は授業がうわそらになりかねないので、よかったと思うべきかも知れない。

「じゃあ出欠ついでに、皆も舘原たちはら君に自己紹介しようか。」

 という田角先生の言葉に、生徒たちの非難めいた声が返る。僕も人前ひとまえは苦手なので、何だか申し訳なく思う。

 そんな生徒たちの反応を意に介さず、彼は名簿を持って窓際に身を寄せ、さっさと名前を呼び始めた。

 一人ずつ返事をして教壇に上がり、気恥ずかしそうに名乗っては早足で自分の机へと戻っていく。先ほど各教科の先生たちから自己紹介を受けた時にも思ったが、一度ではとても覚えられない。

 途中でチャイムが鳴り、少し授業時間を侵しつつも全員が自己紹介を終えた。

「ちょっと食い込んだけど、一時間目いちじかんめ始めよう。」

 と、腕時計を見ながら田角先生が教壇へ戻る。彼は声量的に体育教師の方が似合いそうだが、国語を担当しているらしい。そういえば胸元にホイッスルも見当たらない。

 誰かが「先生、タチハラくんの歓迎会は?」と言い、それに数人が同調する。

「やりましょうよ。」「こっちに来る転校生なんて珍しいし。」

 妙に楽しそうに生徒達をいましめようとしていた田角先生の目が一瞬、僅かに曇った。〝こっちに来る事になった珍しい転校の経緯〟でもよぎったのかも知れないが、すぐにまた声を張る。

「それは放課後、皆で遊びにでも行けばいいだろ。はい、教科書さっさと開くよ。」

 遠慮したい内容を何気なく提案しつつ、彼は授業を始める。クラスメイトたちが不承不承、従っていく。




 授業自体は、前の学校とさほど変わらない。教科書に掲載された物語の題を板書し、要所とおぼしい一節を挙げ、生徒たちの解釈を引き出していく。

 この物語は転校前にも習った内容なので退屈かと思ったけれど、教師による着眼点は少し違っているらしい。意外な部分を掘り下げていく彼の授業に興味を覚えつつページをめくっていると、

「……ねえ、」

 突然、右隣からささやかれた。

「っ、」思わず肩を震わせてしまう。

 先ほど話しかけてきた正面の男子生徒と、左手の窓に、ついつい気を取られ過ぎていた。

「あ、ゴメンびっくりした?」

「いや、大丈夫……。」

 右隣へ顔を向けると、その席には少し身を乗り出した女子生徒がいた。髪は何の小細工もなく後ろで一つにまとめていて、さっぱりとした顔立ちに似合っている。

 まるでシニヨン*⁷をほどいてくつろがせた新体操部員のようだけれど、ただき出しの額や耳元の無防備さには、何故だかこっちの方が羞恥しゅうちを覚えてしまう。

「私ね、カシマっていいます。さっきも自己紹介で言ったけど……って名札見れば、わかるよね。」

 そう言って自身の左胸の、〝加島〟と刻まれた名札をまんで眺める。ちなみに僕はまだ、そのプラスチック片を貰っていない。

「こういう時は便利なんだ。でも名札なんて、普段ぜんぜん役に立たないよね。」

「……まあ。」何と答えたらいいのだろう。

 彼女はニカりと笑う。

「舘原くんて、やっぱり他所よその人だね。フンイキ違う。」

「そう、ですか?」

「うん。そういう返事とかも。ここらの人なら、二言目には大声だもん。」

「……そうなんだ。」

 授業中の内緒話なのだから、否が応でもという気はするのだけれど。

「てか、変な先生でごめんね。バカなんだ、あの人。」

 随分と親し気にそうけなすので、いよいよ反応に困って愛想笑いを浮かべる。

 何故わざわざ今話しかけられたのだろうと思っていると、前の学校の立地や規模、設備などを問われたので、当惑しつつ答えていく。

 小声ながら、いちいち大袈裟おおげさに驚いてくれる彼女の挙動を見ていて、どうしてもき立てられる感性がある。

 それは、今回の転校での気掛きがかりの一つで、先ほどのクラスメイトたちの、健康的でかげりの見えない自己紹介を受ける中でも感じていたものだった。

 勝手な期待の末、勝手な憤慨を勝手にいだいているだけなのだと解ってはいる。何より、自分でも明確にできていない要望を、他者に押し付けているのだという事も。

 それでも、えがきたくような人と逢ってみたいと想ってしまう。

(どこにも居ない人を探しているのかも知れない。)

 加島さんは結局、担任にたしなめられるまで話しかけ続けてきた。



   #



 転校生というものが本当に珍しいらしく、休み時間にはわざわざ隣のクラスから僕に話しかけに来る生徒もいた。

 干渉されるのは不得意だが、下手な態度をとっていじめなどに巻き込まれるのも避けたいので、なるべく無難に対応しておく。今だけ我慢すれば、後々楽になる筈だ。時折りこぼれる自分の笑い声は、ひどく空々そらぞらしいけれど。

