ピアノのソロと甘いデュオ

蜜柑桜

ピアノのSoloとショコラのDuo

 黒鍵がスポットライトの光を反射する。白鍵の上に置いた手が熱い。会場の室温はそこまで高くないのに、ドレスから出た背中の肌に汗が伝う。

 焦らすほどゆったりと進むラルゲット。弦楽器ばかりの編成の中で、弱音器をつけたホルンが入り込む。腕から手先まで神経を張って指を弾ませる。息を詰めて、極限まで音を小さく。オクターヴユニゾンで高音まで、密やかに、軽く、花がふわりと舞い上がるみたいに。そして間に入った弦楽器に応えるように、即興のカデンツァ。


 指揮者マエストロと目を見合わせる。それだけで、口に出さずとも伝わる。眼差しの合図を受けて、指を鍵盤の上に解放した。


 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調、作曲家によるピアノ編曲版、第三楽章ロンド。抒情的な第二楽章から一転、軽やかなリズムと輝かしい響きは踊りのようで、明るい光が満ちるようにピアノの音がホールを満たし始める。そして問いにも似たピアノの音形に誘われ、管弦楽の華々しいトゥッティ。


 ——この瞬間が一番好きだ。


 音の渦に全身を包まれながら、響子はそう思った。独りで踊ってきた自分が管弦楽と一体になる安心感と、高まっていく興奮。

 ソロとトゥッティの交替が作り出す音の展開は会場を巻き込み、ホール全体を高揚させながら終曲へと向かっていく。


 最後の音の残響が鳴りやむか否かのうちに、ホールは大喝采で埋め尽くされた。


 ♪ ♪ ♪


 演奏会を終えたあとの夜、響子が夕飯の準備をしているところで、向かいに住む匠が台所に入ってきた。


「ワインとチーズ、家から持ってきた。皿に載せていい?」


 そう言いながら、手に持った紙袋からボトルとタッパーを取り出す。


「うん、いつものにお願い。もうすぐ出来るよ」

「作らせて悪いな。せっかく昼公演マチネだったんだから、たまには外で食べても良かったのに」

「久しぶりにちゃんと作りたかったからいいのー。むしろドレスとかお花とか荷物も多かったし、家の方がゆっくりできるもん」

「そうか」


 匠は皿にチーズを器用に並べていく。ショコラティエなだけあって、匠の盛り付けはいつも綺麗だった。

 響子が皿の上で動く慣れた手つきに見惚れていると、匠の方も感嘆を露わに話し出す。


「しかしすごいよな。あんなに大きなホールで、たくさんいるオケの中で、ソロで弾くなんて」

「そうだね。ありがたいよね、コンチェルトのソリストやらせてもらえるなんて」

「そうじゃなくて、響子の度胸が。他は割と怖がりのくせして、ピアノのことになるとすごい」

「んー、そうかな」


 レタスにパプリカやトマト、カッテージチーズを混ぜた鮮やかなサラダに手製のドレッシングを回しかける。ドレッシングに刻み入れた胡桃の香りが芳しい。


「コンチェルトのソロはたった独りじゃないし。オケだと指揮者さんがいて引っ張ってくれて、いい指揮者さんだとむしろ安心感があって、解放される感じがするよ。大きな音の中で思いっ切りやれるっていう快感もあるかも」


 サラダボウルを居間の座卓に運びつつ、響子は楽しそうにサラダを混ぜた。


「独りでっていうなら、むしろ私は別の時の方が怖いかなぁ」

「ああ、響子は独奏でのリサイタルの方が多いか」

「ううん、そうじゃなくて」


 響子の後ろから匠も居間にやってきたところで、二人一緒に腰を下ろす。メインは白身魚と蛸のカルパッチョ。疑問を浮かべた匠に皿とグラスを手渡しながら、響子は続けた。


「室内楽の中でソロみたいなパートを弾くときかな。まあそれは厳密には『独奏ソロ』じゃないけど。言ってみれば室内楽って一パートにつき一人のソロ編成なんだよね。指揮者はいないし、オケと違って一つのパートに自分しかいないから、個人の音が細かいところまですごく目立つし」