 その慌ただしさと浮足立った教室の雰囲気は給食の時間も変わらず(よく味も分からなかった)、昼休みまで続いた。


 午後は、僕が使っていたものとは教科書が異なる授業があった。隣席の加島という女生徒に見せて貰い、また小声で質問攻めにされながら過ごす。

「舘原くんは、塾って行ってた?」

「数学と英語だけ専門の所にかよってて、他の教科は家庭教師にお願いしてた。」

「すご。じゃあ部活とかしてなかったんだ?」

「一応してたよ。絵画とか彫刻が好きだったから、美術部を。」

 彼女は、感心したように何度も頷く。

「そっかあ。大きい学校だったから、男子美術部もあったんだね。」

「男子というか……え?」

 何か恐ろしい言葉を聞いた気がして、思わず右隣に顔を向ける。「ん?」と加島さんも横目を返し、補足してくれた。

「うちの学校だと、文科系の部活は女子だけだよ。実は私も美術部なんだけど、いま部員四人だけだし。」

「……四人。」

「うん。それに美術部ったって名前ばっかでね。三年いないし先生もほとんど来ないから、ほぼただのお喋りサークルだよ。模写用に置いてある古い漫画読んだりとか。こないだまで全員手芸にハマってたし。」

「……。」

「前見てなよ。先生にバレるよ。」

「あ、うん。」

「……でもね、一年に〝まゆ〟って部員がいて、その子だけはちゃんと絵を描いてるよ。ただ身体が弱いらしくて、あんまり学校自体に来ないから幽霊部員だけど……そもそも幽霊部だしね。

 ウチらが受験生になる来年は自主勉じしゅべん部としてる気がするし、引退しちゃったら……舘原くん? 様子おかしいけど、大丈夫?」

「あ、いや……うん、大丈夫。」

 僕の顔を覗き込む加島さんに、愕然がくぜんとしつつも何とか礼を言う。

「んーん。あと、これも教えといた方がよさそうだから言っとくね。二年のうちは、絶対どこかの部活にれられるよ。」

「え。」

「ここの学校、三年生になるまでの火曜と木曜は、強制的に部活しなきゃなの。帰宅部って無いんだよ。小学校のクラブ活動かよって感じしない? まあ私らの美術部なんて、ほとんど小学生のクラブみたいなもんだけどさ。

 だから舘原くんも強制的に、男子の部活に入れられるよ。野球部とかサッカー部とか、柔道部とか水泳部とか……舘原くん? 顔色わるいけど、本当に大丈夫?」




 茫然としていたら初日の授業が終わっていた。

 放課後になり、数人の男子生徒が「皆でゲームしようって事になったんだけど、舘原くんも来ない? 今朝、タッセン(田角先生タスミセンセイの略称らしい)も言ってたし。」と誘ってくれた。

(……ゲーム。)

 僕はそういった遊びを殆ど知らないのだけれど、それを言うと前の学校でも驚かれる事があったので、口にしない方がいいのかも知れない。

「その、今日はちょっと。部活の事で先生と話したいんだ。」

 一応は素直な困り顔でそう答えると、どこ入るの、と彼らは身を乗り出した。

「前の学校で美術部だったから、こっちでも入れるか訊こうと思って。」

「ビジュツ?」

 頓狂とんきょうな声で驚かれ、口々にやめた方がいいと諭された。理由を訊いたけれど、それは特に無いらしい。

 そして各々が所属している部活名を名乗り(当然全て運動部だ)、こっちに入りなよと勧誘が始まった。

「ええと……、」

 そもそも今日が火曜なのだから部活動の日なのだけれど、それぞれがサボってまで遊びに誘ってくれたというのは、喜ぶべきなのだろうか。

「あの、僕ひどい運動音痴で、スポーツ全然駄目なんだ。だから足引っ張りたくないんだよ。喘息持ちだし。」

 そう言うと、饒舌じょうぜつだった彼らは途端に勢いを失くし、どこか戸惑った笑顔で「あ、そうなんだ。」と頷いた。

「……え、」

 何か変な事を言ったのだろうか? それを確かめようとした矢先、隣席で遣り取りを見ていた加島さんが笑いながら立ち上がった。

「ほら舘原くん、話しに行くんなら早く田角先生タッセン追いかけよう? あいつ卓球部の顧問だから、校舎いる内につかまえないと。」

 美術部員として一緒に頼んだげるから。そう言われ、僕も鞄を手に取って席を立つ。

「あ、うん。じゃあそういう事だから、えっと……また誘って欲しい。」

 一応そんな社交辞令を言い残すと、やはりどこか戸惑ったまま、彼らは手を振ってくれた。


 廊下に出て、手招く加島さんを追ってその隣に並ぶ。

「……何か僕、おかしな事言ったのかな。」

 さっきの彼らの反応が気になるので訊いてみる。「んーん、何も。」と否定しつつ、彼女はまだ笑っている。

「ただね? スポーツが苦手だなんて、ここの男子は絶対誰も言わないんだよ。皆それが一番のステータスだと思ってるから。運動音痴の子だって、無理してエースを気取ってるの。」

 考えてみたけれど、その言葉を上手く理解できなくてとりあえず頷く。

「えっと……そうなんだ?」

「そうなんよ? ところが舘原くんは、あっさり言っちゃった。自分は運動音痴だから向いてない、足引っ張っちゃうって。それが図星だった子もいたわけで、あんな空気になっちゃったんだよ。」

 あまりピンとは来ないけど、少しは分かった気がする。

「……不味まずかったかな。」

「ん、なんで? 面白かったよ。」

「いや……その、よくない目立ち方をしたんじゃないかなって。」

 彼女は隣を歩く僕を興味深そうに眺め、笑って首を振った。

「舘原くんさ、田舎にヘンケン持ち過ぎだよ。イジメとかないって、今時いまどき。」

 それこそあっさりと言い当てられて、今度は僕が動揺してしまう。

「あ、いや……前の学校では、まだそういうのあったから。つい。」

「ふーん。あ、田角先生タッセンいたよ。」

 そして彼女は、隣の僕までびっくりするような大声で彼を呼び止める。

 渡り廊下から曲がっていく寸前だった田角先生が、お道化どけた顔でこちらへ振り返った。




「部活?」

 彼は眼鏡の奥の小さな目をしばたたかせた。

「……そうか、意欲的だねえ。今日は初日だし、その話はもう少し慣れてからでいいかと思ってたよ。」

 配慮は有難いが、部活が強制参加と知った以上は先手を打ちたい。でないと、〝気づけば運動部へ放り込まれていた〟なんて事にもなり兼ねない。

「ただ、美術部か……。いや、実は諒には、俺の卓球部に入って欲しくてね。」

 そして案の定というか、それが杞憂きゆうでは無かったと知る。

「先生、僕は喘息持ちで、」

「ああ。まあだからこそ軽い運動から、ちょっとずつ慣れて貰おうかと思ってね。この町は空気もいいし、顧問だから俺の目も届くしね。」

 そこで彼は、少し声量を落とす。

「色々大変だったと思うけどさ。折角せっかくこんな田舎まで来たんだから、活発になって欲しいと思ってるんだよ。」

「……。」

 いくつかの意味を含めたかったのだろうが、汚い言い回しだと思う。

「もちろん強制はしないよ、うん。でも美術部は基本、女子だけの部活でね。」

「それは校則で決まっている事ですか。」

「校則、という訳では無いんだけど。」

 彼はあごに手をり、もっともらしい渋面を浮かべた。

「ただ、美術部で真面目に活動したいという事なら……やっぱり難しいと思うな。顧問の先生が今年から三年生の学年主任になられて、ご多忙でね。それに二年生ばかりだから、教えてくれる先輩もいないだろうし。」

「入部許可を頂ければ、僕がその先輩役になれるよう頑張ります。何とかお願いできませんか。」

 田角先生と、隣で様子を見ていた加島さんが顔を見合わせ、ふっと笑う。

「……そうか。いや意外と熱いね。美術部に入ろうとする男なんて、今までいなかったんだけどなあ。」

 すう、と歯の間から息を吐き、彼は頷く。

「分かった、話は俺の方で通しとくよ。知ってる限り前例はないけど、まあ何とかなるだろ。入部届にゅうぶとどけは改めて渡すから、今日は見学でもしとくといいよ。」

「……有難うございます。」

 漸く安堵する。

 隣で一緒に頭を下げてくれている加島さんに「じゃあ、まこっちゃん(僕の事らしい)に美術部の案内頼むな。」と声を掛け、田角先生は再び歩き始めた。

「男一人で寂しくなったら、いつでも卓球部に来なよ。」

 お道化てそう付け加え、彼は今度こそ渡り廊下を曲がって行った。

「……ふう。」

「よかったねえ。……でも舘原くんて、じつは怒ると怖そうだね? 横で見てて、私ちょっとヒヤヒヤしたよ?」

 彼女の意外な言葉に、慌てて首を振る。

「いや、怖くなんてないよ。」

「ほんとかなあ。」

「本当に。全然そんな事ない。それより、付き添ってくれて有難う。」

 弁明からお礼へはぐらかす僕の顔を覗き込み、加島さんは「んーん、どういたしまして。」と意味ありに笑った。

「さてと、じゃあご期待の部活に行こっか? 我らが美術室に招待するよ。」と、彼女は歩き出す。

 妙な疲労も込めた溜息をそっといてから、元気に髪を跳ねさせるその後姿うしろすがたを追った。

 そういえばこの町に来てからというもの、ずっと誰かの背を追っている気がする。あるいは今までだって、ずっとそうしてきたのかも知れないけれど。




   二、たれ




 ※ 後注


*⁶ウォルナット

胡桃くるみの木。木材として家具などに用いられる事が多い。強い黒味が特徴。


*⁷シニヨン

結んだ髪をまとめた、いわゆるお団子の髪型。



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