 演奏の最中にアイ・コンタクトと呼吸だけで全員とタイミングを合わせ、音色を調整する。微細な変化も如実に現れる。曲を作るという意味では管弦楽の協奏曲や独奏曲の時と同じはずなのに、人数の少ない室内楽の中でソリスティックなパッセージを弾く時には、責任がいつもよりも重く感じる。


「独奏だと全て独りなんだけど、逆に独奏は全部自分で調整出来るってことだからまだ融通が効く気がする。でも室内楽だと、あの子は思い切りがいいからここは強めに出るかな、あの子は割と臆病だから、スムーズに繋ぐにはどういう風にしたら、とか、メンバーの性格にまで気を張っちゃう」

「そういうものか」

「組んでる相手にもよるけどね。だから独奏のソロより協奏曲のソロより緊張しちゃう」


 ワインを注いで軽くグラスを打ち合わせる。一口飲んで、匠はシャルドネの淡い黄色を見つめつつ、それをグラスの中で揺らしながら独り言のようにいう。


「音楽はいろんな形があるな。演奏家は独奏ソロだけじゃない、か。そう言われたらショコラティエなんていつもソロだけど」


 もちろん他のパティシェやショコラティエと共同でレシピを考案したり、作業工程を分けて一品全体を作る仕事だってある。ホテルや大規模なブランドに勤めていたら匠もそうだったかもしれない。しかし今は、自分一人の店を自分だけでやっている。店頭に並ぶ商品は全て一から自分で考え、自分の手で作り上げていくものだ。客という相手はいるけれど、納得のいくレシピになるまで練り、それを最終的な形にするまでは全て単独で向き合う。


「レシピの最初から完成の最後まで、ショコラ作りはひとりだから。考えてみると寂しい作業かも」

「あれ? たくちゃんはソロじゃないでしょう」


 ぼんやり呟いた言葉に響子がすぐさま反応したので、匠は視線をグラスから離した。


「たくちゃんのショコラ作りは二人デュオでしょう」

「は?」

「だって、たくちゃんの試作品は私が味見するもん」


 そう言いながら、響子は当たり前と言わんばかりの顔でこちらを見ている。


「だからレシピの最終決定まではしっかりデュオ。ねっ。寂しくないでしょ」

「あのな」


 わざと呆れ顔を作って嗜めたが、響子はちっとも堪えた様子はなく、「美味しーい」とグラスを再度、傾ける。


「響子、もうすでに少し酔ってるのか」

「酔ってないよ。演奏会終わって緊張とけてご機嫌なだけです」


 そう断言する顔はまさに文字通り満面の笑みである。匠はそれ以上突っ込むのをやめようと、視線をカルパッチョに移して皿に取り分け始めた。しかしその様子に響子の方から追い討ちがかかった。


「あれ、たくちゃんもしかして照れてるの?」

「……そうじゃない」

「やっぱり。たくちゃんがそう言うふうになるのは嘘だもん」


 響子はさっきに増して楽しそうに笑ったまま、今度は感慨に浸るように目を閉じた。


「はぁ……やっぱり演奏会のあとはおうちがいいなぁ……外じゃたくちゃんに甘えられないもん」

「こら」


 匠は即座にそう言ってみたものの、満足げに長く吐息する響子を見ると、まぁ今日くらいは仕方がないか、とも思う。今日までの響子がプレッシャーに息も詰まりそうになっていたことや、それでも潰されまいとピアノに向かっていたのを知っている。張り詰めた気持ちが解けて、一息つきたいと思っても誰も咎めやしない。

 一人の演奏者が、見事にソロをやり切ったのである。


「あ、そういえば今日のたくちゃんのデセールは何ですか」

「デセール、あるの前提なのか」

「えっ、あっ、ごめんなさい。はい、期待してました。デセール……ないの、かぁ……」


 慌てて謝る様子も、その直後の残念そうな顔もあまりにおかしくて、知らず知らずこちらが笑みを溢してしまう。それに、期待されているのも、やっぱりショコラティエとしては悪くない。


「さて、どうでしょう。響子さん答えを当ててみましょうか」

「えぇー」


 答えはもちろん、言うまでもない。


 協奏曲のソロは、ソロであってソロ独りじゃない。

 自分が作るショコラも、デュオだからこそ出来るのかもしれない。


 今日のデセールもきっと、食べてもらって完成する。


 Fine.

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ピアノのソロと甘いデュオ 蜜柑桜 @Mican-Sakura

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